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叱られ慣れている男

 とにかく空気が悪い。旋盤工場なのだから、高原のように爽やかな空気というわけにはいかない。(じゅん)は息苦しくて薄く口を開けた。

「なんだ、なにか言うことがあるのか!」

 工場長に怒鳴り上げられ、そっと口を閉じた。とにかく空気が重い。取引先のお偉いさんから怒鳴られているというのは息苦しいものだ。うつむいて上目で工場長を窺い見ると、みるみる顔が真っ赤になっていく。

「社員がケガしているのを見てるだけで、応急手当も出来なかったんだぞ! なんのための置き薬だ! 緊急時でも医薬品の準備が整っているためじゃないのか!」

 なにを大袈裟な、と順は内心でぼんやりと思う。薬箱の中に、アキレス腱断裂の応急処置に使えるようなものは、包帯、氷嚢、テーピングテープくらいだ。やろうと思えばラップやタオルで十分代用出来るのに。

「すみません」

 頭を下げてぼそりと小声で謝る。その態度も気に入らなかったらしく、工場長は茹でダコかと思うほどに真っ赤になった。

「二度と顔を見せるな!」

 ああ、やっと解放された。順は形ばかり頭を下げてみせてから、そそくさと工場を出た。


 白い車体に『オベリオ薬品』と緑の文字で書かれた軽自動車に乗り込む。ネクタイを緩めると大きな溜め息が出た。自分に置き薬の営業なんか出来るわけがないのだ。小中高と友人の一人もいなかったコミュ障だ。大学に行く学力も資金力も気力もなかった。最低限の会話だけでいいアルバイトでなんとか食いつないできた。客商売などしたこともない。

無言。順の日常に音は少ない。それなのに、突然しゃべれと言われても口は開いてはくれないのだった。


 ぼんやりと車を走らせ事務所に戻る道を行く。事務所の敷地内に駐車場はあるが、営業車すべてを停められるスペースはない。順の営業車は事務所から徒歩五分の青空駐車場に停めている。雨風ですぐに汚れるので何度も洗車しなければならないのだが、事務所の誰にも見られないのをいいことに、順は白い車体が灰色になっていくことから目をそらし続けている。


 今日の業務は工場に謝罪に行くことから始まったので、車に商品は積んでいない。自分の財布が入ったボロボロのナイロンバッグだけを抱えて事務所に向かって歩きだした。冬至も近く寒いのだが、営業先に行くたびに脱ぎ着するのは面倒でコートは持ってきていない。

 どうしてこうなったんだろう。俺は生きていることに疲れて、雇用保険をもらいながら、ほんの少しのんびりした求人活動をしたかっただけなのに。雇用保険をもらうことがそんなに悪いことなのか? 神様は俺に永遠に働き蜂でいろと命令しているのか?


 就職活動は真面目にやってたんだ。俺なんかには手が届かない大企業の求人にばかり応募してたけど、それだって悪いことじゃないはずだ。少年よ大志を抱けとどこかの誰かが言っていたらしいじゃないか。

 オベリオ薬品は資格の欄に『要普通免許』と書いてあったから応募した。運転免許なんか持ってなかったんだ、絶対に落とされるはずだった。それなのに採用になって。事務所負担の費用で運転免許を取らされて。

 どうして俺なんかを採用したんだ。ほっといてくれたら、また低賃金でも人と話さなくていい仕事に就いて、心静かに暮らしていただろうに……。


 ネガティブな感情は寒いからというわけではない。順の日常的な思考だった。顔をうつむけて、なにも見ていない。通りすがる人が険しい目で自分を睨むのではないかと怖くて顔を上げられない。


 突然、大きな音がした。甲高いのに太く重い。順がその音の方を見ると、巨大なトラックが突っ込んでくるところだった。

 腰が抜け、道路に尻もちを突いた。


死んだ。








 ギギギギギ! と、タイヤが軋んだのかブレーキが叫んだのか、ものすごい音をたててトラックは止まった。

「どこ見てやがるんだ! 死にてえのか!」

窓から顔を突き出した運転手に怒鳴られて我に返り、立ち上がった。いつの間にか歩道をそれて車道に踏み込んでいたようだ。ノロノロと歩道に戻る順にクラクションを浴びせながら、トラックは去っていった。

もし今、トラックに轢かれていたら、異世界転生出来たかな。

 なににも興味を持てなかった順がたった一つ、むさぼるように摂取している深夜アニメの主人公は、トラックに轢かれたことを契機に、異世界に生まれ変わるという話が多い。そんなことが現実にあるわけがないという諦めと、そんなことで恵まれた波乱万丈の人生を送れることを羨望を抱いて見ていた。そんな中、自分の身に起きるはずなどないと思っていた、トラックに轢かれそうになるという非日常的なことに出会ってしまった。もしかしたら、この世界にだって異世界転生という事象が起きるのではないか? 誰も知らない世界で特殊な能力を得て超人的な働きができるのではないか?

 一瞬浮かんだ自分の考えがバカらしくて、順は薄笑いを浮かべた。

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