【短編版】婚約者を寝取られたお陰で、ワケアリ騎士と意外と楽しく過ごせています
※連載版を始めました。ページ下部のリンクからお願いします。
自分が幸せかどうか、考えたことはない。だから私は幸せなのだろう。
「やあ、エレーナ」
宮殿に着いた瞬間に私を見つけたオトマールが、淡いブルーの瞳を細め、穏やかに微笑みながら手を差し出す。そこに手を乗せながら「久しぶり、オットー」と愛称を口にした。
「元気だった?」
「うん、それなりに。エレーナは?」
「そこそこ。特別なにかあったわけじゃないけれど、病気をしたわけでもないし、元気かな」
オトマールに連れられて夜会の場に入り、既に出席している令息・令嬢に迎えられ、そろって挨拶をした。
約八年前、十歳の誕生日を迎えた私は、ドナート伯爵の令息であるオトマールと婚約することになった。
オトマールとは婚約するまで出会ったことがなかったし、こう言ってはなんだが、親同士が勝手に決めたことなのでオトマールのことは好きでもなんでもなかった。
しかし、オトマールは穏やかで優しく、ドナート伯爵家も絵に描いたように優しく仲の良い一家だ。伯爵夫人は実の娘のように、オトマールの姉は実の妹のように私を可愛がってくれるし、オトマールの弟は実の姉のように私を慕ってくれる。政略結婚とはいえ、私の婚約を、誰もが「幸せのかたち」だと評した。
半年後、私は十八歳になり、オトマールと結婚する。私はドナート一家の一員となり、ドナート伯爵の領地でオトマールの妻として、そしてやがては母として、過ごすのだろう――。
「婚約、解消してくれない?」
なんてことを考えていたのは、はや三ヶ月前である。
オトマールに呼ばれ、帝都にあるドナート伯爵の別邸を訪ねた私を待っていたのは、オトマールと、友人のヒルデだった。今日のヒルデは、腰まである小麦色の髪を降ろし、少しゆったりとしたドレスを着ていて、とてもじゃないが他人を訪ねるときの格好ではない。しかも二人はソファで隣り合って座っている。さらにいえば、肩が触れ合うほどぴたりと寄り添っていた。
なぜ? なぜなぜなぜ? いろいろななぜなぜがあるけれど、一番の「なぜ」は、ヒルデが口にした言葉だ。
「婚約解消って……まさか私とオトマールの?」
「当たり前じゃない、他に誰がいるの?」
面白い冗談でも言われたように、ヒルデは笑いながら手招きをする。
「……どういうこと、オトマール」
「ええと、つまり、そういうことだよ」
だからどういうことだと聞いている。しかしオトマールは頭の後ろに手をやって曖昧な相槌を打つだけだ。
その隣で、代わりにヒルデが口を開いた。
「私、オトマールの子を身ごもったの」
は? 何を言われたのか分からなかったせいで声も出なかった。
ヒルデは、お腹のあたりを撫でながら「医者にも診てもらったの、間違いないわ」と愛おしそうに補足した。
「……今回のことを、ドナート伯爵はご存知?」
「もちろん、体を大事に産むようにと言っていただいてるの。だからエレーナに婚約解消の話をするのは私じゃなくてもいいんじゃないかって言われたんだけど、ほら、体に障ってもよくないし。でもやっぱり友人だから、直接謝りたくて」
「そういうわけなんだ、エレーナ」
急にキリリと毅然とした態度に変わり、オトマールは頷いた。
ヒルデは一家の都合でしばらく帝都を離れており、三ヶ月前に久しぶりに夜会に出席した。オトマールとヒルデは、五、六年前に会ったきりでほとんど面識がない状態だったため、そのときに私が紹介した――“私の婚約者のオトマールだ”と。
それが今や、妊娠中。
「それで……ほら、オットー、オットーの口から説明してさしあげて」
「ああ、うん、そうだね」
ヒルデは、私の前で愛称を呼びながらその肩を叩く。オトマールは少し照れくさそうに頬を緩め、しかし気を引き締めるように咳ばらいをする。
「せっかく授かった子を堕胎するなんて、もちろんエレーナは考えないだろう? でも問題はそれだけじゃなくて、その子のことを考えるなら、母親にもきちんとした立場を与えなきゃいけないし、母親以外にも妾がいるなんて複雑な家庭で育てるべきじゃない。だから、僕は、エレーナと結婚することも、ドナート家にエレーナを迎えることもできない」
オトマールは、そっと私を見つめた。
「仕方がないことなんだ。エレーナなら、分かってくれるだろう?」
「……そういうことなら」
静かに頷くと、ヒルデが当然のように微笑み、オトマールは緊張の糸がほどけたように溜息をついた。
「貴様なんぞこっちから願い下げに決まってんでしょうが!」
その顔面に紅茶のカップをぶん投げた。
「イッ、アッツ! アツ!」
悲鳴を上げたオトマールの額にカップがぶつかり、熱々の紅茶が顔面にぶちまけられ、ヒルデも悲鳴を上げ、ついでにカップがテーブルに当たって割れて絨毯の上に落ちた。ここまでわずか二秒もなかった。
「ふざけてんの? なーにが“エレーナなら分かってくれるだろう”ですか、誰が分かるかこんな馬鹿げた、しかも自分勝手な話が! しかも何その『子どものために筋を通します』みたいなツラ? 貴方が立場も弁えず火遊びして子ができたから責任を取らなきゃいけなくなっただけでしょ! 貴様は何の筋も通ってねーわ!」
「だから、仕方がないじゃないかって――」
「どこにも仕方ないことなんてないんだよ貴様の頭と下半身以外にな!」
テーブルに拳を振り下ろすと、ガタガタガタッとテーブルが揺れ、紅茶が氾濫した。
「ていうかなに、婚約者を偉そうに呼びつけておいて、うっかり子どもができた相手と雁首揃えて、事の次第をすべて相手に言わせて? 貴方それでも男なの? ああいや、男ね、ヒルデと乳繰り合って子どもができたんだものね」
「もちろん注意はしてたんだ、でもこればっかりは授かるものだから……」
「違うだろこのハゲ! 子ども作ったことを責めてんじゃなくて子ども作るようなことをしたのを責めてんだわ脳味噌腐ってんのか!」
怒鳴りながら立ち上がると、ヒルデは今度は頭を抱えて縮こまった。
「やめて! 子どもがいるのよ!」
「だったら庇うのはそこじゃないでしょ! 大体ヒルデ、貴方ねえ、婚約解消の前にする話があるでしょ――まず謝れ! 友人の婚約者を寝取ったら、婚約解消の話をする前に謝れ!」
やっぱり友人だから直接謝りたくて――とヒルデは言ったが、話が始まってから今まで、「ごめん」の「ご」の字もなかった。
うっ、とヒルデは苦しそうに口元を押さえる。
「ごめんなさい……つわりが」
「違うだろ! 寝取ってごめんなさいだろ!」
「いい加減にしてくれ、いまヒルデは大事な時期なんだ。君は弱い者を虐げるような人じゃなかったはずだ、そうだろうレニー?」
「いい加減にするのは貴様のほうだろオトマール! この期に及んで私をレニーなんて呼ぶな、虫唾が走るわ!」
ヒルデの肩を抱いて庇うオトマールにもう一度カップをぶん投げたかったのだけれど、ヒルデに当たるとマズイのはそれはそうなので思い留まった。
「エレーナ、僕もいろいろと考えたんだ。僕と君は十年近く婚約していたのに、それを突然反故にするなんて勝手が過ぎる。だからヒルデが子を産むとしても、その母親は君だということに――」
「は?」
「――できるわけないと、君も思うだろう? そう考えなおしたんだ!」
嘘吐け。私の低い声にビビッて主張を変えただけだろう。そう睨み付けた先のオトマールは、激しく首を横に振りながら、
「だって、君の子なら髪が赤色のはずだからね」
私の堪忍袋の緒をチョッキンと切った。
私の髪は、燃えるような赤色だ。母方の祖母に似たものだが、祖母の家はもとは隣国の貴族で、その赤い髪は帝国内では珍しかった。
くわえて、私の瞳はオレンジ。その組み合わせは最悪で“燃え盛る炎を灯したような瞳には気性の苛烈さが現れている”と度々陰口を叩かれてきた。なお気が強いのは否定できなかった。
というのは今はどうでもよく、問題は、オトマールの思考回路だ。
「愛人の子の母親ということにしてあげる」、この時点で理解不能な提案だが、その案を再考した理由が「母親でないことは髪の色で明白だから」? なにを言ってるんだこの男。
「エレーナ、君が自分を見失うほど怒るのも分かる。しかしどうか分かってくれ、子の未来のためなんだ。成長するにつれて母親が本当の母親でないと発覚したとき、子の気持ちはどうなる?」
「……そういう話はしてない」
「もちろんそれだけじゃないよ、仮に別の母親がいると伝えて育てたとして、実の母親が愛人として冷遇されているなんて知ったら、やっぱり子は傷つくだろう?」
「……だからそういう話はしてない」
じゃあ何の話……? そう言いたげな顔を見て、既に切れていた堪忍袋の緒がズタズタに切り裂かれた。
「……ああそうだ、もちろん、我がドナート家ではなく、君の家から婚約を解消したことにしてくれても構わないよ」
「――構わないじゃなくて当然だしこっちから婚約解消するに決まってんでしょーが! 貴方本当に頭湧いてるんじゃないの!?」
怒りのあまり、逆にこれ以上怒ることなんてできそうになかった。なんてことだ。特に好きだったわけではないとはいえ、十年間婚約者として寄り添ってきたというのに、オトマールはこんなにもつまらないクソ野郎だったと気が付かなかったなんて。
「この場で婚約解消させてもらいます。後日、父からも正式に断りの連絡を入れさせるから。ごきげんようオトマール、そしてヒルデ。どうぞ元気な子を産んでくださいね」
馬鹿馬鹿しい。舌打ちしたいのをぐっと堪えて席を立つ。それでもヒルデは「ありがとうエレーナ、分かってくれると思ってた」と明るい顔で微笑む。随分激しい波のあるつわりだな、クソッ!
