なんか変だぜ
出口が見える。すぐそこだ。
だが重たいドアを押し開けて外に飛び出すことはできない。
焦燥感に背中を焼かれながらもどうすることもできず、彫刻の並ぶ広間で息を潜める。隠密行動にはとうてい不向きな肉体をマカディオスはどうにかこうにか広間の彫刻の影に溶け込ませた。
ドカンとそびえる三角筋。
丸太のごとき大腿筋。
割れた腹筋当たり前。
逃げ隠れするよりも、思うままに力を振るう方が性に合っている。
けれど、いくら筋肉自慢のマカディオスといえども、あの見張りを力尽くで突破なんてのは無茶な話だ。
きらめく白い鱗の竜に比べれば、マカディオスも赤ん坊みたいなものだ。
竜が上品に鼻を動かした。空気の臭いを嗅いでいる。
もうおしまいだ。マカディオスは己の失態を悔いた。今朝は調子に乗って歯みがき粉を多く使いすぎた。かぐわしいブドウの香りに染まった息がふんわりと漂っている。これではきっと竜に居場所がわかってしまう。
手を伸ばせば触れる距離まで竜の鼻先が近づく。なめらかな白い鱗が並んだ顔。あの鼻先に頭突きをかましてやったこともあるし、牙の生えた口に手を突っ込んでやったこともある。
恐れる相手ではない。
でも今は見つかるわけにはいかない。マカディオスは静かに両手を組んで、都合の良い時にだけ頼る名もなき神に祈った。
「はぁ……」
ため息みたいな音と共に小さな炎を一筋吹いて、竜は広間から立ち去っていった。
なんたる幸運!
マカディオスの筋肉が躍る。出口に向かって一目散。
空は青くても冬の風は冷たい。腰巻姿にマントを羽織っただけで出かけて良い気候ではないが、屈強な筋肉と適度な脂肪と丈夫な皮膚があるので大丈夫だ。彼はこの服装がとても格好良いと心から思っているので、まともな服に着替えさせるのは困難である。そしてマカディオスは寒いと思ったことが産まれてこの方一度もない。
城を出て、深い森を抜け、荒野を突っ切り、街道にほど近い林に向かう。たどり着いたのは荒れ果てた小さな家だ。森のボロ家は盗賊団のアジトになっていた。
「おう。オレが戻ったぞ。宝を持ってきた」
大きな呼び声は木々の間に虚しく吸い込まれていった。林は静まり返っている。
「これをどっかに隠して見つけにいこう。オレが盗賊団の親玉だ。いいだろ?」
腰巻の上からつけたベルトポーチに手を突っ込んで、拳ほどの宝石を取り出す。芝居がかった動きで宝石を高く掲げてみた。野太い手首には似合わない神秘的な腕輪が静かに光っている。
「おっと。腕輪の方は宝探しには使わないからな」
それでもドアは開かず、返事すらない。マカディオスは少し考えた。巨体を曲げてドアの隙間に向かってささやく。
「親玉じゃなくて切れ者の参謀でも良いぞ」
どこかでかさりと音がした。
背筋が伸びる。音もなく振り返る。迷うことなく林の中の一点を凝視。踊り子の大跳躍を気取って優雅な一跳び。
茂みに隠れていた老人の目の前に、盛大に枯葉を巻き上げ華麗に着地。
「そこにいたのか。遊ぼうぜ」
ヤンチャ坊主が子犬に向けるような雑な親しみで、腰を抜かした老人をひょいと抱き上げた。なんとなく犬のような風貌をした人だ。
犬はヘッヘと息をするが、死を覚悟した者の息遣いもまた荒かった。震えているのは寒さだけが原因ではないだろう。
マカディオスは相手の恐怖にてんで無頓着だ。
「一人だけか? もっといたはずだ。どこだ?」
偶然にも盗賊団を見つけたのはマカディオスにとってラッキーだった。最高にワクワクする遊び相手になるはずだ。仲間に入れてほしいと迫ったのだが、あれこれ言い含められて一度は煙に巻かれてしまった。気を引くために宝石を持ってきて遊びに誘ったが、うじゃうじゃいたはずの盗賊がとても少なくなっている。
「まさか! オレが目を離した間に全滅しちまったのか?」
「……みっ、みんな逃げ出した」
「おお! みんな無事か。良かった良かった! じゃあソイツらを呼び戻すとするか」
「お……、お前から逃げたに決まってるだろう!」
マカディオスはガックリと三角筋を落とし、すぐに明るく顔を上げた。
「でも一人残っていてくれた。オレを待っててくれたんだな。嬉しいぜ。ぎゅーってハグしても良いか?」
「やめてくれ、冗談じゃない! ワシだって逃げれるもんならさっさと逃げたさ……」
アジト撤収の足手まといは仲間に見捨てられた。歳をへた体は若者ほど速く遠くまでは走れない。
「最期の頼みだ。苦しませず一息にやってくれ」
「何言ってんだ。オレは遊びたいだけだぜ」
遊びに誘おうと、高く放り投げて受け止めたり、くすぐったり、ポケットの中に木の実や宝石を入れてみたが、相手は頑なだ。
仕方がないのでマカディオスは老人の目の前でポージングをして退屈と落胆をまぎらわせることにした。
どうやら命に危害は加えられないと察すると、老人は聞いてもいないのに身の上話を始める。
