~朝暉編 第2話~
畑の前には、先月ジジィに無理矢理作らされたナスの苗が並んでいた。
小さかった芽は、幾分も大きくなり、畑へ植えられる時をぴょこぴょこと伸びた葉を震わせ待っていた。
「土は昨日、じっちゃと作ったべよ。」
ナスの苗の前でしゃがむロウジに、与作は、得意げに鍬を振り回しながら、ふふんと鼻を鳴らした。
それがそんなに偉いことなのか。
与作は、楽しそうに鼻歌を口ずさみながらロウジが分かりやすいようにと株間を計り鍬で目印を掘っている。慣れた手つきで鍬をひょいと動かすとあっという間に一列目の目印付けが終了していた。
農作業に関しては、与作は本当にしっかりとしているなとロウジは子供ながらに感心していたが、それが偉い事なのかと聞かれたら首を横に振るだろう。
ジジィは、与作の仕事っぷりによく嬉々として賞賛しているが、結局はそこまでの事しか成しえない。
農作業ができて勲章が貰えるのか。そして土地を貰えるのか。
大人しくロウジの前に並んだナスの苗を一つ手に取り、この世の中で偉いのは戦争で手柄を立てることだと心の中で教えてやった。
君が敵の大将の首を取れば、国の英雄になれるんだ。
家族も含めて全ての国民から賞賛と羨望の眼差しで見られる。
欲しいものが何でも貰えるんだよ。
もう、臆病者と罵られる事もないんだよ。
自分の心に話しかけるようにロウジは優しく語りかけ、その言葉にナスの苗は利口に風に葉を揺らした。
「ぼんやりしてねぇではやぐ植えるだ!」
気がついたら畑の3分の2までしるし付けを終えた与作がぼんやりとナスの苗を抱えるロウジを苛々と急かした。
「田んぼもあんだがら、はやぐせ!」
「うるせぇな!ちゃんとするからほっとけよ!」
ロウジがそう叫ぶと後ろからくすくすとかわいらしい笑い声が聞こえた。
振り返るといつから来ていたのか風呂敷をちょこんと抱えてカルセがこちらを見ていた。
「与作さ、まったやってんの?」
カルセの姿を見てびくりと飛び上がるとささっと身なりを整えた。
そして恥ずかしそうにもじもじと照れるとロウジの肩に手をかけた。
「ロウジが呆けて仕事せんで、どやしてただよ。」
そう言うと優しく嗜めるようにロウジにニコニコと笑いかけた。
何か反発してやろうかと考えているとカルセがロウジの顔を覗きこんだ。
「ロウジちゃんこっちきてさ心細いんだべよ。すごしはねねしでやんねよ。」
おっとりとした口調でそう喋るとロウジににっこりと笑いかける。
デレデレとしまりのない顔で赤くなる与作を横にふいとそっぽを向くとロウジは、ナスの苗を持ち、黙々と作業に静かに取り組んだ。
ロウジはカルセが苦手だった。
決して嫌いではないのだが、カルセの優しい雰囲気は、ロウジの反抗心を静かに包み、嫌でも自身を恥ずべき存在に見せた。
時折、自分のこういった行動の原理は何なのか、これは格好の悪い子供じみた事だとカルセに会うたびに自分の中の何かが尋ねてくる。
そんな事を知ってか知らずか、カルセは何も言わずニコニコと微笑むと畑の作業を手伝い始めた。
3人で仕事を始めると思ったほど、畑が仕上がるのに時間がかからなかった。
与作もカルセも慣れた手つきで、作業を進め、ロウジが植えた不恰好なナスの苗も丁寧に直してくれた。
「ほんれ、見ろ。ロウジもちゃんと手伝ってくれたからこんなに早く出来ただ!」
素直に手伝ってくれたロウジに与作はいい子だと頭を撫でた。
手ぬぐいで拭った手に残る微かな土の匂いが香ばしかった。
「そうだねぇー。ロウジちゃんいたからいつもよりだいぶ早かったね。」
カルセも嬉しそうにそう言うと休憩用に持ってきたお茶を木陰で準備し始めた。
「ロウジちゃん、すごく頑張ったからのどかわいたでしょや?」
手招きをされ、渋々とロウジは木陰に移動した。
カルセは軽々とヤカンを持つとお茶を入れ始めた。
