アルケイナ戦記 ~空隙~
八十村琥珀は、窓の外の電線を見つめていた。
ちんまりとしたスズメやらメジロやらが、少し飛んではすぐ電線にとまるということを、あかず繰り返していた。
心が、ずっとどこかへ行ったままのような、現実感のない毎日が続いていた。
なにをどうしても満たされることがない。
ちょこまかと遊ぶ小鳥たちを見ても、ただ景色が動いている以上の感想はなかった。
一度死にかけたせいではないと思う。
寿命があと三十年しかないという事実も、もちろん受け入れがたいことではあったが、これほどまでに気力を奪う要因ではなかった。
事実、ほんの少し前までは、前向きに生きていた。
この春休みが終われば、中学三年生になる。
だから受験勉強をしなければならない。
受験勉強という口実で、友人である内藤くららの部屋に入り浸っていた。
けれども、ホントは勉強なんてしていない。
満たされなさを忘れようとして、都合よく友人を使っているだけだった。
いまも琥珀は、読書中のくららに寄りかかり、ぼうっと時間をつぶしていた。
「くららちゃん、なにか面白い話して」
「えっ?」
少年のようなショートヘアだが、顔立ちは少女だ。自分では中性的なつもりでいるようだが、琥珀から見ればただの女の子だ。
いまも長いまつげをぱちくりさせて、困惑したように言葉を選んでいる。
「面白い話って……?」
「くららちゃんが描いてる漫画みたいなやつでいいよ」
「あ、あれはダメだよ……」
「なんで?」
「なんでも……」
消え入りそうな声。
漫画というのは、くららの部屋で発見したものだ。
ショートヘアの主人公クラリスが、ツインテールの女の子アンバーと意味不明な冒険をする物語。クラリスは意味不明に強く、ツインテールの少女から意味不明に賞賛されまくっていた。
当時、そのことをネタにいじっていたら、くららはうずくまって号泣してしまった。
慰めるのに時間がかかった。
今日も言いすぎたら泣いてしまうかもしれない。
「ねえ、くららちゃん。その本面白いの?」
「うん……」
「どんな内容?」
「事故で死んだ主人公が、生まれ変わって戦うやつ……」
「異世界?」
「うん……」
「ふーん」
琥珀はイライラしていた。
内容はいい。
本を読んで面白いと思えるような人間が、同じ部屋で同じ空気を吸っているというのが許せなかった。
「くららちゃん、息止めてみてよ」
「えっ?」
「同じ空気吸いたくないから」
するとくららは本を閉じ、おろおろした様子で応じた。
「ボクのこと嫌い? なにかしちゃった?」
必死すぎる。
琥珀はひとつ呼吸をして、くららの肩に頭をぐりぐりとおしつけた。
「ウソだから。いっぱい呼吸していいよ」
「琥珀ちゃん、最近ちょっと変だよ」
「変だよ」
「自覚あるの?」
「うん」
ずっと尊敬していた兄に、彼女ができた。
まあそれは……いつかそんなこともあるだろうと思っていたから、なんとか受け入れることにした。
問題は、兄が、彼女と付き合ったことで、完全にダメになったということだ。
むかしは大統領になると豪語していた。ウソでも大きな夢を持っていたし、バカにされても主張を曲げず生きていた。それなのに、彼女ができた途端、急にまともになろうとして、そのせいで逆になにもかもがおかしくなってしまった。
勉強もしないで筋トレばかりしている。鏡を見るたび髪型をいじる。スマホを見ればデートスポットばかり検索している。
しかも彼女から、距離を取りたいと言われ、死んだように無気力になってしまった。
もともと兄はバカみたいな主張をする男だったが、それでも尊敬すべき点があった。
けれども、いまはただの愚者になり果てた。
いちど尊敬の念が失われると、あとはもう、どうでもいい存在としか思えなくなった。
そもそもなぜ尊敬していたのかさえ思い出せない。
いや、思い出せないというのはウソだ。五歳のある日、琥珀は兄、姉と留守番をしていた。外からグッポーグッポーと怪しい声が聞こえてきて、不安で泣き出しそうになった。そしたら兄が、あれはキジバトだと教えてくれたので、とても安心できた。しかもおやつまで分けてくれた。
父や母がいなくとも、兄がその代わりをしてくれる。そう思うと、とても嬉しくなった。
その後も兄は優しかった。幼いころは意見が対立することもあったが、最後は琥珀に譲ってくれた。ゲームにも付き合ってくれた。だから琥珀も、兄の夢に協力するつもりでいた。大統領になりたいのなら、せめて自分だけでも協力しようと思ったのだ。
まったく勉強しない兄に代わって、ニュース番組を観るようになった。読書も始めた。将来、兄の役に立てるかもしれないから。いろいろ勉強をして、たくさんの知識を身に着けた。
