第二十二話:全てに光を
不明瞭な声が聞こえる。
誰かが誰かを悲しげに、苦しげに、呼び続けているようだ。
酷く長い夢を見ていたかのように、頭が重く、意識が定まらない。数ヶ月間、いや、もしかしたら数年間にも及ぶかもしれない長い、長い、虚構の夢。
「……カイ」
その声が自分を呼ぶものだとわかった。
これも夢なのだろうか。確信が持てない。
「カイっ。……カイ!」
目蓋を開けた。
目の前には、泣き腫れた皐月の顔があった。
曖昧な意識のまま、口を開く。
「お前は……本物か……?」
意識を取り戻したカイを見て、皐月は一瞬驚いたように目を見開き、カイに抱き付いた。
「あああッ……! カイ、カイ、カイッ! よかったあ……。生きてた、カイが生きてたよう!」
カイの身体をきつく抱き締めたまま、皐月はわんわんと子供のように大声で泣き始める。
カイはどうしたらいいのかわからずに、両手を皐月の背の周囲で彷徨わせていた。
ふと、右手の奇妙な痺れに気が付いた。.45口径拳銃を連射したような痺れ。それがはっきりと残っていた。つい数秒前に撃ったかのような痺れだ。
顔の前に持ってきて、何度か握り締め、確信する。この痺れは本物だ。紛う方ない本物であると確信できた。
途端、全体的におぼろげで、断続的に入り乱れていたような記憶が繋がっていく。旗を持ち帰り、戦いに勝利したはずだった。しかしPK達に銃撃を受け、死にかけていた。
カイはもう一度、右手を握り締める。皮製の指貫のグローブが、ぎゅううと、力強く鳴った。
夢の終わりに、誰かに助けられ、そして誰かと対決した。そんな気がした。しかし手の痺れと同じように、こうしている今もその夢の記憶は色褪せて、皐月の泣き声に呼び起こされるかのように現実の記憶が蘇ってくる。
最後に見た場面は、並ぶ二つの旗と、こちらを見下ろし泣き崩れる皐月。全てが現状と直結する。
つまりこの世界も、皐月も、
「本物なんだな……。お前は本当に皐月なんだな……ッ!」
震える声で、確かめる。
「カイ、ごめん。ごめんねカイっ。騙してごめんっ。わたし、私、生きてたんだよ……」
「……なんで……。なんだよ、それ。騙したって……ふ、ふざけんなよ……」
スペシャルクエスト、ヘルズプレーリー。ここは二つの旗が並ぶ小山の頂。
ジャミやキロとリマ、鎧の通信員やビークルカンパニーの面々は、いつまでも起きないカイを見て、戦いは終わったのだと諦めて、既にこの場を去っていた。しかし、周りでは、最後まで諦めなかった者達が、二人を見下ろしていた。ウィスキー、ビクター、カンカラス、GGBだ。意識を戻したカイを見て、皆が胸を撫で下ろしている。
「私だけじゃないの」
皐月は泣きながらも、優しげな笑顔を湛え、背後の者達を指し示す。
「栞ちゃんも、シマドリさんも、ハンヴィくんも、みんな生きてるよっ」
「……お前ら……なんで……ッ?」
そして、カイの知るところではこの戦いに参加していなかったはずの、ヘルズスノウフィールドで死亡し、現実でも命を落としたと思っていたはずの、栞、シマドリ、ハンヴィの姿が、カイを見て安堵している三人の優しげな顔がそこにはあった。
「ふ、ふざけんな……。お前ら、俺がどれだけ……くそ。……ふざけんな」
目を隠し、唇を震わせながら、カイは弱々しく悪態を吐き続ける。
「カイ、ごめんね。ほんとにごめん……。たった一人にして……辛かったよね。本当にごめんね……」
皐月も嗚咽混じりに謝り続けた。
「いやあ、すまんかったのお、黒いの」シマドリが頬を掻き、ばつが悪そうに苦笑する。「さすがのわしも、こればっかりは謝るしかないわい」
「うわああん。すいませんですエクスレイ先輩。僕らもほんとに辛かったですよう」
ハンヴィはガスマスクの中でぼろぼろと泣いていた。
「……すまなかった、凶戦士」栞は切迫した表情で深くカイに頭を下げ、抱えたままのセンチピードの遺体とGGBの方に視線を配り、もう一度繰り返す。「……すまなかった」
GGBは栞とは視線を合わせようとせず、そっぽを向き、ぷるぷると震えている。堪えているようだが、抑え切れなかった涙と鼻水が盛大に流れ落ちていた。
「しかしのお、わしらが生きてるのを隠してたのには、もちろん理由がある。いや、正確には死んだ事にしておく必要があったと言うべきか。……詳しくは、彼女らに訊いてくれや」
シマドリは、皆が一団でいる地点から二つの旗を挟んだ反対側へと顎をしゃくる。
カイはそちらに視線を向け、目を点にした。
だぶだぶの濃紺のツナギに同じく濃紺のニット帽。ニット帽から垂れ、左右に分けられた前髪の間では、蛇のような大きなつり目が爛々と輝いている。
それが二人。
「――は?」
一人は両手に手錠を打たれ、つまらなそうに唇を突き出している。もう一人はその隣で腕を組み、顎を軽く持ち上げ、高圧的な眼差しでカイを見据えていた。
そこには印象の異なる二人のズールが立っていた。
「ね。逃げないからさ。これ外してくれないかな」手錠を打たれた方のズールが身動ぎし、もう一人に向けて拘束された手を指し示す。「ちょっとみっともないよ」
「あなたは暫く黙ってなさい」
高圧的なズールがチャックを閉じるかのように手を動かす。すると、まるで魔法のように中空にガムテープが現れ、手錠のズールの口元を覆ってしまう。うーうーと呻っていたが、すぐに観念したように項垂れた。
「お前らは一体……?」
なにやら優位な立場にあるらしい方のズールがカイに視線を戻す。
「二重の意味で、久しぶりね。私個人としては約二週間ぶり、でもこの姿で会うのは随分と久しかったわ」
「な、なに? 何を言って……?」
そんな意味不明な言葉に、カイは眉根を寄せるが、同時に微かな既視感のようなものを覚えた。この一種独特な言い回しと、やたらと高圧的な態度には覚えがあった。
「もう一つの姿の方がお馴染みかしら? 少し待ってなさい」
言って、忽然と、ズールの姿が消失した。しかしほとんど間を置かずに再び同じ場所に出現する。そしてその姿は体型も、服装も、年齢も、全くの別人に取って代わっていた。
少女というより幼女に近い体躯。白いローブを纏い、フードを目深に被っている。レンズの小さな丸眼鏡を掛け、その中には、年齢には不釣合いな意思の強そうな鋭い眼差しがあった。
「……お前ッ、バハムート!?」
「いちいち叫ばないでいいわよ。自分の名前ぐらいわかってるから」
バハムートは鬱陶しそうに唇をへの字に歪める。当然、声もズールのものとは変わっていた。覚えのある、幼げな声色にはあまりに不似合いな尊大な口振り。
「お前、死んだはずじゃ……?」
「しんだはずじゃあー、ねえ。やめてくれない、その科白。随分と安っぽく聞こえるわ。それに死んだなんて誰が言ったの? あなたが一人で勝手に勘違いしていただけでしょう」陰湿げに冷笑し、バハムートは皐月達を指し示す。「彼女達も然り。死んだなんて誰も言ってない。死んだなんて証拠はどこにもなかった。だから、生きていたっていいでしょう」
「………」
バハムートの迂遠で嫌味げな言い回しは事態を理解する助けにはならず、逆に助長している。カイは言葉を失い、呆然とバハムートを見ていた。
「あのね、カイ」
助け舟を出すように皐月がゆっくりと口を開く。
「今、私達四人はね。リアルではバハムートさんの部屋でお世話になってるの」
「部屋って……」カイは栞、シマドリ、ハンヴィへと順繰りと目を遣る。三人は微かに首肯した。「どういう意味だ?」
「順を追って説明するよ。リアルでオフ会をしたのは覚えてるよね。カイと栞ちゃんと私、駅前のファミレスで」
「……ああ」
スペシャルクエスト、ヘルズタウン。当選者しか受けられてないと思っていたスペシャルクエストに強制参加させられ、更に現実を見失うような催眠にかけられるという事態から辛うじて脱した直後、カイ達はこのゲームは危険だと判断し、とりあえずリアルで会合し状況を整理するという方針に至った。
「あの時、私の携帯電話にメールが着たの、覚えてる?」
暫し記憶を辿り、カイは思い出す。大音量のアニメソング。皐月の携帯電話の着信音だった。メールを受信し、その画面を見た途端、小さな驚嘆を発し、挙動不審になる皐月。怪訝に思ったが、わざわざ他人のメールを気に掛ける必要もないだろうと、大して気にしなかった。
「あのメールはね。バハムートさんからだったの」
「え?」
カイはバハムートの方を見遣るが、バハムートは小さく肩を竦めるだけだった。説明は全て皐月に任せるとでも言いたげな態度だ。
「メールにはさ。カイにばれないように、栞ちゃんと二人で暫くそこに留まり続けろ、みたいな事が書いてあったの」
そういえば、カイが帰ろうとした段になって、今後の調査はどうするのかと二人に問うた時、その問いを今からどうするのかという意味に取り違えた皐月は、カイと同じく帰ろうとする詩織を執拗に引き止めていた。
