何が禍福に転じるか
マカディオスに日課ができた。毎朝バラの世話をした後にアイウェンの塔で話をするのだ。
話の前にちょっと遊ぶのが二人の楽しみ。アイウェンは不思議な大人だ。マカディオスを心から喜ばせるのに全力を出す。子供といっしょになってはしゃぐタイプの大人もいるが、アイウェンはそういう性質でもなさそうだ。物静かで落ち着いている。
絵本を持ち込んで朗読を十回連続でしてもらい、マカディオスは大いに満ち足りた気持ちになった。
「シボッツは五回目ぐらいで、もうおしまいって音を上げるぜ」
「彼は色々と仕事を抱えているからね」
そうシボッツにはやるべきことが多い。食事を作るのも、掃除も洗濯も基本的にはシボッツが取り仕切っている。他の人達はたまにお手伝いするていど。……というか慣れない者の手を借りると二度手間になるなどといって全部自分で片付けようとするフシがある。
「そうだなぁ」
今朝食べたスクランブルエッグの味を思い出しながらマカディオスは頷く。青いお皿にふわりとろりの黄色がててんと乗って、ケチャップとブロッコリーも鮮やかに。青空広がる初夏の花畑をぺろりとたいらげた気分だ。腹直筋の奥がぽかぽか温かい。
「さて……今日も話しておこうか」
アイウェンは本題に入る。
憎しみや悪意を向けられた時の対処法。
マカディオスはこの話を聞くのをなかなか楽しみにしている。主人公を成長させるための試練、物語をハラハラドキドキさせる仕掛け、打ち壊して解放感を得るためだけにある。それがマカディオスの世界に存在する憎悪というものだった。
肌身を焦がす毒の苦痛も、臓腑を不快に脅かす不安も、心臓に突き刺さる冷え切った眼差しも、実感したことはない。
「こういうことは言葉で伝えるのではなくて、行動で示した方が納得しやすいのだろうけど……。私の焦りに付き合わせてしまってすまないね」
落ち着き払ってはいるがアイウェンはどこか切羽詰まった様子だった。
「敵意を向けられた時、あるいは悪意あふれる空間にいる時、意思とは別に肉体が反応することがある」
腹の不快感がずっと続くかもしれない。悪いものを食べた時のように。
手足が震えて、どうすれば良いかわからなくなるかもしれない。
顔がカッと熱くなり怒鳴ってやりたくなるかもしれない。
「これ自体は問題でもなんでもない。生き物として当然だ。ただ緻密に張り巡らされた悪意の罠に、こういった素直な反応だけで対処しようとするのは大問題だ」
感情は感情として認め、それに翻弄されず自分の目的に合う行動を選択するようアイウェンは勧めた。
「相手の目的を読み解くことも生き抜くために大切だよ」
本当は対立の必要がない相手かもしれない。
虫の居所が悪く自分自身の未熟さをぶちまけただけかもしれない。
それから、怒りで人を都合の良いように動かそうとする相手かもしれない。
「でも相手を正確に見るのは最初はなかなか難しいことだよ。事実じゃない情報、勝手な妄想を作り出し、まるでこの世の真理みたいに掲げてしまうから」
人を見る練習してみる? とアイウェンが尋ねた。
「私を練習台にしてごらん」
アイウェンが語る言葉が得体のしれない彼の輪郭をじょじょに浮かび上がらせる。
(控えめで大胆。過激で穏健。優しくて冷淡だ)
いや、これは事実ではなくマカディオスが抱いた印象だ。勝手な妄想というやつと大差ない。
事実はこうだ。
(辛抱強く絵本を十回連続で読んで遊んでくれて、生き抜く知恵をオレに伝えることに熱心だ)
シボッツは塔のある方角にしきりに視線を送っていた。といっても見えるのは台所の壁ばかりなのだが。
「気になるのね」
