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現れない女

 ヨミがネコに逃げられて戻ってこないうちにと、荷物をかついで事務所まで駆け戻る。明るい室内に入ると、ほっと息をついた。昼間、ヨミは堂々と事務所に入ってきていたが、なぜだか今は明るいところにいれば出会わなくて済むような気がする。自分の勘を信じることにして、明るいところを選んで帰れば、ヨミに会わなくて済むだろうと思い込んでみた。

 抱えてきた荷物を片付けて、今日の事務処理もせず、定時を過ぎていたのをいいことに、ナイロンバッグとコートを掴んで事務所を飛び出した。


 明るくて人目がある道を選ぶと、駅前に辿りついた。自宅まではどうしても街灯の少ない住宅街を通らなければならない。順は乗る必要もない短い区間のバスに乗り、降りてから自宅まで走った。

 ヨミに出会わずなんとか帰ることが出来た。後ろ手に閉めた玄関のドアに背を預けてズルズルと座り込む。走り続けて息が上がり、肺が燃えているかのように痛む。息が整うまで動けず、座り続けた。


 どうしてこんなことになったんだ。なんで死に神やバケモノに着け狙われないといけないんだ。自問しても答えは出ない。ドアに鍵をかけて一安心と息を吐いたが、ヨミは鍵がかかった社用車に乗り込んでいたことを思いだした。

どうしたらいいのかとあわてて頭を捻る。とりあえず明るくしなければと電気を点けると、コンセントに差しっぱなしにしているスマートフォンの充電器が目に入った。

 ネコだ! ネコ動画を準備しよう! ヨミに対する最大の武器だ。


 靴を脱ぎ捨てて部屋に上がり、興奮で震える手でスマートフォンを充電器に繋いだ。すぐに電源を入れて、充電しながら動画投稿サイトを開く。ネコの動画チャンネルをいつでも開けるように準備して、壁紙もネコの写真にした。着信音をすべてネコの鳴き声にすると、一応の安心を得ることは出来た。

 動画投稿サイトのアプリを消さなくて本当に良かった。安堵のため息を吐きながら、アプリを消さなかった理由のヒューマンビートボックスのチャンネルを見る。同級生のチャンネルのコメント欄は、やはり荒れていた。否定的なコメントが言うように、プレイにキレがないようにも思える。まったく無知な順でもそう感じるのだから、詳しいものには、もっとはっきりとわかるほどの不調なのかもしれない。


 せっかく作ったチャンネルが自分を傷つける、そんな思いをしているのだろうか。そのストレスでパフォーマンスが落ちているのだろうか。ヒューマンビートボックスなどという派手なことをしていても、順の義弟のような陽キャではないのだ。

 まるで自分を見ているようだ。同級生の心痛をなんとか出来ないかと、コメントすることにした。しかし、なんと声をかければいいものか。順は誰かに積極的に意思表示をしたことなどない。いつも流されるばかりだった。考えても考えても答えは出ない。

『ネコ動画です』

 そうコメント欄に書き込んで、ネコチャンネルへのリンクを貼った。


 ヨミに襲われるのではないかとビクビクしながら布団に入ったが、案外すぐに眠ってしまった。目覚めて自分の腕を確かめる。そこに二本、自由に動く手があると確認してホッとした。

もしやヨミが侵入していないかと家中を探ったが、それもない。スマートフォンにネコ動画がちゃんとあるか確認していると、ダイレクトメッセージが届いていることに気付いた。

動画投稿サイト内のコミュニケーション用の機能だ。サイトで人と交流などしたことがない順にメッセージが届くわけがない。なにかの勧誘だろうと思ったが、一応メッセージを確認すると、同級生から送られてきたものだった。


『ネコ動画ありがとうございます。癒やされました。まさか中学の同級生が見てくれてるとは思わなかったです』

 ネコ動画とコメントだけで、どうして自分のことがわかったのだろう。その疑問を書き込んだメッセージを急いで返すと、今現在、動画投稿サイトを開いていたようで、すぐに返信があった。

『登録名が本名じゃないですか。個人情報を晒すのは危ないですよ』

 同級生は順の名前を覚えていてくれたらしい。順は相手の名前を忘れ去ってしまっていることがバレないようにと、名前を呼ぶ必要がないように気を付けて会話を進める。

『ヒューマンビートボックスすごいですね。もうプロ級でしょう。本業ですか?』

 丁寧語になるのは、言葉を交わすのが初めてだからだ。お互いに覚えていたということは、お互いを意識していたということだが、中学時代には自分から話しかけることなど出来なかった。