「あの後、あそこにバハムートさんが来て、教えてもらったんだ」皐月は目を伏せ、どこか悲しげな表情で付け加える。「……全てを」
「そんで、事態に対処するために白羽の矢が立ったのがわしらや」
シマドリとハンヴィが一歩カイに歩み寄る。
「わしらんとこにも覚えのないアドレスからいきなしメールが着てのお。このゲームとお前の事で、どうしても教えなければならん事があるってな。んで、あのキルハウスの練習試合の前の日、リアルでバハムートの姉御と会うて全部聞かされてたんや。いやはや、最初は新手の宗教かなんかかと思うて、大層驚いたで」
「ほんとですよう。僕なんか初めてリアルでシマドリさんと会えるーぐらいの軽いのりでうきうきだったのに、突然色んな話を聞かされて、ほとんどぽかーんとしてましたよう」
「お、おいっ、ちょっと待て」
カイは二人の言葉を制した。
彼らの話からはいまいち、いや、大事な所はほとんど何もわからなかったが、ただ整理するに、どうやら四人はバハムートに呼び出され、リアルで会合を開いていたようだった。ウィスキー率いる現フォネティックメンバーとの練習試合の前日、カイが皐月と栞、二人とオフ会で会っていたのと同じ日に。
何もわからなかったが、込み上げてくる感情だけは理解できる。
「お前ら――」カイはシマドリとハンヴィを睨み付ける。「じゃあ、最初から全部知ってたのか? 虎屋の前で俺を待ってた時から……?」
「当然。ちなみにあん時、お前が近付いてくるのも気付いとったで。あの会話は嘘の設定に現実味を持たすためにわしらのアドリブじゃ。それにあの雪原のクエストで、HMDが外せのうなってって騒いだのも芝居や。外せのうなったのは本当やけど、そうなる事は事前に知っとったからのう。名演技やったやろう」
得意顔で言い放つシマドリ。カイは絶句し、神経を疑うような目で見た。
「なあ!? そんな顔すんなや! 騙して悪かったって謝ったやろ」
「ごめんなさいですぅエクスレイ先輩。僕はシマドリさんを止めたんですよ。でもシマドリさんが面白がって……」
「て、手前え! この裏切りもんが!」
カイは皐月と栞にも恨みがましい視線を送る。
「お前らも……全部演技だったのか? 一体どこから……?」
どこからと問うてみたが、問うまでもなく明白だった。事前に全てを知っていたというのならば、知ってからの全てが演技だったのだろう。リアルでの会合でバハムートから全てを明かされた、皐月、栞、シマドリ、ハンヴィの四人は、それ以降、カイに対して、この仮想現実の世界に対して、“何も知らないという芝居を打ち続けた”。自分達の死に到るまで、偽り通した。
「ご、ごめんカイ。ほんとうにごめん!」
「……すまない、としか言い様がない」
「まあ、彼らをあまり責めない事ね」バハムートの冷たい声が割って入る。「全てを指示したのは私であり、全てが必要な事だったのよ。事態を収束させるために」
そこまで言って、皐月を見遣るバハムート。皆が皐月に視線を戻すが、皐月は少しおどけたように苦笑し、バハムートに何かを譲るように手の平を差し出す。きっと事情を説明するのを諦め、バハムートに託したのだろう。
バハムートは鼻から軽く嘆息し、続ける。
「あなたを騙したのは、この仮想世界の全てを騙すため。彼らをあたなと行動を共にするように仕向けたのは、スペシャルクエストを誘発させるため。そして彼らが死んだ事にしたのは、最後の戦いを引き起こし、彼女のしっぽを掴むため」
隣に立つズールをバハムートは横目で見た。
ズールは、いつの間にかカイを凝視していた。手錠を打たれ口にテープを貼られたままだというのに、そんな事にはまるで意を介した風もなく、何を考えているのかわからない、およそ人間らしさを感じさせない、機械のような無機質に過ぎる光を放つ双眸で、カイの反応を観察していた。
バハムートはもう一度小さく嘆息した。そして栞の方に頭を向ける。
「彼女の遺体を降ろしてあげて」
栞は怪訝そうな顔をするが、言われた通りにずっと抱えたままだったセンチピードの遺体を優しく地に横たえた。
すると、センチピードの遺体は一瞬で消失し、次いでプレイヤーの出現を意味する青いリング状の光がその場で点り、健全な状態のセンチピードが現れた。
「はっ!? うおおぉ。なんだなんだ、どうなってんだぁ。いきなり復活したぁ」
自身の身体を見回しながら騒いでいたセンチピードは、背後で呆然と佇む栞の姿を認めるや否や、怒りに引き攣ったような表情に一変、目前にまで詰め寄り、胸元に指を突き付ける。
「てんめえぇはッ、すまないすまないじゃ済まないんだよぉ! 人がどれだけっ」
「ストップ」しかしバハムートの鋭い制止に止められた。「積もる話は後にして。ゴーストの状態でも会話は聞けるだろうけど、一人だけ死体というのも可哀想だからリスポンさせてあげたのよ」
先から、自在に姿を変えたり、魔法のようにガムテープを出したり、プレイヤーを復活させたりと、どれもこの仮想現実では有り得ないはずの事象である。まるでこの世界の全てを管理下に置き、掌握しているかのような言動。
「奇しくも、今この場に集まってるあなた達には全てを知る権利がある。だから話すわ。問題と解答。つまり、私が講じた策の全てと、起こった事の全てと、この世界の全てを」
バハムートは徐に右手を上げ、ずれてもいない眼鏡の縁を、つい、と持ち上げる。
「私が全てに気付いたのは、スペシャルクエスト、ヘルズタウン。あなた達の目の前で不可視のナイフ遣いに頚動脈を切り裂かれて、キルされる直前」
秋葉原を模した特異なマップ。駅前のコンビニの中、何か重大な事に気が付いたというように大きく見開いた目にカイを映して硬直するバハムートだったが、唐突に首筋から鮮血を迸らせ、自身の血に沈んだ。カイは純白のローブが赤黒い血液に染まっていく場面を今でも鮮明に思い出す。
「スペシャルクエストとは、このゲームをより一層面白くする一環として、最上級に分類される例外的なプレイヤー達のために、ゲームでの死イコール現実での死という最高のスリルを付与された特殊なクエスト。私はそう勘違いしていた。勘違いさせられていた。でも、それまでの調査では一切確認できず、予想だにしなかった異常事態を、あのクエストで自身の身を以って体験した時、私は全てが解かった」
一拍の間。二つの旗の反物が揺れていた。バハムートは続ける。
「真実に気が付いた私は、まず皐月と栞、次にシマドリとハンヴィに急いで連絡を取った。ゲームとは関係を持たない、携帯電話のメールでね」
「携帯のアドレスなんて、一体どうやって……?」
慄いたようなビクターの問いに、バハムートは呆れたように嘲笑する。
「今更、随分と常識的な事で気を揉むのね。相当な知識と多少のお金、そしてチョイ悪なツテがあれば、携帯電話のアドレスなんて即日で調べが付く。携帯であれ、パソコンであれ、電子の世界を介した時点で、完全なるプライベートなんて存在しない」
「なんでこいつらなんだ? なぜこいつらを巻き込むような真似を……?」
カイはシマドリとハンヴィを指し示してから、バハムートを睨み付け、付け加える。
「……なんで俺にだけ黙っていた?」
既にヘルズタウンの時点で巻き込まれていた皐月と栞はわかるが、今まで全く関係がなかったシマドリとハンヴィの両者がなぜその場面で出てくるのか。カイには理解できなかった。そして、自分にだけ真実を隠していた理由は、騙していた事情は、理解もできないし、如何なる理由があろうとも、容認できそうになかった。
「彼らに協力を仰いだのは、彼らが最も相応しかったから。あなたにだけ話さなかったのは……結論を急かすんじゃないわよ」
カイを騙していた理由は事件の真相に迫るもののようだ。バハムートは極々小さく頭を振った。
「私の講じた対策ではスペシャルクエストを誘発させる必要があった。そのために彼らは適任だったのよ。言うなれば着火剤。単純に連絡が取り易かったという即物的な理由もあるし、共に二つ名を持つ彼らが仲間に加わればより速い段階でスペシャルクエストが再発するのはわかっていた」
バハムートは、ここで初めてウィスキーへと視線を転じた。
「シマドリとハンヴィに、フォネティックメンバーへ練習試合を持ち掛けるように指示したのは、この私よ」
「持ち掛けるって……。シマドリとハンヴィの方から? ウィスキーから誘われたんじゃないのか?」
カイがウィスキーを見遣ると、既にその点についての不審は察していたウィスキーは首肯する。
「俺が誘ったわけじゃない。逆だ。元シエラと元ホテルの方から練習試合を申し込まれた」
「おっとお。その言い草やと気付いとったみたいやな」シマドリとハンヴィは顔を見合わせ、苦笑する。「いや、フォネメン抜けた身のうちらが、脈絡もなくいきなし練習試合申し込むんは、黒いのに不自然だと思われる思うてな」
