第二十一話:ミッシング・イン・アクション
虎屋の奥、大きな木箱を机代わりに、小さな弾薬箱を椅子代わりにして、カイは拳銃の分解を行っていた。
まず最初に大概の銃器の分解手順のたぶんに漏れず、弾倉を抜いておく。次いでチャージングハンドルを半回転させて取り外すと、側面のノックピンを爪の先で押し込んで反対側から抜き取り、トリガーを覆うダルマ型と呼ばれる形のトリガーガードを外す。
細かい部品を失くさないよう、木箱の上に敷いた白地の布に整然と並べておく。
「さて、ここからが問題だ」
形が変わりつつある拳銃を眺めながら、ひとりごちる。
カイはこの拳銃を分解した事がなかった。ここまではガンマニアであれば何となくわかる手順に基づいて簡単に分解できたが、ここからはどうするべきか、各々の部品の作用をよく観察し、分析してから、次の手順に取り掛かる。
側面の小さなセイフティレバーが安全位置から更にまだ回転するのに気付き、それが機関部をフレームに結ぶロック機構も兼ねている事を発見。銃身ごと機関部を取り外す事に成功する。分解した機関部の底面を覗き込み、左右に入っている特徴的なリコイルスプリングを見て、「へえ」と小さな驚嘆を漏らした。
なんだか跳ねそうだな、という直感に従い、片手でスプリングを押さえながら、ボルトを抜き取ろうとする。案の定、ボルトに追従する形で飛び出そうとしたスプリングを押し込める。
これで分解は完了。布の上に解り易いように並べ直す。弾倉を含めたパーツ点検数は六つ。もっと細かく分解する事も可能であるが、カイは戦場で兵士が簡単に銃の手入れができる程度の分解、いわゆる通常分解までしか行わないようにしていた。これ以上となると工具が必要であるし、機械マニアの域になってしまう。ガンマニアが銃の構造を知る分には通常分解で十分なのだ。
購入してから一弾倉分を撃っただけなのでほとんど汚れていなかったが、一応細かな火薬滓を全て拭き取り、油をくれてやる。
銃身と機関部のがわが一体となっている独特な構造なので、銃身を覗き込む際にどうしたものかと少し戸惑うが、銃口側から覗き、機関部の底面から光を取り入れる事で解決。
薄い闇に浮かぶ曇り一つない六条右転のライフリングを、カイは見るでもなしに暫し呆然と見入っていた。
「……」
分解する銃がどんどんマニアックなものになっている。有名どころは全て終えてしまったからだ。最近のマイブームは大時代的なクラシカルな銃器の分解だった。
ここ数ヶ月、カイはほとんどの時間を虎屋で過ごしていた。
虎屋は相変わらず雑然としたままだ。整理はしていない。寧ろ、故意に物を増やすようにしていた。まだ所有していない銃を見付けては購入してきて、試射し、分解し、手入れし、結合し、適当に置いておく。以前は、虎サンがログインしてくる前の空いた時間などに軽く整理するように心掛けていたが、あの頃とは違い、今は時間がある。本格的に片付け始めたら、きっと数日で終わってしまう。カイの慣れ親しんだ虎屋の姿が変わってしまう。
今は時間だけはたっぷりとある。
腐るほどに、売るほどに、時間だけは延々と。
不意に虎屋の扉が勢いよく開け放たれる。
「おっすぅー、カイ。元気かいぃ? 暇してたかいぃ? 寂しかったかいぃ? かいかいかい?」
入るなりカイに駆け寄ってきて抱き付こうとするセンチピードと、
「ちょっ! なにしてんの!? タマエちゃ……じゃなかった。センチピード、てめ、このやろ、ブラックレイから離れろや!」
必死にそれを止めようとするGGB。
「お前ら……」カイは銃身を木箱に置き、苦笑する。「性懲りもなく毎日テンションたけーな」
センチピードとGGBはほぼ毎日のようにカイの元を訪ねてきていた。
「もちのろんだっつーのぉ。しかも今日は当社比にして2.5倍はテンションあげあげだぜぇ」
「わざわざ呼びに来てやったんだぜ、ブラックレイ。とっとと行こうぜ」
二人の服装はいつものものとは違っている。センチピードは女性用のタキシード。所々が破れているのはお洒落なのかワイルドなのか、カイには判別できなかった。GGBは群青色のスーツ姿だ。髑髏のフェイスペイトンはそのままなので、恐ろしいほど似合っていない。
「ああ、そうか。今日はあそこに行くんだったよな」
カイは立ち上がり、二人の後に続いて扉に向かう。一度足を止め、分解されたままの拳銃を見遣るが、力なく苦笑し、虎屋を後にした。
結合するのは明日でもいい。時間だけはたっぷりとあるのだ。
