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輝きもいずれ

作者: 三角

  梅雨が来ると告げられたその日は、まるで真夏のような暑さだった。

 朝こそ曇っていたものの、九時過ぎにはもう太陽が照っていて、羽織ってきた上着をわきに抱えるはめになった。

 思えば、今日はついていないことだらけだった。

 目覚ましの電池が切れていたり、買ったと思っていたインスタントコーヒーの替えがなかったり、炭酸水を出しっぱなしにしていたことに気が付いたり、足をぶつけたり。

 幸いだったのは、ここ数年は目覚まし無しでも起きなくてはいけない時間には目が覚めるようになっていたということだけど、逆に休日は午後までまったく目を覚ますことがなくなってしまったという不幸がある。

 ここ最近は、不幸なことばかりだ。

 だけど、一番の不幸と言えば、それらをまあ人生こんなものかと達観したふりをして大人になった気でいる自分の存在だろうと思う。

 そして、今現在。工事をやっているらしく、バスがなかなか前に進まないというこの状況もまた不幸。

 正直に言ってしまえば、仕事に遅れる口実ができるので、幸運といえば幸運だけど、どうせ職場で時間に余裕をもってだのあらかじめ知ることができなかったかだのと言われるのがオチなので、これも不幸だろう。

 バスはクーラーが効いているけれど、どうにも効きすぎなように感じる。

 少し窓を開け、外の空気を入れる。流れ込んでくる風は熱っぽいが、クーラーで冷えた身体には心地よい。

 バスは少しずつ進んでいく。その横を自転車が通り過ぎてくのをぼんやりと見つめていた。

 夏が輝いて見えていたのは、いつまでだったろう。若いころから夏は好きな季節ではなかったけれど、夏には不思議な輝きがあった。暑くて、テンションが上がった連中が騒いで、プールや海だと盛り上がる。

 僕は外れたところからそれを見ていた。いつも誰かの陰口しか言わないようなやつも、夏場だけはこれからどう過ごすかということばかりを話していた。夏休みという巨大なイベントがあるからだろうけど、今にして思えば、学生でも社会人でも、休みがこころに余裕と優しさを生むというのは変わらないんだなと感じる。

 バスがまた進む。こんどはそこそこの距離を進んだ。流れ込んでくる熱風が強さを増す。風が強くなると、熱風でも少しは涼しい。

 そろそろトンネルに入るから、窓をしめようと思った時だった。

「おーい!」

 という声が響いた。学生だろう。とても大きな声だ。僕以外の乗客も、開いた窓から入ってきたその声に反応するほどだった。

 バスはその声を横切り、トンネルに入った。バス内が暗くなると同時に、頭の中でフィルムが回りだす。学生の声。周りの目なんて気にしない、真っすぐな叫び声。

 それに呼応するように、薄くなった記憶がその明度を増し、くっきりとその輪郭を見せ始めた。

 夏。はた目から見ていたその輝かしい季節。僕は、あの時の僕は、たぶんその輝きの中にいた。

 あの夏だけは、確かに輝いていた。

 薄暗いトンネルの中で、頭の中のフィルムが回り始める、まるで、映画が上映されるように。




 中学のころの話だ。

 僕は本を読むのが好きで、夏休みには毎日図書館に通っていた。

 本を読むようになったのは、祖父の影響だった。

 影響と言っても、祖父はそこまで本を読む人ではなかったのだけど、とにかく映画が大好きな人だった。

 筋肉をこれでもかと見せつけるアクション映画から、アートシアターギルドが製作したアート映画までなんでも観ていて、僕もまたいろいろな顔を見せる映画の世界に魅せられたいった。

 アート映画に関しては、テーマとか、奥深い内容だとかそういうことは理解していなかったろうと思う。小学生や中学生に理解できることなんて、この場面かっこいい! といった感情論的な見方だけだろう。いや、僕はそうだったということだけなのかもしれないが。

 とまあ、そんな風に映画ばかり観てきて、中学に進んだ。

 面白いもので、小学六年生と中学一年生では、精神性が異なる。たった一年しか変わらないのだけど、制服を着て、新しい環境に身を置くと、考えることや面白いと感じることに変化が生じてくる。それはたぶん六年間で無意識に蓄積したものや、意識的にやってきた何かが結びついて、花開いたということなのかもしれない。

 もちろん、僕の場合は映画だ。

 中学生になり、真っ先に家から少し離れた総合市民図書館へ行って図書カードを作った。家から近くの図書館のカードは持っていたけど、蔵書に大きな差があり、なにより、映画関連の資料や雑誌が申請して読めるものを含め、とても充実していたのだ。

