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8話


 ぱっと見、外傷は殆どない。

 ちゃんと声にも反応を示したし、瞳にもまだ光が残っていて、カイトと比べたらむしろ立派にすら見える。

 ひとまず無事と呼んでも問題ない見た目だ。


「よ、よかった、生きてたんだな」


 そう声を掛けたカイトはそこですぐに次の言葉を紡がずに、少し間を置いた。

 気づくか気づかないか程度の本当に小さな空白。

 しかしそこには確実に意識した沈黙が存在した。


「……どうしたんだ」


 ここへ来て唯一、気になったこと。


 それはアイリの態度だ。


 呼びかけた後もなぜかずっとその場を動こうとしない。

 まるでその場に括り付けられているかのようにじっとしている。

 それどころか声も発さず、仕舞いには口に人差し指を当てるジェスチャーをしてカイトに口を閉ざすように促してくる。


 多少の困惑があったとしても、おかしな反応だった。


「……アイリ?」


 不審に思っていると、アイリが手招きしだす。


「こっちに来い、止まって、いや、バイバイ、か? あれ、違う?」


 呼ばれたので近づこうてしたら両手を前に突き出して止まって欲しそうなジェスチャーをしたり、止まったら止まったで今度は両手を振る謎のジェスチャーをしたり――。

 正直何がしたいのかさっぱりだ。


「よ、よくわからんが、とりあえずそっちに行くぞ?」


 相変わらず声を発さないのは気になるが、もしかしたら大きな声では言えない何かがあるのかもしれない。

 そう思い恐る恐る歩み寄ると、次の瞬間待ち構えていたかのように彼女に手を掴まれ、そのまま至近距離まで引き寄せられた。


 女子特有の柔らかい感触。

 少し暖かめの体温。

 嗅いだこともない甘い香り。

 彼女が何も考えずにこんなことするはずがないとわかっているのに、そんな場違いな感想が何度も頭の中を反芻する。


「おい、アイリ、これは一体……」


「……静かに。そろそろ奴がくる。もし何が起こっても動かず、音を出さないこと。いい?」


 久しぶりに聞いたアイリの声。

 しかしその響きを堪能する暇もなく、それは姿を現した。


「……グゥ……ガァ……」


 腐り落ちた皮膚、裂けた唇から見える黒ずんだ歯、濡れた海藻のようにボロボロになった髪、肩から先が消失してなくなった右腕。

 そして左手に携帯されている五本の薄く長い刃。


 何度もカイトに死の間際を体験させた存在――鉤爪のゾンビがそこに立っていた。


「っ……」


 鉤爪のゾンビはゆっくりと廊下を渡り、カイト達のいる方に近づいてくる。

 一定のリズムで、そして一直線に。

 これだけなら何度か見た光景だが、驚いたのはここからだ。


 鉤爪のゾンビはカイトたちのいる場所に差し掛かった時も、敵意を見せてこない。

 辺りを気にするそぶりを見せながらも、左手の凶刃が牙を剥くことはなく、暫くするとそのまま通り過ぎていった。


 ふと横を見ると、落ち着いた様子のアイリの姿が目に映る。

 彼女は右手は口元を、左手はカイトの体を押さえている。

 まるでこうなることがわかっていたような仕草だった。


「……今なら喋っても大丈夫、だと思う」


 ようやく許可が降りる。

 だがアイリを発見した直後にはたくさん浮かんでいた言葉も、この状況では全てが空っぽだ。


「大丈夫って、そう言われてもな……。逆に、何を話したらいいんだろ」


「それは、ごめん……。私も正直わからない。まさかこんな形で再会することになるなんて思ってなかったから……」


 アイリの言う通りだ。

 本来ならもっと楽しい再会になるはずだった。

 ここに来るまでに起きたことを報告し合って、最後にお互いの健闘を祈って、そして別れ際には笑顔を見るはずだった。


 それが今はどうだ。

 腐臭と絶望の漂う通路で怯えたネズミが二匹、寄り添うこともなく丸くなっている。


 もちろん二人は悪くない。

 カイトもアイリも騙されてここに来た被害者。

 悪いのはこの状況をどこかで見ているかもしれない黒幕だ。


 だが、いや、だからこそわからない。

 自分たちは一体何と向き合っているのか。

 そしてこの言いようのない怒りは一体どこに向けるのが正しいのか。


「人生何があるかわからないって、このことだったのかも。悪い意味で、だけどな……」


「よく使われる言葉だけど、今は身に沁みて痛感するね……。あの時は中にこんな地獄が広がってるなんて想像もしてなかった」


 アイリはそう言いながら顔を伏せる。

 表情は上手く隠されたが、その時の彼女の感情がカイトには手に取るようにわかった。


「……あいつはずっとああやって歩いてるだけなのか」


