12話
低く唸るような音が、空気を裂いて鼓膜に突き刺さった。
「カイトを引き取れないってどう言うことよ!」
「そのままの意味だよ。カイトはお前が立派に育ててやってくれ」
飼っていたペットの責任を巡って言い争うかのように、一人の子供の処遇を押しつけあう男女。
こんな見るに耐えない光景でも、まだ幼いカイトにはここで避難するという選択肢はない。
「ふざけんじゃないわよ! アンタの不倫が原因で離婚するんでしょ。ならアンタが責任を持ってカイトを育てなさいよ!」
「こういう時は普通、不貞を働いた方には親権はいかないんだよ。わかってくれ、俺も心苦しんだ」
「心苦しい? はっ、笑わせないで。どうせ相手の女と新しい家庭を築きたいだけでしょ? 取り繕ってないで本当のことを言いなさいよ、このクズが」
「……まあ、可能性は否定できないな。相手がそうしたいっていうなら俺も乗るつもりだ。っていうか今時それが普通だろ。慰謝料は払ったし、何を怒ってるんだよ」
「怒るに決まってるでしょ! アンタが新しい人生を踏み出そうとしてる時に、何で私だけがアンタに似た醜いガキの面倒を見なきゃならないのよ!」
カイトの存在などどうでもいい。
自分さえ良ければいい。
自分が幸せじゃなければ意味がない。
今まで一度も向かなかった二人の視線がそこでやっとカイトに向いたのは、そんな身勝手のぶつかり合いが何度か行われた後のことだ。
「あー、もういい、面倒だわ。あんたと話していても埒が開かない。カイト、あんたが決めなさい」
「決めなさいって……おいおい、勘弁してくれよ。こいつに愛情なんてかけらも無いから、まじで頼られても困るぞ」
「それは私もよ。だからこれなら公平でしょ」
この状況を本当の意味で理解できる年齢ではない。
今、頭の中を満たすのは離婚とか親権よりも、両親が喧嘩していることに対する不安感だ。
そんな無垢なカイトだったが、幼いながらにも気づいていることがあった。
この時の記憶はどんなに歳を取ったとしても、どんなにいい思い出を重ねていったとしても、記憶の引き出しの手前の方で生き続けて、生涯カイトという一人の人間に付き纏い続ける。
そういう類の光景なのだろう、と。
「さあ、早く言いなさい、カイト」
「おい、わかってるよな」
心に靄がかかる。
思考がぼんやりと霞み、どこへ行くべきかもわからないまま、子供ながらに空白を必死で埋める。
「あんたはどっちについていきたいの」
「お前はどっちについていきたいんだ」
ただ、ありもしない正解を探すために――。
◇――――◇――――◇――――◇――――◇
「カイトっ!」
朝の光がカーテンの隙間から薄く差し込む中、扉の奥から響いた怒声でカイトは目を覚ます。
見渡して見えたのは、自分の部屋。
そこでカイトは思わずため息をつく。
「……せめて良い夢を見せてくれよ」
覚醒した後も記憶から消えることのない夢――あの夢を見たのは久しぶりだった。
中学の時に授業で書くことになった家族への手紙が、ゴミ箱で見つかったちょうどその日の夜。
最後に見たのは確かその時だ。
夢とは言っても決して記憶にない光景ではない。
回想夢、あるいは再現夢。
あれは歴としたカイトの過去であり、トラウマなのだ。
「あんた何してんのよ!」
覚束ない足取りで扉を開けに行くと、そこには鬼の形相をした母親が立っていた。
安っぽいブリーチで痛み切った髪、まるで親の仇でも見るような鋭い目、今にも不満をこぼしそうな半開きの口。
年齢を重ねたことでシワは増えているが、あの夢に出ていた女とそっくりだ。
「何で服がカゴに入ったままなのよ。皿も、洗ってないじゃない!」
カイトは指摘されて「あー」と思い出したように頷く。
視線の先にあるのは積み上げられた衣服と、汚れた皿。
これを片付けるのはカイトの役割だったが、昨日は疲れ果ててすぐに寝てしまったためそのままの状態だった。
「悪い。帰って飯食ってたらそのまま寝ちまったみたいだ」
「そんなの知らないわよ! この役立たずが!」
「わかったから大きい声出すなよ。また近所から苦情が来るだろ。それに昨日は……」
「昨日は?」
「……いや、何でもない」
昨日は本物のゾンビが出るサバイバルゲームをして、そこで命懸けで戦っていたことも、終わった後はすぐに家に帰って体の汚れを落として、そのまま疲れ果てて眠ってしまったことも――。
