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新人と間違われる男

 考査二日目。出社すると、ヨミが順の席に座っていた。目が合うと椅子を鳴らして立ち上がる。大きな音のせいで事務所中の視線を浴びたのは、なぜかヨミではなく順だ。いたたまれず、うつむいて自分の席にそっと近づく。

「ネコは!?」

 ヨミの目がギラついている。目からビームでも出しそうで怖い。順はあわててスマートフォンを取り出した。ヨミは奪い取ると、勝手にいじりだす。どれだけいじられても、ろくな情報は入っていないのだから、不都合があるわけではない。だが、なぜか尻の座りが悪く、そわそわした。

 朝礼中も、営業の電話をかけている間も、ヨミは順の隣に立ったまま、食い入るようにスマートフォンを見つめ続けた。ネコ動画に夢中になっているのだ。

笑顔を浮かべることなどないが、ヨミの瞳は真剣だ。初めてネコに興味を覚えた子どものように純粋にも見えて、意外過ぎた。腕組みして順を見据えているときとのギャップがものすごい。

 ヨミに叱咤されなければ、やる気はいつも通り湧きはしない。だが、なんとか午前中に二件の予約が取れた。

「行くぞ」

 ヨミがスマートフォンを見つめたまま歩き出す。順はあわてて薬箱を二つと、補充用の薬類が入った袋を抱えて、足早にヨミの後を追った。


 車で移動している道中、ヨミは無言でネコ動画を見続けた。怒鳴られることも、話すなと釘を刺されることもない。順は心穏やかに運転することが出来て、爽快なドライブでもしているような気持ちになった。

ルームミラーでヨミを盗み見ると、重要な文書でも読んでいるかのような真剣な様子をしているが、見ているのはネコのようだ。少しだけ頬が緩んでいる。そうしているとバクハツする恐ろしい死に神には到底見えない。毎日、ネコ動画を準備しようと決めた。



「おや、初めての顔だ。二人とも新人さんかな?」

 今日、一軒目の顧客は一人暮らしの老人だ。順の陰に隠れるように立っているヨミを見つけて、それはそれは嬉しそうに笑う。

「どうぞ、上がって上がって。お茶を淹れるから」

 振り返ってヨミを見ると、一瞬、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。すぐに真顔に戻ったが、お茶が迷惑だという気持ちはありありとわかった。その表情を老人が見ていなかったのが幸いだ。

 順が靴を脱いで廊下に上がると、ヨミもついてきた。なにやらソワソワしていて、本当の新人のようだ。ヨミがそんな調子だと、順も不安になってくる。なにかあってもヨミは助けてくれないだろう。まあ、今までも睨まれていただけだったのだが。

 居間に通され、座卓に向かって正座する。順の隣に座ったヨミの顔色が悪い。深くうつむき、両手を膝の上でぎゅっと握っている。

 老人は青の波模様が描かれている茶碗に緑茶を淹れて出してくれた。緑茶など何年ぶりに見たか。順が茶碗を覗き込んでいると、老人が席を立った。

「そうそう。美味しいせんべいがあるんだ。ちょっと待ってて」

 部屋から出ていく背中を確認して、ヨミが順に囁く。

「貴様、なにか会話をしていろ」

「え? なにかって……」

 菓子盆を抱えて戻ってきた老人にヨミがいやに大きな声で話しかけた。

「トイレを貸してください!」

「あ、ああ。いいですよ。その廊下の突き当たりだよ」

 ヨミは緑茶を一気に口に入れると、お茶で頬を膨らませたまま勢いよく立ち上がり、廊下を駆けていった。

「女性の方の新人さんはずいぶんとトイレを我慢していたんだねえ」

「……はあ」

 老人が積極的に話しかけるのに順が「はあ」とだけ返していると、ヨミが戻ってきた。お茶は口の中からなくなっている。もしかしたらトイレで吐きだしてきたのかもしれない。

「お騒がせしました」

「いやいや、全然大丈夫だよ。それより、お茶のお代わりは?」

「もう十分いただきましたので! お薬の補充を!」

 大声のヨミの勢いに押されて順が立ち上がり、茶箪笥の上に置いてある薬箱を開けた。補充は必要なかったのでそのまま箱を閉めて振り返ると、ヨミがすぐ側に立っていた。度肝を抜かれて声が出そうになったが、なんとか耐えた。