「待ってくれレニー!」
「誰が待つか!」
「婚約解消の署名をしてくれないと困るんだ!」
素早く踵を返し、オトマールの手から書簡をもぎ取り、自分の名を殴り書きして突っ返した。
「二度と私の前に現れないでよ、オトマール!」
そんなオトマールと私との婚約解消は、瞬く間に人々の知るところとなった。それ自体はどうでもいいといえばどうでもよかったのだけれど、婚約解消の席で起こったことが噂となり、尾ひれから背びれまでついて広まっていたのだ。
「レディ・エレーナのお話を聞いたか? 長年連れ添った婚約者を失い、悲しみのあまりご乱心なさっとそうで」
「なんでも、婚約者の浮気に怒り、文字通り煮え湯を浴びせたと」
「おや、私は陶器で頭を叩き割ったとも聞きましたが」
「オトマール様は九死に一生を得たそうな」
「新たにオトマール様と婚姻したヒルデ様も、子を堕胎しろと詰られ、陶器の破片で腹を刺されるところだったとか」
「子には何の罪もないとオトマール様が必死に宥めるも、聞く耳を持たなかったそうで。いやはや、女性というのは怖いですな」
「女性というか、レディ・エレーナがですな。あの赤い髪を振り乱す姿、まるで嫉妬の炎の具現であったと」
「しかし、ドナート伯爵はお心が広い。こんなことがあっても、あのお方はご令息の元婚約者を決して悪く言わないのだから」
オトマールと婚約解消しても悲しくもなんともないし、私は正気だし、オトマールにかかった紅茶は熱かったけれど飲める程度には冷めていたし、紅茶のカップは割れたけれどオトマールの頭は残念ながら割れなかったし、私はヒルデに謝罪を要求しただけだし、オトマールにも子を盾にするなと言っただけだし。それだけ事実と違うのだから、ドナート伯爵にも悪く言われる筋合いはない。
けれども、人の噂というのは面白可笑しいほうに増長するようにできている。人々はこぞって私を「浮気にブチギレて元婚約者とその浮気相手と子を殺しかけた令嬢」と指差す。
それだけなら構わなかったのだが、噂が広まり数ヶ月経つ頃、余波は我が家にも及んだ。
「話の分からない連中はこれだから困る」
宮殿から帰ってくるなり、父は苛立った顔でそうぼやいた。
「エレーナがオトマールの浮気に怒りその子共々殺そうとするなど、あるわけがないというのに。体裁が悪いの一言ですべて済ませようというのだから」
話を聞くところ、今回の噂を受け、父は宮殿での立場を追われようとしているらしい。もともと政敵と派閥を争っていたところなので、今回の出来事は間が悪いとしか言いようがなかった。
それだけではない。母と弟の会話に聞き耳を立てていた私は、兄の夫人が里帰りしていること、弟妹がそれぞれ婚約者から婚約解消の相談を受けたことを知った。
「エレーナには秘密にしておきなさいよ。あの子はなにも悪いことなんてしていないのに、こんなことを知ったら余計に責任を感じてしまうから」
両親は庇ってくれているものの、私がランセル家の疫病神状態になっているのは明らかだった。
私が未婚のまま生涯を終えるのはいい。しかし、両親や兄弟がその割を食うのは納得がいかないし、どうにかして防ぎたい。
ドナート伯爵は私のことを一切悪く言っていない。ドナート伯爵のお人柄を考えれば頷けるから、きっと事実だろう。それでもここまで広まってしまっては、噂を解消するのは不可能だ。
それに、確かに、話し合いの場でオトマールの顔面に紅茶をカップごと叩きつけたのは悪かった。やるならヒルデがいなくなった後にやるべきだった。
となれば、私が責任を取ろう。そう決めて、父に進言した。
「しばらく帝都を出ようと思います」
「なにを馬鹿なことを言っている」
もちろん最初は一蹴された。
「噂のことを気にしているのだろうが、大したことではない。そのうち収まるものだろうし、私とて失脚したわけではない。お前の弟達のこともそうだ、噂を鵜呑みにする愚かな者達など、これを機に婚約を再考できてよいと考えておけばいい」
「さすがにそれは希望的観測が過ぎます。ヒルデ――オトマールの浮気相手は、一応それなりの立場をお持ちですし、今回の騒動を勘案すれば恩どころか媚びを売っておかなければ、今後のお父様の立場は危うくなるでしょう」
それを防ぐためには、ヒルデの家に詫びを入れ、私を「非常識な行動に出た娘」として追い出すことでその誠意も示せばよい。そう説明すれば、愛娘の顔に泥を塗られたどころか非を認めるような行動をとるなど到底受け入れられないと猛反対された。
しかし、この噂は兄や弟妹の人生も左右しかねない。それを含め懇々と説き続け、一ヶ月経つ頃、ようやく父は首を縦に振った。当初の懸念のとおり、父の政治的立場に暗雲が立ち込め始めていた頃だった。
その代わり、さすがに一人でポイと放り出されることはなかった。母方の親戚・ゲヘンクテ辺境伯の領地で暮らせるよう、両親が手配してくれた。
「そのくらいしかしてあげられなくて、ごめんなさい、エレーナ。オトマール様との婚姻も、私達が良かれと思って決めたことだったのに、あなたを不幸にしてしまって」
「なにもなんてとんでもありません、お母様。それに、私は自分が不幸になったとは考えておりません」
私は、自分が幸せかどうか考えたことはなかった。だから幸せなのだと思っていた。それは半分本当だった。
しかし、オトマールとの婚約に関しては、幸せでもなんでもなかった。オトマールは穏やかで優しかった。しかしそれだけだ。しいていうなら顔も良かった。しかしそれだけだった。裏を返せば優柔不断でうだつのあがらない男だった。
でも、そういうものだと思っていた。婚約者なんて家同士が勝手に決めるものだ。友人には、妻を亡くした一回り年上の男と婚姻を決められた者や、婚約後に散々に家の金を搾り取られた挙句に一方的に浮気の疑いをかけられた者さえいた。その点、オトマールは年も同じだし、ドナート伯爵もできた方だった。自分の婚約は恵まれているのだと信じて疑わなかった。
だが、そうではない。オトマールの穏やかさはうすらぼんやりの裏返し、だからほいほいヒルデと子どもを作り、挙句に事の顛末をすべてヒルデに言わせる羽目になる。そんな男と結婚してしまったら、私は幸せではなくなっていただろう。
「こういうものをマッチポンプと言うのかもしれませんが、それはさておき、婚約解消後に家に閉じこもるでもなく新たな門出を迎えることができるとは、私はなかなか幸せ者です。そう悲観しないでください、お母様」
そうして私は家を出て、帝国の北にあるカッツェ地方へと旅立った。オトマールとの婚約を破棄して、半年が経つ頃だった。
帝国領土の北端にあるカッツェ地方は、ドドド田舎だ。北国に近いこともあり、少し町から外れると森が広がっているし、住むには少々不便が過ぎる。
ただ、裏を返せば、帝都の噂もここまでは届きにくいということだ。ここなら誰に気を遣うこともない。
しかし――カッツェ地方に近づくにつれ空気が冷たくなり、馬車の中で外套をもう一枚羽織った――よりによってこんなタイミングでカッツェ地方に引っ越す羽目になるとは。しかもいまは霧包月、これから寒さは厳しくなる一方だ。
そんな中、向かうのはゲヘンクテ辺境伯領地にある母方の祖母の屋敷だ。ゲヘンクテ辺境伯にも確認をとり、それを使うといいという話になっている。
しかし、十年近く人が住んでいなかった家に、果たして住めるだろうか。おそらく答えはノーだ。母には言わなかったが、十中八九、家は捨てることになるだろう。見た目だって、とんだ幽霊屋敷になっているに違いない。
カッツェ地方には行きたいとは思っていたが、身支度を万全に整えた優雅な旅行として訪ねたかった……。