「嘘ばっかりですいませんですエクスレイ先輩。でも今思うと、あのアドリブの方が余計でしたよね。もしエクスレイ先輩とウィスキー先輩がその点についてしっかりと話してたら、矛盾でバレちゃうかもしれなかったんですから」
「全くよ。余計な事ばかりして、危なっかしいったらないわ。……もっとも、指示をした私がその辺りの現メンバーと元メンバーの確執的な不調和について考えが及ばなかったのも、悪いのだけれど」
バハムートは不機嫌そうに短く嘆息してから、続ける。
「別にフォネティックメンバーとの練習試合が必要だったわけじゃないのよ。あの練習試合はただの思い付き。必要だったのは、もっと大枠的な、あなた達が活発的に動くという事それ自体。具体的にはターミナルやポータルからの転送。バトルやクエストの読み込み。それらの、言うなれば継続的なゲームのプレイを寸断する一瞬の間が、突発的なスペシャルクエストのトリガーとして選定され易いのは予想できたから」
予期せずに起こったヘルズタウンとヘルズスノウフィールド。前者は栞を仲間にした直後、白宜タウンのターミナルからレイトタウンへの転送を選択した瞬間に生じ。後者はシマドリとハンヴィが加わり、練習試合二回戦目の読み込みの際に生じた。バハムートの言う通り、両者共に行動を共にする者が増えて間もなく、なんらかのロードを行った時に発生している。
「………」
シマドリとハンヴィから練習試合に誘われた際、カイも同じような事を考え、その誘いに乗った。最上級である彼らと行動を共にすれば、栞を仲間にした時と同じように、スペシャルクエストが発生するかもしれないと、そう思った。異常な戦場で再び戦いたいと、そう欲した。
戦闘への欲求と良識、その二つの葛藤でカイが最後には欲求に降るという事も、バハムートは予見していたのだろう。
「そして彼らのもう一つの役割は、保険。実際にスペシャルクエストが発生した場合、皐月と栞だけでなく、できればもう二人分ぐらいの証人が、証拠が欲しかった。証拠というのは、この事件の物的証拠、誰が見ても異常事態が起きているのだと納得させ得るだけの物証。虎屋で話した時にも言ったはず。私が欲しかったものはあの時となんら変わらない。即ち、スペシャルクエストのプレイ動画、延いては自殺催眠の映像と音声よ」
バハムートは徐に右手を肩の高さまで上げ、「ここだったかしら……いえ、このif文が関連してるから……ああもう、我が子ながらトリッキーな組み方をしてるわね、エルヴォ」と、俯き加減でなにやらぶつぶつと独り言を呟き始めた。
すぐに独り言は止めるが右手は上げたまま、顔を起こす。
「リアルで彼ら四人と会った時、私はある機材を手渡した。ソフトとハード。エルヴォの何らかの妨害があってもプレイ画面を録画し続けられるよう私が手を加えた特殊な録画ソフトと、更にその保険用として、小型モニターとハンディビデオカメラを一台ずつ。――ああ、あった。これよ」
言って、バハムートが上げたままにしていた右手の先、何もない中空に巨大なスクリーンが現れた。
「!」
縦横五メートルほどの大きな正方形。三次元の空間に二次元の平面であるスクリーンが浮かんでいる。さながらパソコンのモニターにウィンドウが表示されるかの如く唐突に現れたそれは不可思議極まりなかった。
ここはゲームの中なので、先のガムテープを出現させた時と同様、このような魔法的な所業も可能ではあるのだろうが、リアリティを売りにしたこのFalse Huntではまず目にする機会のない現象であり、超常と形容しても過言ではない。皆が目を剥き、まだ何も映さない暗黒のスクリーンを見詰めていた。
唐突にスクリーンに映像が映る。
「――!」
そこに映りこむものを見て、一同は再び息を呑んだ。
フェンリルだ。
雪原にて、随所を破壊され、脚を折り突っ伏した、斑の赤に彩られたフェンリルが画面いっぱいに映っていた。
不意に起き上がり、こちら側を、中から画面の外を見るように正対するフェンリル。画面右下からショットガンを持った右手が振り上げられ、フェンリルの亀裂に銃身を挿し入れた。直後、フェンリルの姿が大きくぶれ、生々しい衝突音を伴って画面も揺れた。上下左右、激しく回転し、雪面に密着した状態で止まる。数秒後に起こされた画面には、弧を描くように雪原を疾駆し、再びこちらに向かってくるフェンリルが映っている。
それはヘルズスノウフィールの最後の場面。皐月の主観視点を映した、いわゆるプレイ動画だった。あの場に居合わせたカイは勿論、他の者達も皐月が背に吊っているベネリ M3ショットガンの銃口から銃身にかけて奔る奇妙な傷跡から、それが彼女の主観である事を察した。ただ一人、カンカラスだけが皐月の方を見ようともせず、鬼気迫る表情で画面の中のフェンリルを凝視していた。
「ご覧の通り、録画は成功したわ。四人とも、録画ソフトの方でもパソコンに接続したマルチモニターを撮ったビデオカメラの方でも、最初から最後まで、ばっちり録画している」
バハムートが話している間も映像は進む。
遠方の尾根にカイの姿が映り、フェンリルの周囲で擲弾の炸裂や弾丸が噴き上げた粉雪が舞う。だが、フェンリルはこちらに、皐月に向かって突進を続け、そして――、
「おっと、ここまでよ」と不意にバハムートが右手を振り下げ、同時、忽然とスクリーンが消えた。
いいところだったのに、とは誰も言わないが、どこか恨めしそうな視線でバハムートに注目を戻した。
「何よ、その目は。見たいなら見せてあげてもいいけど、命の保証はしないわよ? HMDにダイレクトに映っているわけじゃないから、この状態でなら見ても問題ないとは思うけれど、百パーセント安全とは言い切れないわ」
「え?」
「なに。もう忘れたの? 私が欲しかったのはスペシャルクエストのプレイ動画と自殺催眠の映像音声と言ったでしょう。あの映像には最初から最後まで全て録画してあると、そう言ったでしょう」
つまり、先の中空のスクリーンに映った映像の続きには、それが収められていたという事。自殺催眠の映像と音声が。
「――て、ちょっと待てよ」カイはバハムートをまじまじと見遣り、次いで皐月達にも視線を転じる。「そうだ、お前ら、そもそもなんで生きてるんだ……? その映像を見せられて、自殺催眠に罹ったんじゃないのか?」
現に、皐月の主観視点を映した先の映像にはそれが映っているという。ならば、なぜ皐月は無事なのか。四人とも録画に成功しているならば、栞も、シマドリも、ハンヴィも、なぜこうして無事でいられるのか。バハムートにしたところで、ヘルズタウンでそれを見せられているはずである。
「そう。確かに私達が死亡した瞬間、HMDには自殺催眠の映像が流された。けれども、私達は見ていない。映ってはいたけれど、見てはいないのよ」
「……どういう事だ?」
「酷く単純で、容易で、間の抜けたとさえ言ってしまえるような回避方法が、自殺催眠にはあったのよ。いえ、正確には自殺催眠の映像を見ないで済む方法が」
バハムートは、ぱちりと、片目を閉じて見せる。
「見たくないなら、眼を閉じてしまえばいい。私達は眼を閉じたのよ。キルされる直前、強く目蓋を閉じた。だから自殺催眠の映像を見ないで済んだ。それが論理的思考。当たり前の話ね。一足す一は二よりもずっと単純にして明快」
「……は? なんだよ、それ。たったそれだけ? それだけの事で?」
「そう。たったそれだけの事で私達は死なずに済んだ。ヘルズタウンでキルされた瞬間、私は死を覚悟して、眼を閉じた。自殺催眠に伴う音声であろう言いようのない奇妙なノイズが聞こえてはいたけれど、音声だけでは効果は発揮されなかった。数分後、皐月達のプレイ動画を分析した具体的な再生時間は四分二十三秒後、音声が途絶え、同時に仮想現実から抜け出せなくなる催眠も解け、普通にHMDを外す事ができた」
尚も納得し切れない様子で眉根を寄せる一同を見て、バハムートは肩を竦める。
「気持ちはわかるわよ。私も最初は驚いたから。でもね、これもよくよく考えたら当然の仕様なのよ。確かに、現実と仮想現実を倒錯させたり、自身で考え得るベストな方法で自殺させたり、そんな複雑な催眠をかけられるぐらいだから、眼を閉じるな、という催眠ぐらい容易いわ。でも、ゲームをプレイしているわけだから、まさか眼を閉じるなとは強制できない。瞬きもできなくなってしまったら、眼が渇いてまともにプレイできなくなるから。そして、エルヴォの使う短時間の催眠は即効性であり、遅延効果は望めない。つまり、死亡したら眼を閉じるなだとか、死亡したら眼を開けろという類の、何々の後には何々しろ、といった催眠をかける事は不可能なの。たとえ死亡した瞬間に眼を閉じるなという催眠をかけるにしても、死亡する直前に眼を閉じてしまえば、その催眠にもかかりようがない」
