怒れる男
「どうした、遅かったな」
車に戻ると、ヨミがスマートフォンを助手席に放り出して暇そうにしていた。
「ネコはもういいんですか?」
「電池が切れた」
見てみると、たしかにスマートフォンのバッテリーが切れたようで、電源が入らない。これでは急用の連絡も出来ない。とりあえず早く事務所に戻ろうとエンジンをかけた。
「おい、腹が空いたぞ」
そうヨミが言ったのは、信号待ちで止まったすぐ側にコンビニを見つけたかららしい。
「死に神もなにか食べたりするんですか」
「私はもう死に神じゃない。なんども言わせるな」
それ以上なにか聞いても面倒くさいことになるだけだろうと、順はコンビニの駐車場に車を入れた。
ヨミが車を降りコンビニに向かって歩いていく。扉の前で振り返り、順が付いてきていないことに気付くと、走って戻ってきた。
「おい、早く行くぞ」
「え、俺はなにも用事ないですけど」
ヨミは眉を顰めた。もうバクハツすることはないのだと知っているからか、あまり怖くない。
「貴様が来ないと金が払えないだろう」
「え! 俺が払うんですか!」
「死に神が金など持っているはずがないだろう。早く来い」
もう死に神ではないと言ったのは自分のくせにと不満を覚えた。しかし反論するほどの勇気はない。
当然のような顔をして金銭を要求するヨミは、恐喝犯なのではないかと思いつつも、今日の売り上げのいくばくかがヨミのおかげであることを考えると、車を降りるしかなかった。
いったい、どういう食欲をしているのか。蒸し器に入っていた中華まんを全種類、レジ横で温まっている揚げ物も全種類、サンドイッチを三つ、おにぎりを五つ、ポテトチップスとコーラ。ヨミはそれらを順に買わせて、ついでに荷物持ちもさせて車に戻った。
今日の売り上げ分の歩合などあっというまに飛び去った。順は車を降りたことを心の底から後悔した。
「おい、腹がいっぱいだ。あとは貴様が食べろ」
ヨミがそう言ったのは肉まんとピザまんを一つずつ食べ終えたときだった。
「はあ?」
順は思わず振り返った。
「運転中によそ見をするな」
注意されて前を向いたが、意識は後部座席に残ったままだ。大量に中華まんと揚げ物とサンドイッチとおにぎりとポテトチップスとコーラを買わせておいて、ほんの少しだけ食べただけで「腹いっぱい」。
貴様が食べろと言われたって残り全部入るような胃袋は持っていない。ムラムラと怒りが湧いてきた。ヨミがからかい口調で言う。
「貴様、怒っているのか?」
「あたりまえでしょう!」
「よし、わかった。駐車場についたら決闘だ」
「は?」
ヨミはなにを言いだしたのかとルームミラーで確認すると、腕組みをしてニヤニヤ笑っていた。
すっかり暗くなった青空駐車場に着いて荷物を下ろそうとしていると、ヨミが目を吊り上げて近づいてきた。なんだろうと思っている順の言葉も待たず、ヨミは拳を繰り出した。
「うわあ! なにするんですか!」
間一髪よけた順を見て舌打ちしてから、ヨミが答える。
「決闘だと言っただろう」
二発目、三発目と繰り出される拳には、死に神のときの迫力はまったくなく、小柄な女性の懸命なパンチだった。運動が苦手と言っても、順は力が弱いわけではない。ヨミの拳を掴んで動きを封じた。
「かかったな」
ヨミがゲラゲラ笑いだした。口が大きく裂け、目が見開かれ、とても人間には見えない姿になる。順は驚いて動けなくなった。
「さあ、入れ替わろうか」
ヨミを掴んでいる順の手に、ヨミの手が触れた。二本の腕を拘束しているのに、別の手が生えているかのようだ。いったいどこからと、目を走らせると、二本の腕は順の腹から突き出ていた。
「な、なんだこれ」
思わず手を離し、腹に触れた。腕はどんどん腹から伸びてくる。肘が出て、二の腕が出て、肩が出てきた。
「ほら、もうすぐ入れ替わるぞ」
ヨミの声に顔を上げると、拳が顔めがけて飛んでくる。手を顔の前にかざそうとしたが、ヨミの拳は順の頬に直撃した。痛みに驚いて二、三歩下がる。まだヨミは拳を握ったままだ。今度は避けようと腕を動かそうとして気付いた。両肩から先がない。
「そら、次は胸がなくなるぞ」
楽しそうなヨミに顔を向ける。
「なんなんですか、これ」
なんとか震える声で尋ねると、ヨミは「ふん」と鼻で笑う。
「入れ替わるのだ。二度も言っているぞ、聞こえなかったのか」
「入れ替わるって、なんなんですか。意味が分かりませんよ」
ヨミは拳を開くと、握手を求めるかのように、腕を前に差し出した。その握手に応えようというのか、腹から突き出た腕が前へ前へと進んでいく。あり得ないほどの剛力に順は抵抗も出来ず引きずられていく。
「や、やめて」
小声で懇願しても突き出た腕は止まらない。とうとうヨミの腕同士が手を結んだ。
「消えろ、最下位。その体も魂も私のものだ」
「いやだ、助けてください!」
恐怖で涙が出てきた。ヨミは順の涙を嘲笑う。
「自分の体すら自分で守れない。そんなやつがなにを言っても……」
ふとヨミが言葉を切った。素早く辺りを見回す。どこか近くで「にゃあん」という鳴き声がした。
「ネコちゃん!」
あっという間に腹から突き出ていた腕が消えた。ヨミがキョロキョロと視線を走らせている。
「いた! ネコちゃあん!」
夜闇に溶け込みそうな黒猫を目ざとく見つけてヨミは駆けだし、逃げるネコとともに去っていった。
呆気に取られて後ろ姿を見送っていたが、しばらくして夢からさめたような気持ちで自分の体を見下ろした。両肩から指の先まである。腹から生えていたヨミの腕は消えている。両手を握ったり開いたりすると、きちんと動いた。
「……助かった」
力が抜け、その場に膝をついた。