イフィディアナの声。上の空で拭いていた食器を落としそうになる。危ういところでシボッツの細長い指は皿をしっかりつかみ直す。青いキレイな皿だった。
言葉を口に出す前にシボッツはため息をつかねばならなかった。胸にたまった憂鬱を息といっしょに追い出しておかないと、なんだかしゃべる気にもなれなくて。
「そうだ。本当のことをいえば閉じ込めたい。安全で快適な場所にずっと。柔らかな優しいものだけ集めた部屋で、俺はクローゼットの中やベッドの下の闇の中であの子を眺めている」
「陰気なこと」
「……わかってる。俺もバカじゃない。そんなことはやらない」
願望のままに進むことが、常に思い描く幸せに至る道になるとは限らない。
「俺はあの子のためになるものをなんでも与えてやりたいが、それを続けるのはお互いの不幸を招く」
ためになるもの、と聞いて白い竜は面白そうに目を細めた。
「悩んで苦しんで頑張っても、期待するほどの効果は出ないのに。すべてを見とおせる知恵も力もない者がためになるものなんてわかりっこないでしょう」
運命はあまりにも大きな流れだ。良かれと思ってしたことが残酷な災いを呼び、これ以上なく最悪の出来事が恵みに変わることもある。
軽やかな羽音が空気を変えた。
木製の覆い戸を開け放した台所の窓に、星を散らした黒が舞い降りた。一羽のホシムクドリがシボッツを見つめている。
「ちょっと待ってくれ。連絡がきた」
ホシムクドリはシボッツの尖った耳にクチバシを向けると一言二言何かを鳴いた。
それに頷き、シボッツは戸棚に並べた陶器から素焼きのクルミを一つかみ。小さく砕いて伝令役をねぎらった。
「ありがとう。トムにもそう伝えてくれ」
何が禍福に転じるかわからない。たしかにそれは一理あるなとシボッツは納得した。
ウィッテンペンの家で過ごした時、マカディオスが怪我をした人間を見つけた時は厄介事としか思えなかった。
(が……、なかなか重宝な協力者ができたじゃないか)
飛び立つホシムクドリをシボッツは満足そうに見送った。
塔での一時を終えて、マカディオスは中庭をぶらついていた。
アイウェンに贈り物がしたい。
(何なら気に入ってもらえっかな?)
キレイな木の実。グリフォンの羽。珍しい葉っぱ。水晶の原石。瓶いっぱいのダンゴムシ。砂金の粒。……というあたりがプレゼントの定番か。どれもマカディオスが出かけた先で拾えるものだ。
「マカディオス。出かけるのか」
井戸の深い闇の中から、当たり前の顔をしてシボッツがするりと顔を出した。
「それどうやってやるんだ? 今度、オレにも教えてくれよ!」
「教えない。井戸は危ないと何度も言ってるだろう。マカディオス、今日は城で過ごさないか? ゲームの相手になってやる。あー、読み聞かせやお絵描きでも構わんぞ」
マカディオスはふぃーっと長く息を吐いて、わざとらしくやれやれというポーズをしてみせた。
「深刻なワクワク不足だ。そのお誘いにこれっぽっちも魅力なし!」
ちょっとくらい危なくて悪いことでも教えてくれれば、ずっとずっと楽しいのに。
「……わかった。それがお前の意志なら。ただ、お前の友達とやら……ピーターのいる村の方角はしばらく避けるように」
物静かだが、一切の口ごたえは認めないという雰囲気だ。
マカディオスも渋々ながら頷いた。でも質問くらいはする。
「しばらくっていつまでだ?」
「俺がもう大丈夫だというまでだ」
仕方がないのでマカディオスは、ピーターの村とは逆の方角に向かうことにした。
別のところでもステキなものはきっと見つかるだろう。
変わった小石。虹の麓の宝箱。格好良い枝。巨大な真珠。カゴいっぱいのカタツムリ。銀色の遺跡。