第七話:リトルフラワー 2-1
太陽が海上の水平線へと沈み切る瞬間、緑色の光が一瞬だが強く瞬く。その現象はグリーンフラッシュと呼ばれている。
本来ならその現象は大気の状態や太陽光の強さ、適した地形等、諸々の条件が重なって初めて目にする事が叶う極めて稀な自然現象なのだが、この世界では毎日拝める。ある種の仕様である。そのためありがたみはほとんどない。それでも、初心者やゲーム内のカップルはそれを一目見ようと夕刻が近くなるとこのレイトタウンの臨海公園に集まり始める。
「まったく、ゲームの中でいちゃいちゃしちゃってさ」
そのオレンジに染まる公園に、オレンジに染まった女性がいた。
背丈は女性にしては高め、鮮やかなオレンジ色のツナギを着て、同じくオレンジに染めた髪が肩まで無造作に伸びている。いかにも活発そうでボーイッシュな顔立ちだ。
その女性は手摺に頬杖を突きながら、つまらなそうな顔で海を眺めていた。
「綺麗だけど、さすがに飽きたかな」
そんな事を言いながらも彼女はちゃっかりベストポジションに居座っている。海に面した手摺の中央だ。両サイドのカップルが煙たそうに彼女を見ている。鈍いだけなのか、図太いのか、はたまた単に嫌がらせなのか、それでも彼女は動かざること山の如しだ。
そして、夕日が海の向こうへと退場する瞬間、細い緑の光が一瞬海面を照らした。
周囲の控えめな歓声を聞きながら、しかしその女性は無感動に「光った」と呟くだけだ。
「こんなもの毎日見るものじゃないわね。クリスマスも正月も年一回だからありがたいわけで、毎日あったら逆にキツイわ」
それもそのはず、彼女は今日で三日続けてグリーンフラッシュを見ているのだ。一部のプレイヤー(主にカップル)からはここに住んでるんじゃないか、と噂されている程だ。勿論、住んでるわけじゃない。彼女はこの時間、この場所である人物と待ち合わせをしているのだ。それは待ち合わせというよりはずっと軽い、また明日、程度の口約束だが、それでも来てくれると信じて待っている。
「しっかし、来ないわね。忘れてるのかな。私、待ってますって言ったよね?」
彼女は誰に言うわけでもなく不機嫌そうに呟く。
「前みたいに父さんのキャラでメッセージ送ろうかなぁ。そうすればたぶん来てくれるよね。でもなぁ、きっとまた悲しい顔するよね」
不意に彼女は悲しげな表情になり、それを追い払うように首を振る。
「……仕方ない。今日は探してみようかな」
そして、彼女は歩き出した。
彼女の名前は皐月。プレイヤーネームもリアルの名前と同じ皐月。
火薬庫と呼ばれた男の一人娘にして、山井徹夫の唯一の身内。
「くそっ! やられた。冗談じゃねえ。あんなのに勝てンのか?」
無数のプレイヤーが忙しなく往来するターミナルの構内にて、皐月がある一角を通り過ぎようとした時、そんな大声が聞こえた。
何事か、と目を遣ると、通路の隅で数人のプレイヤーが話し込んでいた。タンクトップ、タトゥー、モヒカン。ロック信奉者のような、言ってしまえば明らかにガラの悪そうな、むくつけき男達である。
好奇心旺盛の皐月は足を止め、さりげなくその一団に近寄り、聞き耳を立てる。
「こっちも総動員で攻めてんだぜ? いくら奴だってもう限界のはずだ」
最初に叫んだ男に向かって違う男が言う。
「もう一度行こうぜ! 今度こそ奴の首を獲るんだ」
更に違う男がそう言うと、彼らは構内の中央へと進み出た。そして等間隔で宙に浮く青い球体の内の一つに近寄り、
「レイト南に転送しろっ!」
途端、彼らの身体を青い光が包み込み、光と同時に姿形も消えていく。
「………?」
皐月は今の会話がまったく理解できなかった。しかし、それでも持ち前の好奇心から構内の中央に足を進め、青い球体を観察する。内側から淡く青白い光を放つ、水晶球のような物体だ。よく見ると、中には歪な形をした線が描かれている。どこぞの島を上空から写した地図のようだ。手を伸ばし触れた。すると、