なのに、兄は勝手にリタイアしてしまった。
もちろんいまでも……ギリギリ嫌いになったわけではない。もし正気を取り戻してくれたら、いつでも協力するつもりでいる。けれども、どうやら正気に戻りそうもなかった。
尊敬していた兄は、もう別人になってしまった。
琥珀の夢も消えた。
あとはもう、過去のことなんて忘れて、新しい目標を見つけるしかない。
「くららちゃん、私、どうしたらいいと思う?」
「えっ?」
「いまね、私、空っぽなんだ。なにもないの。だから、どーしよっかなーって……。どうせ長く生きられないし」
「琥珀ちゃん……」
泣き出しそうな顔になってしまった。
自分の言葉で傷つけてしまった。だけど、まさかそんな言葉で人が傷つくとは思わなかった。もう、他人の気持ちを思いやることさえ忘れていた。
頭をなでてやると、くららはかすかに鼻をすすった。
「そんなこと言わないでよ。ボク、琥珀ちゃんの力になりたいんだ。だからもっと頼ってよ。頼りないかもしれないけど……。ボク、頑張るから」
「ごめん。そんなふうに思わせちゃってたなんて。いちばん頼ってるよ。ただ、頼り方がよく分からなくて」
本当に分からなかった。
琥珀は、自分が妹に向いているとは思わない。兄や姉にあまえるのも、積極的にやってきたのではない。兄や姉が勝手にあまやかしてきた。周りの人間が先回りして動いていた。琥珀は、不思議に思いながらそれを眺めてきた。
くららがごくりと唾を飲み込んだ。
「あの……お兄さんの話とか……してもいい?」
絶対に触れてはいけない話題だとでも思っているのかもしれない。
琥珀はつい鼻で笑いそうになり、すんでのところで思いとどまった。
「いいよ」
「彼女ができてから、だよね? 琥珀ちゃんが変わったのって……」
「そうかも。私、お兄ちゃんのこと好きだったし。もちろん変な意味じゃなくて、家族としてね」
「うん。だけど、先輩も少し変わっちゃった」
「よく見てるね」
「誰が見ても分かるよ。言っちゃ悪いけど、アレじゃダメ人間だよ」
「……」
以前なら反論していたところだった。
誰かが兄のことを悪く言うなんて。
だけど、くららの意見は、琥珀の意見とも一致していた。少しはイライラしたけれど。
琥珀は溜め息をついた。
「でもさ、お兄ちゃんの人生だもん。私がいろいろ言うのも変だし」
「じゃあどうするの?」
「ほっとく。私も私で気持ち切り替えなきゃだもん。けど、まだどうしていいのか分からなくて。私、自分の目標とかなかったし」
「読書は? 好きだったよね?」
「うん。前はね。いまはそんなでもないけど」
兄を手伝うという目標があったから、読書をしていた。しかしその目標がなくなったいま、読書などする気にもなれなかった。
「じゃあゲームは?」
「してない」
「家にいるとき、いつもなにしてるの?」
「なにも。ただぼーっとしてる。スマホでネット見て……。でもつまんないよね。いつもいつも同じことばっかり。人生短いのに、なんであんなことに時間使えるんだろ……」
琥珀とて時間をムダにしている。その自覚はあった。ただ、周りのみんなと同じことをしたくなかっただけだ。結果として、なにもできなくなってしまったが。
くららは完全に消沈してしまった。
「琥珀ちゃん、元気出してよ。ボクにできることあったら、なんでもするから」
「ありがと。でも、そばにいてくれるだけでいいんだ。くららちゃんとこうしてると、ちょっとは気がまぎれるから」
「う、うん……」
肩がきゅっとなった。
照れているのだろう。
琥珀がなにかを言うと、くららはすぐに反応する。その一瞬だけ、気持ちが満たされないこともなかった。けれどもこれは、無垢な友人を使った趣味の悪い遊びだ。あまり乱用すべきではない。
*
帰宅すると、リビングで姉の瑠璃がテレビを見ていた。
すっかり春休み気分で、ダルダルになった部屋着で椅子に座っている。
「ただいま」
「お帰り。冷蔵庫にプリンあるから食べなよ」
「うん」
かすかにあまいにおいがしている。琥珀が手伝わなくなったから、一人で作ったのだろう。きっとほかにすることもないのだ。
琥珀はプリンをとって食卓につき、パックの紅茶をいれた。
姉が顔も向けずに尋ねてきた。
「またくららちゃんのとこ?」
「そう」
「仲いいね」
「勉強してたの」
「ふーん」
そっけない言葉と空疎な会話。
いつものことだ。
むかしの姉は、もっと面倒見がよかった。ままごとでもしているかのように。もちろん親の喜ぶような態度を演じていただけだが。
いまだって中身は優しい。けれども、表向きの態度は年相応になった。