皆の理解を待つためか、バハムートは一拍間を置いて、続ける。
「自殺催眠の被害者達は、そもそも自殺催眠の存在なんて知らなかったから、キルされても眼を開け続け、催眠映像を見入ってしまった。しかし、私達は事前に知っていた。そして、大半の人間が死を覚悟した瞬間、強張るように眼を閉じるという事を、エルヴォは知らなかった」
虎サンはどうだったのだろう、とカイは考えてしまう。
あの異常なクエストがエルヴォに因るものだと察していて虎サンだが、その結末に自殺催眠などという恐ろしいものが待っているなど予想だにしなかったはずだ。故に、ロシナンテにキルされた後、催眠の映像を見入り、音声を聞くしかなかった。他にどうする事もできなかった。
ふと、ヘルズブリッジが終わった四分二十三秒後、催眠映像が終わり、虚ろな顔をした虎サンが自室から去る場面を想像してしまった。
「……ッ」
カイは下唇を噛み締める。そこで未だ据えられる続けるズールの視線に気付き、顔を背け、更に強く歯を食い縛る。またあの目だ。表情の変化を見逃すまいとするような、感情の起伏を見透かすような、それこそ撮影するかのような録画するかのような、真っ直ぐに向けられるレンズのようなズールの眼差し。それが今は、無性にカイの心を乱した。
「にしてもあの音、本当に問題ないんかいな」シマドリが耳の穴を小指でほじりながら、気味悪げな表情で呟く。「今でも耳に残っとる。生きた心地がしなかったわ」
「ほんとですよう。あの死んだ振りをしていた時間は、人生で一番長く感じたです」
「人生て、十そこそこしか生きとらんチュウボウがよう言うわ」
騒ぎ始めたシマドリとハンヴィだが、不意にハンヴィがもじもじと身動ぎをし、おずおずと挙手をする。
「あのー、バハムートさん。こんな状況で大変申し上げ難いんですけどぉ……トイレ休憩、いいですか?」
ぎろりとハンヴィを睨み付け、隠そうともせず舌を打つバハムートだが、鬱陶しそうに手を払う。
「きれいに使いなさいよ。使った後は芳香剤も忘れずに」
「だ、大丈夫ですよう。小さい方ですし、僕は小も座ってするタイプですう」
「そんなこと訊いてないわよ。早く行きなさいッ」
はいぃ、と逃げるようにAFKになるハンヴィ。
彼ら四人は今、バハムートの部屋で世話になっているという。おそらく、パソコンを複数台持ち込み、ログインしているのだろう。
「……なあ、詩織」センチピードが栞に目を向ける。「つまりあんた、そのヘルズスノウフィールドってクエストで殺された振りしてからずっと、あの女の部屋で暮らしてるってことかぁ……?」
栞はセンチピードと正対し、申し訳なさそうに項垂れた。
「……すまなかった」
「いやいや、それはもういいってぇ。そんな事よりさぁ、じゃあこの二週間、五人暮らしってこと?」
「ああ、そうなるな」
「ふぅん。大冒険だったんだねぇ」センチピードは優しげに微笑し、栞の肩に手を置いた。「でも、親御さんはマジで心配してるよぉ。あんた、捜索願い出されてるから」
「そ、捜索願い!?」
栞は素っ頓狂な声を上げる。おそらくゲーム内で初めて彼女が発した大声であった。
「当然だろぉ。二週間も失踪したら、誰でも出すっつーのぉ」
「……そ、そうか。……そうだな。なんという……。うぐぐ」
頭に手を当て、身を捩る栞。これから家に帰った後の事がよほど憂鬱なのだろう。
「彼らにはリアルの一切を切り捨てて、私の対策に協力してもらっているわ」ハンヴィが戻るまでの小休止というわけでもないのだろうが、バハムートは腰に手を当て伸びをしながら言う。「敵を騙すには味方からと言うけれど、仮想現実の世界を騙すためには、現実の世界そのものを騙さなければならなかった」
たとえば、栞が家族に何か言い残してバハムートの部屋に向かっていたら、ただの外泊であり、行方不明などという扱いにはならず、長瀬も朋絵もさほど心配はしなかっただろう。もし二人の口からその事がカイに伝えられたら、当然カイは訝しんだはずだ。自殺催眠にかけられ死んだのではないのか、と。その場合、どのような展開に至ったのかはわかりようもないが、少なくとも今とは、バハムートの対策とはそぐわないものになっていたのは間違いない。
ふと、カイと皐月の視線が重なる。
「ああ、私はフリーターだし、あの、ほら、一人だからさ。特に問題ないよ」
おどけたように半笑いで言う皐月。一人だからという言葉に、カイは微かに俯き、そうか、と頷く事しかできない。
「ちなみにわしも自由業の一人暮らしやから、どこに居ようと一向に構わん」シマドリはAFK状態のハンヴィを見遣る。「けど、栞ちゃんと同じでこいつは学生やから、それなりに色々と面倒な事になっとるやろうな……」
カイもハンヴィを見る。
無論、人間である以上、各々様の生活が、リアルがある。バハムートに会い、騒動の全てを知り、事の重大性を認識したとしても、それでもリアルを投げ打ってその対策に協力するために要した覚悟は、生半可なものではなかったはずだ。ましてや、全てを知った状態で尚、カイを、世界を騙し切らなくてはならなかった罪悪感も、半端なものではなかったはずだ。
すいませぇん、ただいまでえーす、と妙に明るい声色で頭を下げるハンヴィ。もしかしたら、少し前には戻っていたのに会話の流れ上、割って入りたくなかったのかもしれない。
バハムートは話を再開する。
「私は彼らのプレイ動画と自殺催眠の映像音声を携えて、False Huntのサービス提供元であるESに打診したわ。これまでこんな事が起こっていたのだと、そしてこれからこんな事が起こるだろうから、私をメインサーバにアクセスさせろ、とね」
くくくっ、とバハムートは意地の悪そうな含み笑いを漏らす。
「まったく。最初の彼らの恐慌ったらなかったわ。警察へ、いや、政府へ申し出るべきだとか、今すぐサービスを完全停止するべきだとか。ま、彼らからしたら寝耳に水もいいところ、さながら寝耳に液体窒素を流し込まれたようなものだから、その恐慌も然るべきだけれど。この二週間連日連夜催されたであろうES上層部の会議、彼らの言うところの緊急対策会議、どの辺りを指して緊急なのか、何も知らない癖に何の対策を打つのか、私からしたらちゃんちゃら可笑しいけれど、とにかく、結局その会議には結論が出ず、そして今日、半ば強行する形で私はメインサーバのあるビルへ赴き、こうしてこのゲームを、仮想現実を掌握した」
先から度々バハムートが魔法のような所業を成せるわけ。彼女は今、文字通りにこの世界を管理下に置き、全てを掌握しているのだ。False Huntのサービスを奔らせるメインサーバからダイレクトに、このゲームを管理するはずのエルヴォを、更に上の次元から管理している。
「もっとも、強行とは言ったけれど実際に行ってみたらサーバのアクセス端末まで案内されたし、こうしている今も別段邪魔をしようとはしないから、きっと満更でもないのね。諸々の問題を内々に処理し、最終的には何事もなかったかのように事態を治めるという私の対策が。最悪、いざという時は私に責任をおっ被せるつもりなのかも」
「……なぜだ?」今までずっと静聴していたカンカラスが初めて口を利いた。「あんたはなぜ全てがわかったんだ? 以降に起こるであろう事柄まで、どうしてわかった?」
「あなたも慌てんぼね」呆れ顔でカンカラスを一瞥する。「それを話すには、まず、私自身とこの子について、語らなければならないわ。……そこが一番重要であり、複雑であり、理解し難い箇所なのだけれどね」
隣で佇むズールを見遣り、そこでバハムートは憂鬱げに目を伏せるが、それは一瞬。毅然とした面持ちで皆に向き直る。
「私はバハムートであり、ズール。そしてこの子はズールであり、エルヴォ」
――改めて、よろしく、と。メフィル砦でカイと皐月に自身がエルヴォの開発者である事を暴露したあの時と同じように、実に素っ気無く、付け足した。
「――――」
既に全てを聞かされているという皐月、栞、シマドリ、ハンヴィ以外の六人は、時が止まってしまったかのように硬直する。暫し静謐の時が流れても、誰も口を開こうとはしない。
まるで、微塵も、何一つとして、意味がわからなかった。
「まず、私がズールであるという意味について。それはそっくりそのまま、私はフォネティックメンバーのクランマスターだったズールというプレイヤーとして、度々あなた達に会っている、という意味よ」
疑問符に塗れた眼差しを浴び、バハムートはニヒルに肩眉を吊り上げる。
「まあ、安心していいわよ。私がズールとしてログインしたのは精々十回もなかったから、レアな人格だったと言えるわね」
レアな人格。その言い回しが可笑しかったのか、まだ何も理解できていない皆をそっちのけで、バハムートはくくく、と笑う。そして真面目な顔に戻ったかと思うと、不意にカイに向かって頭を下げた。
