上
とある国の片隅に鬱蒼と茂った森が在る。その森には怖い魔法使いが住んでいて、森に入ったら最後、殺されてしまうと噂されていた。しかし、在る人は言う。それは偽りであると。
「…何故、此処迄来たの?」
深い深い森の奥、小さな小さな小屋の中で、ボロボロなドレスを着た女性を前に、一人の魔法使いがため息を吐いた。
「町では森に入ったら殺されると噂されている筈だけど…」
「…はい。ですが、死んでも良いと思っておりましたので…」
「それはそれで迷惑ね」
「申し訳ございません…」
はあとため息を更に吐かれ、女性は身を小さく縮こませる。そんな憐れで惨めな姿に、魔法使いは頭痛を覚えた。
「……取り敢えず詳しく聞くわ。紅茶で良いかしら?」
「え、あ、はい!ありがとうございます!」
死んでも良いと言った女性、未だ少女と言えるその年齢の彼女は、魔法使いの言葉に素直に喜んだ。
この森は魔法使いの森として、国では知らない人間は居ない場所。しかしその国の王ですら、手を出せず、入ったら殺されるという曰く付きの為、誰もが怖がって入る事すら躊躇う場所なのである。そんな場所に、彼女はやって来た。死んでも良いと思った程、思い詰めて。
「……それで、貴女は此処へ来てどうしたかったの?」
紅茶を手渡しつつ、魔法使いは尋ねる。
「この森は魔法使いの森、入ったら殺されるという曰く付きの森。そんな場所に、貴女は一人死んでも良いと覚悟を決めて入って来たのよね?」
少女は渡された紅茶を、ありがとうございますと受け取り、視線を魔法使いへと向けた。
「…殺される、という噂と別に、殺されずに魔法使いに会う事が出来たら、何でも願いを叶えて下さるというお話しを聞いたのです……」
「……それは…」
「そのお話をして下さった方は、コレを下さいました」
差し出されたのは、琥珀色の宝石が入ったペンダントだった。それを見た魔法使いは、一瞬眉をピクリと動かした。
「コレを持っていれば、魔法使い様の所へ辿り着けるだろう、と」
「……成る程ね。それで?」
「はい…私は、婚約者だった人に婚約を破棄されました。相手の方を愛していたわけではありませんが、我が家にとっては爵位も高く、願ってもない程の婚約だったのです。ですが、相手の方が更に上の爵位を持つ家からの婚約が舞い込んだのです」
「……婚約者が居る相手に対して褒められた事ではないけれど、無い話では無いわね」
「はい…珍しいとは言え、位の低い貴族にとっては、仕方の無い事と諦めなければならないと分かっております。掛かった費用を倍にして返して下さいましたし…」
「あら、なら不幸中の幸いなんじゃないの?」
「いいえ!!」
突然大声を出し首を振る少女に、魔法使いは驚き、目を見開いた。そんな様子に気付く余裕すら無い様で、少女は続ける。
「誠意を持って、と仰ったのです。決して私が今後困らない様、全て此方の責任であると周りを納得させる、と!ですが、婚約を破棄されてから初めて参加した茶会で、私は笑い者にされました。婚約者を奪われた、憐れな女だと」
「…それがどうしてこんなボロボロになるの…」
「私自身が笑い者にされることは、仕方が無いと諦めもつきます。ですが、我慢出来なかった!それだけではなかったからです!」
声が段々と震え、湿って行く。思い返して感情が高ぶっていくのが良く分かる程に。
魔法使いは黙って続きを促した。
「父を…ずっと誠実で、領民達からの信頼もあった父を、謂われなき罪を着せ、爵位を剥奪するよう進言したのです!父がそんな事をする筈が無いと申し上げても、誰も、信じて下さらなかった…」
遂に涙が零れ落ちた。美しい彼女の瞳から、溢れ出す涙に、魔法使いは眼を細める。
「…子爵位を失った父は、屋敷、領地、財産を全て没収され、投獄されました。母は無理矢理離縁させられ、修道院に入れられました。私も母と同じ道を歩む筈だったのですが、彼の新しい婚約者であられた公爵家の姫様が、憐れだからとご自身の侍女に成らないか、と仰られたのです。ですが、私はお断りを致しました。相手にとっては取るに足らないかもしれませんが、私にも矜持が、ありましたから…」