「帰るぞ」

 声を出さず口の動きだけでそう言うと、ヨミは老人に頭を下げた。順はお決まりのマニュアル通りの挨拶をして、そそくさと出ていくヨミについていった。

 社用車に乗り込むと、やっとヨミの表情が首切り役員のものに戻った。

「売り込めって言わないんですね」

 シートベルトを締めながら順が言うと、ヨミは眉を潜めた。今出てきた顧客宅を恐々と見返す。

「私が貴様の仕事に介入したらダメだろう」

 小声で弱々しい声でも、ヨミの見た目と態度はふてぶてしい。順はどう接していいかわからず、気のない返事をしておいた。

「はあ……」

 力が入らない様子のヨミの言葉になにやら違和感がある。今まで散々、仕事に口を挟まれた気がするのに、仕事に介入したことがないような言いざまだ。

ヨミは順のスマートフォンをどこからか取り出して画面に集中しだした。飲みたくないお茶で受けたショックをネコで癒しているのだろう。そう言えばスマートフォン、返してもらってなかったなと思いながら、次の家に向かってアクセルを踏んだ。


 次の顧客宅に着いたことにも気づかないほどヨミはネコ動画に集中していた。声をかけるかどうか迷ったが、話しかけるなと言われていることだし、この家の老婦人なら怖くもないしと、順はヨミを置いていくことにした。

 この家は薬箱を玄関の作り付けの下駄箱の上に置いてある。家に上がらなくて済むのは気が楽だ。ただ一つ、老婦人が延々としゃべり続けるのだけは辟易する。

「隣の奥さんがそう言ったわけよ」

「はあ」

「だけど、町内会の会合ではみんな違うことをバラバラに話すし、わけがわからないの」

「はあ」

 ご近所の確執について聞いても、順になにか有効な助言ができるわけもない。返事を求められないのをいいことに、「はあ」とだけ相槌を打つ。老婦人はそれで満足なようだが、順は薬の補充を終えて早く立ち去りたかった。昼が近い、腹が減っている。なんとかおしゃべりを止める手立てはないだろうか。もしかしてヨミが助けてくれないかとちらりと背後に目をやったが、ネコに夢中なのだろう、付いてきてくれてはいなかった。たとえ叱られても話しかけるべきだった。


 視線を戻そうとしたとき、壁に掛けられた写真と賞状に気づいた。高校野球のユニフォームを着た投手の写真と、県大会優勝の賞状だ。

「ああ、その写真ね。息子なの」

 老婦人は満面の笑みで写真を見上げる。

「小さな頃から運動神経が良くてね。小学生になってから野球を初めたら、あっという間に上達して」

 息子自慢がまだまだ続くだろうと思っていたが、会話はそこで終わった。無言がいたたまれず、順は薬箱の点検を初めることにした。

「お薬、見せてもらいますね」

「はいはい。よろしくお願いします」

 基本の品揃えのなかで、風邪薬を使ってあるだけで、あとは封を切られていない。ふと、薬箱の隅に埋もれるようにテーピングテープが入っていることに気づいた。未使用で、これ以外に外用薬もないのに、なにに使うのだろう。入れ間違いだろうか。