『転送エリアを選んでください』
音声案内と共に地名らしき文字の羅列が視界に表示される。
「なるほど、これでどっか行けるんだ。えーと、確かレイト南だったよね?」
『レイト南地区でよろしいですか?』
皐月が口にした地名『レイト南地区』が強調表示された。別に赴くつもりで口にしたわけではないのだが、捜し人が何処にいるのか見当も付かず、別に行ってみてもいいかなあ、と軽い気持ちで皐月は頷く。
「はい。じゃあそこに行きます」
突然、皐月の身体を青い光が包み込む。
「わっ、わわ。何これ? きゃ、きゃあぁぁぁ」
皐月は顔を両手で隠すようにして固まっていた。
周囲の喧騒に気が付き、恐る恐る目を開けると、そこは白い世界だった。
見渡しても視界いっぱいに白い煙のようなものが充満し、まったく前が見えない。不明瞭な叫び声や怒声、そしてけたたましい銃声だけが四方八方から聞こえてくる。
「え? えええ? 何ここ!?」
皐月が呆然と立ち尽くしていると、「邪魔だ。どけ!」と背後から誰かに突き飛ばされた。訳も分からないまま無様に顔面から転ぶ皐月。
「痛ったぁ! …くはないか、ゲームだし」
次第に煙のようなものが薄く、淡くなってくる。
皐月が倒れた体勢のままで状況を確認しようと顔を起こした。その時、
「行くぞおー! 突っ込めぇー!」
後ろから怒声。
皐月の背後、宙に浮く青い球体から数人のプレイヤーが飛び出してきていた。小銃を両手に携え、そのまま猛ダッシュで皐月に目掛けて突進してくる。
「きゃあぁぁー! 踏まないでえぇー!」
皐月は頭を抱えて絶叫する。
「ううぅううぅ」身を縮め、唸るように震える。しかし、いつまで経っても踏まれない。地響きのような駆け足の音も止まっていた。
「あ、あれ?」
ビクビクしながら目を開ける。と――――
そこには幾つもの死体が無造作に転がっていた。初心者でも一目で死体だとわかるような、わかってしまうような、圧倒的な出血量、決定的な致命傷。それはまさしく今さっき青い球体から飛び出してきたプレイヤー達の変わり果てた姿だった。
一人が助けを求めるように皐月に手を伸ばす。が、次の瞬間、ビシンッ、とその男の頭が弾けた。西瓜のように、無花果のように、そして果汁のような血液が皐月の顔面に飛び散る。
「ひ、ひぃ、ひ! ひゃぁあぁ!」
皐月はゴキブリのように高速で這い回り、近くにあった岩の陰へと転がり込む。
何処かから怒鳴り声が聞こえる。
「ガッデム! スモークが切れた! 誰かポータルにスモーク投げろや! 援軍が狙い撃ちにされてるぞ!」
「スモークもうありません!」
「こっちもです!」
「マキシマムガッデム! トライデントの連中には連絡取れたのか!? 援軍に来てくれるのか!?」
「連中、奴が相手と聞いた途端、断りやがりました!」
「ファック! ファック! ファァックッ! トリプルファックだ、くそったれ!」
間違った下品な英語。気が付けばその声は何処かからではなく、皐月の真横から聞こえていた。
皐月は知る由もないが、図らずも“奴”と戦っているクラン、我無我警備隊の最前線の岩場に隠れてしまっていたのだ。呆けたように周り男達に目を遣り、そしてそこでようやく周囲の光景を目にする。そこは緑が一葉もない、荒れ果てた岩山だった。所々にごつごつとした岩石がそそり立ち、それ以外は何も目に付かない。
皐月は悠長にも幼少の頃を思い出していた。父に連れて行ってもらったハワイの火山。ここはその火山に酷似している。
「あれれぇ? おかしいな? あの時は戦争なんかしてなかったけど?」
完全に混乱した皐月が意味不明な事を宣っていると、
「ヘイ! ユー!」