『本当はHBBは辞めたいんです。兄にやらされてるんですけど、最近は辛くなってます』

 HBBとはヒューマンビートボックスの略だろう。違ったら恥ずかしいが、まあいいかと順は文字での会話を続けた。

『好きじゃないんですか? ヒューマンビートボックス』

 あんなに上手いのに。最近の動画で否定的なコメントが増えたことが原因だろうか。

『最初は上手くなっていくのが楽しくてしょうがなかった。けど今は、兄が言うとおりに見栄えの良いことばかり繰り返してる。それは違うと思う。コメント欄が荒れ始めたのは、俺がやりたくないって思い始めた頃で。辛いんだ』

 もしかしたら画面の向こう側で泣いているのではないだろうか。なぜか、そう思った。

『大丈夫?』

 そうメッセージを送ってから、自分の気の利かなさに頭を抱えた。『大丈夫?』と言われて『大丈夫じゃない』と答えるわけがない。そんな返答が出来るなら陰キャなんてやってない。

『大丈夫です。すみません、愚痴ばかりで。加西くんは、今はなにをしてるんですか?』

 ほら、やっぱり。丁寧語に戻ってしまった。きっと本心を押し隠して、もう自分には当たり障りのない会話しかしてくれないだろう。

 ふと、同級生の本音を聞きたいと思った自分に首をかしげる。他人と交遊したいなんて、二十年ほど前、いじめられていた子どもの頃になくしてしまった思いなのに。

『俺は社畜。家と事務所の往復で、深夜アニメばっかり見てる』

 自分からくだけた言葉を送ることにかなりの抵抗を覚えたが、丁寧語を送れば同級生を傷つけるかもしれない。そう思うと、手が勝手に動いた。

『ボクもアニメ好きなんだ。とくに異世界転生モノ』

 同じ趣味を見つけると、同級生は急に饒舌になった。数多くある現在放映されている作品のレビューや、次に始まる期待作の見どころ予想などを滔々と語る。毎晩、ただぼんやりとテレビ画面を眺めているだけの順とは情報量が桁違いだ。

『良かったら、またメッセージしてもいいかな』

 ひとしきりアニメの話を楽しんで、同級生が言った。

『もちろん。返信は夜になるけど』

『夜は毎日、動画編集してるから、ちょうどいいよ。気が滅入る作業だから、助かる』

 動画の撮影だけでなく、編集作業も辛いのか。そんな環境、なんとか抜け出せないものだろうか。

『ヒューマンビートボックス以外に、やりたいことってないの?』

 聞いてみて、また頭を抱えた。自分が力になれるはずもないのに、中途半端に関わろうとするのは無責任だ。

 だが、同級生からは遠慮のない素直な言葉が返ってきた。

『アニメ実況みたいなことをやりたいんだ。オープニングで今回の見所を紹介して、エンディングで次回のカメラワークの予想をするんだ。ネタバレ無しで、アニメを見る楽しさを倍増できるように』

『楽しそうだね。実況始まったら、見に行くよ』

『ありがとう。でも、そのチャンネルは異世界転生出来たらにする。次の人生では始められると思うよ』

 なにか事情があるようだ。今生で叶えられないというほど重い話には、さすがに口を挟めない。

『そうだ、加西くんにお勧めのチャンネルがあるんだ』

 なにかと思うと、ネコ動画のチャンネルを大量に教えてくれた。

『加西くんはネコが好きなんだね』

 そういうわけではないのだが、ネコ動画を集めている事情を説明しても信じてもらえるわけもない。

『チャンネル教えてくれてありがとう』

 ネコ好き発言にイエスともノーとも答えず、応答を終えた。

 順が異世界転生出来たならと思うのは、自分もアニメの主人公のように、なにか特別な力を苦労せずに手に入れたいとぼんやり思っているからだ。同級生のように、生まれ変わったらやりたいと言えることなど、なにもない。


 だが今は、なんとしても生き延びるために確実な力を手に入れたかった。転生したら手に入るような力が。しかし、どんなに願っても、現実に奇跡は起こらない。自分でなんとかするしかない。

ネコ動画が少しでも力になってくれれば。順は教えてもらったばかりのネコチャンネルを片っ端から登録した。

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