が、予想に反して、屋敷の見た目は小ぎれいだった。その様子に、敷地に入りながらひとり目を瞠ってしまう。
「……意外と綺麗なまま……いや……?」
しんしんと雪が降る中、ぽつりと建っている巨大なレンガ造りの屋敷は、古びてはいるものの、明らかに手入れがされている。その隣には、くっついているのか離れているのか分からないほどピタリと寄り添って小さな家が建っているので、おそらく母屋と離れだ。その離れは、蔦に侵食されて隣の森に呑まれそうになっていた。
母屋だけ、辺境伯が事前に掃除を手配してくれていたのだろうか。訝しみながらも、そっと扉を開いた瞬間、明らかな違和感に襲われた。
「……なにこれ」
外気の寒さを押しのけて、暖かな空気が頬を撫でる。真っ先に目に入った暖炉では、パチパチとにぎやかな音を立てて薪が燃えていた。
それだけではない。中に入れば、簡素ながら家具も置いてあるし……なにかを煮込んでいるような料理の匂いもする。間違いなく、誰かが住んでいる――。
「誰だ?」
低い声に振り返った瞬間――喉元に剣先がつきつけられた。
驚きすぎて声も出なかった。足音も気配も感じさせなかったその――おそらく声からして――長身の男は、一瞬で喉を貫ける姿勢を変えないまま、目深にかぶったフードの下から口を動かす。
「……女か?」
おそるおそる両手を挙げ、ほんの数ミリだけ顔を縦に動かす。それ以上動けば剣先が刺さりそうだった。
「名は。どこから来た。なぜこの屋敷に入った」
「……エレーナと、申します。帝都ナハティガルから参りました。訳あって家を出ることになり、ゲヘンクテ辺境伯に相談のうえ母方の祖母の住まいを宛がわれたのですが、その住まいがこの屋敷だと勘違いしてしまい……」
鼻より上は見えずとも、怪訝そうに眉を顰めるのが分かるようだった。ごくりと喉を鳴らせば、震えた肌が剣先を掠めた。肌に触れるか触れないか、そのぴったりギリギリに切っ先を押し付けられていらしい……恐ろしいほどの剣の腕だった。
「こちらの家ではなかったようで。大変失礼いたしました、すぐにお暇しますので」
この雪の中で野宿は勘弁というか死だが、探せば教会くらいあるだろう、そこにしばらく身を寄せればいい。一応遠縁もいるが、勘当されたことになっているのに転がり込むのは気が引ける。
命の危機に瀕しながらもそう決意した、が、男は剣を引いた。
「……カタリーナ様の、その孫か」
祖母のファーストネームだった。
「え、ええ、そうです……」
「そういうことなら、失礼した」
剣を納め、男はフードをとった。白銀の髪と、淡いブルーの瞳が現れる。
かきあげられた髪は雪のよう、鋭い瞳は氷のよう。精悍な顔立ちと感情の薄い表情も相俟って、雪の精霊がいるとすればこんな人だろうと思わせる人だった。
「私はノルバート、ゲヘンクテ辺境伯のもとで働きつつ、この屋敷を借り受け住んでいる。恩人の血を引く貴女への非礼を詫びよう、レディ・エレーナ。申し訳なかった」
セリフと共に頭を下げたノルバート様は、私が呆気に取られているうちに「道中は寒かっただろう、暖炉の前に座るといい」と、私を部屋の奥に追いやった。見れば、暖炉の前で向かい合っているのは真紅のソファ、部屋の隅にある棚や本棚はアンティーク調……と、ノルバート様のぶっきらぼうな雰囲気に合わない洒落た調度品が置いてある。確かに祖母の家で間違いないのだろう。
向かい合って座り、ノルバート様は「改めて」と書簡を広げる。カッツェ地方を統べるゲヘンクテ辺境伯のサインが入っている身分証だ。
「ゲヘンクテ辺境伯の騎士……ですか」
「もちろん、疑うなら確認してもらっても構わないが」
「いえそういうわけではなく。……納得だなと」
黒い外套を脱いだノルバート様は、肩幅が広く、体も分厚く、いかにも騎士だった。それだけではない、鋭い目つきといい、出会いがしらに見せつけられた剣の腕といい、これで騎士でなければなんなのだとさえ思う。
ただ、騎士になるには実力だけでなくもとの家柄も重要だ。幼い頃に道で倒れていたというが、もとは高貴な生まれなのだろうか。はて、といささか首をひねった。
「それより、私の身分ですが……」
それはさておき、ただの貴族令嬢は身分を証明するものがない。ゲヘンクテ辺境伯に確認をとってもらえば済む話だが、既に夕暮れ、いまから訪ねるのは非常識だ。
なにかあるかと荷物を探そうとする私に、ノルバート様は「いや、構わない」と軽く手を挙げた。
「カタリーナ様の孫とのこと、言われてみればそのとおりだ」
「もしかしてこの髪ですか?」
返事をしながら、赤い髪を摘まんでみせると「ああ」と頷かれる。
「そこに肖像画があるだろう。若かりし頃のカタリーナ様だそうだが」
暖炉の上に飾られた肖像画に改めて目をやる。祖父の髪は黒に近いブラウンだったが、祖母の髪は真っ赤に塗られていた。
「ゲヘンクテ辺境伯しかり、カッツェ地方ではたまに見かけるが、それでも珍しいことには変わりはないからな」
「……そうかもしれませんね。威圧的で目立ちますし」
こう口にすると、オトマールは決まって「見つけやすくていいよ」と答えていた。まず否定しろという話である。
すると、ノルバート様は不思議そうに首を傾げた。
「確かに目にはつくかもしれないが、それは暖かさを感じる色だからだろう? 美しい炎の色だ」
……何。何を言われたのか分からないくらい、私の髪に不釣り合いな形容が聞こえた気がする。
「……すみません、いまなんと……」
「赤は炎の色、北国では暖かい恵みの色だ。特に赤い髪といえばゲヘンクテ辺境伯であるが、彼を嫌う領民はいないしな」
私はカッツェ地方に来るべきだったのだ……! 今までいるべき場所を間違えていたような気がして、切ない拳を握りしめた。威圧的で目立つ色改め、美しい炎の色……!
「それより、この家の件だが、どうやら辺境伯との間で行き違いがあったようで、申し訳ない」
「ああいえ、それはこちらこそ失礼いたしました」
我に返って居住まいを正した。髪の色など何の問題でもなかったのだ、毛だけに。
ノルバート様は、幼い頃に祖母に拾われ、一、二年ほど育てられたらしい。亡くなる際に、他に使う者もいないからと祖母がノルバート様に敷地まるごと譲ったらしいが、それを我が家もゲヘンクテ辺境伯も把握していなかったそうだ。とはいえ、その関係上、ゲヘンクテ辺境伯は把握していてもよさそうだが、さすがに正確な家の位置までは把握していなかったということなのだろう。そして、私が離れだと思ったのは使用人用の屋敷で、一応、この屋敷と廊下で繋がっているそうだ。
そう説明したうえで、ノルバート様は少し居住まいを正した。
「レディ・エレーナ、貴女はこの屋敷に住むつもりでやってきたとのことだが、見ての通り、私が既に住んでしまっている。隣にあるのは、もとは使用人用の屋敷だった。そこで申し訳ないながらに提案だが……」
「はい、それはもちろんです」
もともと、住めるような家ではないだろうと考えていた。なんなら、この話の流れなら使用人用の屋敷は譲ってくれるのだろう、それだけでもありがたい。
頷くと、ノルバート様は少し驚いたようにアイスブルーの目を瞬かせた。
「……そうか。重ね重ね申し訳ないが」
「いえ、祖母が譲っていたとのことですし、事情を知らずに押しかけたのはこちらですから。私は一向に構いません」
「そう言っていただけると助かるが、もちろん、できる限り速やかに手配はする。早速だが――」
まだ暖炉の前にいたいのだが……。と言いたかったが、ノルバート様は立ち上がってしまった。
「一応、こちらの屋敷は一部の部屋を除きすべて掃除はしてある。長旅で疲れただろう、レディ・エレーナさえ構わなければ私の寝室を代わりに使ってもらって構わない」
「……え?」
何の話?