たとえ話したとしても誰も信じはしないし、そもそも目の前の女は関心すら示さない。
彼女はカイトが死んでも普通にバラエティ番組を見て笑えるような人間だ。
今まで相談事なんてしたこともない。
ただ反抗すれば追い出されることは目に見えているので、大人しくしているだけだ。
カイトにとって母親はただの同居人だ。
同じ苗字を持ち同じ家に住んでいるだけの他人なのだ。
「とにかく静かに……」
「その目でこっちを見るな!」
「痛ッ」
冷めた目で見ていると、至近距離からペットポトルが飛んでくる。
「何すんだよ……」
「……相変わらず、あいつにそっくり」
「は?」
そう言いながら、二つの瞳でカイトを睨みつける。
「ほんっと、憎たらしい。私に似てたならちょっとは愛着も持てたのに」
カイトはぎゅっと拳を握り締め、そらから深いため息をつく。
明らかに自分の子供に向けるようなものではない眼光。怒りで捲れ上がった唇と、そこから見える黄色い歯。
長年の経験で知っていた。
こうなったら何を言っても暴言が飛んでくるので、なるべく機嫌を損ねないように立ち回るしかない。
「……学校から帰ったらちゃんとやるから」
「今からやって」
「ああ、わかったよ……」
言いたいことを全部言ってスッキリしたのか、そこでようやくリビングに戻っていった。
気になってその様子を部屋からこっそり覗くと、そこにはさっきまでのことがなかったようにテレビに映る芸人を見て爆笑している母親の姿があった。
母親にとってさっきのは親子の会話ではなく、ただストレスを解消するためだけに不満をぶつける行為にすぎないのだ。
「……くそ」
カイトは目眩がしてその場にしゃがみ、そしてまたため息をつく。
「何だよ、こんな時に……」
あらゆる修羅場を潜ってようやく地獄から抜け出してきた。
なのに、地上に来た後も心はまるで休まらない。
むしろあの時とは別のざわつきが心を支配していた。
◇――――◇――――◇――――◇――――◇
出来るだけ急ぎ足で皿洗いと洗濯を済ませたカイトは学校へ行くために街へと繰り出した。
変わらない街並み、喧騒。
ただいつもならちらほらと見かける制服姿の学生がいない。
時計を見ると、8時を過ぎている。
既に始業が始まっている時間だった。
「あーあ……」
別に今回のことは珍しい話ではない。
たまにやらかしてしまって、その度に反省しているフリをして流していた。
だが、今回は無性にサボりたい気持ちが湧いてきた。
学校をサボって、どこか遠くへ行きたい。
願わくばそこで一人になって、気が晴れるまで暴れ回りたい。
そんな子供じみた気持ち。
そう言えば、あの夢を見るのは決まってメンタルが極限までやられた時だった。
最近でも嫌なことは多々あるが、今回はその比でない。
世界が色褪せたように感じる。
地に足がついた感じが全くしなくて、往来を行き交う人間と自分が全く別の生き物のような気がして。
もはや無の境地に至った母親の存在も、思い出しただけで無性に腹が立ってくる。
「この後、もちろんホテル行くよね?」
「えー、奥さんと子供がいるって言ってたじゃん」
「気にしない気にしない。世間じゃ、不倫騒動を起こしたスター選手がしれっと日の丸背負ってヒーロー扱いされてるんだから。むしろ国を背負ってるって感じ? なんつって、あはは」
朝っぱらから堂々と不倫をするサラリーマンとOL。
「肉を食べるのをやめよう! 人間も牛も豚もも犬も命は平等! 命を救うために皆も……」
「野菜を食べるのをやめよう! 植物だって生きている。自然に感謝し、肉だけ食え」
「おい! 邪魔するなよ、肉食主義者。お前らみたいなのがこの世界をダメにしてるんだ。そもそも動物だって自然の一部だろうが!」
往来で言い争っている活動家たち。
「やべ。今年も留年確定だわ。これで大学生活6年目突破」
「ってことは小学校より長くいるじゃないですか。四年制の大学なのに。流石先輩、カッケェっす」
「仕方ねぇだろ。酒、タバコ、女に忙しかったんだよ。大学生の本分ってやつ。つうか学校が俺に合わせて融通きかせろっつーの」
親の金を無駄にする大学生。
今まで何となく受け入れてきた世界とその住人たちが、今は遠くに感じる。
