存在感
「あら、いたの」
「さっきからずっといたよ」
「ごめんなさい、気づかなかったわ」
最近、妻との間でこんな会話が日常になっている気がする。いや、"気がする"ではなく、確実に頻度が増していた。最初は妻が単にぼんやりしているだけだと思っていたが、最近は私の考えも変わり始めていた。もしかしたら、原因は私自身にあるのかもしれない。
先日、会社の自席でパソコンに向かい資料をまとめている時だった。同じ部署の部下である吉岡と成田の会話が耳に飛び込んできた。その内容は、私についてだった。しかも、本人を前にして言えるはずもない悪辣な陰口だ。
最初、私は突然始まった自分の悪口に、何が起こっているのか理解できなかった。だが吉岡と成田は、普段から私に対して抱いている不満や不平を、悪口という形で吐き出し続ける。私はただ黙ってそれを聞いていることしかできなかった。
やがて二人は満足したのか、私の悪口をぴたりとやめ、席を立って部屋を出て行った。普段から吉岡と成田には厳しく接している自覚はあるので、ある程度は嫌われている上司だと思われているだろうとは認識していた。裏では悪口を言われているかもしれないとも思っていた。だが、まさか本人がいる前で、こうも堂々と罵詈雑言をぶつけられるとは思ってもいなかった。
しばらくして、吉岡と成田が部屋に戻ってきた。そして、私を見てこう言った。
「あっ、課長、お戻りになっていたのですね」
私はさらに混乱した。私が外から会社に戻ったのは、もう30分以上も前のことだ。しかも、戻ってきた時、吉岡と成田は自席で仕事をしていたはずだ。だが、よくよく思い出してみると、私が戻ってきた時に普段なら「お疲れ様です」などの声かけがあるはずなのに、それがなかった。もしかしたら、私が会社に戻ってきて自席にいることに気づいていなかったのか。
しかし、それも普通ならありえない話だ。私の席は吉岡や成田の席と同じ部屋にあり、普通に座っていても他の席の人からそこに座っているのが見える位置にある。つまり、私が自分の席にいるならば、気づかないはずがないのだ。だが、吉岡と成田の様子を見ていると、私がいたことに本当に気づいていないようだった。ならば、先ほどの悪口も、私がいないと思って言っていたことになる。何故かわからないが、本当に私の存在に気づいていなかったようだ。
最初は、たまにこんなことがあるな、という程度だった。だが、それが起こる頻度が最近増えてきている。冒頭の妻との会話も、今では頻繁に繰り返される光景になっていた。妻は「あなたって存在感が薄いのよ」と笑い話にしているが、私の中では深刻な問題となっていた。
そう、私は他の人から存在を認知されていない可能性がある。大げさな言い方かもしれないが、まさに自身の今の状況を表すならば、「存在感が薄れていっている」ということだった。存在感が薄れるだけならばまだいい。この先、存在していることに気づいてもらえなくなるかもしれない。普通に考えればそんなことはありえないが、自身の置かれている状況からは、その可能性も捨てきれなかった。
そして、それは唐突に起こった。
朝、目覚めてリビングへ向かう。そこには妻がいたが、私が入ってきたことに気づかない。またか、と思いながらも、妻に話しかける。いつもはそこで私がいることに妻は気づくのだが、その時はいくら話しかけても返事をしない。しばらくすると、妻は私の目の前を通り過ぎ、部屋を出て行ってしまった。もはや気づいていないというレベルではない。完全に、私の存在が消えてしまったかのようだった。だが、私自身は、私が今ここに存在していることを確かに認識している。
どうやって妻に自身の存在を認識させることができるだろうか。そうだ、直接妻の体に触れれば、存在に気づくのではないか。そう思い、部屋を出て妻を探すが、妻がどこにもいない。玄関に行くと、靴が置かれていない。どうやら妻は外出してしまったようだった。どこに行ったのかわからないが、私もそろそろ会社に向かわなければならない。とりあえず、今は妻のことは諦めるしかない。
会社に着いて、挨拶をするが誰も返事をしない。自席に着いて、部下の吉岡や成田を呼ぶが、二人とも返事をしないどころか、まったく反応すらしない。妻のこともあり、まさか会社でも、という思いが脳裏をよぎる。立ち上がり、吉岡に近づき、そっと肩に触れる。だが、吉岡は何事もなかったかのように作業を続けている。私はそれを目の当たりにし、やはり私の存在を認識できていないと確信した。