「時間はバラバラだけど、あの動きを繰り返してる。今ので3往復目、かな」


「それは、随分と長いな……」


 つまりアイリは随分長い間この状況の中にいて、鉤爪のゾンビはそれと同じ時間、目の前の獲物に手を付けていないことになる。


「とりあえずここから早く移動しないと。チンタラしてても何も始まらない」


「でも、動いたら狙われるかも……」


「そこはちゃんと考えがある」


「考え?」


「奴は多分、目が見えないんだ」


 自分の考えを包み隠さず話すカイト。

 直後、アイリが口の前で人差し指を立てた。

 カイトは一瞬、それが何を表しているのかわからなかったが、遠くから特有の擦過音が聞こえてきて反射的に口を閉じ、体の動きを止める。


「……グゥ……ゴァ……」


 暫くして、鉤爪のゾンビがカイトたちの前を通過していった。

 襲ってこないことがわかっていても、心臓はバクバクと音を立てて反応する。

 もちろんそれはカイトだけではない。

 隣のアイリもだ。

 触れている腕から緊張が伝わってくる。


「……正直それは私も考えてた。音を立てないようにしてたのもそのためだし。でも、確証があるわけじゃない」


「実はさっき、奴と交戦したんだ。その時、目の前にいる俺じゃなく、遠くから聞こえた音の方に反応したことで難を逃れた。右腕の損傷もその隙に俺がつけたものなんだ」


「あれをカイトくんが……?」


 ただの傷ではなく、部位そのものの破壊。

 鉤爪のゾンビと対峙したことのある人間ならそれがいかに凄いことなのかは考えなくてもわかるだろう。

 偶然とはいえ、縦島も宮野もユウトですら出来ていないことをやってのけたのだ。


 そしてもちろんこれは自慢するために言ったわけではない。

 自分の言葉に説得力を持たせるため。

 次の行動を起こすにはまずアイリに安心感を与える必要がある。


「……すごいね。あれにダメージを与えるなんて」


「これは確証を持てる事実だと思うんだけど、アイリはどう思う」


「私なんかの意見よりもよっぽど信用できるものだと思うよ。当たり前じゃん」


「そうか。じゃあすぐに二人で……」


「でも、やっぱり無理だ」


 早速動き出そうとしたカイトの体はその声でピタッと止まる。


「一歩だけでも踏み出せる気がしない。あいつがどこかに行くのを待つのじゃだめなの?」


 それは思い切った答えだ。

 カイト自身はその確証を信じればいいが、自分自身は信じる気はない。

 そう遠回しに言っているのと同じだった。


「その保証もどこにもない。行動するのをやめてこのまま奇跡に縋るのか?」


「そんなこと言われても……無理なものは無理だよ。怖い……」


「ちっ……」


 このままではまずい。

 それはこのピンチに対する焦りももちろん含まれているが、その時、頭に浮かんでいたのはここに来る前に考えていたことだ。


 アイリを助けてヒーローになるという妄想。


 正直、鉤爪のゾンビを見た瞬間は頭から抜け落ちていたが、恐怖で怯えているアイリを見ていると、どうしてもまた頭をよぎる。


 この状況ならそれを実行できるのではないか。


 アイリがカイトの腕を引っ張って鉤爪のゾンビの脅威から遠ざけたように、今度はカイトがアイリの腕を掴んで導いていく。

 粛々と、それもユウトたちが来る前に終わらせる。


 そうすれば自分はアイリのとってのヒーローになれるのではないか。


 正直、どうなるかはわからない。

 別に助けられたとしても、感謝だけされるという可能性もある。

 だがこのまま現状維持ならその願望は絶対に叶えられない。

 アイリのいう通り鉤爪のゾンビが諦めて移動すらならそれはただのラッキーで終わるし、この後すぐ来るであろうユウトたちに救助されればそれはユウトの手柄になる。


 チャンスは今しかない。

 良いところを見せるなら、今ここでやるしかないのだ。


「……もういい」


 覚悟を決めて立ち上がる。


「悪いが力尽くでも連れて行くぞ」


「誰か、助けてよ。死にたく、ない……」


「あっ……」


 アイリは震える手をもう一つの手で押さえる。

 それは誰かが包んであげなければならない小さな手。

 だがカイトはそこで掴むのを躊躇した。


「死にたくないよ……ユウト……」


 アイリがカイトではない別の誰かの名前を呼んだ、その時――。


「……ウゥ……ガゥ……」


 ゾンビ特有の呻き声。


 折り返してくるには早すぎる時間だが、声の方に視線を向けて納得する。

 そこに立っていたのは鉤爪のゾンビではなく、どこからともなく迷い込んできた通常のゾンビだった。

 ゾンビは鉤爪のゾンビと違い一直線にカイト達の方に向かってくる。


「ど、どうしよう……これじゃあ逃げ場が……」


「お前はじっとしてろ」