「新たな寝具は早急に手配するが、なにせこの雪だ。整うには少しばかり日数を要する、その間に残りの部屋の掃除を済ませておく」
「……すみません、何のお話ですか?」
眉を顰めると、逆に眉を顰めて返された。
「さきほどから話しているとおりだが。私もこの雪の中で放り出されたくはないため、申し訳ないが一時的に使用人用の屋敷を使うことは許されたいと」
「いや逆! そのお願いするの私!」
トンチンカン通り越して卑屈な発想に、思わず素が出てしまった。しかし、ノルバート様は目を丸くしているので、本気でそう考えていたらしい。
「この家は祖母の、カタリーナ・ゲヘンクテのものだったのですよ? それを祖母本人がノルバート様に譲ると申したのですから、もうノルバート様のものです! 祖母の孫がしゃしゃりでてきたところでそれは揺るぎません、私がここで平身低頭してどうぞ使用人屋敷だけでもいいので間借りせてくださいと申し上げるのが筋でしょう!」
自分で言っていておかしかった。なぜ私は自分が損する話を「筋だ」などと言い張っているのか。
どうやらノルバート様にもおかしかったらしく、ふ、とその表情の薄い顔が笑みを零した。少しドキッとしてしまうような美しい笑みだった。
「そう言っていただけると、私としてはありがたいが……」
「私のセリフです。とても住めるような状態ではないだろうと思っておりましたので、来たばかりの雪国で家に入れてもらえるだけで棚から牡丹餅といいますか……」
改めてソファに座り直し、コホンと咳払いした。
「もちろん、私は居候という形になりますので、できる限り早く新たな住まいを見つけ移り住みます。でも正直使用人屋敷が空いているならそちらに居座らせていただきたいです」
「いや、本来的には私のほうが居候だ。使用人屋敷に移る許可を得るのは私のほうだろう、多少手入れはしてあるからしばらく居座るのに困ることもない」
「だからさっき申し上げたじゃありませんか、祖母が家を譲ったのはノルバート様です。住みよいようにこちら側の屋敷を整えていたのはノルバート様なのですから」
「カタリーナ様が私に譲ってくださったのはゲヘンクテ家の方々が皆別に移り住んでいるという前提があった。実の孫が移り住むのであれば話が違う」
「しかし祖母も自らの亡き後すぐに家に住んでくれる人を探していたのでしょうし――」
この家はもうノルバート様のものです、いやこの家はあくまで君が受け継ぐべきものだ――そんな押し問答をしばらく繰り広げた後、ノルバート様が「待て、やめよう」と参ったような顔で手を挙げた。ほんの僅かな変化とはいえ、意外と表情豊かな方だ。
「私の意見を押してすまないが、恩人の孫を追い出し自分が我が物顔でこの屋敷に住むなど耐えられない。どうか私のためにこの屋敷に住んでくれ」
「……そう言われると……反論できないのですが」
まさか相手がとことん有利になる話ばかりするとは。婚約解消に際して子を盾に筋がどうのこうのなどと並べ立てたあの口に、ノルバート様の爪の垢を煎じて飲ませて靴を舐めさせたい。
そんな中、ぐう……と不意に鳴いた私のお腹がノルバート様のセリフを遮った。ノルバート様が目を丸くするより先にお腹をぶん殴ったけれどもう遅い。
「……しつ、れい、しました……すみません朝から何も食べずに来たもので……」
「それならそうと言ってもらえれば。しかしなにか手配するにも、そうだな……」
赤面する私に構わず、ノルバート様は困ったように顎に手を当てる。ずっと料理の音と匂いはしているけれど、まあ私のぶんがあるわけじゃないもんな。
そう考えているのが分かったのか、ノルバート様は一瞬だけキッチンのほうへ視線を動かした。
「……夕食は準備中だったのだが」
「いえあの、お構いなく。少し町のほうへ出てきますから……」
が、窓の外に視線を遣った瞬間、ビュオオオと吹き荒れる雪が見えた。私達の間には沈黙が落ちる。
「……客人に出せるものではないが」
おそるおそる、ノルバート様がキッチンへ案内してくれる。もともと祖母が使っていた家だけあって、キッチンの設備はかなり整っている。しかし、妙に整頓されたそこには手入れされているのではなくただ使ってなさそうな雰囲気があった。実際、オーブン兼コンロの上に載っている巨大なお鍋の蓋を開けると……。
「……これは」
「私の日頃の食事だ」
「……いつもこれを?」
「かれこれ十年以上毎日。一度作ればこの季節なら四日は食べることができる」
「十年間毎日って3650日、しかも三食……?」
「朝はパンで済ませるし、昼食は摂らない」
「だとして軽く一万回を超える食事を……」
玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、キャベツ、鶏肉が丸ごと突っ込まれて煮込まれていた。丸ごとだ。玉ねぎもにんじんもじゃがいもも、皮を剥くだけ剥いて一ミリもナイフが入らないまま突っ込まれ、せいぜいキャベツだけ「入らないので仕方なく」といった顔で半玉で入っている。そこまではいいいいとしても、問題は鶏肉だ。おそらく胸肉、しかも引っ張り出してみると私の顔くらいの大きさがある。おそらく、1LBごとに売られている2枚の鶏肉をそのまま突っ込んでいる。
「……確かに野菜の丸ごと煮込みは体にも良さそうです。一度にいろんな野菜を食べることができますし……」
「いや、一食ごとに一品食しているので一度には食べない」
「……どういう意味ですか?」
「逐次切り分けるのが煩雑なので一つずつ取り出している。今日は玉ねぎの予定だった」
つまり明日の夕飯がにんじん、明後日の夕飯がキャベツ、と。見かけによらずうさぎさんなのだろうか。
「……ちなみに味付けは」
「特には」
一万食にのぼる夕食を、常に「丸ごと野菜と鶏のごった煮込み・ただし食べるのは一品ずつ・素材の味を楽しんで」で済ませてきただと……。ノルバート様は、どうやらまったく食事に興味のない方らしかった。
「……調味料ってございます?」
「支給品以外であれば、カタリーナ様が使っていたものが多少」
調味料に熟成は不要だ。辛うじて生き残っているものを見つけ出す。
「……このままキッチンをお借りしてもよろしいですか?」
ノルバート様は目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「もちろん、もう君の屋敷なのだし、借りるといわず好きにしてくれ。毒でも虫でもなんでも使ってもらって構わない」
「いや百歩譲って虫はいいとして毒は構いましょうよ」
「確かにこの家に毒はない」
「そういうことじゃないんです」
この人、もしかしなくてもちょっと変わった人だな。確信しながら、私はまずオリーブオイルの瓶を掴んだ。
十数分後、テーブルに載せたお皿を見て、ノルバート様はしばらく固まった。
「……これは新しく作ったのか?」
「まさか、ノルバート様の丸ごと煮込みに多少手を加えさせていただいただけです」
ひとつが柔らかくなる前にひとつが原型を失うし、味は素材頼り過ぎるし、というかひたすら煮込まれて硬くなっているだけの鶏むね肉はどうしたものかだしで、とりあえず塩胡椒を振り、鍋の中身を適宜切り分けてスープ皿に盛った。
「……一食一品って味気なくありませんでした?」
「栄養を摂ることができれば構わなかった」
「まさしく一品では栄養を摂れないでしょう」
「毎日分けて食べずとも、一週間かけて鍋を空にすれば同じことだろう」
怪訝そうな顔を向けられて、一瞬納得しかけた。しかしそうではない、一週間で帳尻が合えばいいなんて話はしていないのだ。
「食事は楽しんでなんぼですよ! さあさあ、たまには塩胡椒だけでなく少しオリーブの香りもいかがですか。それからパン、炭水化物はエネルギー補給に大事です。鶏肉だけじゃタンパク質も足りませんのでチーズをいただきました。匂いは確認しましたけれど、新しいですよね? カマンベールチーズですから、お嫌いでなければはちみつと共に……」
順次並べながら説明すると、ノルバート様はすべて聞き終えた後で「……すごいな」と感心したように漏らした。
「まるで食卓のようだな」
「食卓ですよ」
「いや失礼、長年栄養補給を主として食事を摂っていたため新鮮で……こんな食器もあったのだな」
「化石となっておりましたので発掘いたしました」
おそらく祖母亡き後は手付かずだったのだろう。そうとしか思えなかった。
てんでばらばらの器に盛られた食事を前に向かい合って座り、ノルバート様はスープを口に運んで「……おいしいな」と呟いた。
「よかったです。といっても、もとはノルバート様の作ったものですが」
「原型をとどめないとはこのことだな」
それは多分悪い意味でつかう言葉だ。
「……しかし、貴女は……」
なぜ料理ができるのか、と疑問を口にしようとしたのかもしれない。ノルバート様は私の素性など知らないが、祖母の家柄を考えればそれなりの貴族の令嬢だと予想はついているだろう。
「私の母が料理好きなのです、祖母の影響だと思いますが。私もおいしいものを食べるのは好きですし、なにかを食べたいときには自分で作るのが早いですから」
町で買ったあれがおいしかった、宮殿で出た食事のこれをもう一度食べたい――そう考えたときに、いちいち料理人に説明するほうが手間だった。
ノルバート様はまだ釈然としない様子だったが、ややあって「そうか」と頷く。
「私としては十数年ぶりに食卓につけてありがたいかぎりだ。久しぶりに、なにかをおいしいと感じた気がする」
十数年ぶり――つまり祖母が亡くなって以来だ。
あまりにも味わい深い表情でスプーンを運ぶ姿を見ていると、胸のうちでむくむくと湧き上がるものがあった。
「……よろしければ、明日も私が作りましょうか?」
「そこまでしてくれるのか」
弾けるように顔を上げられ「もちろん」と食い気味に返事をしてしまった。
「あ、そうだ、ちょうどいいです! もしノルバート様が使用人屋敷に移ると譲らないのであれば、この家の決着がつくまでは私には食事を作らせてください! さすがに向こう側でキッチンの手入れはしていないでしょうし……というか、この様子ですとあまり使われないようですし……?」
「……そうだな。それは確かに非常に助かる」
あ、まただ。ノルバート様の口の端が少し上がり、笑っている。美しい笑みを見せられ、思わずじっと見つめてしまった。
しかし……、ノルバート様は、オトマールとは雲泥の差だ。オトマールとの婚約期間は十年近く、もちろん私が手料理を振る舞うこともあった。しかしオトマールはいつも「またいろいろ作ったんだね」と口にするだけで、おいしいの一言も言わなかった。良家の子女が料理を作るなんてはしたないとでも考えていたのだろうか。
