序:幻視残留2
そこには、水が滴る音が響いていた。
あまりに高い壁が周りを囲んで邪魔をしているために星明りも届かず、その場所だけが薄暗く淀んだ空気に満ちている。
(…はあ…はあ…)
入り組んだ迷宮――無様なまでに乱立するビル群の隙間に位置する、地図にも載らない小道の袋小路は、知るものも少なく、利用する者も皆無だった。
見捨てられた土地の、乱雑な残骸。
かつてこの世の栄華の一角を担っていた都市の成れの果ては、今はただ、そのがらんどうな巨体を晒すだけであった。かつて数百万という人間が行き来していたであろう建造物は、そのまま時代の墓碑となり、過去の栄光と共に朽ち果てていくだけの身であった。
いつから衰退が始まったのか、知る者はいない。数百を越える年月の間に失った技術は多く、欠けた知識はなお多い。
分かっているのは、過去如何なる文明とも異なる時代となったこと。そして、どんな世界であろうとも生き延びる人の生存本能、しぶとさが浮き彫りになった事。それが、獣としての本質であったのか、それとも破滅を前にして得た知恵であったのかは、分からない。
(はあ…はあ…)
震える身体は一向に治まる事も無く、それどころか、時がたつにつれて内の鼓動は激しい物となる。
小柄な身体は背を丸める事でさらに小さく見え、袋小路に踞る後ろ姿は半ば存在が埋もれているかの様であった。あまりに弱々しく薄い気配は、そのすぐ背後を通っても見逃していたかもしれない。
「はあ…はあ…」
切れ切れな呼吸は、如何なる恐怖からの逃亡か、それとも抑えられぬ興奮なのか。ぶるり、一際大きく体が震えると、その体がゆっくりと持ち上がる。
ガラスの様に虚ろな瞳は、目の前の光景を写してはいるものの、まるで現実を見てる様には見えない。その姿はまるで遥か遠くを望むかの如く、夢心地な表情であった。
どれだけの間、そうして虚空を見つめていたのかは分からない。
その停滞していた光景が動き出したのは、暗闇に等しかった周囲に、僅かながら光が差し込んだ頃。
天に開いた穴から降り注いでくる光がその場を映すと、虚ろであった瞳が徐々に焦点を結んでいく。やがて、何かに気付いたのか、その視線が下に向けられ、同時にその腕がゆっくりと目の前まで持ち上げられる。
薄暗かった先程までとは違い、弱々しいものの明かりが灯るその場所では、見間違える事もない。
違和感を覚えた腕――そこは、この世で最も鮮やかな深紅に染まっていた。目が醒めるかの様にあまりに強烈な存在感を示す姿は、いつ、いかなる場所であろうとも変わりが無い。
そこに込められた価値が一体どれ程の物であるのか、測ることはできない。人という種が持つ、生命の源泉の温かみが腕を伝い落ちる姿をその目に焼き付け、人影がもう一度、大きくその身を震わせ、
――その口元を例えようもない形状へと、歪めた。