 毎日のように、僕は図書館へ行き、貸出不可の資料を読み、借りた本を家に帰り読み、学校でも本ばかり読んでいた。

 自分でも映画を撮りたいと思い始めたのは、中学最初の夏休みだった。

 クラスメイトが夏休みの予定をあれやこれやと話し込んでる時に、僕は一人、自分の映画を考えていた。

 梗概(あえてあらすじとは言わなかった)をノートに書き連ね、絵コンテを書き込んだ。

 ここでこんな曲を使おう。ここではあえてクラシックを使おうなんてことを考えて、まるで映画監督のような気分だった。僕は映画用に百円ショップでノートを数冊買い、そこに自分が考えた映画について書き連ねていった。

 夏休みに入ると、ロケハンをした。

 ここではこんな風に撮れる。ここではこんな演出が映える。それがとても楽しくて、夏休みの間に映画用ノートは五冊以上になっていた。

 中学二度目の夏休みには、本格的に映画の脚本とコンテを作り始めた。中三の夏休みに自分の映画を撮ると決めたのだ。父親からビデオカメラを借り、自分だけの映画を作るんだと意気込んでいた。

 そして、迎えた中学最後の夏休み。映画のために真面目に中学生活を過ごしてきた僕は、推薦がもらえることはほぼ決定していて、映画に集中できる環境にいた。

 父親からカメラを借り、いざ撮影へ向かう。

 キャストは僕だけ。少年の心と、ありふれた街の風景が重なり、言葉ではなく画で感情を語る映画だった。

 しかし、撮り始めてみると、まったくうまくいかない。最初は家庭用カメラのせいにしていたけど、だんだんわかってきたのは、自分の想像を画にすることの難しさだった。

 そもそもにして、当時は編集だって今のように簡単にはできない。自分の理想の映画を作ることは、とても大変なことだったのだ。

 誰でもすぐ気づきそうなその事実に、僕は実際映画を撮り始めて初めて気が付いた。

 闇雲に時間だけが過ぎていく。八月も後半。もうすぐ夏休みも終わってしまう。

 その日、僕はカメラを抱えてただ歩き回っていた。

 目に映ったものをなんとなくカメラにおさめる。そうして、朝から夕方までただ歩き回る。

 普段は行かない公園に立ち寄り、ベンチに座り、橙に焼け染まる風景を見つめながら、この美しさをどうして自分は画にできないのかと落ち込んでいた。

 シャッター音が聞こえた。

 僕は、横を見る。

「ごめんね、夕暮れにビデオカメラを抱えて黄昏る少年なんて、なかなかないシチュエーションだから、ついシャッター切っちゃって」

 そこには、カメラを持った女性がいた。女性と言っても、制服を着ていたし、(のちにそれが最寄り駅から三駅ほど先の高校の制服だということを知った)そこまで年が離れているわけではないのだろうが、とても落ち着いて見えた。少なくとも、当時僕の周りには大人しい子はいたが、こんな風に落ち着いた空気をまとった子はいなかった。

「なにかの撮影?」

 女性は僕のビデオカメラを指さし訊く。

「あ、ええまあ」

 言葉が濁る。あんなに意気込んでいたのに、なぜだか映画を撮っているということが恥ずかしく思えた。

「そっか。私も撮影」

 そう言って、女性は首に下げたカメラを持ち上げる。

「結構いい写真撮れたんだよね」

「そう、ですか」

 少し間ができる。たぶん、このまま女性の方が「じゃあ」と言って去っていくのだろうと思っていた。

「映画?」

「はい?」

「撮影。映画?」

 だから、いきなりそう訊かれた時、うまく反応できずに、「はい」と間の抜けた声で返してしまった。

「そっかそっか」

 女性は嬉しそうに笑うと、僕の隣に腰掛ける。女性とこんな距離で並んだことがないので、僕は慌ててしまった。

「なんでわかったんです、映画撮ってるの」

「うん? よく図書館で映画関連の本探してるの見かけてたから。私もよく行くんだよねあそこ」

「そうですか」

「ん? なにか纏ってるものがあったんじゃないかみたいな期待しちゃった?」

「そんなんじゃないですよ。というか、あなたも、それ」

 僕はカメラを指さす。

「ああ、一応写真部なんだよ。撮った写真で、写真甲子園本戦にも行ったことあるんだよ」

「写真にも甲子園なんてあるんですか」

「あるよ。全国高等学校写真選手権っていうんだけど」

「すごいですね」

「君は?」

「僕?」

「うん。君は撮ったものを何かに送ったりとかしないの? それか、誰かに観てもらって感想もらったりとか」

「どうなんだろう。よくわかんなくなってきました」

 いざ撮り始めてみると、うまくいかないことばかりで、疲れてしまった。理想通りのものがいきなり撮れるわけがないのだけど、自分のイマジネーションはもっと良いものを生み出せるはずだと考えていたので、いざ実践してみてここまでだとやる気も削がれてしまった。