ただ、それがどうしてこうなったのか、そしてどうすればいいのか、まったくわからなかった。とりあえず自分の席に戻り、スマートフォンを取り出す。そして、そのスマホで吉岡のスマホに電話をかけた。すると、吉岡のスマホから着信音が聞こえる。吉岡は「あっ、課長からだ」と言いながら電話に出た。
私は「もしもし、私だ」と電話に向けて話しかける。だが吉岡はしきりに「もしもし」を繰り返している。そばにいる吉岡の声と、電話から聞こえる声が微妙にずれてハウリングしているかのようだ。だが、いくら私が電話に話しかけても、吉岡には直接も電話越しでも私の声は聞こえていないようだった。
吉岡は「ずっと無言だ」と言いながら電話を切った。成田は「課長、今日はまだ来ていないみたいだけど、何かあったのかな」と吉岡に聞く。吉岡も「電話の向こうから微かに誰かが何かしゃべっているのは聞こえるんだけど、よくわからない」と答える。私は、ここにいるのに、電話ですら自分の存在を伝えることができないのか。
私はそこで一つ閃いたことがあった。メールならばどうだろう。メールならば直接ではないから、私の存在を伝えられるかもしれない。そこで、スマホから吉岡と成田宛に、「今、私は会社の自席にいる」と書いて送ってみた。すると、吉岡と成田のスマホからメールの着信音らしき音が鳴り、二人はスマホを見ている。
吉岡は「これ、どういうことだ」と成田に言う。成田も「課長からのメールか? 本当にこれ、どういう意味なんだろう」と首を傾げる。吉岡は「自席からメールしているって、課長、まだ会社に来ていないのに」と訝しげに呟く。成田は「どういう意味ですか、と返信してみるよ」と即座に返信した。
すぐさま私のスマホにメールの着信音が鳴る。だが、その音に反応するものは私だけだ。スマホを見ると、成田から「どういう意味ですか」とメールが来ている。目の前にいる吉岡と成田と、こんなまどろっこしいやり取りをしているのが、段々と馬鹿馬鹿しくなってきた。だが、今の私にできることはこれしかない。
成田に対してメールでこのように返信した。
「私はさっきから会社の自席に座っているのに誰にも気づいてもらえない。吉岡と成田にも話しかけたり電話したり、さっきは吉岡の肩を触ったのに、それでも私のことに気づいてもらえない。だからこのようにメールで何とか私の存在に気づいてもらおうとしている」
そのメールを見た吉岡と成田は立ち上がり、私の席に近づいてくる。もしかして、やっと私の存在に気づいてもらえたのか。だが、吉岡と成田は二人で困ったような顔をして言った。
「課長、なんの冗談なんだろう」
「ああ、ちょっと冗談にしても悪質だな」
私は何とか気づいてもらおうと、自分が座っている椅子を持ち上げて、二人に投げつけてやろうかと思った。そうすればさすがに気づいてくれるのではないか。だが、下手をすれば怪我をする可能性もある。さすがにそこまではできない。そのように思いとどまっている時、吉岡が成田に言った。
「ちょっと課長の件、部長に相談してくるよ。よくわからないメールが来てるって。とりあえず他の人には、今日は課長は休みってことにしておこう」
私はそれを聞いて、もはや打つ手なしと悟り、自席を立って部屋から外に出た。
会社から外に出てみる。オフィス街にあるビル内に私が働く会社は入っているため、外にも多くの人々が道を行き交っている。私は、ここで大声で叫べば誰かに気づいてもらえるのではないかと考えた。だが、普通に考えればこんなところで大声で叫んでいる人間は変な人と見られかねない。そんな少しばかりの羞恥心にこだわっている場合ではないとは思うが、なかなか行動に移す勇気が出ない。
その時、同じ会社の同僚のCが歩いてくるのが見えた。私は、彼の前に立って道を塞ぐように立ちふさがった。これならたとえ私の存在に気づいていなくても、ぶつかって気づくはず。だんだんと近づいてくるC。そして、私はCとぶつかった。歩いてくる勢いそのままにCにぶつかった私は、その場に尻もちをつくように倒れた。私はとっさにCに向かって「大丈夫か」と声をかけていた。
だが、ぶつかって目の前にいると思ったCはどこにもいなかった。座り込みながら首だけ後ろを振り向くと、何事もなかったかのように歩いていくCが見える。私は何がどうなっているのかわからなかった。ただ一つわかることは、Cには私の存在の欠片も感じなかったことだ。
私は、恐怖と焦りから羞恥心も忘れ、何も考えずに叫んでいた。
「誰か、私に気づいてくれ!」
だが、その声に反応するものは誰もいなかった。
私はその後どうしていたのかわからず、街を彷徨っていた。そして、気づいたら日が暮れていた。このままこうしていてもしょうがないと、私は家路に着く。
