野外レッスンこれにて終わり
元の姿に戻ったマカディオスがうーんと伸びをする。
追手から逃れたトムの顔はホッとしているが、どこか寂しそうでもあった。
「皆さん、どうもありがとう。色々と迷惑をおかけして申し訳ない」
「この後はどうするんだ?」
「村の連中に見つかって台無しにならないよう気をつけながら、どこか遠くの村を目指すよ。特にあてはないけれど、職人の腕を活かしてどうにかできないかやってみる」
マカディオスの質問にトムは答えてくれた。聞いたことに答えが返ってくるのはなかなかに嬉しいものだ。
「色々と不安定で物騒なご時世だけど、放浪する旅人も増えているみたい。村から離れて生きる人が珍しくなくなってるのは、トムにとっては追い風かもね」
ウィッテンペンが軽く首を傾げる。
「トムって名前も使わないようにするの? 偽名をつけるとか」
偽名! 秘密めいた格好良い言葉にマカディオスの目が輝く。
一方でトム本人は落ち着いた様子で首を横に振った。
「いえ。偽名に慣れずボロを出すのも怖い。それに俺の名前はごくありふれたものなので」
「そっか」
全体的な雰囲気も何か際立った個性があるわけでもなく、どこの村や町にも一人はいそうな風貌をしている。目立たず、片隅に追いやられた小さな草花のような空気がトムの周囲には漂う。
「……まだ解決すべき問題はあると思うがな」
含みのあるシボッツの発言にトムが身構える。けれどもその後に続いたのは温かみのある苦笑で。
「お前がどこに行くにせよ、そのボロボロの靴と服はどうにかしないとな」
服は破けて、片方の靴はなくした。とても長旅ができる格好ではない。
シボッツは蛇のようにするするとトムに近づき、上目遣いで顔を覗き込んだ。
「疲れしらずでどこまでも歩ける靴と暑さも寒さもしのげる快適な服が欲しくはないか? 俺の贈り物を受け取る気はあるか?」
シボッツが優しい一面をトムに見せたことにマカディオスはほっこりしていた。
が、ウィッテンペンは注意深く二人のやり取りを見守る。
トムも手放しでは喜ばない。
「何が望みだ?」
「別に厄介な頼みごとをするつもりはない。……お前が使えるかどうかわかるまでは」
これじゃダメだな、とマカディオスは思った。シボッツがトムに何をさせたいのかは置いておくとして、そんな頼み方で快く引き受ける相手が果たしているものだろうか。だいたいシボッツはマカディオスの行儀や礼儀には小うるさいくせに、自分はそういった注意を無視するところがある。
(そこはいただけない)
シボッツが持ちかけたこの取り引きは十中八九断られるだろうとマカディオスは踏んでいたのだが……。
「ああ、そうそう。連絡係を務めるのは小鳥や小動物だ。トム、小さく丸っこいモモンガが掌に乗ってきたことはあるか? 金色の瞳を光らせるネコとないしょのやり取りがしたくはないか?」
「なんだと……。邪悪な妖精め、いったい何をいっている……」
トムの目線が落ち着かなさげに泳いでいる。その手は無意識のまま動いていた。優しく虚空を撫でる仕草。柔らかく温かな毛むくじゃらを撫でるかのように。
シボッツが畳みかける。
「そう悪い話ではないはずだ。お前が無能ならタダで妖精市場の靴と服が手に入る。そして思いがけず有能なら……お前がより行動しやすくなるように、動物達の言葉がわかるように俺が魔法をかけてやっても良い」
トムは目を閉じて深く考え込んだ。やがて口を開く。
「良き隣人よ。これからはどうぞよろしく」
すっとしゃがみ込んで目線を合わせ、トムはシボッツの手をとった。
「過保護だなぁ……」
ウィッテンペンのつぶやきで、マカディオスはこの取り引きが自分のために結ばれたものだと理解した。
「……このような結果となってしまい、大変申し訳ございません」
「森の獣の糧となりましたか。役割から外れた友が自らを正す前に命を落としてしまったことが残念でなりません」
血の気の失せた顔で首を垂れる村長をベラはにこやかに見つめた。顔色が悪いのはベラや『教導者』を恐れてのことではない。もっと別の災いを予期しての反応だ。
(可哀そうだけど、どうしようもないわー)
村は暗澹とした不安に包まれている。
トムの死去は除け者の消失を意味する。村の中で上手くいかないこと、行き場のないうっ憤。これからは、そういったもののはけ口なしでやっていかなければいけない。
――本当にそんなことができるだろうか。
誰かを犠牲にすることで今までこの村の暮らしは回ってきた。
そんなやり方でしか人間関係を維持できなかった村人達が、これを機に生き方を改めるとでも?
そういうことにはならない。新しい犠牲者が作り出されるのだ。古い物語とも役割とも関係なく、弱い者が選ばれる。
(あーあ、この村でも『教導者』の立場は低くなりそう)
人の本質は弱さだとベラは考える。だからこそ物語や役割は必要不可欠なものだったと信じている。その弱い歩みに寄り添う杖であり行き先を示す道でもあった。いきなり頼りにしていた杖も道も失い、途方に暮れる人々には救いが必要だ。
絶対的な存在『無貌の作家』は存在しないと判明した。それでも『正答の教導者』に出来ることはある。
(世界を変えたお二人さんに、もう一度世界を変えていただこうじゃないの)
大異変を起こした人物はわかっている。いったいどこに隠れているのか、一向に尻尾をつかめないでいるのだが。
白い竜イフィディアナと裏切りの王子アイウェン。あの二人の選択はやはり間違いだったと広くしらしめなければならない。それが迷える人々に『正答の教導者』が差し伸べられる救いなのだから。
旅立つトムを森の外まで見送り、マカディオスはウィッテンペンの家に戻ってきた。途中で思いがけない事件に首を突っ込むことになったが、逃走術や潜伏術の楽しい野外レッスンはこれで終わり。軽く食事をとってから城に帰る予定だ。
「トムは大丈夫かな?」
「なんとかやっていけるだろう。あぁ、それにしても……今回は予想外の出費がかさんだ! ヴォルパーティンガーへの特別報酬にトムの旅支度! でも、あれはっ、必要な出費だったんだ!」
シボッツが財布を放り投げる。中に入っているのはこんなもの。自然に抜けた乳歯、人間の髪の一房、結晶化した成長痛。これが妖精達の市場で使うお金だ。へその緒なんてのもお金になるが、とっても高額なので普段の買い物にはまず使わない。
「シボッツって後悔が激しいよな」
「ねー。昔からそうだよー」
ウィッテンペンとささやき合う。
「大事な金を手放すのはとても憂鬱だ。いつまでも慣れない。だがこれで安心が買えるのなら……」
わめいていたシボッツがマカディオスを見つめる。穏やかな眼差しだ。こんな瞳を向けられるのは心地良くてくすぐったい。
「この選択は合っていたんだ」