ネコ絶ちする女
午後の電話では、今日の予約は取れなかった。その代わり、明日、明後日、明明後日と、予約が埋まった。こんなにトントン拍子にうまくいくなんて、きっと悪いことの前触れだ。順は暗い気持ちで定時に事務所を出た。
「おい」
呼ばれて振り返ると、午後中ずっと休憩室にいたらしいヨミがやって来た。
「忘れ物だ」
スマートフォンを強く胸に押し付けられた。受け取ると、ヨミはそっぽを向いた。
「ネコは今日までだ。明日はネコはいかん。ネコはダメなんだ」
どうやら自分に言い聞かせているようだ。本当にネコ絶ちしようとしているのか、本当は欲しいということを逆に言ってみせる、いわゆるフリというやつなのか区別がつかない。ヨミの関心を自分からそらすために、やはりネコ動画は用意しておくことにしよう。
カップラーメンを啜りながらネコ動画を片端から保存していく。世のネコ飼いたちは、自分のネコの愛らしさを世界中の人に見せたくなるものらしい。動画は途切れることなくいくらでもある。
ラーメンを食べ終わり片付けに立つと、腰に軽い痛みが走った。
「いてて」
たった二日間、真面目に仕事をしただけで腰に違和感が出るなど、年齢以上に体が鈍っている。湿布でも貼ろうかと思い、自宅には医薬品を一切置いていないことを思い出した。今こそ置き薬が必要だというのに。
置き薬を契約してくれる顧客たちは、こういう思いをしたことがあるのだろうか。考えたこともなかった。自分が関わっているすべてのものに価値などないと思っていたからだ。
置き薬だって、無理やり押し付けて契約を取っているのだろうと思っていた。あの工場の薬箱だってなんの役にも立たない、必要ないと思っていた。だが、そうではないのかもしれない。もしかして必要とされるから存在し続けるのだろうか。
仕事とはなにもかも、誰かを騙して金をかすめ取る行為だと思っていた。だがそれは、自分の頭の中の暗さが世界の全てだと思ったからこその妄想じゃないか? 自分が知らない世界には、善良な仕事があるんじゃないか? それを信じないから、ヨミが首を切ろうとしているのでは?
一度生まれた疑問に答えが欲しい。善良な人間に教えて欲しい。だが、そんな知り合いは一人もいない。
ふと、同級生のことを思い浮かべた。コメント欄に飛び交う、否定と応援のコメント。善良なコメントだけが投稿されるのなら、彼のヒューマンビートボックスも善良だろう。だが拒絶されるなら?
技術が醜悪だというわけじゃない。腕は確かだと思う。それなのに謂われもなくけなされて、それでもヒューマンビートボックスを辞めない気概があるのだ。
異世界転生して努力せず凄い能力が欲しいと思う、そんな自分とは違う。一から積み上げて身に付けた技術なのだろう。
自分の中身は空っぽなのだと、はっきり自覚してしまった。今までも何度か考えかけたことはあったが、見て見ぬふりをし続けてきた。自分が空っぽだから、スマートフォンの中身も空っぽだったのか。
なぜか自分にもなにか出来るような気がしていた。ヨミにクビを言い渡されないように挽回できるようなことに縋りたかった。
ネコ動画をすべて消した。ヨミを怒らせてクビになろう。
動画アプリ自体を消そうとして、手が止まった。いつか、もう一度だけ。いつか、コメント欄の様子を見るだけ。それまで動画アプリは入れたままにしておこう。