家に着くと、窓から明かりが漏れている。妻は家にいるみたいだった。玄関を開けて家に入る。妻はリビングのソファーに座って、真剣な表情でスマホをいじっている。一応声をかけてみるが、妻からの返事はない。どうせこうなることはわかっていたからもうショックを受けることもないが、やはりいい気はしない。
妻の方に近づき、妻が見ているスマホの画面を見てみる。何か検索をして調べているようだ。何を調べているのかを見ようとスマホの画面に顔を近づけた時、スマホに電話の着信があった。妻はスマホを操作して、その電話に出る。
「もしもし、......ええ、......わかった」
それだけ言うと妻はスマホを切る。そして、スマホをソファーの前の机の上に置くと立ち上がった。そして玄関に向かい、扉を開ける。
私はどこかに行くのかとついて行こうとした瞬間、扉から誰かが入ってくるのが見えた。入ってきたのは、見知らぬ若い男だった。
「誰にも見られなかった?」
不安気な声で妻は若い男に向かって言った。
「大丈夫、誰にも見られていないよ」
玄関の扉が閉まり、家の中に入ってきたその若い男に妻は抱き着いた。私は何が起こっているのか理解できず、ただただ驚きの中にいた。
若い男と妻はしばらく抱き合っていたが、若い男が妻を体から離して訊いた。
「旦那はどこ?」
私はそれを聞いて、「私はここにいる」と咄嗟に大声で叫んでいた。
だが、やはりそんな私の声は妻と若い男には聞こえていないようだ。
妻は若い男の腕を取ると、連れて歩き出した。
「お風呂場。こっちよ」
私はそれを聞いて混乱した。(お風呂場?何を言っているんだ、私はここにいるんだ)
風呂場に着くと、扉を開けて脱衣所に抜け、浴室の扉を開ける。中には当然私はおらず、蓋のかかった浴槽があるだけだった。
「中か」
若い男は顎をくいっと動かして浴槽を指し示す。妻は頷きながら場所をあけ、若い男を自分の前に出るようにした。
私はそれを見ていて、嫌な想像が頭に浮かんできた。(まさか......)
若い男は浴槽にかかった蓋を取り外した。浴槽の中には、膝を折り曲げて横になっている"私"がいた。首には太い縄が括りつけられている。
「初めて人の死体を見た。けっこうえぐいな。お前よくできたな」
若い男は少し上擦った声で言った。
「あなたと一緒にいるためにやったのよ。他人事みたいに言わないで。もしかして怖いの」
妻が引きつったような笑顔で若い男を見た。
「わかってるって。別にビビっているわけじゃないから」
男は不敵に笑うとそう答えた。
「当り前よ。これから"これ"を処分しやすいように処理するんだから」
妻は吐き捨てるように言った。
「こんないるんだかいないんだかわからない男なんて、いなくなっても誰も気にしないわ」
「そうだ。死体さえ出てこなければ、大丈夫。バレやしないよ」
私は、私の身に何が起こったのかを理解し、そしてもはやどうすることもできないことも同時に悟ったのだった。
数週間後、会社の給湯室。コーヒーを淹れながら、吉岡がふと成田に話しかけた。
「そういえばさ、課長って結局どうなったの?」
成田はカップを傾けながら、まるで天気の話でもするかのようにあっけらかんとした顔で答えた。
「ああ、なんか行方不明になって見つかってないみたいだよ。警察も捜索してるらしいけど、全然手がかりがないってさ」
吉岡は特に驚く様子もなく、コーヒーを一口啜った。
「へえ、そうなんだ。まあ、新しい課長も来てるし、行方不明でも特に問題はないけどな」
成田は肩をすくめて、同意するように頷いた。
「そうそう。ていうか、課長ってさ、いても存在感薄くているのかいないのかわからなかったしな。正直、いなくなってもあんまり変わらないっていうか」
吉岡はクツクツと喉を鳴らして笑った。
「それな!そういえばあれ面白かったよな、課長いるのに気づかないふりして悪口言ったの」
成田も思い出し笑いをしながら、カップを置いた。
「ああ、あれな!あれはさすがに後で怒られるかと思ったけど、結局何も言われなかったしな。俺ら、結構ひどいこと言ったのに」
吉岡は残りのコーヒーを一気に飲み干し、空になったカップをシンクに置いた。
「まあ、あの人はさ、結局いてもいなくても問題なかったからいなくなったんじゃないのかね」
成田は特に深く考えることもなく、ただ一言、相槌を打った。
「そうだな」
二人の間には、失踪した上司に対する悲しみも、心配も、罪悪感も、一切感じられなかった。ただ、日常の些細な出来事を話すかのような、淡々とした会話だけが給湯室に響いていた。