~朝暉編 第1話~
ここは以前住んでいた場所と比べると、空気もキレイで緑豊かなのどかな場所だった。
縁側に腰掛けていると鵤やつくつく法師の鳴き声が嫌でも耳に入った。
生垣の向こうからひょっこり顔を出している樫の木から聞こえるみたいだ。
ロウジは、手近にある石をひょいと摘むと片手で軽くポンポンと弄びながら樫の木に勢いよく投げつけた。
突然の襲撃にジジジと焦燥しながら羽を鳴らしつくつく法師は青空へとふらふら上っていった。
やっと静かになったと再び縁側に腰掛けると今度は、流れる風が山の遠くから小川のせせらぎや風に揺らぐ木々の音色を運んでくる。
目を閉じるとその情景や冷たい水しぶきを上げる川の流れが浮かぶ。
穏やかな音を聞きながら縁側に片膝をついて仏頂面でロウジは物思いに耽っていた。
淡々と穏やかな時間が流れるこの場所はとても静かであった。
しかし、ここがとても平和で静かであればあるだけ、ロウジの心は苛立っていた。
ロウジの灰色にも似た薄い青色の瞳には、黒煙を上げ、蛇の舌のように赤い火が降り注ぐ町並みがまだ残っている。
耳を劈くような人の叫び、終わることなく続く兵隊の行進する足音。
その音を聞きながら、不安に震え過ごした日々を忘れる事はできない。
鬱屈な回想に耽るロウジの元にきゃあきゃあと無邪気に笑う子どもの声が突如と転がり込んできた。
ロウジは苛々と手に持っていた木刀を揺らす。
ここから離れたところには断末魔の叫び声や殺意に満ちた獣の叫びで溢れているのに、ここの村人は何も知らないのだろうな。
そう思うとここに住む人全員が憎くてたまらなかった。
しかし、ロウジはここを嫌っている訳ではなくむしろ好きだった。
特にこの縁側はお気に入りの場所の一つであった。
ちょうど丘の上にあるこの家は、村の全てが見渡せるので、座ったままで村人の様子を知ることが出来るのだ。
気に食わないタイウの腰巾着が転んだ様や与作兄ちゃんがカルセ姉ちゃんと仲良くしている様を見てロウジは笑っていた。
また視界を遮るものがないので、青空と山が視界に大きく広がり、壮大な景色を堪能することができるのだ。
目の前に大きく広がる吸い込まれそうな程青い空とにょきにょきと空に伸びる立派な入道雲を見上げながらロウジは感嘆のため息をついた。
父がこの景色を見たら何と言うだろうか。
ここから見る景色を大好きだった父に見せてあげたいとロウジは思っていた。
きっと嬉しそうに笑いながらロウジに空が何故青いのか、この青空がどれぐらい価値があるものなのか熱を込めて話しただろう。
ロウジはもし父が生きて帰って来たら家族とここで暮らしたいと考えていた。
そうしたら母には、虫を取ってきて驚かしてやろう、ロウジは悪戯に笑った。
しかしそれは叶わぬ夢に過ぎない。
近頃、毎日届いていた母からの手紙は全く届かなくなっていた。
何故届かないのかとジジィを問い詰めたが、ジジィはお前の母親は元気にしているが忙しいとしか言わない。
ロウジは、心の中で否定はしたが、薄っすらと自分は一人になってしまったのだと感じていた。
自分がここでずっと一人かと思うとたまらなく寂しい。
グッと唇を噛みしめると握り締めた木刀を振り回し、樫の木を叩いた。
カンカンと乾いた音が虚しく響く。
村人はロウジの両親がここには戻れない事を勝手に悟り、心配して優しくしてくれたが、ロウジにとってそれは逆に鬱陶しかった。
もともと勝気な性格で自分を弱く見る奴が大嫌いだった。
可愛そうにと憐れにロウジを眺めるクソババァは捕まえた虫や蛙を顔に投げつけ、しっかりしろよと励ますクソジジィには蹴りを入れた。
そんな事を繰り返していく内に村では札付きの悪がきになってしまっていた。
悪がきか。
自分に勝手につけられた記号にクスクスと不敵に笑みを浮かべた。
「なんじゃい、お前またここにおったんか。」
気付くとジジィが曲がった腰を手で叩きながらロウジを眺めていた。
皺だらけの顔は、ぼんやりとしていたが、厳格な面持ちでロウジをジッと見据えている。
