そこにフェンはいない
*次回の更新は6/23(木曜)の予定です
分厚い雲が垂れ込めた月夜。息をひそめた深夜の町の。黒い屋根の下。軽くて薄い掛布団。取り巻く幾重もの闇の中心に一人の少女、ブレアが横たわっていた。
頭に渦巻く考え事が眠りの世界にいかせてくれない。
(何やってんだろう)
毛皮も角も蹄もないその体は人に似た雰囲気を持っているが、マカディオスは間違いなく魔性に属する存在だ。並みはずれた屈強さ。妖精犬の牙をものともしない。魔法の力に満ちた怪しい場所へと案内し、旅人が何日も苦労して進む道のりをスキップするような足取りで軽々かっ飛ばした。
あんなことがあったのに、まさかもう一度自分が怪物と親しくなるなんてブレアは思いもしなかった。
(ううん、気にすることない。たまたまの巡り合せで、少しの間いっしょに行動しただけ)
だから、これは裏切りではない。そう自分に言い聞かせた。ルピナスの荒野に今も静かに横たわっているであろう大岩を目蓋の裏に描きながら。
花園の中で目立つあの岩はブレアと彼女との待ち合わせ場所だった。大岩は今もそこにあり、この時期はルピナスだって咲いている。見慣れた景色がありありと目に浮かぶ。
(でもその中にフェンだけがいない)
もう二度と会えない。寝言みたいにとりとめのない話を聞かされることもない。とろんと眠たげな目で見つめられることも。
(そんなの当然。だって私が殺したんだから)
大人たちはブレアのはじめての魔物退治を盛大に褒め称えてくれた。
四つ葉探しは村の誰にも秘密だ。クローバーをかき分けたブレアの親指はすっかり緑に染まっているが、それでも特に不審がられることはない。ブレアに課せられた物語が怪しまれることなく自由に動ける助けとなった。
大異変は物語の無意味さを人々に突き付けたが、『正答の教導者』への共感が高いここではまだ物語の制約は生きている。
物語はブレアに特別な少女であるよう求めた。他の子供たちがしない変わった行動もブレアだけは許容される。
(……嫌だなぁ)
この物語を気に入っていないのだけれど。
ブレアの先祖に秀でた才能を持つ女性がいた。彼女に渡された物語は少々ユニーク。変わり者として生きる物語を授かった。
そこで単なる変わり者で留まらずに、他の人が思いつかない発見や発明を積み重ねていくことで彼女の評判も変わってくる。発見も発明もどれもちょっとしたものであったが、人々の暮らしを便利にするものが多かった。中でも語り草になっている偉業は、邪悪な魔性を知恵比べで出し抜いたことだ。
この偉大な先祖は産まれた時からフサフサとした黒い髪を生やしていた。誕生したばかりの赤ちゃんの髪はたいてい頼りないうっすらとした毛があるくらいで、最初からフサフサなのはちょっと珍しい。黒い髪は淡い色の髪よりも存在感があることだろう。
(私もそうだったらしいけど……。産まれた時のことなんて覚えてないし)
高名な先祖と同じ特徴を備えて産まれた赤ん坊に、親族から注目が集まったのはいうまでもない。こうしてまだ首も座っていないブレアに大きな期待が託された。何か特別なことをなし遂げるようにと。
(違う、嫌だ)
どうしてこんなに苦しいのか。
どこから間違えてしまったのか。
眠りにつけないベッドの中で一人悩んでも答えは出ない。
ブレアの心はずっとぐちゃぐちゃで、明日の朝日が昇っても照らされることはないだろう。
起きている間でブレアが不幸でない時はごくわずかだ。毎朝の目覚めは絶望までのカウントダウンだ。ぼんやりした頭が自分の状況を認識するまでの数秒の猶予。後はずしりと重い憂鬱がのしかかる。だが沈み込んでいる暇はない。やるべきことがあるのだ。
死にかけの犬が四肢に力をこめ立ち上がろうとする。ブレアはベッドから抜け出した。
(……探さないと)
今日も四つ葉を探しにいく。よりによって最後の素材がこうも見つからないとは。
ルピナスの荒野で少し油断するとブレアの視線はすぐ大岩の方へと誘われる。当然そこにフェンはいない。時々鳥の影や何かを見間違えて、彼女がいるんじゃないかと錯覚して心臓をぎゅっとつかまれる。見ればつらくなるとわかりきっているのに確認するのをやめられない。傷口の痛みを確かめようとするみたいに。
ニレの木のそばでブレアの新しい友達が待っていた。
マカディオス。強くて元気で楽しくて、人の暗い感情をまだよくしらない怪物だ。