 鉤爪のゾンビと比べたら取るに足らない存在――そう思うのはもちろん間違いで、このゾンビに対処するにはここから移動するか、もしくはジェクターを使う必要がある。

 つまりそれは鉤爪のゾンビに気づかれる前提で動かなければならないということ。


 カイトはアイリにそう告げた後、すぐにその場を飛び出した。

 通常のゾンビを引きつけつつ、ある程度アイリから距離を取れたと思ったら、ジェクターで通常のゾンビを破壊する。


 これは音源の場所から離れる時間を稼ぐためでもあるが、その他にも万が一、音を頼りに迫ってきた鉤爪のゾンビがアイリを攻撃してしまわないようにするためでもある。

 直後、響き渡った銃声により背を向けていた鉤爪のゾンビが一瞬でカイトの方に振り返り、そのまま地を蹴って駆け出した。

 ここまで計算通り。


「いいぜ……目の前で証明してやる……」


 ゲーム開始と同時に移動したフロアでボス級の存在である鉤爪のゾンビと遭遇し、逃げるように移動したフロアでちょうど同じタイミングで移動してきたこれまた鉤爪のゾンビと遭遇し、そして巡り巡って今。


 本当に散々だった。

 一生ぶんの運と悪運を使い果たした。

 だがその経験のおかげでわかることがある。

 今この瞬間が今日最大の山場。

 この最悪の状況を乗り越えれば、その先にはゲームクリアが待っている。


「……来いよ」


 鉤爪のゾンビが動いたのを見てカイトも動き出す。

 慌てるのではなく、ゆっくり、そして慎重に。

 本当に盲目なら、鉤爪のゾンビは暗闇の中で音を頼りに目標を認識しようとする。

 だから重要なのは音をたてず、なるべく発砲した位置から離れることだ。

 そうすればカイトを見失って行動不能になるはず。


「あ、れ……」


 その時、身に覚えのない寒気に襲われる。


「き、来てる……?」


 カイトの目論見を嘲笑うかのように、鉤爪のゾンビは通常のゾンビが倒れている場所に差し掛かっても完全に動きを止めなかった。

 一定のスピードを保ったまま、尚もカイトが立っている方へと近づいてくる。

 最初は廊下の奥に進もうとしている可能性も考えてたが、その進行方向は明らかに壁際で後退するカイトに向かっていた。


「今、奴は俺を見失っているはず、だよな?」


 カイトと鉤爪のゾンビが真正面で睨み合う。

 その距離わずか1メートル。

 適当に鉤爪を振り回せば、当たってもおかしくない距離だ。

 思わずその場にへたり込んでしまうカイト。

 それとほぼ同時、頭上を鋭利な何かが通過した。


「え?」


 パラパラと落ちる髪の毛が頬を掠める。

 見ると、鉤爪がカイトの頭上を超えて背後の壁に禍々しい裂傷を残していた。


「嘘、だろ……」


 音は出していなかった。

 それなのに、奴はまっすぐカイトに手を伸ばし、鋭い爪で命を刈り取ろうとした。

 偶然じゃない。

 あの動きは明らかにカイトを狙った攻撃だった。

 どうしてこんな矛盾が起きるのか。

 考えられる原因は一つ。

 鉤爪のゾンビは目が見えないというカイトの見立てが間違っていたから。


「……グゥ……ギィ……」


 カイトは咄嗟に飛び引く。

 直後、なぞるようカイトのいた場所に左腕を振り下ろす鉤爪のゾンビ。

 そこで確信へと変わるが、もはや全てが手遅れ。

 逃げた先で這いつくばるカイトを、鉤爪のゾンビは左腕の凶刃と共に見下ろした。

 命を脅かされるという初めての感覚が体を支配し、立つことすらできなくなる。


「あ、終わった……」


「――こっちよ! 化け物!」


 死を覚悟した瞬間、絶叫が廊下に響き渡る。

 声の主は歩くことすら拒否していたアイリだ。

 涙目で唇を噛み締めながら、それでも立ち上がって廊下の中央に立つ。


 それは一見、狂った行動にも思えるが、まさに今危機に晒されているカイトはすぐに気づいた。

 彼女が自分を庇うために出てきたこと。

 そしてそのために自分を犠牲にしようとしていること。


 鉤爪のゾンビはゆっくりと振り返り、そしてカイトに向かっていった時のように、今度はアイリに向かって走り出した。

 音を頼りにのらりくらりしていた時とは違う、迷いのない一歩。


 対するアイリはその場から動かない。

 その後のことは考えていなかったと言わんばかりに顔を右往左往させている。


 このままではまずい。

 またあの惨劇が繰り返されてしまう。

 アイリ自身の失態でも、運が悪かったわけでもない、他でもないカイトの失態によって。


「やめろッ……」


 発砲音が響いたのは、ちょうどその時だ――。


「――待たせたな、アイリ」


 鉤爪のゾンビが膝をつくのとほぼ同時、アイリの背後からジェクターを構えたユウトたちが姿を現した。



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