「……」
「折角のご温情を無碍にしたと、私はやはり犯罪者の娘は愚かだと元婚約者に罵られ、その姫様に乱暴を働いたと謂われ無き罪で捕まり、牢に入れられました。其処で、です。其処で、とても美しい女性にお会いしました。そしてこの森の秘密を教えて頂いたのです」
差し出したペンダントを握り締め、胸元へ持って行く。大事な物だと言う様に。
「名前は分かりませんでしたが、とても美しい方でした。その方が、こう仰った。“魔法使いの森は、何の決意も無い者が入れば、彷徨い、決して奥へは進めない。下手をすれば森から出られず、果てる事になる。しかし、絶対に叶えたい願いが有り、それを叶える為なら何でもするという覚悟が有るならば、このペンダントが願いを叶えてくれる魔法使いへと導くだろう。その覚悟が有り、コレを欲するか?”と。私は躊躇い無く頷きました。もし失敗しても、自分が死ぬだけだと思っておりましたから。そうしたらその方は美しく微笑み、私を誰にも見付からない様に牢から抜け出すのを手伝って下さいました。そして、このペンダントを下さった」
「……そう、だからそんなにもボロボロなのね」
「はい…お見苦しくて、申し訳ございません…」
「それは良いわ。で、貴女はその覚悟を持って私に会って、何をしたいの?」
結果、結論はそこである。未だ少女と言える彼女が、死んでもと思える程に願う事は何なのか。復讐の手伝いか、それとも父親の冤罪を晴らす事か。
「私に会っても、望む通りになるとは限らないでしょう」
「はい。門前払いをされる可能性も、思わなかったわけではありません。ですが、何度も申し上げている通り、私は自分の命を懸けております。なので、もしそうなれば何日も通うつもりでしたし、お待ちする覚悟でした」
「…私の迷惑は考えなかった、と…」
「それは…で、ですがお話を聞いて頂けるまでは、諦めないつもりでした。先ずは第一段階を突破出来たと、ほっとしております」
まさに泣き笑いだった。やつれたものの愛らしいその顔が、ぐちゃぐちゃになる事も気にせず、少女は微笑んだ。魔法使いは今一番のため息を吐くと、肩をすくめた。そして息を吸うのと同時に、彼女に真剣な眼差しを向ける。
「そうね、そのペンダントが私の元へ貴女を導いた事が、貴女の意志の強さを示している、それは紛れもない事実だから、私もそれを受け入れるわ。そして私は此処で貴女の話を聞いた。これが貴女にとっての第一段階だと言うのなら、何が願いだと言うの?話を聞く限り、貴女やご家族が理不尽な事をされた、という事だけは分かったけれど、私からすれば、だから何だ、としか言いようが無いわ。気の毒ね、とでも言って欲しいの?」
「いいえ。私は全ての真実が知りたいのです。可能であれば父の冤罪を晴らし、濡れ衣を着せた輩に罰を与えたいとも思います」
「あら、意外と欲張りね」
「はい。ですが、私自身の事は良いのです。もう二度と、表舞台に戻りたいとは思っていないのです。ただ真実を知って、父の名誉を取り戻し、母も理不尽な思いをせず二人が健やかに暮らして良ければ、それで良いのです」
「お二人がそれを望んでいなければどうするの?」
「…それなら、それを受け入れます」
ふむ、と魔法使いは思案する。目の前の少女は欲張りではあるものの、自身の事は気にしていない。勿論真実を知る事で心変わりをする可能性もある。しかしそうであっても、魔法使い自身、求めるものは一つ。しかも、意志の強さと覚悟はある様なのだから、と。
「……分かった、良いでしょう。貴女の願いを聞き入れます」
「本当ですか!?」
「ええ。但し、勿論条件があるわ」
「分かっております、何なりとお申し付けくださいませ」
「良い心掛けね」
力強く頷く少女に、魔法使いも自然と笑みを浮かべた。
「条件は皆一緒なのだけれど…貴女の願いが叶ったら、そのペンダントを私に渡す事よ」
「え?」
「それが納得いかないのであれば、今すぐに帰って頂戴」
「い、いいえ、いいえ!」
「そう?なら、この契約書にサインして」