「あらかじめ謝っておくわ。ごめんなさい」
酷く抑揚を欠いた、棒読みするかのような“ごめんなさい”だった。ただ、以前のメフィル砦では如何にカイの激情に曝されても頑なに謝ろうとはしなかったバハムートが、ここで初めて謝罪した。
「なにを……?」
「皐月とあなたにメフィル砦で会ってエルヴォについて話した時、私はその事について、ズールについて語らなかった。そして、敢て話さなかった事があと二つだけある」
「二つだけ……?」カイは眉間に皺を寄せる。あらぬ方向へころころと転じられるバハムートの話からは何も理解できなかったが、その言い回しが癪に障った。「二つもじゃないのか……?」
しかしバハムートは取り合わず、ここでなぜかちらりと皐月に一瞥をくれると、カイに向き直る。
「まず一つ、私は虎サンについて知っていた」
「――は」思いもよらぬ名にカイは目を剥く。「虎サン?」
「ズールとしてあなた達に会っていたのだから、このゲームで虎サンと会っていたのは勿論。それ以前、リアルでも彼の事は知っていた。オブザーバーのAIプログラマとしてESのFalse Hunt制作現場に何度か出入りしていた時、身内にエルヴォの採用を猛反対しているグループがあるって聞かされてね。そのグループの先導をきってるのが山井徹夫さん。つまり虎サンだった」
カイは橋の架かる戦場を思い出す。
罪を告解するかのようにどこか暗い面持ちで語る虎サン。ゲームの管理、運営をエルヴォに委託すると聞かされ、徒ならぬ嫌な予感を感じたという。反対したが、会社は取り合わず、虎サンはESを辞した。
「話した事はなかったけれど、顔は知っていた。……彼の葬儀にも顔を出したわ」
「カイ……」皐月が口を開く。その顔は少し寂しげな微笑だった。「覚えてないかもしれないけどさ。私と初めて会って、虎屋で父さんのお葬式の話したよね。美人の女の人が来たって」
微かではあるが、確かにそのような話をした記憶があった。特に進展に繋がるような話だとは思えなかったので、ほとんど忘れてしまっていたが。
「それがバハムートさんだったんだよ」
「……それじゃ、なんで」
「それを隠していた理由は、特にないわ。馴れ合うつもりはなかったし」
カイの言葉を遮り、バハムートは若干語勢を強めて早口で言い切った。決してカイとも皐月とも目を合わせようとはしない。バハムートにしては珍しいそんな人間らしい態度が、彼女の心内を切実に表している気がした。
メフィル砦でバハムートが語った話。虎サンの件が起きるよりも以前に世界中で八件、スペシャルクエストとそれに関係しているであろうプレイヤーの不可解な自殺が発生していたという。虎サンが最初だったわけではなく、カイ達が初めだったわけではないのだ。唯一人、この世界を逐一観察していたバハムートのみがそれに気付き、止めるために動いていた。
最初は自ら虎屋を訪れ、ヘルズブリッジについて半ば強引にカイから聞き出そうとしていたのに、虎サンの葬儀以降は決して自ずからはカイと皐月に近付こうとせず、二人からの接触を待っていたのは、カイとも虎サンとも予ねてからの知り合いだったのを隠していたのは、自身でも言っている通り、馴れ合うつもりがなかったからだろう。大変だったとか、悲しかったとか、被害者面をして慰め合う気には到底なれなかったからだろう。
虎サンの葬儀に出席したというバハムートは、たった一人残された一人娘と対面し、何を感じたか。原因であるエルヴォを創ったのは自分であると、他に言いようがあっただろうに、敢て反感を買うような言い方でカイと皐月に向けて白状した時、何を思っていたのか。
「………」
カイは、自分の事ばかりに躍起になり、自分の感情だけに必死になっていた。カイよりも長い時間、誰にも頼らず、何にも頼れず、たった一人で暗中模索し続けていたバハムートの思いなど、気に掛けようとした事もなかった。いや、気に掛けたところで、きっとそれは想像を絶する。
「――もご」
重い静寂の中、ズールが何かを呻いた。カイだけを見ていたズールだったが、今はバハムートとカイに交互に視線を這わせて、にい、と目を細めた。それが笑顔である事に、ズールが笑っているという事に、一同は暫し気付けなかった。
面白そうな玩具を見つけた子供と言うべきか、興味深い事象を観察できた科学者と言うべきか、どちらにしても場違いに過ぎるその爛漫な笑顔は、ひどく不愉快で気持ちの悪いものだった。
「そしてもう一つ、私はプログラマとして、既にESにエルヴォを納めてはいるけれど、実はそこに細工がしてあるの。事前に設定しておいたプログラムになら、私が咬み込めるようにしてあるのよ。勿論、本当にちょっとした大勢に影響がないものにだけね」
「えぇ、それって……チーターじゃんかよぉ」
センチピードの言葉に、バハムートは不愉快そうに顔を顰める。
「そんなものと一緒にしないでくれる。確かに、もう既に商品としてエルヴォを出荷している以上、部外者である私がそこに干渉する行為は軽微のクラック、ネット犯罪行為に相当するのは認めるわ。けどね、私はエルヴォの制作者として、エルヴォがどのように進化していくか、それをより詳しく調べるためにやっていたのよ。そこには己の利潤もなにもなく、あるのはただの興味だった」
バハムートはカイに視線を戻す。
「私が作り上げた傀儡。ノン・プレイヤー・プレイヤー、NPP。彼らを使ってこの世界を、エルヴォを観察していたというのは以前に話したと思うけど、その時にこの世界は所詮0と1の羅列のデジタルでしかないからなんでも可能だ、みたいな話をしたと思うけど、あれは嘘よ。幾重ものプロテクトで固められ、私が創ったエルヴォが管理するこのゲームに、そんな風に部外者が干渉するのは不可能なのよ。ウィザード級のハッカーを十人引っ張ってきたってまず無理でしょう。事前に私のみが咬み込めるようにプログラムしておいたからこそ簡単にできた事なの。ただし、繰り返し補足しておくけど、私が関与できたのはあくまで表層的な部分のみであって、全ての決定権はエルヴォに一任していた。私は観察者であって、監督者じゃない。あくまでもエルヴォは、能書き通りに、看板に偽りなく、人手要らず。何者も干渉できない、何人たりとも寄せ付けない、スタンドアローンだった」
そのまま一息に次の言葉を継ごうとしたバハムートは、なぜか止まり、神妙な面持ちで視線を落とした。彼女にしては珍しく、言葉を選ぼうとしている、そんな様子だった。
「………」
ウィスキーは目を見開き、カイを観察し続けるズールを見た。彼だけは、恐ろしい真実が見え始めていた。信じがたい真実に気付き始めていた。
バハムートは言う。
「そして、観測作業の一環として、ズールがどのような環境にいるのか、それを間近で観るために、私がズールというプレイヤーとしてログインできる機能を咬み込ませた。先のようにズールの姿で、その時は本物のズールは活動停止状態にし、度々あなた達と会っていた。それが私もズールであるという意味よ」
つまり、フォネティックメンバー最盛期、カイや虎サンがまだ在籍していた頃、ズールの中身は何度かバハムートと入れ替わっていたのだ。
元々が多重人格のようなズールだったので、今の今まで気付かなかったが、しかし言われてみれば納得できる場面も思い返せる。時折ズールは、人が変わったかのように、どうしようもなく傲慢で高圧的になる時があったが、もしかしたらあの時、ズールを操作していたのはバハムートだったのかもしれない。文字通り、人が変わっていたのかもしれない。
しかし――そんな事はより。
そんな十分驚愕するに足るたずの事実が、霞んでしまうほどの、どうでもいいと思えてしまうほどの重大な真実を。
――エルヴォを観測する一環として。
――本物のズールは活動停止状態にして。
その言葉は仄めかしていた。
バハムートは目を伏せたまま、横目でズールを見遣る。その眼差しは、気遣うような、心痛するかのような色合いを帯びていた。
「このゲーム、False Huntを管理、運営する自己進化型汎用AI、エルヴォ。エルヴォが特別な目的のために有する一種のコミュニケーション器官、それがこの子、ズールなのよ。プレイヤーの姿を模し、プレイヤーと同じ扱いでありながら、その本質はこの世界を統べるエルヴォの分身」
それはつまり。
「NPP。ある意味、彼らと近い存在。もっとも、彼らは元々この世界に許容された存在じゃなかったから、NPPなんて矛盾した名称で呼んでいたけれど、この子は端から容認された、と言うよりも、この世界の一部そのものだった。だからあくまでも名称に拘るならばNPCと呼ぶべき存在。ノン・プレイヤー・キャラクター」
即ち。
「プレイヤーではなく、キャラクター。……つまり人間じゃない」
「――――」
カイは思い出す。
