逃げる男
人間ではないものに狙われているといのに、順はいつも通り出社した。一人でいるより人目があった方が安全だろうと思ったというのも理由の一つだが、欠勤の連絡をするために電話をかけることが出来なかったというのも大きな理由だ。
昨夜、放ったまま帰ったために終わっていない事務作業を終わらせて、今日の予約を取ろうと受話器に手を伸ばしかけた。その手がピタリと止まる。
昨日訪ねた三軒は、確かに死に神とともに訪問したし、同じような会話、同じような欠品だった。抗ヒスタミン薬がよく売れる家、メヘビタBを売り込んだ家、野球の話をした家。しかし、尋ねた日が違う。
抗ヒスタミン薬とメヘビタBは、死に神が現れた当日に訪問した。三軒目の野球を辞めた息子がいる老婦人の家は、死に神とともに営業した二日目に出向いたはずだ。
「ここは、夢のとおりの世界じゃないのか?」
考えても答えは出ない。順はヨミに邪魔される前に仕事をしておこうと受話器を取った。
「おや、今日はもう一人の新人さんは一緒じゃないのかい?」
玄関に入るとすぐ、老人が言った。順の背後に人がいないか確認しているのか、背伸びしている。
「もう一人って?」
「ほら、この間の髪の長い、かわいらしい女の子」
順は驚いて身を乗り出した。
「彼女を覚えているんですか!」
勢いよく詰め寄られて老人も驚き、目を丸くした。
「覚えてるかって、そりゃあ……」
老人は二、三度まばたきをした。視線を宙に向けてぼんやりした表情になる。
「覚えてるって、今、なんの話をしてたっけ」
「新人の女性の話です! 一緒に訪ねて来たでしょう!」
首をひねる老人は、やはりぼんやりしている。夢でも見ているかのような表情だ。
「そうだ、美味しいせんべいがあるんだよ。お茶を淹れるから休憩していったらいいよ」
「あの、覚えていないんですか?」
「なにを?」
きょとんとしている老人は本当にヨミのことを忘れてしまったらしい。つい先ほどまでヨミの存在を知っていたのに。
お茶とせんべいを出してもらっても、何度もヨミを知っているか尋ねたが、老人はその都度、ぼんやりして「なにを覚えてるって言ったかな?」と繰り返し、二度と女性の新人のことを思い出してはくれなかった。
「私を覚えている人間がいたからなんだというのだ」
老人宅の門を出ると、そこにヨミが立っていた。
「うわあ!」
順は腰を抜かしかけたが、なんとか踏ん張った。今、動けなくなったら確実に腹から腕が生えてくる。
「貴様は孤独だ。私に立ち向かうのも一人きりでだ。味方などいない、残念だったな」
ヨミに嘲笑われるのにも慣れた。順はヨミを、睨むような強い視線で見据える。
「昨日の黒猫はどうしたんですか?」
「うぐ」
モチを喉に詰まらせたかと思うような声を出したヨミに、順は精神攻撃を食らわせ続ける。
「逃げられたんでしょう? ネコに嫌われるタイプですよね。そもそも一度もネコに触ったことがないんじゃないですか?」
ヨミは真っ赤な顔で両手をギュッと握り締めた。
「よくもそんなことが言えたな。貴様など趣味すらないではないか!」
スマートフォンをヨミの眼前に突き出す。画面にはネコ動画が映し出されている。
「ネコちゃん……」
ふらふらとよろめきながら、ヨミがスマートフォンに近づき、手を伸ばす。
「どうぞ」
順がスマートフォンを差し出すと、ヨミは素直に受け取った。
「あげます」
「本当か!」
ヨミはきらめく瞳でスマートフォンに見入る。やはりその目は赤く光っていたが、もう順を焦点に入れていない。順はそっと後退して、ヨミから離れる。そっとそっと後ろ歩きで角を曲がると、振り返って全力で駆けだした。肩にかついでいる荷物が重い。今日は念のために交換用の薬箱まで入れている。それでもなんとか走り続け住宅街の四つ辻を三本過ぎたとき、後ろからヨミの叫び声が聞こえてきた。
「待て、貴様!」
振り返ってみると鬼のような形相のヨミがスマートフォンをしっかり握ったまま走ってくる。足がかなり速いようだ。このままではすぐに追いつかれる。順は苦し紛れに次の角を曲がった。
正面に鳥居が見えた。もしかしたら死に神は神社に入れないかもしれない。もうヨミは死に神ではないということを忘れて鳥居を抜け、境内への石段を駆け上る。
「貴様あ、覚えていろ!」
ヨミの声は近づいてきていないようだと振り返って確認すると、鳥居の外で地団太を踏んでいた。