魔法使いがそう言って指を振るうと、近くの引き出しが自ら開き、中から一枚の契約書と羽ペンが少女の前に飛んできた。その様子に、少女が目がこれでもかという程開き、驚いていた。しかしそれも当然の話で、この世には一般に魔法など存在していないからだ。
魔法使いの森、と言われるこの森も、日中でも日が入る事が無く、鬱蒼とし、入った人間が行方不明になる事や、万が一で森から戻れた者も、中に居る時は必ず迷い、決して奥へ行ける事が無い事。極めつけは、いっその事燃やしてしまおうと火を点けるも、必ず途端に雨となり、決して燃え広がらないばかりか、その火を点けた者が挙って無残な死を遂げる事から、気味悪がってそう呼ばれてる起因となっているのだ。中には呪いや祟りだと言う者も少なくない。
そんな場所に踏み込んだ少女は、目の前で見る初めての魔法に、ただただ驚いてしまったのである。
「…ちょっと貴女、此処迄来た癖にそんな状態で大丈夫?どうやって私が貴女の願いを叶えると思っていたのよ」
「…はっ!も、申し訳ございません!どうやって…なんて…そう、ですね……考えて、おりませんでした…」
「呆れた。まあでも、確かに初めてでしょうからしょうがないけれど。けど多分、貴女にそのペンダントを託した女性も、貴女を逃がす時に使っていたと思うわよ」
「ええ!?あの方も魔法使い様だったのですか!?」
「いえ、そうではなく、貴女が持つそのペンダントに力があるの。考えてごらんなさい、普通女一人で簡単に番の居る牢に入り、そして貴女を連れて抜け出せると思う?」
「…確かにそうですね。あ、だからコレを条件に?」
「そうよ」
「なら、先にお渡しします。私にはもう必要無い物ですから」
「いいえ、それは駄目。そのペンダントはこの森で生活するのに無くてはならない物よ。私の側に居る間は特に不要だけれど、一人で行動するのなら肌身離さずお持ちなさい。森とペンダントが共鳴している間は貴女はこの森を迷う事は無いけれど、無くなれば保証は出来ないから」
「!!!」
魔法使いの言葉に、少女ははっとし、顔を青くさせる。
「そのペンダントは無くさず、持っていて頂戴。そして、全てが終わったら、私に渡す事」
「お、渡した後は…」
「ああ、その辺は心配要らないわ。だからそれまでしっかり持っていて頂戴ね?絶対に無くしたりせずに」
「はい!」
少女は思った。きっと魔法使いは力のあるこのペンダントが、何かのタイミングで手を離れてしまった。だから自分の手元に戻したいのだ、と。己に託したあの女性が何故持っていたのかは分からないけれど、きっと戻って来たこのタイミングで、と思っているのだろう、と。しかし現状己から離してしまったら大変なことになってしまう上に、魔法使い自身にも迷惑が掛かる。ただでさえ厄介事をお願いしているのだ、更なる厄介事を持ち込む気はない少女は、絶対に無くさず、魔法使いに返そうと今一度心に決め、契約書にサインをした。
その決心を見抜き満足した様に、魔法使いはうっそりと微笑んだ。
魔法使いと暮らす様になって、少女は毎日が新鮮だった。魔法使いが魅せる全てが、彼女の心を震わせる。誰も来たことが無い森の奥に広がる美しい景色や、其処に生える、貴族ですら使うのが躊躇われる程の高い医薬品原料である薬草の数々、宝石の原石が多く眠る洞窟等。そして何より、指を振るうだけで、物が自身がまるで意志を持つかのように動く事。少女の目がキラキラと輝きを取り戻すのに、そう時間は掛からなかった。
そして、ある程度此処での生活に少女が慣れた頃、傷も癒え、ボロボロのドレスも今は着慣れた動きやすい服となり、痩せていた身体も健康なまでになり、彼女がそんな状態であった事を思わせるものは最早見る影すら無くなった頃、魔法使いは少女を呼び、森を出た。理由は勿論、少女の願いを叶える為である。
少女がこの生活に慣れている最中、魔法使いは彼女を森から一歩も外へは連れて行かなかった。一人で小屋を離れ、何日か帰って来ない事も有ったが、常に待っていろと言いつけて。少女は言われるがまま、時にお願いの確認をしながらも、魔法使いを信じ待っていた。勿論、魔法使いも願いを叶える為に動いていた。交わした契約は絶対。契約が交わされれば、魔法使いはそれに縛られる。その為に決して破らず、必ず守るのだ、と少女に安心させて。