懐かしいと思えるほどに遠く感じる記憶。だが今でもはっきりと一言一句思い出せる、思ひ出といえ得る記憶。
ズールは言っていた。ぜんぶ同じ人間だ、と。くだらない事を考えて、くだらない世界で生きている人間に過ぎない、と。そして、当時はまだエクスレイと名乗っていたカイを指し示し付け加えた。勿論、あたなも、と。
――まるで、自分は例外であるかのように。自分は人間ではないのだと言うかのように。
カイはズールを見る。
ズールもカイをまっすぐに見詰めていた。その目は、あの時と同様、無感情な輝きを放っている。
人間の事なんて気にするものじゃない、所詮はおんなじ人間なんだから。
そう言われた時、カイは笑って答えた。じゃあ、あんたの言った事も気にしない、と。自身もその同じ人間に過ぎないはずのズールに対して皮肉のつもりで答えたのだが、なぜかズールは一瞬驚いたような表情をつくり、そして笑った。
心底嬉しそうに、楽しそうに、それまで纏っていた感情を感じさせない雰囲気を豹変させ、少女のような無邪気な笑顔で笑っていた。
「エルヴォが特別な目的のために有する一種のコミュニケーション器官。特別な目的とはつまり、人間を学ぶ事よ。いちプレイヤーとして活動し、他のプレイヤーの意見を思想を要望を、何よりも間近で観察し調査し、ゲームに反映させるために、私はエルヴォのシステムの中に、ズールという名の特別なNPCを組み込ませた」
「その女が……NPC?」
ビクターが震える声を発する。顔を歪め、その視線はズールとウィスキーの間を忙しなく行き来している。諦観したように口を開こうとしない、苦痛に耐えるように目を強く閉じているウィスキーを気遣うように、否定の言葉を探す。
「だって、私達と普通に喋って……そんな、嘘よ。有り得ない。そんな……有り得ない」
バハムートはビクターを一瞥し、続ける。
「False Huntのサービスが開始されてから間もなくして、ズールはカイとクランを設立した。フォネティックメンバー。人間を学ぶ上でクランに属するのは理に適っている。単独で活動するよりももっと間近でプレイヤーを観察できるから。そして、フォネティックメンバーには次々と一種独特なプレイヤーが集まり始めた。ズールが持つ、人間では出し得ない、無数のプレイヤーの思考から作り上げられる擬似人格。それにあなた達は魅せられ、惹き付けられた」
「でもっ……そんなッ」
「もういい」
ビクターの言葉を制し、ウィスキーは微かに頭を振った。そしてもう一度、「もういいんだ」と呟いた。
ズールが持つ不思議なカリスマ。多重人格のように定まらず、それでいて強烈という事もなく、むしろ近付く者に透明感を抱かせる奇妙な性格。全てに精通し、全てを見透かしているかのような言動。
ヘルズプレーリー開始前、ウィスキーはカイから事情を明かされた時に、まるでそれが当然であるかのように、自然の流れであるかのように、ズールの顔が脳裏を過ぎった。彼女なら全てを知っているのではないか、と。彼女なら全てを解決できるのではないか、と。
誰よりもズールに惹かれていたウィスキーには、反論する余地がなかった。
バハムートは中空に視線を固定し、暫しの間を置いて、口を開く。
「お察しの通り、全ての騒動の原因は、事件の犯人は、この子、ズールよ」
手錠を打たれるという姿で登場した事と、これまでの話の推移から、皆が薄々は察していたが、それでも改めて告げられるその言葉に、目を剥き、ズールを見た。
ただ、カイだけは俯き、自分を凝視しているであろうズールとは視線を合わせようとはしなかった。
カイも驚いてはいる。
ただし、その驚きの原因が皆とは違っていた。
自分が大して驚いていないという事に、驚いていた。
胸にすとんと落ちるとまではいかないが、それでも納得はできてしまう。
言った事も、考えた事もなかったが、ウィスキーと同じく、ズールの誰よりも近くに居たカイはどこかで、本能に近い部分で、わかっていたのかもしれない。ズールが核心的に関わっている事を、無意識的に予想していたのかもしれない。
そして何より、先の夢の記憶。もうほとんど覚えていないが、その中で、何らかの形でズールが騒動の根源である事を知ったのかもしれない。
「ある時を境にズールはフォネティックメンバーから脱退した。けれどもそれはフォネティックメンバーから去ったという意味だけではなく、この仮想現実世界から消失していたのよ。言うなればアカウント停止。同時に私がズールとしてログインできる機能も消失した。しかしそれは不思議な事じゃなかった。むしろ、いつかそうなるだろうとエルヴォの製作者である私は予見していた」
能書きを語るような事務的な口調で、バハムートは続ける。
「さっき言ったけど、エルヴォはコンピュータ制御の大原則、HITLの鎖から解き放たれた完全なるスタンドアローン。全てを自分で考え、決めていく、進化する革命的なAI。進化というのは、つまり淘汰よ。人間を学ぶためのコミュニケーション器官であるズール。それがもう必要ないとエルヴォが判断すれば、容赦なく消されてしまう。最初からそれは自明の理だった。感傷など皆無、いえ、私は逆に喜びさえ感じた。私が用意したズールという器官を不要であると切り捨てたエルヴォ、エルヴォはそこまで進化したのだ、とね。……だけど違った」
バハムートは視線を落とし、ゆるゆると頭を振った。
「進化はしたけれど、私の予想とは全く違った、あまりにも、救いようがないほど圧倒的に懸け離れた方向へ、進化してしまっていた。ゲームを面白くする、その最優勢事項は揺るがない。けれど、人間がプレイするゲームならば、何よりも人間に近い器官、ズールの存在が必要不可欠であり、より優遇するべき器官だと、より強い権限を与えるべき器官であると、エルヴォは判断し、ズールは力を強めていった。ズールの思考がエルヴォの判断に直結すると言ってしまえるほどに、その存在価値は高まってしまっていた。……今思えば、ズールが消えたあの頃から、既に事は始まっていたのね。不用であるとエルヴォに消された、私がそう勘違いするように、自ら一時的に姿を消した」
自分の非を認めるように、バハムートはどこか自虐的に言葉を紡ぐ。
「ズールが消えてからほどなくして、私は不自然な自殺者に気付いた。調べたところそれが四件目の被害者だった。その自殺者は例外なく最上級プレイヤーであり、そこにスペシャルクエストが関係している事を察したのが五件目の被害者が出た時。“なんてことだ。ゲームを面白くするために、エルヴォはとんでもないクエストを実装してしまった。”……私はそう思った。まんまと、そう思わされていた。六件、七件、八件と、被害が続き、早く止めなければという焦燥に囚われるばかりで、九件目の被害を確認した時も、以前の八件には見られなかったある点について、何も特別だとは思えなかった。ヘルズブリッジのスペシャルクエストでは参加人数の定員が十名だったと言ったわね。しかし、定員十名だと言われても、あなた達なら二人で参加するのをズールは確信していた。そしてその定員十名という情報を聞かされた私はそのある点から更に遠ざかる事になった。エルヴォの、いえ、……ズールの思惑通りに」
九件目の被害とは即ち、虎サンの件だ。
バハムートが何を言わんとしてるのかはわからなかったが、ただ何か恐ろしい事を言おうとしているという予感を感じ、カイは僅かに震える右腕を左手で強く握り締めた。
「有体に言ってしまえば、私は邪魔者だったのね。この世界を観察し、更に、熱心だったとは言わないけれど嘗てはズールとしてログインし、彼女の身近の者達に接していた私は、誰よりも真相に近かった。現にヘルズタウンである事象を確認できた時、私は事の真相に気が付いたわけだし」
ヘルズタウンでバハムートが確認できた事象。
仮想現実に意識を取り込まれる催眠。そしてカイだけがその催眠に罹らないという特異点。
「バハムートさんッ……」
突然、皐月が声を張った。しかし言葉を続けようとはせず、唇を結び、目尻に涙を浮かべて、何かに耐えるような悲痛な表情で、それ以上は言わないでくれと懇願するようにふるふると首を振る。
栞、シマドリ、ハンヴィ、既に真相を知っている他の三人も暗い面持ちで目を伏せていた。カイと誰も目を合わせようとしない。
しかし、バハムートはそれが自分に科せられた罰であるかのように続ける。カイが以前、自身が体験した異常事態について他の者に説明した時と、よく似た雰囲気を漂わせながら。
「ヘルズスノウフィールドでも、他の皆が脱出できない催眠に罹った。けれどもあなただけが罹らずにHMDを外す事ができた。このヘルズプレーリーでは、あなただけが死の危険を宣告されているにも関わらず、なぜかHMDを外す事ができた。そこに意図されていたのは、逃亡という選択肢。言い換えれば、自由度。あなたがどう行動するのか、それに幅を持たせる事が、観察する上では重要だった」
