流れ着いた男
ここは小さな島国だ。周囲は荒海に囲まれて、まさに絶海の孤島である。
特に夏には凄まじい嵐が来て、海は大時化になる。嵐の後は、海岸にいろいろなものが散らばっており、海岸地方の人々が片付けに大忙し。
ある年のこと。
嵐の翌朝、村人が海岸を片付けていると、見慣れないものが落ちていた。
「なんだ。箱のようだなあ」
「んん?人の腕が見える」
「ひえ」
みかん箱ほどの木箱の下に、人の腕が見えていた。3人の村人がおそるおそる近づいてみれば、頭、背中、足も見えた。
「うつ伏せだなあ」
「死んでいるのかい」
「気絶かも知れない」
3人は近くに落ちていた流木で、うつ伏せの人間を突いてみた。
「なんだ、動かない」
「やっぱり死んでいるのかな」
「箱をどかしてみよう」
3人が箱を持ち上げようとすると、腕も一緒に砂浜から浮いた。
「背負子のようだな」
「よし、抜けた」
「こっちもいいぞ」
力を合わせて腕を抜き、箱を砂浜に下ろす。
「冷えちゃいるが、脈はあるようだな」
「どれ、仰向けにしてやろう」
「そうだな」
見れば、まだ若い男だ。さっぱりと刈り込んだ硬そうな黒髪が、旅人らしく日焼けした顔を飾る。
「運ぼう」
「村長ん家に行くか」
「そうしよう」
2人が人を、1人が箱を持って村長の家に着く。
「重い箱だなあ」
「何が入ってるのかね」
「行商人だろうな」
村長は急いで床を用意させ、男が目覚めるのを待った。
「なに、暑さで倒れたんだろ」
村の医者があちこち冷やすことを指示し、村人たちは一旦それぞれの仕事に戻った。
男は夕方に目を覚ました。
「ご面倒をおかけ致しました」
この辺りでは聞くことのない丁寧な言葉だ。
「みやこのお人かい?」
「いえ、旅のものです」
「上等な言葉を使いなさるから」
「みやこにも行きました」
「そうかい」
男は部屋の隅にあった木箱に目を止める。
「箱も持ってきてくれたのですね」
「捨て置くわけにも行くまいて」
男は床から立ち上がる。慎重に立ったからか、ふらつくこともなく箱へと向かう。村長と医者が心配そうに見守る中、木箱の蓋が開けられた。
中には、絵筆や絵の具がしまってあった。箪笥のような作りになっている箱で、下の段を引き出すと小さな短冊が出てきた。掌に納まる程の可愛らしい大きさだ。短冊の表面はざらついている。
「時に、ここは何という場所でしょうか」
「美浜村」
村長が答えると、男は無言で道具を取り出し、さらさらと筆を動かした。村長と医者の表情から気遣いが消えてゆき、驚きと感心が広がる。
「どうぞ。村民の皆様に健康と幸せを」
男はにっこり笑うと、仕上がった短冊を村長に渡す。美しい色遣いの短冊には、奇妙な文字が書いてある。
「み……はま?」
「はい、美浜村の名前をお札にしてみました」
「旅のお上人様でしたか」
「とんだご無礼を」
「無礼だなんて」
村長が慌てると、男は身を縮めて頭を下げた。
「助けていただいた身の上ですのに。お札は単なる道楽ですよ。でも、どうやら私の描くお札には楽しい思いが籠るのです」
男の話によると、悪霊の類いを退治する力はないという。彼は単なる旅の絵師なのだ。ところが、旅空に流れ暮らす先々で渡す男のお札は、込めた思いの通りの効果が出る。
「病平癒は勝手に描いてはいけないらしいですが、漠然と健康や幸せを願ってお名前を文様にするくらいなら多目に見てもらえるかと考えまして」
お札には、どうやら描く資格がいるようなのだ。いい加減なお札には、却って凶運を招くものすらあると言う。
「同じ村に立ち寄ることもあるんです」
再訪した村が飢饉の年にもぎりぎり乗り切れたのは、一度や二度ではなかった。世話になったお宅の子女が良縁に恵まれたのもしばしばだ。
「ここには、船から落ちて流れ着いたのです」
「昨日はひどい嵐だったからなあ」
「無事で良かった」
「なんにせよ、ご縁が出来て嬉しいことです」
男と医者と村長はにっこりと笑い合う。
「どれ、時分どきだ。食べて休んでくだろう?」
「そう言われると、急にお腹が」
男の腹が大きく鳴って、3人は昼飯にした。
「みたこともない魚や海藻、野菜も初めてのものばかりです」
「そうかい。ずいぶんと遠くから流されてきたんだなあ」
村長も、遠い土地にはさまざまな食べ物があると聞いたことがあった。
「色々な所を旅してますが、ここのものはどれも美しく美味しいです」
「そりゃあ良かった」
この村で取れる鮮やかな色の魚は、みな小ぶりだが歯応えのある白身だ。透明な身を刺身で行くとき、青い皮の小さな柑橘類を絞るのが乙だ。
添えられた海藻は地味な赤紫だが、柔らかく味もクセがない。椀には透明になるまで火の通った薄緑の根菜らしき櫛形にした野菜が浮かぶ。こちらはトロリと舌に蕩ける絶品だ。
素朴な味の漬物には、独特の風味がある香り高い酒がよく合う。米は採れない地域らしく、根菜から時間をかけて作る酒なのだとか。
男はすこぶるその酒を気に入って、幾度も杯を重ね、次第に興が乗ってくる。つと席を立ち、部屋の隅から絵の道具を持って戻ると、盃片手にまたもさらりさらりとやりだした。
「歌があったらよろしかろ」
歌うように男が言うと、紙から今描いた紫色の鳥が飛び出した。尾の長い美しい声の小鳥である。
「花があったら楽しかろ」
呟くように男が言うと、紙から今描いた黄色い花が部屋中に飛び出し咲き乱れた。
「風があったら涼しかろ」
囁くように男が言うと、今描いた団扇や扇子が紙から出てきて、ひらりひらりと飛び回る。
「この村はいいなあ」
男はたいそうご機嫌で、月が出るまで散々に描き散らし、いつの間にか集まった村人たちを愉しませたのであった。
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