そして今日、漸く願いを叶えられる準備が調った、と、夜、少女を連れ出したのだ。
「…見える?」
「あ…お…お父、様……」
魔法使いが案内した場所は、処刑場横の牢だった。魔法使いが指差す方には、鉄格子越しにかなりやつれた姿の少女の父、元子爵の姿があった。
「…明日、あの処刑台で、貴女のお父様が処刑されるそうよ。助け出せるのは今日が最後のチャンスという訳ね」
「なっ!?なら何故もっと早くにっ!!」
「出来たのならそうしていたわ?間に合っただけでも感謝して欲しいくらいよ。それより良いの?今貴女にペンダントを渡した女性と同じ方法を取っているのだけれど」
「!?」
「行って話をしていらっしゃいな」
にっこりと笑う魔法使いに、少女は一瞬目を見開くも、直ぐに頷いて牢の方へ走って行った。その姿を見送り、魔法使いは静かに目を閉じる。魔法使いの周りは、静寂に包まれていた。
一方の少女は、一応周りを警戒しながら、牢へと手を掛けた。鍵が無いかのように開く扉に少し戸惑いつつも、逸る気持ちを抑えきれず父親の元へ向かう。かび臭い臭いがした。己が入れられた牢と変わらない劣悪な環境に、涙が出そうになるのを堪えながら。
「お父様!!」
「!?」
父親の格子に手を掛け、叫ぶ。父親は居る筈の無い我が子の声に、項垂れていた事も忘れ、勢いよく顔を上げた。二人の視線がぶつかり、途端に互いに涙が溢れる。
「お父様っ!!今っ、今お助けします!!」
「なっ!?な…っ、お…!?」
「ああ、お声が……」
少女は直ぐに理解した。ずっと声を発していなかったであろう父は、話したくても直ぐに順応出来ないと。ならば、と少女は父親の鉄格子の扉に手を掛け、少しだけ力を入れた。その扉も開くのが当たり前だと言わんばかりに開き、彼女を中へと誘う。少女は父親の側に寄って行く。
「…お父様、お会いしたかったです。今日までお待たせして申し訳ございませんでした。漸く準備が調ったのです、どうか一緒に行きましょう?そして、お母様も迎えに行きましょう?お父様の冤罪は、必ず私が晴らします。だからどうか、一緒に…」
やつれた父親を抱き締め、少女は懇願する。時間の制限を魔法使いからされたわけではないが、決して無限ではないと分かっている少女は、とにかく父親が頷いてさえくれればと思っていた。魔法使いの事だ、きっと父がちゃんと休める場所を用意している筈なのだ。
「あ…っの……!」
「話さなくて良いのです。ただ、頷いて下さいませ」
自身の腕の中で必死に声を出そうとする、弱り切った父の姿は、ただただ痛々しい。少女は身体を放し、父親の顔を自身の両手で包み、視線を合わせた。
「私の心配はいりませんわ。私には強い味方が付いているのです。だからこうしてお父様を助けに来られた。大丈夫です、私を信じて下さいませ」
「……」
「っ、あ、あぁ、良かった!」
こくり、とゆっくり頷いた父親の姿に、少女は震えた。己の父は、ちゃんと生きる選択をしてくれた。それが何より嬉しい。
「ありがとうございます、お父様。さぁ、此処から出ましょう」
少女は父親を支え、ゆっくりと立ち上がった。弱り切っているとは言え、自身の父を、大の男の人を支えられる程力を持っているとは、正直思っていない。しかし、自身が怪力にでも成ったかの様に、父親を重いとは思えず支えられる自分が居る。これもきっと魔法使いのお陰なのだと、少女は感謝した。少女には今、頼れる人間は魔法使いだけ。魔法使いに会う前は、父や母、婚約していた頃は婚約者やその家族、友人と呼べる人々も居た。だが、今は。思い出してまた泣きそうになるのを、歯を食いしばって耐え、少女は牢を出た。
少女が牢を出て目に入った花を見た瞬間、少女の頭には一つの場所が思い浮かんだ。そして、其処に向かって歩き始めた。きっと魔法使いが其処へ行け、と言っているのだと思ったからだ。それに其処であるなら、父もゆっくり休む事が出来る。流石だと思った。魔法使いはちゃんと、自分の願いを叶えてくれている、と。