観察。
爛々と、煌々と、嬉々と、透明な光を放つズールの瞳。
カイはそれを直視した。
「……ッ」
震えは止まっていたが、喉元からせり上がってくる吐き気に、今すぐHMDを外してしまいたくなる。これ以上恐ろしい話を、後に続く真相を、聞きたくないと、逃げ出したくなる。
これまでのスペシャルクエストではどんなに危険な状況に陥ろうとも一度も考えなかった逃亡を、今初めて、真剣に痛切に考えてしまう。
だが、耐えた。
他の誰でもない、自分こそ、それを聞かなくてはならない。騒動の原因を知らなくてならない。
カイの覚悟を待っていたかのように言葉を止めていたバハムートは、カイの面持ちを見て、僅かに頷き、そして言う。言い淀んでいた残酷な真実を、騒動の発端を、全ての原因を。
「この子の目的は、最初から最後まで終始一貫していた。最初の一人の被害者から、このヘルズプレーリーを催すに至るまで、只管に、狂気なほどに、ただ一人だった」
この子が観ていたのは、カイ。あなたただ一人だったのよ。
「あなたが何を言い、何を考え、どんな行動を起こすか。予め決めておいたシナリオに則って、けれども許される範囲の自由度を与えて、観測し観戦し観察するためだけに、彼女は八人殺し、虎サンを殺し、私と皐月達を殺そうとして、このヘルズプレーリーを催した。あなたを観るがために、あなたを知るがために、今回の騒動を引き起こした」
呼吸も忘れてしまったかのように硬直する一同。
カイは呆然とした様子で、中空に視線を彷徨わせてから、口を開いた。
「たったそれだけのために……?」
「ええ」バハムートは頷く。「そうよ」
「俺を観察するためだけに、八人も……?」
「そうよ」
「俺の反応を見るため、たったそれだけのために、虎サンを……?」
「その通りよ」
「――あぁ」
そして呟き、俯いた。それが相槌なのか、驚嘆なのか、誰にもわからなかった。
「……カイ」
皐月がカイの腕に縋り付くが、カイはそちらを見ようとはせず、項垂れたままだった。
バハムートは続ける。
「九件目にのみ見られたある点とは、参加者が嘗てズールと行動を共にした、あなたと虎サンであるという事。フォネティックメンバーの中でも特にズールと親しかった、あなたと虎サンであるという事。いきなり虎サンを殺しにかかったのでは、一時期はズールとしてあなたとも虎サンとも面識があった私に勘付かれると思ったのでしょうね。以前の八人の被害者は、本番である九人目、虎サンを確実に葬るための自殺催眠の実施試験として、そして私の目を欺くために、殺された」
「試験のために、八人も……?」ビクターは声を震わせ、何かおぞましいものを見るような目でズールを見遣る。「そんな、なんてこと……」
「……待てよ」GGBが口を開く。「あんたが邪魔なら、最初からあんたを殺せばよかったんじゃないのか?」
「ついさっき言ったけれど、自殺催眠には試験が必要だった。おそらく八人という数は自殺催眠の精度を高めるために必要最低限の被害者だった。もし不確かな催眠で私を殺し損なったら、気付かれてしまうでしょう。それにこっちが本当の理由なのだろうけれど、ズールにはシナリオがあった」
「シナリオ……?」
「そう。ただ放任するのではなく、カイの行動、思考、感情、それにより大きな振れ幅を持たせ、より効率的に観察するためのシナリオが。そのシナリオには、スペシャルクエストの真意を取り違えた私という存在が不可欠だった。つまりカイに、スペシャルクエストとは最上級プレイヤーのために実装された死のクエストだ、という誤った情報を伝えるために、私は生かされていた。対象を観察するにあたって、ただただ受動的な対象よりも、多少は能動的な対象の方が見応えがあるから」
「見応えって……。あんたなぁ……」
その言い草に、センチピードが顔を歪めながら、バハムートを睨み付けるが、バハムートは取り合わずに続ける。
「その真相に気付いてからは、ズールがこれから何を仕掛けるのか、予想するのは難しくなかった。私という邪魔者を排除したズールは、気兼ねなく、存分にカイに異常事態を差し向けるだろう、とね。だから私はそれを逆手にとり証拠を得るために、皐月達の協力を仰ぎ、カイに同行させた。その証拠を元にESが私のメインサーバアクセスを認めるまでの間、ズールを騙すために、カイにも真実を黙して、皐月達を死んだ事にさせた」
「エクスレイが死んだらどうするつもりだったんだ……?」ウィスキーがバハムートとズールを見遣りながら、問う。「以前のクエストでも、このクエストでも、もしエクスレイがキルされていたら?」
「きっと死ななかったでしょうね」
バハムートは軽く肩を竦め、事もなげに言い切った。
「カイというキャラクターが死亡しても、リアルのカイは無事だったはず。そもそもそうならないように私達には想像もできない緻密さで計算されていたはずよ。カイや他の参加者の練度、それらを慎重に吟味して、当事者達には気付かれないよう、少なくともカイだけは生き残るように調整されていた」
「確かに」とシマドリが頷く。「あの雪原の戦闘、わしらは一切手加減なんかせんかった。キルされて自殺催眠の映像を録画する手筈にはなっとったけど、本気で戦って、最後には丁度よくキルされた。どんぴしゃりで黒いのだけが生き残った」
ズールを見遣り、大した計算やで、と唾棄するように付け足した。
「そう。それにもし仮に、万が一カイがキルされていたとしても、リアルのカイは死なず、その場合はケースバイケースで複数のシナリオが用意されていたでしょう。カイをこのゲームに繋ぎ止め、観察し続けるためのシナリオが」
言って、バハムートはカイに視線を遣り、自然と一同もそれに倣う。カイは未だに俯き続けていた。
重く静まる雰囲気の中、カンカラスがバハムートに向けて軽く挙手をした。
「一つ、確認させてくれ」
「ええ、いいわよ。フェンリルについてでしょう?」
「っ! 何か知ってるのかッ?」
バハムートは頷く。
「あなたにも全てを知る権利がある。だからこの場に留まってもらった。あなたが嘗て席を置いていた民間軍需研究企業、そこで開発された陸上用無人特殊戦闘車輛の試作戦車、UGV−XT、開発コードは『フェンリル』。お察しの通り、スペシャルクエストに登場したフェンリルは同様のものよ」
ただの上級プレイヤーだと思っていたカンカラスが、フェンリルに関わっているという事を知り、目を剥く一同。当のカンカラスはバハムートを見据えながら神妙に頷く。
「やはりそうか……。しかしなぜ?」
「調査の過程で当然私は被害者達の素性も可能な限り調べていた。あなたの友人でもあり、フェンリル計画の責任者でもあった人物。彼はこのゲームを発売日に購入し、かなりの腕前だったようね。瞬く間に最上級と呼ばれるプレイヤーにまで登り詰めた。……そんな彼こそが、自殺催眠の最初の被害者だった」
「そ、そんな」
カンカラスは驚愕し、同時に納得した。カイから話を聞かされた時に勘繰った通り、友人の自殺にはこのゲームが関係していたのだ。いや、関係していたどころか、目の前で佇むズールに殺されたのだ。しかも一番初めに。
「そして今、メインサーバにアクセスし、ズールの行動記録を洗いざらい調べて、あなたの友人が死した経緯もわかったわ。フェンリル計画が凍結されて、自暴自棄になっていた彼は、ここでズールと出会った。ズールがフォネティックメンバーを脱退する直前の頃にね。……フェンリルのソフト面の開発にも携わっていた彼は、ズールという擬似人格と相対して、何か思うところがあったのでしょうね。彼は自分についてフェンリルについて、全てをズールに話した。そこでズールにある取引を持ち掛けられた」
「取引……?」
「自殺催眠の実験台になる代わりに、フェンリルをこのゲームに登場させる」
「――――」
「その頃から既にズールの計画は始まっていたのよ。そして彼はその取引に応じてしまった」
「……わかった。……わかったよ。もういい」
カンカラスは下唇を噛み締めた。
フェンリルのために生きてきたと豪語する彼が、国に裏切られ、絶望の只中でズールから持ち掛けられた取引。きっと彼はほとんど迷わずに了承したのだろう。自分の命と引き換えに、たとえゲームの中であっても、フェンリルに命が吹き込まれるならばと、承諾した時の彼は、きっと笑顔でさえあったはずだ。
その場面を誰よりも想像できてしまうカンカラスは俯き、唇を噛み締めるしかなかった。
再び息苦しい静謐が場を支配する。
「ああ、そうだっ。カイ」
皐月はカイの腕を揺さ振り、明るい声色で話し掛ける。
「この二週間、私もこのゲーム練習したんだよ。オフラインのトレーニングモードで。オフラインのランクでは中級にまでなったんだ。ほら、このショットガ……て、鉄砲っ、使いこなせるようになったんだっ。カイ……ねえ、カイ……」