「どこにいたっていいだろ。」
唾を吐き捨てそう言うとロウジは立ち去ろうと腰を上げた。
しかし、それより早くジジィがロウジの木刀を奪い、あっと奪い返そうと手を伸ばすロウジの頭を木刀でぶった。
「いってぇー!!何すんだジジィ!」
チカチカとする視界にジジィを捉えながら掴みかかろうとロウジは胸倉へと手を回す。
しかし、まだ小さいロウジはジジィの懐に飛び込んだだけで終わってしまった。
「うるさいっ!!」
容赦なくもう一発ロウジの頭を木刀で殴る。
歯を食いしばり痛みに声を殺しながらロウジは頭を抑えた。
「何故お前はまだここにおって畑仕事の手伝いにいってないんじゃ!」
よく見ると額に汗を噴出し、手から土と毟った草の青臭い匂いが漂っている。
「俺はな兵隊の子供なんだ。そんな安っぽい仕事はしねぇんだよ。」
歯を剥き出しにし、そう言い捨て逃げようとしたが老体と思えない力でロウジの腕を掴み取り押さえられた。
じたばたと暴れるがロウジの抵抗も虚しく老体はびくともしなかった。
「お前がここに来たからにはわしの子供として扱う!!」
ロウジを簡単に持ち上げると耳元で大きく怒鳴りつけた。
「分かったらとっとと行け。」
ジジィは腕を放し、ふらつくロウジの尻を叩いて畑へと向かわせた。
逆らう事も許さないと睨みつけるジジィにすごすごと重い足取りで家を出た。
いつか絶対にやっつけてやる。
心に深く誓い、返してもらった木刀をぶんぶんと振り回しながら丘を下った。
村はいつもより通りを行き交う人が多く賑やかであった。
籠いっぱいに詰めた夏蜜柑をせっせと運んだり、農作業の道具を片手にうろうろしたりどの家の者も忙しなく動いていた。
「おっと、ごめんよ!」
ロウジの顔すれすれに鍬の先端が通り過ぎ危うくぶつかりそうになった。
キッと睨みつけると申し訳なさそうにペコリと礼をし、そそくさと去っていった。
頬の無事を確認し、静かに冷汗を拭い、これ以上危険があっては困るので裏道へと進路を変えた。
あまり行きたくはないが、浅瀬を渡り遠回りで畑へと急いだ。
視界に薄っすらと映るため池には案の定、子どもがあほな顔で蛙取りに夢中になっていた。
くだらない事をやっているな。
泥だらけになり乳歯の抜けた間抜けな顔いっぱいに笑みを浮かべる様を横目に何とか気づかれないよう静かに通り過ぎようとした。
ちらりとその中にいる大柄の子どもタイウがこちらに気がついていないことを確認すると静かに足を急がせた。
目を反らしこそこそと歩くロウジの姿に一人の子どもが気づいた。
一人がこっそりと蛙を4匹も手で握りつぶし笑っているタイウへと耳打ちした。
気づかれていないとゆっくり去っていくロウジの姿ににやりと笑い、周りの子どもをすぐさま集めロウジがいることを話した。
嫌な気配を感じる。
ロウジはガキ大将のタイウが自分を指差しているのに気がついたが、振り向くことなくそそくさとその場を後にしようとした。
「よお、ロウジでねぇか!」
いつしか静かになっていた池に声変わりをした野太い声が響く。
その言葉を合図に子ども達の視線が一斉にロウジを好奇の目で捉えた。
「お前またじっちゃんにどやされ走っとるんか。」
タイウの一言に周りがそれに合わせて馬鹿みたいに笑う。
そしてこそこそと走り去るロウジを真似し、ぎゃはぎゃはと馬鹿笑いし始めた。
その様がロウジにとって腹立たしかった。
止まらなければいい物の、売られた喧嘩は買う主義なので立ち止まり言い返した。
「違う!好きで走ってんだ!!」
食って掛かるロウジにふふんと得意げに笑みを浮かべロウジの前にずいと立ちふさがる。
「そげな、ひょろい体でよく言えるだ。」
どっしりとした体格に自分よりも幾分背も高いタイウがロウジを見下ろす。
腕もロウジの2倍以上は太く、ぽきぽきと骨を鳴らしロウジを威嚇した。
しかし、ロウジも一歩も引かないと言わんばかりに睨み上げ、木刀をギュッと握り締めた。
「んだ、力つける為に無駄に走ってるだ。」