「ワシだって最初から悪事をしていたわけじゃない。盗みに手を染めたのは生きるために仕方がなくだ。でもダメだった。盗賊の物語を持ってないワシにこんな暮らしが上手くいくはずがなかったんだ」
マカディオスは弁当を食べることにした。城の台所で見つけて、まんまとちょうだいしてきたものだ。マカディオスのお気に入りの布に包まれてテーブルの目立つところに置かれていた。
噛み応えのあるバケットサンドにはマカディオスの好きな具が入っている。塩気の効いた茹で鶏にチーズ、サニーレタスとスライスされたタマネギ。じつに美味しい。
「食べるか?」
老人に少し勧めてみたが完璧に無視された。でも、マカディオスは気にしていない。好物の取り分を減らさずに済んで、ちょっと安心さえしていた。
「でも街に戻ってやり直せる気もしない。ワシに与えられたはずの物語には、もう題名も筋書きも残ってやしないんだ」
かつて世界は物語に導かれていた。
産まれ落ちた全ての命には役割が授けられる。
己の役割に従い物語を完成に導くことが、正しく真っ当な生き方だった。
三年前にこの世界の根本をひっくり返したあの出来事までは。
三年前までは仕立屋で、少し前は盗賊団の一味で、今はしょぼくれた孤独な老人となった者と別れてマカディオスは家に戻ることにした。夕食を食べ損ねるなんて悲劇はごめんだ。
林を後にして、荒野をうろつき、深い森で道草をして、竜の待つ城にこっそりと入る。
彫刻広間に竜の気配はない。
今のところ順調だ。後は勝手に持ち出した宝石を竜の部屋に返しにいけば良い。聡明なるマカディオスは遊びに使った道具をちゃんと元の場所に戻すだけの知性を備えていた。
「マカディオス」
小さいがすっと耳に届く声。
産まれる前からずっと聞いていたその声に、マカディオスは振り返った。
用心深そうな鋭い目が長い前髪の間から見え隠れしている。
とがった鼻も大きな耳もシャープで神経質そうな印象を与える。
その肌は緑の色彩を帯びている。緑の肌の生き物とは初対面の者なら、ちょっとびっくりするかもしれない。緑肌をよく見慣れている人なら、その不健康極まりない薄いアイスグリーンの血色にもっとびっくりすることだろう。フレッシュなアップルグリーンや活力を感じさせるエメラルドグリーンとは、だいぶ印象が違う。
シボッツはこの城の住民だ。城の住民は全員で四人。マカディオスと白い竜とシボッツ、それから嘆きの塔のてっぺんにも誰かがいるらしい。なかなか姿をお目にかかれないが、たしかに誰かがいる。マカディオスは竜が閉じ込めたんじゃないかとぼんやり想像しているが、そのあたりの事情はわからない。シボッツに尋ねてもはぐらかされてしまう。
「城の外に出ていたんだな。約束は守れたか?」
ハンカチとティッシュの支度に、帰った後の手洗いに加えて、マカディオスにはさらに他の約束も課せられていた。
住んでいる場所を誰にも教えてはならない。
外では城の住民のことを話してはならない。
腕輪を外してはならない。
「破っちゃいない。でもこの決まりになんの意味があるんだ?」
理由は一切聞かされていない。ハンカチの用意や手を洗う意味だったら、いくらでも説明してくれたのに。くどいなぁとうんざりするほど。
「……突き詰めて言えば、ハンカチや手洗いと同じことだ。災いがお前の身に降りかからないように」
シボッツが手を伸ばしたので、頭をなでやすいようにマカディオスはしゃがんだ。シボッツは幼い頃からよく世話をしてくれた。
幼い頃から。それにしても、この腕輪は本当にいったいいつから自分の手にくっついているのかと、マカディオスはいぶかしむ。
「わかったようなわからないような」
結局詳しいことは明かされなかった。
「理由の説明なしで人に約束を守らせるなんて、そんなことがいつまでも続けられると思うなよ」
シボッツのことは信頼している。悪いことを退けるためと言われれば、そうなのだろうと疑わない。
だが正確な意味をしらずにただ言われた約束を守るだけというのは、なかなか落ち着かないものだ。言いつけを守るだけでは対処しきれない非常事態が起きた時に、どうすれば良いかを自分の頭で判断できない。それは怖いことだ。
「……もう少しお前が成長したら、その時に話そう」
「何? まだ筋肉が足りないってのか」
不満げな顔で上腕二頭筋を引き締めて強調すると、シボッツはあきれたように視線をそらす。
夕飯は腹いっぱい食べようとマカディオスは心に決めた。ササミとブロッコリーのサラダがあれば良いのだが。
「この城はオレのしらない秘密でいっぱいだ。オレもこの城に住んでるのに。オレだけ除け者なんてつまらないぜ」
「そうは言っても、マカディオス」
子供をなだめるような調子でシボッツが穏やかにささやく。
「お前が産まれてまだ三年もたってないんだからな」