食事を終えた後、ノルバート様は「とてもおいしかった」と軽く目を伏せて頭を下げた。そこまでしてくれなくてもいいのに、本当に、オトマールとは全然違う。
「それより……今更だが、君は一人か? 使用人や従者は?」
「ええ、まあ……そういった者はなく……」
さすがに、いきなり辺境の北国に使用人らを連れて行くのは申し訳なく、こちらで新たに手配することにしたのだ。ただ、正直身の回りのことはできてしまう貧乏性なので、必要ともしていない。
口籠ったのをワケアリと察したのだろう、ノルバート様は「そういうことなら」と席を立ち、錠前を持って戻ってきた。
「今夜は私が下階に留まっておく、屋内とはいえ、夜半に女性が一人でいるのは危険であるし、使用人の屋敷からでは有事に間に合わない。寝室扉にはこれを使ってくれ、もちろん決して不埒な真似はしないと誓うが、安心材料だ」
「そこまでしなくてもいいですよ、婦女子を襲うような人だとは思っていません」
むしろ、本当に興味ある? と聞きたくなるくらいカタブツに見える。しかし、ノルバート様は薄い表情にほんのりと困惑を浮かべた。
「……君から見れば、私は見知らぬ男だろう。私が注意するのもおかしな話だが、見知らぬ男と一つ屋根の下にいるのにもう少し警戒したほうがいい」
「考えてみればそうかもしれませんけれど、ノルバート様はそんな雰囲気の方ではありませんし……」
「初対面で雰囲気もなにもないだろう。町を出歩く際は気を付けてくれ」
「そうですね……」
いや、雰囲気でいえばオトマールもそうだった。脳裏には柔和な笑みを浮かべるオトマールが浮かぶ。
顔はいいので、昔から令嬢には人気があった。しかし、オトマールはいつもそれに応えず「僕にはエレーナがいるから」と私に話していて、よそ見をしないいい男だと思っていた。それが数年ぶりに再会した相手を妊娠させたというのだ、八年近く婚約者をしていても知らない一面はある。
しかし、考えてみると、あの「僕にはエレーナがいるから」発言はオトマールが奥手だっただけなのでは? 有り得る。確かに、ヒルデが肉食獣もびっくりな速さでオトマールを捕食したのかもしれないとはいえ、オトマールもこれ幸いとそれに乗っかったのかも……。
「レディ・エレーナ?」
呼びかけられて我に返った。いかんいかん、オトマールのことなど思い返しても余生の無駄だ。
「失礼しました、ノルバート様。つい……、つい帝都での暮らしのことを」
「ああ、カッツェ地方は昔よりは栄えているとはいえ、帝都に比べれば酷い田舎だからな。慣れるのには時間もかかるだろう」
「ああいえ、そんなことはまったく。もちろん帝都とは暮らし方に違いもあるでしょうが、もともと身一つで来る予定でしたし、特にカッツェ地方は幼い頃から訪ねてみたい場所だったのです、念願叶ったりですよ」
「元婚約者が友人を妊娠させたので紅茶のカップを投げつけた挙句に婚約を解消し、しかし殺人未遂の噂が流れたので家の立場も危うくなり、追い出されたことにしてやってきました」とは言えないが、本心ではあった。
多少口籠ってしまったが、ノルバート様は気にした素振りなく立ち上がった。
「それならいいのだが、なにか不便があればいつでも言ってくれ。とりあえず、部屋のほうを案内しよう」
蟠らないのは、私に興味がないからか、それとも生来の性質か? どちらにしても、私にしてはありがたい限りだった。
屋敷をもらう代わりに食事を提供する生活は、おもいのほか順調だった。ノルバート様は結局使用人用の屋敷に住んでいて、しかし夕食前まではほとんど不在にしている。お陰で日中は気遣うことなく、夜は共に食事をとりがてら話し相手になってもらい、ついでに敷地内に辺境伯直属の騎士がいるという安心感までいただいてしまっている始末。何も考えずに出てきたが、もし一人きりだったらいくら私でも心細かっただろうし、棚から牡丹餅とはこのことだ。
そんなノルバート様は、ある日の夕方、その薄い表情に疲弊を浮かべて帰ってきた。
「どうされたんですか?」
「昨晩の大雪で雪崩が起きたらしい。麓の村がまるごと巻き込まれる勢いだったらしく、大騒ぎになっていた」
「え! 村の方々は大丈夫なんですか!?」
狼狽する私を、ノルバート様は「幸いにも死者も行方不明者もいなかったそうだ」と制する。
「それならよかった……ですけれど、ノルバート様も救出のお手伝いをされたということですね。それはお疲れでしょう、食事をとってゆっくりお休みになってください。今日はパスタにしてみたのです」
ノルバート様の半開きの口が一瞬固まって「……パスタ?」どこか間抜けな声が漏れた。
「はい。小麦を水とともにこねて伸ばして切って茹でたものです」
「いやパスタは知っている。それを……料理人でもないのに作ることができるのか?」
料理人を魔女かなにかだと思っているのだろうか?
「力は必要ですが、そんなに難しいものではないですよ。今日は町に出てみたのですが、小さなキャベツがありましたので、パスタにしようと思い立ちまして」
キッチンに置いておいた棒を見せると、ノルバート様はクッと笑いをかみ殺した。最初のころは無表情だったノルバート様は、最近はよく笑ってくれるようになった。
「はは、小さなキャベツか」
「え、違うんですか?」
「それはキャベツではない。ブルーセルスプラウトという」
「なんですかそれは」
「それだ。キャベツを品種改良して作られたもので、カッツェ地方の南西部にあるブルーセル地域の名産品だ」
改めて、ブルーセルスプラウトをしげしげと眺めた。こん棒のように太い枝にいくつもくっついているので奇妙といえば奇妙なのだが、やはり見た目は小さなキャベツそのものだ。
「それと……それはなんだ?」
「食べてからのお楽しみです。パスタは今から茹でますから、少し待っててください」
困惑しているノルバート様をソファに座らせ、十数分後にパスタを出すと、まるでぐうの音も出ぬような顔つきで「……うまい」とまた呟いた。
「レモンの味もする」
「大正解です。レモンも少ししぼりました」
「しかし……この旨味のようなものは……魚介類のような……」
「これまた大正解です、カタクチイワシの塩漬けです」
おそらく、カッツェ地方は寒い地域であるがゆえに塩漬けでの保存方法が一般的なのだろう。市場で見つけたものは帝都にないものばかりで、そのときの興奮を思い出しながら得意になってしまった。
「これと塩漬けの豚肉を薄くスライスして一緒に炒め、蒸しておいたブルーセルスプラウトと混ぜるのです。これだけであぶらとうまみと塩味がありますかね、調味料なんてなくてもパスタの具としては充分なのです。レモンはなくてもいいかと思ったのですが、ちょっとさっぱりしたほうが食べやすいかと思いまして」
「……相変わらずすごいな。実は君が魔法使いであったと言われても驚かない」
呑みこんでいるのではないかと思うほど次々口に運んでもらえるのを見ると、こちらも作った甲斐があるというものだ。
ぺろっと平らげてしまった後、ノルバート様は「おいしかった」とまたしみじみと漏らして――ハッと目を見開いた。
「そうではない」
「え、おいしくなかったですか?」
「そうではない。雪崩の話だ。死者はいなかったが、怪我人が多く、領内の空き家を臨時診療所として開放している」
「そうなんですね」
いい話だ、と頷いたのだが、ノルバート様は微妙な顔をした。
「つまり転居先が見つからないという話だ」
「すみません、そういえばそんな問題がありました」
あまりにも一緒にいて違和感がなく、かれこれ二週間が過ぎようとしているせいで忘れてしまっていたが、ノルバート様はこの敷地を出ていくと言って譲らなかったのだ。両手を膝の上にきちんと揃えて座り直す。
「申し訳ないです、我が物顔で居座っておりまして」
「……いや。こう言ってはなんだが、私としては同じ敷地内に住まわせてもらえるのはありがたい。一応、住み慣れた場所ではあるし」
それに、とノルバート様は明るいような暗いようななんともいえない表情でつけ加えた。
「誰かと食事をとるのがこんなにいいものだと、思い出してしまった」
ノルバート様が祖母に拾われたのは、五、六歳の頃であったという。そして祖母と過ごしたのは当時の一、二年だけ。
ぶっきらぼうで無表情で分かりにくいけれど、実は寂しい人なのだろうか。
「……あの、無理に転居先を探さなくてもいいのではないでしょうか。最初に散々話しましたが、もとはといえば私が転がり込んだ側ですから、ノルバート様が出て行く理由はありませんし」
「……私がいうのもなんだが、両屋敷は繋がっているし、男女が一つ屋根の下にいればあらぬ噂も立つ」
「大丈夫です、あらぬ噂は立った後ですから!」
私の二つ名は、いまや「婚約者を殺しかけた女」。それが「北国で見知らぬ騎士と同居(?)している不埒な女」に変わったところで困ることなどない。
が、ノルバート様はそうはいかない。強く拳を掲げた後で、とんでもない風評被害に巻き込んでしまっていたことに気がついた。
「……あの、ノルバート様にもし意中のお相手とかいらっしゃれば……早急に策を講じますが……」
「私の心配は無用だ。しいて言うなら、最近上官が私の肌艶を羨ましがって鬱陶しい」
大真面目に顎を撫でる仕草に吹き出してしまいそうになった。確かに食生活が整って体調その他もろもろが良くなるのは分かるが、心配するのがそこなのか。
「それなら私も一向に構うことはないのですが。男女とはいわずとも……その、得体のしれぬ女を匿っていると思われるのは、出世に影響を与えたり……」
「この家の主が帰ってきたと言えば済む話だ。さきほども言ったが、あらゆる観点から私の心配は無用であるから……君側に問題がないかだけ考えてくれればそれでいい」
本当に、この人は損得勘定の下手な人だ。せっかく、ゲヘンクテ辺境伯に仕える騎士という前途有望な立場にいるというのに。
しかし、いまの私はノルバート様の厚意に甘えるしかないのも事実。
「それでしたら、引き続きお言葉に甘えさせていただきます」
その数日後、とんでもない珍客がやってくるとは、このときの私は想像もしていなかった。
夕方、食事の仕込みをしているときにノック音が響いた。ノルバート様が帰ってくるにはまだ早いが、何かあったのだろうか。雪崩が起きてその対応に追われているという話があったが、もしかしてノルバート様も巻き込まれてしまって急いで運ばれてきたとか……!