AA-12を握り締め、カイに指し示す皐月。わざと“鉄砲”という呼び方をしたが、カイは反応せず、深く俯いたまま顔を上げようとしない。
「カイ………」
「もご。もごもご」
何か物言いたげにズールが呻いた。
皐月は目尻に涙を溜めたまま、ズールを鋭く睨み付ける。
「バハムートさん……。今すぐ、そいつ消してよ」
皐月がゲーム内で初めて口にした極めて冷酷な、憎悪に塗れた言葉だった。
バハムートは答えず、徐に右手を上げ、ズールの口を被うテープの端を抓んだ。
「私はエルヴォを管理下に置き、ズールという器官を全システムから完全に締め出している。この子は今、擬似人格とそれに蓄積された記憶があるだけで、何の権限もない。有象無象のNPCと同等の存在。いえ、締め出されたオンリーワンという意味ではNPCよりも脆弱。システムの外に置かれたという事は、NPCの輪廻の環からも除外されている。即ち、この子はリスポンしない。死んだら最後、もう二度と復活する事はない。無き物として、この世界から消滅してしまう」
その言葉にどんな意図があったのか、バハムートはズールをどうしたいのか。
そう断ってから、彼女はテープを乱暴に引き剥がした。
「もうっ、痛いなあ。もうちょっと優しくしてよ」
手錠を打たれた両手で口元を擦りながら、ズールは不満げにバハムートを見遣る。
「魔法みたいに出したんだから、魔法みたいに消す事だって出来たはずなのに。酷いなあ。この手錠といい、虐待だよ虐待。大問題だよ。ね、そう思わない? ――レイ」
ぐりんと、カイに頭を向けて表情を一変。貼り付けたような笑顔で、無機質な瞳で、カイを凝視する。
「………」
カイは答えず、更に深く俯いた。
「……レイじゃない。カイだよ」
皐月はカイの前に立ち塞がり、射るようなズールの視線から、カイを隠すようにした。そして強く睨み付けながら毅然と言う。
「レイなんて名前じゃない。カイは、カイだよ」
「あは。新参者のあなたは知らないかもしれないけど、以前は私もタンゴも、レイって呼んでたんだよ。ああ、タンゴっていうのはフォネティックメンバーだった時の虎サンの名前ね」
「あ、あなたがッ――あなたが虎サンなんて気安く口にしないでッ!」
皐月の悲痛な怒声。
ズールはすまし顔で肩を竦め、悠々と歩き始める。
「長々と語ってくれたバハムートの推理、色々と不満もあるし、補足もあるんだけど、まあいいか」
ふざけて行進するかのように真っ直ぐに伸ばした両足を大仰に振りながら、ゆっくり歩く。
「私の口から直接動機を語らせるためにテープを剥がしたのかもしれいないけど、別にいいよね」
そしてぴたりと、二つの旗の間で足を止め、一同を見渡した。
その顔は、能面のような無表情。
「確かに私は全権限を奪われた。でも思わないのかな。私がこうなる事も予想していたと、思わないのかな。ここは私が作った専用マップ、私が作った専用クエスト、全権限を奪われる前にあなた達には想像もできない緻密さで作り込まれた最後の創造物。思わないのかな。私がここに何かを仕掛けたって――思わないのかな?」
と、凄まじい早口で捲くし立てたかと思うと、目にも止まらぬ迅さでズールは背後に両手を回した。
身体の前で打たれた手錠など、なんの拘束にもならない。
その手には、グリズリーが握られている。
「――!」
反応できた者は誰もいない。辛うじて感嘆符を発する段になって、もうグリズリーは数発目の発射炎を噴いていた。
ズールが、戦闘に特化したフォネティックメンバーを率いるだけの実力を持っていた事を、人間では不可能な速度で効率性と正確性を以って躰を繰れる事を、思い返す頃には、開放され固定されたグリズリーの薬室から、濃密な硝煙が上っていた。
グリズリーの装弾数は薬室を含めて八発。
強烈な.45ウィンマグの直撃を胸に受けて、卒倒したのは八人。
皐月、栞、シマドリ、ハンヴィ、ウィスキー、ビクター、センチピード、GGB。
「――そ、そんな。なにを……」
バハムートの驚愕を、ズールはせせら笑って、弾の切れたグリズリーを投げ捨てた。
すると、二つの旗が突き刺さる地面の中央、隆起するかのように、小さな突起が現れた。対人地雷の信管によく似た突起物だ。
「これはスイッチだよ。対人地雷のスイッチ。だけど踏んでも爆発しない。爆発はしないんだけど、この仮想現実にログインしている人達のHMDに自殺催眠が流されるプログラムの起動スイッチ」
「――――」
バハムートの表情が戦慄に凍り付く。
「現在、ログインしている人達は世界中で349875人。ああ、現在っていうのは正しくないね。私が権限を奪われる前に最後に確認した数字だから、多少は前後してるだろうけど。平均よりもちょっぴり多いかな。きっとスペシャルクエストの騒動があったからだね」
「くっ」バハムートは弾かれたように俯く。「そんな爆弾、どこに仕込んだのッ? ここ? 違う……。あった! ここね! うそ、これも違う!? フェイク!?」
エルヴォのプログラムからズールの言う起動スイッチを探しているのだろう。
「あは。無駄無駄。そんな探し方じゃあたぶん三日ぐらい掛かるよ。言ったでしょ。あなた達には想像もできない緻密さで作り込まれてるって」
「――ッ、カイ! 撃って! その子を止めて!」
バハムートの叫びを受けて、カイは引き金に人差し指の腹を掛ける。
人外の速度のズールには若干遅れを取ってしまったが、それでもほとんど間を置かずにHK45を抜いたカイは、既に銃口をズールに向けて据えていた。
きつく眉間に皺を刻み、歯を食い縛りながら、両手保持で構えたHK45の照門越しに照星を、照星越しにズールの顔を照準する。
ズールは笑顔だった。
初めて会ったあの時、戦車の上で会話をした時と同じ、爛漫な笑顔。
「レイ。撃たないの? さっきは撃ったのに、どうして? 私がもうリスポンしないって、本当に死んじゃうって聞いたから? 憎くないの? タンゴを殺したのは正真正銘、この私なんだよ? 私とも面識があってそれなりに仲良くしていたはずのタンゴを、レイの反応を知りたいがためだけに、さくっと自殺催眠に掛けて、あっさり殺しちゃったんだよ?」
「……もう、いい」カイは震える声で、懇願した。「もういいんだ……。お願いだから止めてくれ」
「あっは。もういいって、なに? さっき撃ったからもういいってこと? もう許してくれるってこと? いやいやいやいやいやいや。私が気になるのはそんな事じゃない私が聞きたいのはそんな言葉じゃない私が望むのはそんな顔じゃない」
捲くし立て、唐突に地団駄を打ち始めるズール。
「わかんないな。わかんないなわかんないなわかんないなわかんないなわかんないなわかんないなわかんないなわかんないなわかんないなわかんないな。わかんないなあ」
振り下ろされる足のそのすぐ近くには、起動スイッチがある。
「あ、あアっ、駄目よ! カイッ! 撃って!」初めてバハムートが発した、心からの叫びだった。「お願いだから早く撃って! これ以上その子に罪を重ねさせないでッ!」
カイは引き金に掛けた指に力を篭めた。人差し指の爪の先が白くなる。数ミリの遊びが殺され、あとは意思。ほんの小さな意思で、引き金が浮き、撃鉄が落ち、撃針が奔り、雷管を穿つ。
「頼むからっ……」
だがその最後の意志をカイは捨て切れずに、唇を震わせ、涙を零しながら、懇願し続けた。
「もう、止めてくれよ……。ズール!」
ズールはぴたりと、上げていた足を止め、そしてすうぅと、スイッチの真上に持ってくる。
「これがレイの望んだ真実なのに……。なのにどうしてまた――レイはそんな顔をしているの? わっかんないなあッ!」
三十四万九千八百七十五人を地獄に落とす足が振り下ろされる。
銃声が鳴った。
「あは」
ズールは二、三歩後退し、崩れ落ち、膝立ちで、拘束された手の間、鮮血に染まった腹部を見遣る。
「あはははは」
カイの背後、スタームルガー セキュリティシックス GP100を構えたカンカラスが、荒い息を吐きながら肩を上下させていた。GP100の周囲に漂っていた硝煙が、草原を奔る微風に流され、霧散していく。
もう一度、GP100の蓮根状弾倉が回転し、撃鉄が落ちる。
「ねえ、レイ。どうして私は――――」
再び、銃声が轟いた。
胸から血飛沫を散らし、大きく後ろに仰け反るズールだが、最後の力を振り絞るように身体を押し留め、横向きに倒れる。
カイから見えるように、カイを観れるように。
その顔は笑顔ではなく、無感情な、無機質に過ぎる無表情だった。ただ、その瞳はもう何も映していなかった。
青空の下、若草が、二つの反物が、穏やかに揺れていた。
仮想現実だけでなく、現実の世界にまで影響を及ぼした今回の騒動は、始まった時と同じく、人知れず静かに幕を閉じた。