なにもしない女
一軒目は気楽に訪れることが出来る家だ。とくに話もせず、玄関先にある薬箱の補充をすればいい。
ヨミに睨まれていたときにも訪ねた家だ。抗ヒスタミン薬と湿布が切れているはずだ。箱を開けると、たしかに夢で見た通りだ。ふと心配になった。
あれは本当に夢だったのか? 今は本当に現実なのか? 今の方が夢なのでは? 自分は死に神に首を切られて間際の夢を見ているのではないだろうか。
「どうかしました?」
夫人に聞かれて、ハッと我に返った。ボーっとしていて、不気味に思われただろう。
「いえ、すみません。なんでもないんです」
手早く請求書を作って、逃げるように玄関を出た。
「早かったな」
スマートフォンから目を離さず、ヨミが言った。
「二度目だから、要領が良くなったのだろう。私の指導のおかげだな」
やはり、これは二度目の体験なのだろうか。一度目、二度目。どちらが現実かヨミに聞いてみようかとも思ったが、なぜか恐ろしい答えが返ってくるような気がして口を開けなかった。
二軒目の老婦人の薬箱は、やはり薬が減っておらず、消費期限が切れているものがいくつかある。消費期限切れのものを取り換えて部屋を出ようと思ったとき、栄養ドリンクの箱を見つけた。そうだ、前回来たときにヨミに栄養ドリンクを売り込めと言われたのだった。
「あの、おススメの栄養ドリンクがあるんですが」
老婦人は目をぱちくりして首をかしげた。
「美味しいのかしら」
そんなことを聞かれても、飲んだことがない順にはわからない。
「に、人気商品です!」
自分が知っている唯一の情報を伝えると、老婦人はニコリと笑った。
「じゃあ、いただくわ」
老婦人は順が抱えていった三箱のメヘビタBを、三箱とも買ってくれた。
「私のおかげだな」
車に乗り込むと、ヨミが顔も上げずに言う。見てもいないのにどうしてメヘビタBが売れたことがわかったのか。と、一瞬思ったが、車から荷物を下ろしているのを見ていただけだろう。ここは現実のはずだ。死に神などいないし、奇跡など起きない。
では、ヨミはなにものなのか。考え込みそうになって、あわてて思考をどこかへ吹き飛ばすため、頭を振った。彼女はただのネコ好きだ。それ以外のなにものでもない。そう思って、不可解な状況から目をそらした。
「あの、このテープは……」
必要ですかと聞こうとしたが、言葉を止めた。そうだ、この老婦人は、野球をしていた息子との思い出のためにテーピングテープを常備していると言っていた。
「ああ、それね。息子が野球を辞めたから必要ないんだけど……。なんとなくね」
あまりにも老婦人が寂しそうで、順は質問をやめ、そっとテープを取りかえた。
「消費期限が近いので、替えますね」
「ええ、お願いします。あの……」
老婦人は困っているかのような微笑で順に尋ねる。
「あなたは野球は好き?」
「はい。野球部のマネージャーでした」
なぜか不意に話したい気持ちになった。
その年、高校の野球部にはマネージャーがいなかった。放課後、教室でヒマをつぶしていたせいで、同じクラスの生徒に無理やりグランドに引っ張りだされた。誰かの意見に異を唱えることなど出来ず、順は野球部に所属することになった。
「雑用もスコア付けもダメでしたが、ケガの応急処置だけは得意でした」
「そうなのね。私もね、テーピングをしてあげると『ありがとう』って言ってくれたのが忘れられないのよ。今ではもう息子と話すこともなくなっちゃったけど」
なにもかも出来ない順は、部員から見向きもされなかった。応急処置をしてもお礼を言われたことなんかない。
「そうなんですか」
順のものとは比べ物にならないほど良い思い出だ。母親と息子の絆が深かったのだろう。順は羨ましさ半分、居心地悪さ半分、どちらにしても帰りたくなった。
老婦人は順が手にしたテープをじっと見つめた。
「テープにも使用期限があるのね」
「はい」
「使わないともったいないわね。なにかに使えないかしら」
「肩こりの改善とか……」
言っている側から自信がなくなり声が小さくなっていく。
自分などがオススメしてもきっと迷惑になるだけだ。それより、肩こりにテーピングが効くというのは本当だったろうか。どこで聴き込んだ情報だ? 間違っていたら責任を取れるわけがないぞ。そんな考えが浮かんできて、中途半端なところで口をつぐんだ。
「肩こりね。でも誰かに頼まないと、肩は自分で張るのは難しそうね」
「息子さんは?」
ふいに口を突いて出た言葉に順自身が驚く。老婦人も驚いて口を閉ざしたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「息子は不器用だからテーピングは出来ないかもしれないけど……。頼んでみるのもいいかしら。ありがとうね、教えてくれて」
「いえ、巻き方なんかは知らなくて……、その……」
老婦人は順の腕をポンポンと叩いた。
「そのくらい、自分で調べるから大丈夫よ。私、インターネット検索、得意なのよ」
順の言葉が、もしかしたら役にたったかもしれない。そう思うと胸がドキドキして顔が赤くなっていく。老婦人は順のそんな胸中を知らないが、もう一度、丁寧にお礼を言われた。