横から伸びてきた手が皐月の胸倉を掴んだ。
「このビッチ! 応戦しろっ!」
それは彼ら我無我警備隊のクランマスター、天道我無我だった。勿論、皐月はそんな事知らない。しかし、この場合、天道我無我も皐月を仲間だと、我無我警備隊の一員だと勘違いしているのだからお互い様だろう。
「え? えぇ? ええっと、私、何が何だか」
「おい! 気を強く持て!」
ガクガクと皐月を揺さ振る天道我無我。しかし、近くで生じた爆音に怯んで手を離す。その隙に皐月は距離をとった。
「シットッ! 奇跡ミラクルアンビリーバボーだ! こっちは三十人以上いるんだぞ。なのに、なのになんで押されてるんだっ! 追い詰められてるのは、獲物は俺達の方かッ。くそったれえぇぇ!」
狂ったように怒鳴り散らす天道我無我に、警備隊のクラン員が宥めるように声を掛ける。
「ボス、もう……俺達の負けですよ。逃げましょう」
「負けだと!? ふざけるな! ここで逃げたら俺達の、我無我のネームが廃るだろ!」
「……ボス気付いてますか? こっちの人数が減ってるんですよ?」
「知ってるが、それがわからん。なんでだ!? 殺られてもタウン行きだ。即行で戻って来れるだろ!? なんで誰も戻ってこない!」
「戻って来ても即行で撃ち殺されるから嫌になったんじゃ?」
「い、嫌になったって……! ガキの使いじゃナッシングだぞ! そんな理由で仲間を見捨てるのか? ふざけるなぁ!」
「ボス、お言葉ですが、うちは規律ゼロでいつもみんな好き勝手にやってます。誰も仲間の事なんか考えちゃいませんぜ?」
「つぅーー…! ファッキンシィット! 退くぞビッチども!」
そのボスの声を待たずして、すでに何人かのクラン員は青い球体へ向かって一目散に逃げていた。
「ヘイ! 待て、ビッチども! ボスを置いてくなぁ!」
その時、立ち上がり仲間を追おうとした天道我無我の頭部が吹き飛んだ。
「――――あ」
皐月はもう驚かない。驚くほどの余裕もない。茫然自失と、今さっき自分の胸倉を掴んだ男の死体を見詰めている。血に濡れた頭髪の間の裂傷から、どろどろと溶岩のように内容物が零れ出す。しかし、すぐにその死体は青い光に包まれて消えてしまった。
――――ああ、死じゃったらこうやってタウンに戻されるんだなあ、と皐月は放心しながらもそんな事だけは理解できた。
どのくらいそうしていただろうか。皐月はようやく我に返る。
「わ、わたしも、私も逃げなきゃ……」
皐月は未だに状況がわかっていない。それでも本能が告げていた。ここにいたら死ぬ、と。私はあの人達とは関係ない。でもあの人達が戦っていた奴にはそんな理屈関係ない。きっと視界の入った生き物ならなんでも躊躇なく殺せる。そういう類いの奴なんだ、と。
皐月は立ち上がり、青い光を目指す。
急がなくてはならないのはわかっている。しかし、走るのが怖かった。音を出したらきっと殺される。そんな思いが彼女の足を重くさせる。一歩いっぽ慎重に、足場を確かめるように歩く。
球体に手を伸ばせば届くほどの距離に近付いた。しかし、不意に、
「動くな」
後ろから制止。
それはおよそ人の体温というものが感じられない冷たい声。まるで物に話しかけているような声だった。
とうに引いていた血の気が完全に引き、とうに真っ白だった思考が停止する。皐月は盛大に肩を揺らしてから、咄嗟に両手を上げようとした。
後ろから、おそらく銃を向けられ制止を求められた場合、当然の反応だ。正解と言ってもいい。しかし、この相手にその行為は間違いだった。
空気を切り裂くような甲高い音。
近距離から、しかも銃口を向けられての発砲音は銃声というよりも単純な爆発。皐月は飛び散る血液に気が付いた。鮮血が流れ落ち、岩肌を汚している。
やや間を置いて自分の右手の違和感に気付く。
――――動かない?