まるで異世界に来てしまったように、自分が爪弾きにされたような感覚に陥る。
原因は恐らく昨日のことだ。
あの地獄での経験がカイトに何らかの影響を与えた。
不安、恐怖、絶望。
そしてここのいる人間には決してわからない痛み、閉塞感。
それらが無力感となって今もなおカイトを蝕んで離れないのだ。
「ねぇ、昨日のニュース見た? 爆弾男」
「見た見た。SNSで流れてきた動画本当にグロかった」
その時、ふと前を歩く主婦らしき二人の女性から気になるワードが聞こえてくる。
「実は事件現場に親戚がいてさ、爆発する直前に『ハント・ザ・デッド』って叫んでたんだって」
「ハント・ザ・デッドって?」
「ほら、最近話題のネクサスって会社。息子の話によればそこが企画してるサバイバルゲームのイベントらしいのよ」
やはりカイトにとって無関係ではない話――。
だが、カイトがさらに耳を傾けようとしたタイミングで、主婦の一人が鞄から財布を落とす。
「最近物騒なこと多いよね。通り魔殺人の犯人もまだ捕まってないし」
「ね、気をつけないと」
どうやら落としたことに気づいていない様子。
カイトを含めた周りも教えてあげようという素振りはなく、主婦も財布が鞄にないまま歩き出す。
この後何をするのかは知らないが、もしランチに行くならあの主婦は恥をかくことになるだろう。
「――落としましたよ」
通り過ぎようとした時、不意に肩を叩かれる。
振り返ると、そこにはフードを被った女が立っていた。
傷んだ髪、完全に露出した瞳孔。
その時点で常人にはない雰囲気を醸し出しているが、何より目を引くのは頬骨の部分に薄っすらとあるタトゥーのようなものだ。
これは自論だが、顔にタトゥーを入れているやつにまともな奴はいない。
たとえそれが女だったとしても、本当は良い人だったときても、関わらないことがこの社会を生き抜く上での賢明な考えだ。
「それ俺のじゃないよ」
「ああ、言葉足らずでした。見落としましたよ、です。位置的に、君が拾ってあげるべきですよね」
「いや、知るかよそんなこと。俺には関係ない」
突き放すと、女は「そうですか」と気のない返事をしながら落ちていた財布を自ら拾う。
それを見て、届けに行くのかと思ったが、女は手に取った財布を自分の懐まで持っていくと、なんとそのまま自分のポケットに入れた。
「じゃあ見落とした本人が権利を放棄したということで、これは私が貰っておきます」
そこでカイトは声を出す代わりに、噛み締めるように頷いた。
顔にタトゥーがある奴にまともな奴はいない。
理論でも何でもないただの偏見だったが、早くもその正しが証明されてしまった。
「この世界は輝いている――!」
立ち去るタイミングを伺っていると、突然、女が大きい声を出す。
「そんな顔をしていますね」
言い切った後、女はさらに距離を詰めてくる。
進行方向に立たれたことでカイトはたまらず立ち止まる。
「何だよ、急に……」
「わかりますよ、その気持ち。だってこの世界は感動で溢れている」
「それは皮肉か。どう見ても負のオーラギンギンだろ。あと話しかけんなオーラも」
それは実質会話の拒否だ。
だが女はカイトの思惑を無視して言葉を続ける。
「だからこそです。この世に不満を抱えている人間には光の輝きと同じように闇の輝きも眩しく感じるものです。大丈夫、私は君と同類ですから」
「笑わせんな。確かに俺はこの世に不満を持っているが、それは他の奴らも同じだろ。大小の問題でしかない。そもそもお前が俺の何を知ってるんだ」
「確かに私は君のことを知らない」
「そうだろ? 理解してるなら早くこんな無意味な会話は終わらせて……」
「君がクズだという自覚のない根っからのクズではなく、クズだと開き直ってぬるま湯に浸かろうとする表面的なクズだということと、本当の闇を体験したことで、この世界の表面的な闇が酷く滑稽に見えてきていること、ぐらいしか知りません」
そう言い放った直後にカイトが迷わず逃げようとしたのは、付き合いきれないと思ったのか、それとも第六感が働いたのか。
とにかくここにいるべきではないと思いすぐに体を傾けるが、その瞬間、女が読んでいたかのように首に手を回してきた。
「大声を出したら殺します」




