その女
なんとか逃げ切れた。境内まで上りきった順は膝に手を突いて酸素を求めて喘ぐ。
「大丈夫ですか?」
目だけを上げて見ると、紫色の袴を着た神主が心配そうに順を見ていた。
「この階段は段数は少ないですが、勾配が急ですので、無理して走るのは危ないですよ」
六十年配の優しそうな男性だ。助けを求めようとしたが、口を開く余裕はない。順の息が整うまで、神主は側にいてくれた。
「あの……」
助けてくださいと言おうとしてハタと思いとどまった。助けを求めると言っても、ヨミのことをどうやって説明すればいいのだろう。元死に神の、現バケモノですとでも言うのか。そんなことをすれば優しく話を聞いてくれた後、近くの病院を紹介されるだけだ。
「なんでしょう」
にこやかな声に、なにか言葉を返さないと、まったくの不審者だと焦る。優しい態度は消え失せ、警察を呼ばれるかもしれない。
「置き薬はいかがですか!」
突然の順のセリフに、神主はきょとんとしている。
「置き薬?」
「はい。オベリオ薬品と申します。各種取り揃えた薬品入りの薬箱を無料で置かせていただきたいのです。代金はお使いになった分だけちょうだいしますので、お得です。補充は私どもがうかがいますし、箱の中身もご要望にあわせて……」
早口でまくしたてる順に、神主は優しい笑顔を向けた。
「お話は社務所でうかがいますよ。外では寒いですから」
親切な言葉に頭を下げようとして、ふと札所が目に入った。キリっと引き締まった表情を神主に向ける。
「その前に、お守りをください」
「ようやく戻って来たな」
石段を下りた順をヨミがきつく睨む。
「早くそこから出てこい!」
鳥居の内側で立ち止まっている順にヨミは今にも噛みつきそうな勢いだ。
「もう俺の体に腕は生やさないんですか」
「うるさい!」
「神社の中には入れないし、鳥居の内側によくわからない力を送ることも出来ないんですね」
ギリギリと歯ぎしりの音が聞こえそうなほど、ヨミは強く歯を食いしばっている。
「安全なところから言いたい放題か。貴様など卑怯な生きざまがお似合いだ。怠ける、サボる、ウソをつく、人を見下す。そんな人間を誰も気にかけたりなどしない。貴様などこの世に必要ないのだ。私が生きる方が有意義なのだ!」
ヨミはスマートフォンを順に投げつけた。順の胸に当たったスマートフォンは地面に落ちて画面が割れた。
「もうスマホで私をたぶらかすことは出来ないぞ」
順は肩に提げた袋に手を入れた。
「なんだ? 売り損ねた薬で私になにか仕掛けるつもりか?」
契約を結べて、薬箱を社務所に置いてきたので袋は軽くなっている。そこから取り出したのは、大量のお守りを結びつけて縄状にしたものだ。その縄を片手に持って、順は鳥居をくぐって飛び出した。拳を繰り出そうとしたヨミの片腕を握り引き寄せると、首に縄を巻き付けた。両手で縄の先を思い切り引っ張る。お守りの縄はギリギリとヨミの首に食い込んでいく。それでも順は手を緩めない。
「ごめんなさい、ヨミさん。死んでください」
首を絞められながら、ヨミがニヤリと笑った。
「なんだ、出来るではないか、私に勝つことが」
順の目から涙がボロボロと流れ出した。ヨミが順を嘲笑う。
「私に死などありはしない。私はこの世に存在などしない。ただの幻だ。お前の妄想だよ」
「え?」
順の手が止まった。ヨミの姿は突然消えた。まるで初めからそこにいなかったかのように。両手を見下ろすと、順の手にお守りはなかった。ただ、縄を引いていたために出来た擦り傷だけが残っていた。