「うまくいかなかった?」

「……はい」

「そっか。でも、最初は誰だってうまくいかないものだよ。何年、何十年かけて、ようやく少しはマシになるっていうのが、写真とか映像の世界なんじゃないかな」

「だけど、それじゃいつまでたってもプロになれないじゃないですか」

 生意気なことを言ってしまったと思ったが、女性は優し気な表情を浮かべ、自分のカメラを抱える。

「なろうと思ってなれるものじゃないんだよ、きっと。いろいろな要因が重なって初めてなれるものなんだと思う。表現の世界ってさ、そこにたどり着くためのギフトを見つけて、それと引き換えにチケットをもらうことで初めて入り口に立つことが許されるんだと思うんだ」

 遠くを見つめている女性の目は、沈みかけた太陽ではなく、さらにその先を見つめていたように思えた。見えない景色を求めて、そこを目指して歩く。それはとても恐ろしいことだ。

「将来さ、もし君がプロの映像作家になって、私がプロのカメラマンになってたら、ここで会おうよ。ちょっとくさい約束だけど」

「無理じゃないですか? お互いにのことなにも知らないのに。今日初めて会ったわけですし」

「夏の終わりにここで会えばいいじゃない。で、お互いが夢をかなえたら、そこで初めて自己紹介するの」

「夏の終わりていっても具体的には……」

「うーん。じゃあ、夏休み最後の日。八月三十一日に、ここで会う。どう?」

「別にいいですけど、そんなにすぐ夢なんか叶えられるんですか」

「どれだけ時間かかってもいいよ。十年でも二十年でも。お互いの進捗報告会もかねて」

「……まあいいですよ」

 ぶっきらぼうにそういったけれど、僕の心は浮足立っていた。女性と知り合いになれたということも勿論だけど、映画のような約束をしたことが嬉しかった。フィクションがノンフィクションを侵食したかのような錯覚が心地よかった。

「それじゃあ、また来年ここで」

「そう、ですね。またここで」

 僕らは立ち上がり、女性は歩き出す僕を見送るようにその場から動かず、手を振っていた。

 少し歩いたあたりで、いきなり後ろから「おーい!」という声が響いた。びっくりして振り返ると、女性が手を振っていた。

「がんばれ映画少年!」

「そっちもがんばってください!」

 そう言い合って、僕らは別れた。帰り道、僕はずっと鼻歌を交えながら歩いていた。何かが始まるような、そんな感覚だった。ここから、映画のように話が展開していく。そんな予感がしていた。

 目に映るマジックアワーの景色が、きらきらと輝いていた。夏の景色は輝いて見えるというのは、こういうことなんだと僕は思った。

 そう、その夏は、そんな輝きに満ちていた。高校に進んでも、この輝きを忘れないでいよう。そう誓った。

 それが、僕がみた最初の夏の輝きであり、最後の夏の輝きでもある。

 あの後、僕は高校に進み、映画を本格的に、ということはなく、普通に学生生活を過ごし、卒業した。もちろん、あの公園にも行かなかった。

 小学生から中学生に進むときに精神性に大きな変化があるのと同じように、高校に進んだ時にもある感覚が芽生える。それは、自覚というやつだ。

 社会というものを意識し始めるとも言えるかもしれない。自分の立ち位置や、将来のことを考え始める。義務教育という枠から外れ、ある意味で社会というものの数歩手前に立つようになったからなのかもしれない。

 僕は、映画を遠ざけた。いや、映画が遠ざかったのかもしれない。

 映画が与えてくれた輝きが、ある日ふと見えなくなってしまった。

 それは僕が大人になっただとか、そういうことではなく、映画が僕を見放したのだと思っている。

 時間がなくても、映画は観れる。

 将来のことを考えるにしても、映画をみる時間はある。

 優先順位を設けて、それを逃げ道にして、僕は映画を遠ざけた。

 そして、僕は映画に見限られたのだ。


 自分の人生において、語るべきことがあるというのは幸運だと思う。

 失敗であれ美談であれ、それを思い出として振り返ることができるのは素晴らしいことだ。

 僕にとって、映画はそうはならなかった。今でも、好きだった映画のことを話すことはできるし、むさぼるように仕入れた映画や監督を巡る様々なエピソードも語る事ができる。

 でも、その言葉は鈍色で輝きがない。どんなに曖昧な言葉でも、そこに思いが乗っている言葉は、輝きを持っているものだ。

 僕は自分からその輝きをなくしてしまったのだろう。

 それからは、語るべきこともない。

 それからの僕は今ここにいる僕と大差はない。


 視界が明るくなった。トンネルを抜けたのだ。頭を駆け巡った思い出も、映画の終わりのように暗転する。

 トンネルを抜けてしばらくすると、渋滞は終わった。夏の空気を切りながらバスは走り、窓から入ってくる熱混じりの風が髪を揺らす。

 ここで涙のひとつでも流せればよかったのだろう。だけど、僕の表情は変わっていなかった。

 この唯一ともいえる輝きの思い出も、今の僕にとってはそんなこともあったなという程度のものになってしまったということだろうか。

 それは、なんだかとても悲しいことだと思った。

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