雪解けの始まった季節だ、有り得なくはない。慌てておたまを放り出して玄関に駆け寄り、勢いよくドアノブを掴んだ。
「大丈夫ですか!?」
「うわっ!?」
扉を吹っ飛ばす勢いで開けば、向こう側で誰かが尻もちをついた。雪解け後の湿った地面にべちゃっと座り込んだその人は、いかにも雪国を警戒してきましたと言わんばかりの厚着をしている。
「あ、すみません……えっと、大丈夫、ですか……?」
ノルバート様の客人だとしたらとんでもない失礼をしてしまった。しかし、その分厚いフードのせいで顔は分からなかったが、妙に声に覚えがあるような気も……する。
そろりと手を伸ばして――背筋が凍った。
「いたたた……」
呻きながらフードをとったのは、オトマールだった。
「……何してんの、オトマール」
「やあ、エレーナ、久しぶりだね」
久しぶりだねじゃーんだよ、どの面下げて何してんのって聞いてんだよ。へらへら笑いながら見上げてくる顔に悪態を吐きそうになったものの、尻餅をつかせてしまったのは私だったのでぐっと言葉を飲み込んだ。
「……何か用?」
「いや、それがさ、本当に参っちゃって。エレーナを訪ねようと思ったら、勘当して北国にやったとか言われちゃったから。伯爵も酷いよね、婚約が駄目になったくらいで家を追い出すなんて」
言葉を飲み込んだことを後悔したし、どこからツッコミを入れればいいのか分からず拳が震えた。私を訪ねるな、追い出されたのは演技だし、そんなことをする羽目になったのはお前のせい、婚約が駄目になったのも他人事みたいに言うな――などなど。
「……それで、オトマール。あなたは私に何の用?」
が、ノルバート様の住まいの前で騒ぎを起こすわけにもいかない。いたって平静を装いながら、必死に言葉を絞り出す。
オトマールは「いや本当に、さっき言ったとおり参っちゃったんだ」とわざとらしく頬をかいた。
「ヒルデのことだけれど」
「なんで私が痴話喧嘩の相談に乗んなきゃいけないわけ?」
遠路はるばる、元婚約者に会いに来る時点で頭がおかしいというのに、話題がそれってどういうことなんだ? もはや謝罪すら受け付けたくないというのに。
「喧嘩してるんじゃないんだよ。ただ、ヒルデが言うことを聞かなくてさ」
「それを喧嘩っていうんだよ」
「最後まで話を聞いてくれよ、おかしいのはヒルデのほうなんだ」
「すみませーん、従者の方とかいらっしゃいませんかー?」
早くオトマールを帝国へ強制送還しなければ。馬車のほうへ向かって声をかけたが、手と首を横に振られた。どうやら雇われの御者らしい。
「貴方、一人で来たの? 曲がりなりにも伯爵令息が一人で北国なんてなに考えてるわけ? 公的な立場は措くとして、貴方はいまヒルデの夫で――しかももう子も産まれたんでしょう? 私的にも妻子を置いてのこのこ北国に遊びにきていい立場じゃないのよ、分かってる?」
「だから、そのヒルデがまったく役に立たなくて困っているんだ!」
悲痛な叫びと共に被害者のような顔をされ、一瞬何を言われているのか分からなかった。
「……何の話?」
「もともと僕とエレーナが婚約していたのに、ヒルデが妊娠してしまったから結婚せざるを得なくなったわけだろう?」
「いや妊娠は一人じゃできないんだから貴方にも非があるでしょ、何言ってんの」
「産後、屋敷のヒルデはぐうたらと寝て食べてを繰り返すばかりで、息子の世話は母と乳母に任せきり。せめて息子のために他のしかるべき夫人と交流を持っておくべきじゃないかと諭すんだが、他の夫人たちとは話が合わないと言って、令嬢たちの社交場に出掛けるんだ」
「それこそ私の知ったことじゃないわ、貴方とヒルデの問題でしょ」
「しかも母とは折り合いが悪いし……ああ、ヒルデは君と違って、父母と全く仲良くしようとしないんだ。お陰で食事の時間が地獄だよ」
「本当にどこまでも私の知ったことじゃないんだけど。私、食事の支度中だったから帰ってもらえる?」
私はあしらったのだが、オトマールは「ほら、君はそうやって自立してるだろう!」と顔を明るくした。話が通じないのかコイツ。
「ヒルデなんて、ろくに食事も作ることができないんだから」
「当たり前でしょ、普通の令嬢は食事なんて作らないんだから。これは私の趣味、それ以上でもそれ以下でもない」
「大いに結構な趣味じゃないか、ヒルデの趣味なんて浪費か散財なんだ」
「貴方、私が料理してた頃はいろいろ作ったんだねくらいしか言わなかったじゃない。それがなんで今更持ち上げてくるのよ、しかも遥かなる高みから。もういいでしょ、私はすることがあるんだから、早くヒルデのところに帰りなさい」
「だから話を聞いてくれエレーナ!」
「だから帰れって言ってるでしょ!」
追いすがるように掴まれた腕をぐいと引っ張り引っ張られ。オトマールは貧相な体つきをしているが、それでも男女の力の差は歴然としている。
「あんな嫁がいたら我がドナート家の将来は危うい! どうにかしてヒルデとの婚姻をなかったことにしてくれ!」
「何の立場でしゃしゃり出させるつもりっていうか私をなんだと思ってんの!?」
ノルバート様が住んでいる屋敷の敷地内で騒ぎを起こしてはいけない、そんな礼儀が空のかなたに吹っ飛ぶほど意味の分からないことを並べ立てられ、やっとこさ治り始めていた堪忍袋の緒が再度ズタズタに切れた。
「私は元・婚約者、つまりは他人! そうでなくとも貴方の不埒な婚姻の世話をする義理がどこの誰にあるっての? 第一、ヒルデは他でもない貴方が選んだ夫人でしょ!」
「いや選んだのではなく、妊娠したから仕方なく――」
「だからさせたのは貴方だって言ってんでしょうが! 放しなさいよ!」
ノルバート様がお戻りになる前に追い払わなければ、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。ぐいと腕を強く引っ張ったその瞬間。
ヒュッ――と私とオトマールの鼻の間を閃光のようなものが駆け抜けた。
驚いたオトマールが「ひえっ」と間抜けな声と共に手を放し、今度はそろって尻餅をついてしまった。少し離れたところでは、ビィンと硬いなにかが揺れる音が響いている。
「レディ・エレーナ!」
ノルバート様のご帰宅だ。「助かった」より先に「申し訳ない」が頭に浮かび、慌てて立ち上がりながら「すみません」と口にしようとした。
しかし、ズンッと足の先に剣が刺さるのを見て絶句してしまった。まるで私とオトマールの関係を断ち切るようにさされたそれの向こう側で、オトマールが再び「ひぎゃあっ」と叫びながら間抜けに後ずさり……私はノルバート様に腰から抱きかかえられた。
「何者だ、狙いは私か、それとも彼女か?」
地面に突き刺さった剣に手をかけたその目は、いまにもオトマールを殺しかねないほど冷たいを通り越して凍っていた。さすがの私も、オトマールと同じくらい震えあがってしまう。同時に気付いた、さっき私達の間を物理的に引き裂いたのは矢であった、と。
「いいいえ、僕はその――」
「すみませんノルバート様! この人は私の帝都暮らし時の知り合いでございます!」
いくらオトマールに腹が立ったからって、死んでよしなんて微塵も思わない。しかし、私に焦燥が浮かんでいたせいか、ノルバート様はその顔から険しさを消さなかった。
「……レディ・エレーナ、この距離であれば私なら一振りで相手の首と胴を切り離せよう。脅されているのならそう口にして大丈夫だ」
「違います違います、本当に違います大丈夫です! 彼はオトマール・ドナート、帝国のドナート伯爵の令息です!」
私と一緒にいるときは静かで穏やかなのに、こんなに物騒な人だったとは! いや、私も初めて会ったときはかなり警戒されていた。カッツェ地方ではこのくらい気を引き締めていてしかるべきなのかもしれない。
ノルバート様はまだ剣から手を離さなかった。じろじろとオトマールを観察し「その割には従者も何もいないようだな」と怪しい点を潰していく。
「それは、はい、そのとおりですね。なんで従者がいないの、オトマール」
「仕方ないだろ、君に会いに行くなんて誰にも言えないじゃないか!」
「誰にも言えないようなことって分かってるならするんじゃない」
「言い争いをしていたようだが、何の問題だった?」
「それは……」
オトマールの首がかかっている、ならば正直に言うか、元婚約者だと――。恥ずかしい身の上を暴露するか、苦悩してぐっと拳を握りしめている私を前に。
「僕はエレーナの元婚約者で、現夫人の代わりに改めて夫人になってくれと言いにきたんです!」