「あの、このテープは……」

 必要ですかと聞こうとしたが、言葉を止めた。老婦人は寂しそうに笑っていた。

「息子が野球を辞めたから、もう必要ないんですけどね。それから二十六年も経ったのに、なんとなく手許にないと落ち着かなくて」

 遠い目で息子の写真を見上げてから、順に視線を戻した。

「息子のケガのためにテーピングの勉強もしたの。こう見えても、腕は確かなのよ」

 笑顔はどこか無理をしているように見える。順は居心地が悪くなって、なんとかしようと口を開いた。

「すごいですね」

「あなたは野球は好き?」

「いえ……」

「そう」

 会話はそこで終わり、順は軽く頭を下げて玄関を出た。


 社用車に戻ると、ヨミはまだネコ動画に見入っていた。荷物を積み、ドアを閉めた音で我に返ったらしい。キョロキョロと窓の外を見回している。

「もしや貴様、一人で客先に行ったのか?」

「はい」

「なんたることだ!」

 あまりの大声に、順はビクッと身を揺らした。

「考査対象を見ていなかっただと……? この私が!」

「あの、ちゃんとやってきましたんで」

 順をギロリと睨み、ヨミはスマートフォンを順に突き返した。

「なにを売ってきた」

「いえ、なにも……」

 ヨミは目を細めて順を見下ろした。

「やはり新規開拓するほかないな」

 ギクリと動きが止まった。考えただけで背筋に寒気が走る。きっと自分は失敗する。それも人に大迷惑をかける。いつもそうだった。野球部でも、バイト先でも、今の会社でも、いつも迷惑なだけの人間だ。

「ネコはだめだ。貴様の考査に集中するために封印する」

 ヨミが苦渋の決断を下した。その悔しそうな顔は首切り役員でさえ失敗するのだと教えてくれた。少し、ほっと出来た。これもネコのおかげだ。帰ったらまた動画を集めよう。


「昼食はどうするんですか?」

 運転しながら聞いてみると、ヨミは力なく答えた。

「私のことは放っておけ。貴様は自分のことだけ考えろ」

 深い溜息までつく。よっぽどネコ動画のことで気落ちしているのだろう。ネコ動画のせいで仕事をサボってしまったことについてか、ネコ動画を見られなくなったことについてか、どちらのせいで落ち込んでいるのかはわからないが。

 とりあえず、午後の予約を取るために事務所に戻らなければならない。コンビニの駐車場に車を停めると、ヨミも車を降りた。鍵をかけようとしていると、ヨミが急に駆け出した。猛烈なスピードで車道に向かう。

小さな女の子が鳩を追って車道に出ようとした瞬間、ヨミが抱きとめた。一瞬の後、トラックが猛スピードで走り抜けていった。ヨミが女の子を捕まえなければトラックに轢かれていただろうタイミングだった。

女の子はキョトンとして、駆け寄った母親に抱きしめられた。何度も何度も母親はヨミに頭を下げている。

 自分とはまったく違うな。順はぼんやり思う。トラックに轢かれそうになることなんか、ヨミにはあり得ない。異世界転生などしなくても、ヨミは強いのだ。世の中にはそんな人間がたくさんいて、消えてしまいたい自分など、本当に消えても誰にも気づかれない。

「源さんは特別だ」

いつの間に戻ってきていたのか、ヨミがすぐ近くにいた。

「当たり前だろう。私ほど仕事が出来るヤツはいない」

 当たり前のことと言い切れるほど自分の仕事に自信があるなんて、いったいどれほどの成果を上げればいいんだろう。順には計り知れないことだ。

「おい、昼飯を買うんだろう。さっさと行け」

 ヨミは何ごともなかったかのように後部座席に座り、脚を組んで暇そうにしていた。


 順はコンビニで安くなっている菓子パンを二つ買った。車に戻りかけて、ふと足が止まった。

 ヨミはなぜ車を降りた? 用事もないのに。ヨミはなぜ駆け出した? 女の子は歩道にいたのに。ヨミは知っていたのか? 女の子がトラックに轢かれそうになることを。

 そんなまさか。順は首を振って疑問を払いのけようとした。だが、一度抱いた考えはグルグルと頭の中を巡って離れない。

「おい」

 シートベルトを締めているとヨミに話しかけられた。頭の中を覗かれたような気がして血の気が引く。

「昼食の間、邪魔だろう。スマホを持っていてやろうか?」

 一気に緊張が解けた。ヨミはただのネコ好きな首切り役員だ。走っていったのも、きっとネコを見つけたからで、女の子を助けることが出来たのは偶然のタイミングだったんだ。

「スマホ、落としたのか?」

 心配そうにするヨミに、スマートフォンを渡して、車を発進させた。ヨミは喜々としてネコ動画に見入る。ネコ動画を断つと言ったことは完全に忘れたらしい。好きなものの前では人は誰でも弱いものなのか。順はルームミラーでヨミのキラキラした瞳を見た。自分には一生浮かべることがないであろう表情だ。

自分には、なにもない。

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