勢いよく注がれたお茶の飛沫が太陽の光に涼しげに光る。
笑顔とともに渡された茶碗からひんやりとした感触が伝い、作業中には忘れていたセミの声が再びじんわりと耳に入る。
与作もニコニコと近づくと手ぬぐいで額の汗を拭き、ふうと一息ついた。
大きな入道雲を背にし、眩しすぎるぐらいに豊かだった。
「別に頑張ってねぇよ。」
この豊かな景色が好きだが、嫌いだ。
「オレは、戦争で頑張りたい。」
セミの声が自分の声を掻き消す。
ここでは決して言ってはいけない言葉が、自分の口から堰を切ったように溢れてくるように感じた。
「ロウジ、ちょっと疲れただな。池の方で遊んでけ。」
与作は笑っていたが、とても悲しそうな顔をしているように見えた。
カルセも与作の横にいたのだが、何故かその顔は見えなかった。
自分が見たくなかったのかもしれない。
気がついたら自分は走っていた。
振り返らなかったが、与作とカルセは悲しそうに何かを話しているんだろう。
どこに向かうか決めていなかったし、ここはどこに行ってもロウジの心を悲しくもやもやさせるような素敵な場所なのだ。
「何で、オレ一人なんだよ・・・。」
手を繋ぐ人は誰もいない。
この素晴らしさを純粋に伝えたい相手はここにはいない。
ロウジの影だけが夏の熱をまとった地面にじりじりと黒く焼きついていた。
何もする事がないので、家に戻ろうと思った。
一人でポツポツと歩いていてジジィの顔が何故か浮かぶ。
戻っても殴られるだけだ。
心の声がそう囁くので、ロウジは暇つぶしに川へと遊びに行く事にした。
若葉の水を含んだ新芽の匂い。
サワサワとロウジの足をくすぐる露草。
いつからかセミの声は止み、カエルの鳴き声が聞こえる。
木陰の間から川を見渡せる林の一角がロウジの秘密の場所となっていた。
大きく生い茂った無数の枝が太陽の日差しを柔らかく隠してくれてひんやりとして快適な場所だった。
ロウジは辺りを用心深く見渡すと木の洞の一つに手を突っ込んだ。
誰もいないな。
木屑に塗れて少し汚れた本を取り出すとにまりと微笑む。
すぐさま、草むらにひっそりと姿を見せるオレンジの花に群れる蝶をじっと見て、本をパラパラとめくった。
あの蝶は、クロアゲハだ。
黒い羽をはためかせ群れで遊ぶ姿は無邪気さを感じさせた。
しかし、クロアゲハもこんなに種類がいるんだな。
一つ一つ丁寧なイラストで細部の特徴を書き記した、父の昆虫の記録書を見つめながらも目の前のクロアゲハがどれなのかが分からなかった。
ゆっくりと観察してごらんと父はロウジによく語りかけた。
庭の花や夜空や雲や風や軍人には全くもって必要でない知識をロウジに教えてくれた。
必要のない知識だと分かっていたが、父の顔はいつもキラキラとしていてロウジはとても好きだった。
あのクロアゲハもきっと何なのか分かるんだろうな。
尾羽の形や模様の違いを繁々と観察しながら遠くへと楽しそうにかけていくクロアゲハの群れを見送った。
ふいにきゃあきゃあと耳障りな声が響き、ざわざわと周りがざわめくようにやかましくなった。
ロウジは、すぐさま昆虫の記録書を木の洞に隠すと木陰に隠れながら川の方を鋭く見下ろした。
「そっちだべ!」
ばしゃばしゃと勢いよく水しぶきをたてながら川の浅瀬でタイウ達が何かを捕まえていた。
「ほれ、はやぁせっ!」
腰ぎんちゃくの一人が歯のかけた顔でくしゃくしゃと笑顔を作りガマの穂をぴしゃぴしゃと水面にたたきつけた。
それに続くように他の子どもたちもガマの穂を一本ずつ持ち浅瀬を騒がしく走る。
「んだっても、動くべや!」
先頭を切って魚を捕まえようと出て行った子どもは、全身をびしょびしょにしながらへへへと罰が悪そうに笑う。
一人、一人と池に勢いよく腕を突っ込みだし、魚を捕まえているのか水を捕まえているのか分からないほどであった。