…………それだけで通じるとは全く思えない要素と、私さえ初耳の要望に、怒りも行き場を失った。
さすがのノルバート様も固まっていた。何を言われたのか分からなかったのだろう。私達の間には沈黙が流れる。
「……レディ・エレーナ」
「はい」
「……君が脅されているわけではないことは分かった。外は冷えるから家に入ろう」
「はい」
「待ってくれレニー! 僕の話をいい加減に聞いて――」
ノルバート様はささっと私を抱え込み、まるで誰もいないかのように、オトマールの鼻先でぴしゃりと玄関扉を閉めた。
沈黙が落ちていた。グツグツとお鍋の音を聞いて、我に返る。
「あっ、今日は鶏煮込みご飯なんです。焦げていないか確認してきますね」
「なるほど」
なにがなるほどなのか、考えてみればおかしいのだが、そのときの私は気が動転していたので、とにかく用事をする理由がほしかった。ちなみに外からはオトマールの声も音も聞こえなかった。オトマールのことなので、ノルバート様に恐れ慄き、すごすごと馬車に戻ったのだろう。ありがとう、ノルバート様。
が、だからこそ、何も説明しないわけにはいかない。食事を準備した後、いつもどおり向かい合って座った後で、きちんと手を膝にそろえた。
「ノルバート様、さきほどは大変失礼いたしました。お疲れでお帰りのところ、妙な騒ぎに巻き込んでしまい」
「いや、騒ぎを起こしていたのはあの男――ドナート伯爵の令息のほうだろう。……元婚約者だと話していたが」
「その件ですね……」
怪訝そうな顔を向けられるだけで、当時を思い出して頭痛に襲われた。子が産まれて云々と聞いたし、あれからずいぶん時が経ったというのに、どうやら私は根に持つタイプらしい。
そんなこんなで事の顛末を伝えると、ノルバート様は不思議そうに顎を指で挟んだ。
「……なぜその流れでドナート伯爵令息が君に会いに来るんだ?」
「さあ……」
「しかも夫人との婚姻を取り消してほしいとは。夫人が不貞でも働いていたのか? 子がドナート伯爵令息の血を引いていなかったなど……」
「いえ、私は全く存じ上げませんし、彼の認識でもそういった事由はなさそうです」
「そうだとしてなぜ頼るのが君なのか……?」
「本当に、私もそう申し上げたいです」
オトマールの摩訶不思議な思考回路は、ノルバート様には到底理解できないらしい。首を傾げたまま、しかし珍獣に理屈をといても無駄だと言わんばかりに「そういうことを言う者もいるのか」と無理矢理自分を納得させていた。
「ノルバート様のお陰で追い返すことができましたが、本当に、ご迷惑をおかけいたしました」
「大したことではない、むしろ君の役に立ったというのなら多少安心する側面もある。いつも世話になってばかりだったからな」
「世話って、居候が食事を作っているだけですよ」
「もとを辿れば、以下略だ。しかし、厄介な令息につきまとわれたものだな」
冷める前にいただこう、とノルバート様はお椀を手前に引き寄せる。
「今日のこの……この白い粒はなんだ」
「東洋の穀物です。稲穂がジャスミンの花に似ているので、ジャスミンライスと呼ばれるそうですよ。それと鶏肉をお鍋で煮込みました」
ノルバート様に引き続き、私も口に運ぶ。我ながら、鶏出汁がきいていておいしい。
「東洋の穀物なので珍しいですが、わりと気に入っているのです。少し手間はかかるのですが、チーズとの相性も悪くありませんし」
せっかく手に入ったのだ、次はリゾットもいいかもしれない。うんうん、と満足気に頷きながらスプーンを動かす私の前で、ノルバート様の手は珍しく進みが悪い。
「……すみません、お口に合いませんでしたか?」
「いやそんなことは。まったく。むしろいつもどおり美味しい」
なにかを誤魔化していますと言わんばかりの早口だった。
「……いやすまない」
「なにがでしょう」
「……どう見ても貴族令嬢でありながら、ろくに供もつけずに一人で北国に来たというのは、なにか深い訳があるとは分かっていたのだが。このように無粋な形で踏み込んでしまい、申し訳ない」
スプーンを置いて膝に手をつき、深々と頭を下げられて仰天した。いやいや、無粋な形でオトマールが「事情」という秘密の部屋の扉を開け放って行っただけですから!
「そんなことないんですよ! 本来なら説明しておくべきだったかもしれませんし……まさかドナート伯爵令息が私を訪ねてくるとは思いませんでしたというのは言い訳ですが」
「いや、無理矢理訊ねてしまって申し訳なかった」
「ほら、あれは脅迫されていないかとご心配していただいたわけですし」
「……そう……だな、その危険性は、もちろん……そうだな……」
珍しく歯切れが悪かった。しばらくだんまりを決め込んでいたノルバート様は、再び誤魔化すように素早くスプーンを手に取った。
「せっかくの食事の時間にすまなかった。改めていただこう」
「あ、はい、もちろんです、どうぞ」
そこへさらなる珍客がやってきたのは、その一週間後のことである。
ドンドンドン、と激しいノック音が響き、さすがの私も「ぎゃっ」と悲鳴を上げながら家具の陰に隠れてしまった。今度こそノルバート様のいう刺客か!
「いるんでしょう、エレーナ!」
が、その声に困惑した。……間違いなく、ヒルデの声だ。
おそるおそる窓から様子をうかがうと、例によって少し離れたところに馬車があるし、お供の従者達も見えるが、武装集団は見当たらなかった。そうしている間にも「居留守なんでしょう、分かってるのよ!」と金切声が響く。近所迷惑だ。
仕方なく扉を開けて、驚いた。ヒルデは怒っているのではなく、すっかり憔悴していたからだ。
「……ヒルデ、一体どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない……助けてよ、エレーナ……」
セリフのとおりぐったりと、ヒルデはすがりつくように私の両腕を掴んだ。小麦色の髪は相変わらずきれいだが、かつてより艶を失っているし、手入れもあまりされていないように見える。そのドレスも裾が少しほつれ、新調する余裕がなかったかのようだった。
まさか、オトマールが無理矢理ヒルデを放り出したのか? いやそんなことができる男ではないが――と困惑していると、ヒルデは「もう、本当に無理……」と魂を吐き出すような溜息を吐いた。
「私……私、幸せな結婚をしたはずだったのに、全然話が違う……」
……何? 怪訝な顔をした私を前に、ヒルデはたらたらと語った。
私にオトマールを紹介されたとき、伯爵令息という肩書とその容姿とに一目惚れしたヒルデは、私の友人という立場を利用してオトマールを度々お茶会に誘った(なぜそれを私本人に言えるのかは分からない)。そんなことをしていたせいか、二人きりで会うようになるまで時間はかからなかったそうだ。
当初、オトマールに懐妊を報告したとき、オトマールは非常に喜んでくれた。私と婚約はしているが、懐妊したとなれば私も理解してくれるだろうと婚約破棄を即断したらしい(いや理解しないが)。ドナート伯爵と夫人にも喜び勇んですぐに報告し、伯爵らは「体を大事に産むように」と納得した――と、ヒルデは聞いていた。
だがしかし、実は伯爵らは烈火のごとく怒り、演技でなく本気でオトマールを勘当するところだった。ヒルデが挨拶に行く頃には、子に罪はないと冷静になり、なんとか「体を大事に」と絞り出したそう。
そういうわけだったので、ヒルデとドナート家との関係はもとよりよろしくなかった。ドナート伯爵とその夫人といえば気取らず優しい夫婦と評判だったのだが、ヒルデに対してだけはどうにも冷たい視線を向けがちになった。経緯が経緯なだけに、屋敷の使用人もどこかよそよそしい。なんなら、ある夜、夫人と義姉が「エレーナが来てくれると楽しみにしてたのに」とぼやいているのも聞いてしまった。ドナート家との関係が悪いとオトマールに相談しても、オトマールは「母上たちの言うことを聞かないからだ」と聞く耳を持たない。
「私、オトマールとの結婚が決まったとき、友人達に伯爵令息との結婚が決まったって自慢して回るくらい幸せだったのに。お義母様は冷たいし、使用人達からも腫れ物扱いで、お義姉様は口を利いてくれないし」
はらはらと、ヒルデは涙まで流し始めた。
「それに、子の世話ばっかりでちっとも自由な時間もない。私、あんな家で子の世話ばかりして一生を終えなきゃいけないの……?」
そんな現状を聞いた私は、言葉が出なかった。
いや……そうに決まってるでしょ……?