琥珀は、そんな姉をあまり好意的に見ていなかった。反抗期になったからって、絵に描いたように反抗的になるなんて、バカみたいだと思ったからだ。けれども、このところ自分も同じようになってきた。姉の振る舞いをあまり直視したくない。自分が誰かの後追いをしているような感じがした。
琥珀は意地悪したくなった。
「お兄ちゃんって、高校卒業したらここ出てくんだっけ?」
「そうみたい」
「じゃあ部屋空くよね。私が使ってもいい?」
「好きにしたら?」
口には出さないが、姉もかなり兄を慕っている。わざわざ同じ高校に入学したくらいだ。それに、命まで救われた。今日だって、ヘコんでいる兄を元気づけようとしてプリンを作ったのだろう。
けなげなことだ。
琥珀はプリンを味わいながら、そんなことを思った。
*
夜、夢を見た。
このところよく見る夢だ。しつこいくらいに。
「決心はついたかな?」
白い雲の上。
輝くような空。
あまり背の高くない青い髪の少年が、そんなことを尋ねてくる。
白い布を体に巻いただけの格好。
彼は自分をロキだと名乗った。
「もう少し考えさせて」
「ああ、いいとも。俺には時間がある。死ぬ前に返事をくれればね」
死ぬまであと三十年ある。
神々にとっては微々たるものであろう。
けれども、それは琥珀にとってすべてだ。
彼は両手を広げ、揚々と告げた。
「あの錬金術師はいい仕事をしたよ。適性のある人間に役割を与えて、その力を引き出すなんて。そんな戦士を戦場に投入したらどうなるか。ワクワクしてくる。分かるかい? 俺たちは、常に戦争をしている。終わらない戦いをね。君みたいな才能を待ち望んでるんだ」
悪魔。
それが琥珀の役割だ。
彼は感極まった様子で目を細めた。
「ああ、力……。凄まじい力……。たとえ相手が神だろうが人だろうが一撃で粉砕してしまうほどの……」
「もし友達を一人連れて行きたいって言ったら?」
「もちろん歓迎する。何人でもいい。リスクはないんだ。俺たちに破壊を見せてくれ」
もし精神世界の戦闘で命を落とせば、寿命を十年奪われる。
それが前回の戦いのルールだった。
ただ、それはあくまで錬金術師が結んだ契約であり、絶対の法則ではないのだという。つまりロキの誘いに乗って命を落としても、寿命を失うことはないのだとか。
ロキは鋭い眼光ながらも、無邪気に笑みを浮かべ、白い歯を見せた。
「自己の存在を証明したくはないか? 戦場では、それを力で実現できる。刻みつけるんだよ。人の記憶に、神の記憶に、世界そのものに。君にはそれができる。大地を切り崩すほどの力……。俺は戦場でその光景が見たい」
「……」
もちろんバカげている。
まったくリスクを負うことなく、異世界の戦争に加担して、見ず知らずの戦士たちと戦うなどと。
しかし琥珀には、ほかにやりたいこともなかった。
空白はいつしか真空のようになり、内側から胸を絞り上げてくる。
戦えば満たされる。
それは分かっている。
圧倒的な力。その陶酔感は、なにものにも勝る。どんなにうるさい人間も、こざかしい人間も、命を奪えば静かになる。胸のすく思い。どんなに野蛮だと思ったところで、その感情は偽れない。
ロキはふっと笑った。
「悩んでいるのか? いいさ。強制はしない。だがまた同じ質問をしに来るぞ。俺は君の才能を愛しているからな」
「……」
誘いに応じることはなかったが、しかし今日も明確に拒絶できなかった。
心が揺れ動いている。
もし戦いに手を貸すとしても、悪いことをするわけではない。
そこは自分たちの暮らす世界ではないのだ。倫理観だって違う。活躍の場があり、そこに参加の誘いを受けている。それだけだ。
それだけの話なのだが……。
*
目覚ましより少しだけ先に目をさまし、琥珀は深く呼吸をした。
二段ベッドの上だから、天井が近い。
下ではまだ姉が寝ていることだろう。
なるべく音を立てないようハシゴをおりて、そっと部屋を出た。
リビングでは母が朝食を作っていた。
「あら、早いのね。おはよう」
「おはよう……」
窓からは春の陽光が差し込んでいる。
朝食のにおい、フライパンの油を焦がす音。
平和な世界だ。
琥珀は平和を愛している。
そこにはいい思い出しかない。
けれども、満たされなくなってしまった。
戦いを続けているうちに、怪物に近づいてしまったのかもしれない。
「チャーハンがいい? トースト?」
「どっちでもいい」
「じゃあトーストね」
家族の存在が、琥珀をかろうじて現実につなぎとめている。
もうすぐ学校が始まる。
そうすれば、友人たちとも会うことになる。
戦わずとも生きていける。
外はまぶしい春の景色。
琥珀は猫のように目を細めた。
(終わり)