先ほどの静けさはいったいどこに消えたのだろう。
せっかく一人で静かにしていたのに。
どこに行っても目障りに姿を現すあいつらに一発喰らわしてやろうと怒りに震える腕を押さえ、ロウジはもう少し低いところへと下りていった。
「タイウ、すんげぇのつかめぇとるべ!」
「ほぉ、でけぇだ!」
魚を偶然捕まえたぐらいで得意げになっているタイウがムカついた。
少しばかり背が大きいからといってロウジを見下し、偉そうにしているのが気に食わない。
「あんな、所にロウジがいるだ。」
茂みの中からこちらをのぞいているロウジに気がつき一人がアホ面であっと声を上げた。
「またさぼっとるべ。」
それに続くように一人が指差し、ひゃあひゃあとふざけた声を上げる。
それに続き他のやつらもさぼっているとロウジを指差してバカにし始めた。
「お前ら静かにしろ!!」
全員が首をかしげ、苛々するロウジを怪訝そうに見た。
「はぁ?なにさ言ってるだ。ここはみんなの場所だから何してもいーだよ!」
「うるせぇっ!」
一喝するロウジを全員がポカンと間抜けな顔で見上げる。
欠如が何一つないから何も考えていないこいつらに腹が立った。
自分をからかってくるのも勿論あるが、その大半が自分とは違い、戦争の事を何一つ考えずに平和に暮らしているこいつらが嫌いで、理不尽に腹を立てていた。
「お前らはバカの一つ覚えみたいにカエルや魚捕まえてくだらねぇな!」
吠えるように罵倒するロウジの視界に子分共を掻き分けタイウが前へと身を乗り出す。
アホのロウジと叫び応戦する子分たちを制すとグッと捕まえた魚を空へ持ち上げた。
水を滴らせ、太陽に鱗がキラキラと輝くその魚は、大きさ20センチ程であろう。
思わずその大きさに驚き、ロウジはタイウの手に握られた魚を凝視した。
「ロウジ、おめぇはそんなバカの一つ覚えもできねーでねぇか。」
身をくねらす魚を手ににやりと笑う。
家に戻って釣竿を取ってこれば、自分だってそれぐらいの魚は釣れる。
ただ、戻る事はできない。
ロウジは、悔しさにギリギリと歯噛みし、タイウを睨んだ。
「オレは軍人の子だ!それぐらいできる!!」
ここで、何も言わずに負けを噛み締めるくらいなら、釣竿がなかろうとやってやる。
そう言い、勢いよく下りようと身を乗り出した。
しかし、動いた足はすぐさまピタリと止まった。
止まったロウジの足先から小石が先にパラパラと急斜面の崖を下りていった。
情けない事に下りれそうにない。
何とか心を奮い立たせようとイライラするが、足は本当の心に素直に従ったままだった。
崖の前でぶるぶると立ち止まり、下を恐ろしげに見下ろすロウジにタイウはせせら笑う。
「おめぇ、あんまり軍人、軍人いってっと弐人の遣い様に食われっぞ。」
「ふたびとのつかいさま?」
聞いたことのない言葉に首を傾げるロウジを横に、まるで何かの合図のように全員が顔を見合す。
そして悪戯を企むようにクスクスと笑い始めた。
「よそもんだがぁ。軍人言わなくとも食われるだよ。」
ロウジは弐人の遣い様が何のことなのか分からず、自身の無知を知らしめてしまうので、吠える事もできず、悔しく声を漏らした。
「ロウジの命あと何日だべ?」
言い返さないロウジをいい事に、子供たちは、輪になって好き勝手にわぁわぁと盛り上がっていた。
「んなぁ、星祭までだべ。」
「宵道の灯篭も完成したし、星祭すぐやってくんべ。」
一人が嬉しそうに話すと全員が口々に林檎飴を食べるやら銭亀釣りをするやら楽しそうに話した。
田舎の村にある唯一の娯楽なんだろうな。
ロウジは、家族で行った首相の着任祭のパレードを思い出した。
空には、花びらと管楽器のファンファーレが舞いとても賑やかであった。
全員が首相のイメージカラーの水色の旗を振り、祝福の意を示した。
自分も意味も分からないまま、父の軍帽を被り無邪気に旗を振っていたな。