なにを嘆かれているのか、さっぱり理解できなかった。話を整理すると、ヒルデは伯爵令息である“友人の婚約者”オトマールに一目惚れして一生懸命誘いをかけ、オトマールが誘いにのってくれた上に懐妊もして幸せの絶頂だと思っていたら、ドナート一家はオトマールに怒り心頭で、屋敷の暮らしは針の筵、肝心のオトマールはマザコン、子どもの世話も思っていたより大変だから「話が違う」と泣いているということだが……。
「……そりゃあ……ドナート一家は貴女の扱いに困るのは当たり前でしょ。いびられないだけマシじゃない?」
私とドナート一家は十年来の顔見知りどころか準家族で、ドナート一家が私を可愛がってくれていたのは自惚れではなかったと思う。それが息子の不貞で突然別の令嬢に変わったとなれば、困惑するのも無理はない。むしろ、面と向かってオトマールの行動しか咎めずにいるだけ理性的と言えよう。
「いびられてるようなものよ! 大体ねえ、エレーナがカッツェ地方なんかに行ったせいで、帝都では私がオトマールの元婚約者をいじめて辺境に追いやったみたいに言われてるのよ? どうしてくれるの?」
どうして……どうして? 逆ギレをかまされてもどうしようもない。どうやら私の殺人未遂疑惑は消えたことが分かった。
「……オトマールに頼んで火消ししてもらえば?」
「オトマールってば、私がお義母様と仲良くしないからだばっかり! 全然話を聞いてくれないの!」
つい最近も聞いたような話で、遠い目をしてしまった。そしてなぜ揃いも揃って私のもとへ相談に来るのだろう。しかも、こんな遠く離れた北国まで足を運んで。
「……話は分かったわ。でもそれ私には関係のないことだから、帰ってもらっていい?」
「何いってるの、エレーナのせいでしょ? エレーナがオトマールに不貞なんてさせたせいで、その後だってこんなところに逃げたせいで、私が悪者になってるのよ?」
「いや、多分貴女は悪者で間違いないわよ」
昔会ったときのヒルデはこんな子ではなかったはずなのだが、恋愛や結婚は人を変えてしまうものなのかもしれない。
「ほら、早く帰りなさいよ、息子だって生まれたのに、こんなところに来てる場合じゃないでしょう」
「いいのよ、子だってお義母様に懐いてるんだから」
「懐いているって言ったって母親が一番なんじゃないの? ドナート家で仲良くやれてないのは分かったけど、それを私に言われたってどうしようもないわ」
「お義母様ともお義姉様とも仲良いんでしょ? 責任を持ってエレーナが取り持ってよ!」
「どんな立場とどんな顔で! 私が出て行ったら余計に話がこじれるに決まってるでしょ!」
あのオトマールにしてこのヒルデあり……! 先週と同じ頭痛に襲われながら額を押さえた。
「……いいから、もう帰りなさいよ。今から発てば暗くなる前に隣町に着けるでしょ。そうすれば帰りも早くなるだろうし」
「いやよ、あんな家なんか帰りたくないわ! しばらく居させてよ!」
「息子を置いてきてんでしょうが! 大体、ここは私が自由にできる家じゃないんだから、はいどうぞなんてわけにはいかないの」
「じゃ誰の家だっていうの!」
ゲヘンクテ辺境伯に仕える騎士――とは言えない。それこそ帝都でノルバート様の噂が広まると迷惑がかかる。
「誰でもいいでしょ、いいから帰りなさい。すみませーん、従者の方、話がつきましたのでヒルデを隣町の宿へお連れくださーい」
「話なんてついてないわ! ……ちょっとエレーナ!」
家に入って扉を閉めると、ヒルデがやってきたときのようにダンダン扉を叩く音が響く。勘弁してほしい。
しかし、それが突然止まったかと思うと悲鳴が聞こえた。窓の外を見ると、やはりノルバート様のご帰宅だった。
慌てて扉を開けると、剣先を突き付けられたヒルデが「怪しいものではないのです、エレーナの友人です!」と必死に首を横に振っていた。ノルバート様の怪訝そうな目は、前回と同じく私にも向く。
「……レディ・エレーナ、このように述べるが、事実か?」
果たして友人と言っていいものか。
「……ドナート伯爵令息オトマールのご夫人です」
「…………」
ノルバート様の目が珍獣を見るものに変わった。
「……レディ・エレーナ、関わることはない。家に戻ろう」
「はい」
「ちょっと待ってエレーナ、これどういうこと!?」
私の腕に手を伸ばしたヒルデは、間に剣を挟まれ、うっと一歩引いた。しかし鞘に収まっているので、ノルバート様は女性には優しいらしい。
「オトマールと婚約破棄して一年も経たないうちに他の男性と一緒に暮らしているなんて、見損なったわ!」
いやヒルデにだけは見損なったとか言われたくないわ。
「これには色々と事情があるの。ヒルデには関係のないことよ」
「だったらドナート伯爵らをどうにかしてよ! そうじゃなきゃエレーナは北国で別の令息と暮らしてるんだって帝都で広めるから!」
なんだと……。何を言われても無視して家に入るつもりが、愕然とするあまり足を止めてしまった。
「貴女ねえ……私のことを言うのは勝手にすればいいけど、そこに他人を巻き込むのは間違ってるでしょ。それこそこの方には全く関係のないことよ!」
「エレーナと住んでるなら関係ないことないでしょ!」
「大前提として私は関係ないけど槍玉にあげたいなら好きになさいって諦めてるの! 夫婦そろっていい加減にしなさいよ!」
「まったくもってそのとおりだな、くだらない」
ぐいとノルバート様に肩を抱かれた。驚いてその顔を見ると、溶け始めた氷が再度凍り付いてしまいそうなほど冷え冷えとした目がヒルデを見下ろしていた。
「私はゲヘンクテ辺境伯からレディ・エレーナの身の安全を任されている者だ。レディ・エレーナに危害が及ぶとなればその根を絶たねばならん。もちろん、くだらん噂話も含めてだ」
鞘から抜かれた剣がカチッと音を立てる。単なる脅しとは分かっていても、というか私相手でなくても、震えずにはいられなかった。
「いまの発言、撤回しないのであれば二度と口を利けぬようにさせていただこう」
その時点で、既にヒルデは口を利けぬ状態になっていた。
気絶しそうなほど顔を青くしたヒルデは、従者達に助けられなんとか馬車に乗り込み、捨て台詞もなにもなく帰って行った。
「……本当にすみません、ノルバート様……私の不始末が原因でこんなことに……」
「珍獣の珍行動を予測することは不可能だ。予測不可能なことに責任を求めるものではない」
そうか、それはそうかもしれない。慰められていると分かりつつも励まされてしまった。
ノルバート様は眉間に深い皺をよせ「しかし……元婚約者とその夫人がこんなところまで」と呟いた。
「私が言うのもおかしな話だが、どの面下げてだな……」
「本当にそのとおりです。とはいえ、こんな形で世の結婚の現実を聞かされるとは思いませんでした」
婚姻すると態度を変える夫、ギスギスと関係の悪い義両親、思っていた以上に大変な子の世話……。どれもこれも予想の範囲内というか、なんならありそうな話だし、特段自分だけが不幸だと喚くようなことではないと思うのだけれど……。
「それでも、婚約も婚姻も勘弁だとは思ってしまいますね……」
思わず零してしまったが、ノルバート様は無言だった。……考えてみればノルバート様は未婚、おそらくこれほどの方が婚約破棄だのなんだのなんて事件に巻き込まれているはずもない。
「いやあれはもちろん一例であって! すべての婚姻が不幸なものではないと思います! 割れ鍋に綴じ蓋――なんて言い方はよくありませんね、少なくともノルバート様はしかるべきご令嬢と素敵なご結婚をなさるのではないでしょうか!」
「……他人事か」
「え? なんですか?」
「いや、仕方のないことだという話だ。まだたったの数ヶ月であるしな」
「婚約破棄は一年近く前ですよ?」
「そうらしいな」
話が噛みあっていないような気がしたが、不機嫌そうには見えない。よしということにして、今日の夕飯の準備をしよう。
「ところで、ノルバート様が割を食ったのは事実ですし。明日の食事は腕によりをかけますね、何か食べたいもののリクエストがあればお受けしますよ」
「君が責任を感じる必要はまったくないのだが……」
ノルバート様はソファに腰かけながら、ふむ、と少し考え込んだ。
「可能であれば……名称は分からないのだが、スープがいいな。幼い頃によく食べていて、最近食卓を囲んでいると懐かしく感じるようになったのだ」
「スープですか? どんなスープです?」
「深紅色で、肉や赤カブの入ったものなのだが、このあたりではさっぱり見かけなくてな」
「私も聞いたことありませんね……」
記憶を探りながら、はて、と首を傾げる。特に赤カブなんてあまり市場でも見かけないし……。
「いや、いいんだ。ふと思い出してしまっただけだから、気にしないでくれて構わない。君の食事はどれも美味であるし」
「すみません。でも覚えておきますね、深紅色のスープ……」
ビーフシチューは赤というよりは茶色であるし、一体何のことだろう。春がきて、雪が完全に溶けたら、もう少し市内の中心部に足を延ばしてみよう。そうすればなにか分かるかもしれない。
それがグライフ王国の郷土料理であること、つまりノルバート様の出身が隣国であること、そしてノルバート様は内乱で亡命を余儀なくされ、秘密裡にゲヘンクテ辺境伯に匿われていた王子であることを知るのは、まだまだ先の話である。
面白ければブックマーク、評価(ページ最下部☆☆☆☆☆)をいただけると連載のはげみになります。
よろしければお願いします。
:
お陰さまで4/27(土)日間1位をいただきました。ありがとうございました。
4/28(日)連載版を開始しました。