見ると手の甲に穴が開いていた。直径五センチ程の大きな穴。だらんと垂れた右手は、今にも手首から血液と共に零れ落ちそうだ。
「手を上げろじゃない。動くなっつったんだ」
「ひっ! ひぐぅっ! 違う! 私、私はっ、あの人達とは関係な――――」
銃声。
今度はすぐに自分が撃たれた事を理解できた。その衝撃で倒れてしまったからだ。もっとも撃たれてから理解してもまったく意味がない。
左足の太股から夥しい量の出血。鼓動に合わせて筋状の血液が噴き出している。
「動くなっつったんだよ。口を動かせなんて誰が言った。耳が悪いのか? それとも頭が悪いのか? ははっ」
笑っている。この声は笑っている。しかし、その笑いは酷く渇いた、自嘲するような、作り笑いのような奇妙なものだ。
「そっちから仕掛けてきた癖に、ヤバくなったら逃げ出すとは、まったく、どういう了見だよ」
皐月は本能的に出血を止めようと必死に左手で右手を握り締め、その左手の甲を左足の銃創に圧し付ける。
致命傷以外の傷は放っておいてもすぐに癒えるこのゲームに於いて、その行為は無意味だが、皐月はそんな事ですら知らない。他にゲーム経験もなく、説明書も碌に読まず、基礎説明も面倒臭がって受けずにとばした、初心者というのもおこがましい、言うなれば非戦闘員なのだから。しかし、奴と呼ばれ皐月を撃った男は初心者ではない。そんな皐月の様子を見て、怪訝に思ったのだろう。
「なんだ、あんた初心者か?」
その声を聞いて、皐月は安堵した。わかってもらえたんだ、と。
しかし、皐月はここで声の主を直視してしまった。
そこには黒い男がいた。
黒色の戦闘服に黒色のライフル、黒色の目出し帽。その目出し帽から覗く冷たい眼差し。
その瞳の奥を覗き込んだ途端、動物的な直感が皐月の脳内で悲鳴を発する。
――――この人は殺す! きっと視界に入った物ならなんでも躊躇なく殺す、そんな人だッ、と自身で感じた本能が今、確信となって蘇る。
皐月は自分の好奇心と軽率さを呪った。
「ガチで耳が悪いのか? 初心者かって聞いてんだけど」
そう言うと男は面倒臭そうに頭を掻いて嘆息し、「ま、いいか」とどうでもよさそうに呟いて、再び皐月に向けて銃口を持ち上げる。
「ひッ、は、はい! はいっ! そう、そうです、そうです!」
男は必死に応える皐月に顔を顰め、また面倒くさそうに嘆息しライフルを下げた。
「なに、最近は初心者も俺を狙ってるのかい」
「ち、違いますっ! わ、私はあの人達とは関係ありませんっ!」
それに対して男はふぅん、と皐月を値踏みするように見て、
「命乞いにしては聞き苦しいし、演技にしても見苦しいな。……ってことは本当に巻き込まれただけかい。だったら悪い事したな」
「……は? は、はい。………え? あれ? その声……」
その急に穏やかになった男の声色は、皐月にある人物を思い出させる。三日前、臨海公園で会話をした青年だ。
背丈も服装も、その声も、間違いなく三日前の青年と同一。しかし、皐月はその目で見て、その耳で聞いても信じられない。目の前の男は、あの今にも泣き出しそうだった青年とはまるで別人だ。あの時はニット帽のように捲り上げていた覆面を、今は引き下げ顔面を覆っているので正確な相貌はわからないが、それでもそこから覗く目と口は確かにあの青年と同じ形をしている。形は同じだが、発する雰囲気があまりに懸け離れていた。
虚のような双眸は斑に濁ったようでいて、どこまでも澄んだふかい、深い、不快、闇。
「あ、あのっ、もしかして、……レイさん、ですか?」
「何……?」男はレイという言葉に反応を示した。「そういえばその声、聞いた事あるな。誰だっけ?」
「あ、はいっ! 皐月です! 三日前に話した。山井徹夫の娘、皐月ですっ! ほ、本当にあのレイさんなんですか!?」
男は暫く考えるように皐月を見詰めて「ああー、あんたか」と鷹揚に頷いた。
そして「治った?」と短く訊いた。
「え? 何がですか?」
首を傾げる皐月に男は「手と足」とだけまた短く答える。
皐月は首を傾げたまま自身の身体を見てみると、手足の出血は止まり銃創も塞がっていた。更に衣服の着弾して破れた箇所まで直っている。
「え。あれ? あれれ?」
疑問符を発しながら立ち上がり、手足や服を不思議そうに撫で回す皐月に、「……治ったな」と男は独り言のように呟くと、足早に青い球体へ立ち去ろうとする。
「え、ええぇ!? ちょっと、ちょっと待ってくださいっ!」
皐月に呼び止められ、男は面倒臭そうな態度を隠そうともせず、心底だるそうに振り返った。
「レイさんなんですよねっ!? 私ずっと待ってたんですよ! 臨海公園でずーとっ!」
「……誰を?」
「あなたを! ……もしかして忘れてます? 父のこと話してくれるって言ったじゃないですか」
また男は考えるように皐月を見詰めて「そうだっけっかなぁ」と呟き、
「…じゃあ、付いて来て」
そう言うと青い球体へ再び足を進めた。
「え? あの、レイさん、どちらに?」
「いいから来て。それから――――」
ここで男は振り返り口調を強める。
「俺の名前はカイ。その名で呼んでいい人は、もういない」
これが、黒い凶戦士カイと、後に“華薬”と呼ばれる皐月の運命的な出逢い、否、致命的な出遭いだった。