母にせがみ買ってもらったバタークリームとジャムを挟んだお菓子の味は、はっきりと思い出せないが、おいしかった事は覚えている。
「オレ、祠に行って挨拶してくるだ。」
崖の上で、物思いに耽っていると一人が手を挙げて背を整え立ち上がり宣誓する。
それに続くよう、一人、また一人と同じように手を挙げた。
「オレも」
「オレも」
急な事態を飲み込めずにロウジは、崖から落ちないように注意しながら身を乗り出し様子をうかがう。
全員が一斉のと口ぶりをあわし
「ロウジを食ってください!おねげぇしますだって挨拶するだ。」
そう言うと一斉に笑い転げた。
「ロウジ、おめぇはよそもんだ。星祭には参加すんじゃねえぞ。」
何故、祭りで祠に行って自分を食べるようにお願いするのか二つのつながりがよく分からずキョトンとするロウジにタイウが鋭く釘を刺す。
「よかったな、参加してたら食べられんべよ、ロウジ」
歯を剥き弐人の遣い様の真似をしているのだろう。
全員が各々に恐ろしい様を表現し、手をゆらゆらと揺らしたりもするが、何も分からないロウジにとっては、滑稽な様でしかなかった。
「バカみてぇ。」
その様子をロウジが鼻で笑うも、誰も悔しがる様子等一切なく、ロウジを見下すような嫌な目でちらりと見つめる。
一向に態度を改めない一行に食って掛かってやろうと身構えると一人がにやにやとしながら口を開いた。
「ロウジ、怖べや?」
「はぁ?」
怖い?
予想外の言葉にロウジは面食らっているとその様を恐怖と捉えたのか次々と口を開いた。
「強がっても怖ぇんだべや。」
一人がロウジを馬鹿にして爪に垢の溜まった汚い指で指す。
「んだな。」
「急に静かになって固まってるだ。」
崖から下りれずに突っ立ったままのロウジをケラケラと笑う。
「てめぇらがバカで呆れてんだよ!!」
さすがに面目が潰れるのをこれ以上見過ごせず、ロウジはいつものように唾を飛ばす勢いで食って掛かった。
「んだら、星祭りに常世の祠に一人で行ってくんべ。」
いつもは殴られて泣きながら逃げる連中もロウジが自分たちに殴りかかれない事をいい事にロウジを煽り立てた。
「んだ!」
「おい、あんまけしかんべや。」
おいおいと笑いながらタイウが腰ぎんちゃくたちを嗜める。
タイウのどこか一つ上の位置にいる余裕ぶったその様子が更にロウジの怒りを煽り立てた。
「ああ、行ってやる!!」
ロウジの一言に辺りが恐ろしいまでにしんと静まり返る。
ポカンと口を開ける一同と自分でも何をしたのかよく分からずにふぅふぅと怒りに息を荒げるロウジの前に先ほどの黒アゲハチョウが、何も知らずにひらひらと平和に羽ばたく。
タイウが何かを言おうと口を開くが、堰を切ったようにタイウの子分たちが一斉にロウジの発言を煽り立てた。
「ロウジが言っただ!!」
「嘘吐きじゃなかんべ!!」
先ほどの一瞬の静けさがまるで嘘のようにぎゃあぎゃあと耳障りな声が響き渡る。
「行ってやるっってんだろっ!」
その声を打ち消すようにロウジは叫ぶ。
「オレは軍人の子だっ!!!」
そう叫ぶと笑い声と罵声が響く中、一気に家に向かい駆けていった。
駆け抜けるロウジには、困惑するタイウの表情に気がつくことはなかった。
必死に林を抜けまたどこに向かえばいいか分からないままロウジは息が切れるまで走るのをやめなかった。
真っ青な空の爽やかな匂いが額の汗と共に伝う。
星祭が何なのか全然分からないが、売られた喧嘩は買わないといけない。
男の子なら逃げてはいけませんと母が教えてくれた。
ぼんやりとする中で、まだはっきりと母や父の顔を忘れていない自分に安堵しながら言いつけをロウジは、必死に守っている自分を褒めた。
いい子にしていれば、父や母の望む姿で生きていれば、手紙はきっとやってくる。
ロウジはずっとそう信じていた。