タイウを加勢しようと脇にいる腰巾着が影に隠れながらロウジをケタケタと笑いからかい出した。
「そんなひょろっちい腕、タイウがへし折っちまうだよ。」
「お前ら、俺に殴られたいのか!!」
誰かの影に隠れてコソコソする奴が一番嫌いだ。
ロウジは拳を振りかざしタイウを押しのけ腰巾着の二人に飛び掛った。
二人は悲鳴をあげて逃げていったが、すぐさまロウジに服をグイと掴まれ頭に拳骨を喰らった。
「もいっぺん言ってみろ、俺が何だって?」
ジンジンと痛む頭を抑えながら、二人はロウジを恐ろしげに見つめた。
ロウジは無抵抗の二人の首根っこをグッと掴むと再び殴りかかろうとした。
「こらっ!!お前何さしてるだ!」
背のひょろりと高い、大人が慌てて走ってきてロウジを止めた。
突然の大人の声に反応した子ども達はあっと驚いた顔をし、蜘蛛の子を散らすようにすぐさま逃げいてった。
「畜生!離せ!」
首根っこを掴まれ宙ぶらりんの状態になったロウジは拳を振り回し、抵抗をするが一向に虚しく為すがままの状態であった。
「俺はあいつらにもう一発喰らわせないと気がすまないんだ!」
ロウジの手が緩んだその隙に腰巾着の二人は必死に駆け出し、他の子ども達と一緒に逃げてしまった。
その中タイウだけが、ロウジが掴まった様子を静かに笑いながら見つめていた。
「何見てんだ!!お前が悪いんだろがぁ!!」
吠えるロウジの姿に怖がる様子も見せずタイウは淡々と説明した。
「与作兄ちゃん、ロウジが悪いだ。先に殴ってきたんだ。」
かすり傷を作りながら暴れるロウジを抑える与作はため息をつき、タイウを見た。
「タイウ、おめぇの話も後で聞くだ。とりあえず、家さ帰ってろ。」
さも利口に返事をするとタイウは去り際にロウジを小ばかにした目で見てゆっくりと家に帰った。
「畜生!!今度会ったらギタギタにしてやる!」
タイウがいなくなった頃にやっとロウジを放し、その様子を見て与作は再び溜息をついた。
「おめぇは反省すべきだ。じっちゃが怒んのも無理ねぇ。」
怒りでふうふうと犬のように唸るロウジはその言葉にむすっと顔を背けた。
「ジジィはボケて勝手に怒ってるだけだ。それより何で手出ししたんだよ!!」
与作の拳骨がロウジに炸裂した。ジジィよりかは痛くはないが、ジンと頭に衝撃が響いた。
「おめぇが畑さいねぇから俺がじっちゃにどやされっだど。」
頭を擦るロウジの手を引くと与作はすぐさまロウジを畑へと連れて行った。
痛みは治まったが、まだ怒りは収まっていなく殴られた部分を擦りながらロウジはぶつくさ歩いた。
与作は、痛く殴りすぎたのかと心配しながら明るくロウジへと話しかけた。
「おめぇな、じっちゃが預かってくれてるだけ幸せもんなんだぞ。ほい、さっさと畑さ行くだ。」
「幸せじゃないよ。」
自分の気持ちとは裏腹にポツリと言葉が口を出た。
「幸せじゃないことないべ。こんな景色はおめぇの故郷では見えないはずだ。」
ニコリと笑い与作は夏の青空を仰いだ。
確かにこの青空は吸い込まれそうなほど綺麗で自分がここにいれる事がどんなに幸せなのか十分に分かっていた。
しかし、満たされない何かがあるのも事実であった。
与作の言葉に静かに頷き自分を納得させると空を見上げた。
またつくつくぼうしの耳障りな鳴き声が聞こえる。
故郷では聞くことが出来なかった夏の音だ。
与作の後ろを歩きながら気づかれないようにそっと目を閉じた。
瞼の裏には、美しい景色が薄っすらと浮かび、父や母の笑う姿がそこにあった。
ロウジがここで見た景色の中に楽しそうに佇んでいる。
これが現実ならどんなに幸せだろう。
『必ず迎えに行きます。』
母の送ってきた手紙は全てこの言葉で締めくくられていた。
待っているよ。
だから、この景色が消えてしまう前に迎えに来てほしい。
「ロウジ、痛かっただ。」
大人しく後ろをついてくるロウジに与作が心配そうに声を掛けた。
「オレは軍人の子だ。こんな事で泣くか。」
母の手紙にも書いていた事はきちんと守っている。
ここでちゃんと待っている。
だから約束通り迎えに来て。