三人が向かったのはデイジスタウン。タワーの真横という一等地に店を構える“あんだーへぶん”。@リンリン率いるクランのルームにして、誰にでも広く開け放たれた社交場でもある。
「遅いよー、三人とも。もう始まっちゃってるよ。ほら、早くあがってあがって」
敷居を跨ぐなり、いつもより派手なチャイナドレスで着飾った@リンリンが三人を出迎え、二階のバルコニーに続く螺旋階段へと案内する。
バルコニーなど以前はなかった。バルコニーだけでなく、店の雰囲気も艶やかなキャバレイクラブから、テクノミュージックが大音量で流れる若者向けのクラブ風に改装されていた。
今日はその改装後最初の開店日。いわゆる改装パーティだった。パーティと言っても招待客しか入れないわけではないので、広いホールは無数のプレイヤーに埋め尽くされ、賑わっている。
「うおー。あたしこの雰囲気好きかもぉ。サタデーナイトフィーバーって感じだよねぇ」
@リンリンの後に続いて螺旋階段を上りながら、センチピードは眼を輝かせ、音楽につられるようにそわそわする。
「ふふふ。センちゃんならそう言ってくれると思ったよ」
「しかし、思い切った改装だよな。前とは別物じゃね?」
GGBの問いに、@リンリンは振り返り、意味深げに笑う。
「まあね。実は今日、ちょっとしたサプライズがあるんだけど。私もついでに冒険してみたんだ」
「サプライズぅ!? なになにっ? 超気になるぅ」
「秘密だよ、ひみつ。開けて見てのお楽しみ」言って、@リンリンはカイの姿をじろじろと見回した。「冒険と言えば、お兄ちゃんも今日はだいぶ冒険してるよね」
カイは黒尽くめの戦闘服姿ではなかった。黒い皮靴に、黒いスーツ、黒いネクタイ。ただし礼服とは違い、随所には控えめな白地の刺繍が施されてる。黒を基調としているところは変わらないが、黒い凶戦士の二つ名に纏わるものを今はほとんど身に付けていない。ライフルは勿論、バラクラバも。ただスーツの下には大型拳銃を飲んだショルダーホルスターを吊ってあるが、それだけだ。
あんだーへぶんに向かう道中で適当なアパレルショップに寄り、この姿で出てきたカイを見て、センチピードもGGBも大層驚いていた。
「一瞬誰だかわかんなかったよ。馬子にも衣装だね」
「……うるせえよ」
カイはそっぽを向き、唇を突き出していた。若干、頬が赤い。
「う、うおおぉ。その反応、萌ええぇ」
「やばいっ。悶死する……じゃなかった。てめ、ブラックレイ、てめ、このやろ」
螺旋階段を上り切り、バルコニーの更に奥、『VIP』と金縁のプレートが貼り付けられた扉を潜ると、そこは外界の賑やかさとは打って変わって、シックな造りのバーのようになっていた。円卓とソファが幾つか並び、向かって右手には木製のバーカウンター、左は全面がガラス張りでホールの様子を一望できる。
既に集まっていた数名のプレイヤーが一様に視線を寄越す。
ウィスキー、ビクター、フォックストロット、キロ、リマ、現フォネティックメンバーの面々だ。それにカンカラスとディスの姿もあった。
彼らの共通点は過去にカイが体験した異常事態を知り、それに共に立ち向かったという事。そして現在、カイが置かれている特殊な状況を知っているという事。
「おっとぉ。意外だなぁ」センチピードが目を丸くする。「男性陣もきっちりドレスコード守ってるじゃん」
皆がカイ達と同様、ドレスやスーツ、タキシードで着飾っていた。あんだーへぶんには改装前から暗黙の了解として確かにドレスコードらしきものはあったが、それは強制ではなく、どのような格好でも自由に出入りできるはずである。誰かが指示したわけでもないのに、ウィスキー、フォックストロット、カンカラスの我が道を往く三名が正装を用意してくるのは意外であり、新鮮だった。
「マスターのスーツ姿……」ビクターが隣のウィスキーを食い入るように凝視していた。「やばっ。悶死しそう……」
「それもうやったよ、ビーちゃん」すかさず突っ込む@リンリン。
「っていうか、あなた達の後ろで一番意外な人が恥ずかしそうにしてるんですけど」
大きく胸元と背中の開いたドレス姿のディスが、ワイングラス片手にカイを指し示す。
「……ほっとけよ」
「へえ、あんたがカイなのか?」カイの素顔を初めて目にしたカンカラスが関心した風に鼻を鳴らす。「誰だか気付かなかったよ」
「それももう言ったよ、カンちゃん」
「か、カンちゃん……?」@リンリンに突然聞き慣れぬあだ名で呼ばれて戸惑うカンカラス。「俺のことか?」
「なんだよぉ。あたしとリンちゃんが二人で考えたあだ名が不満だってのかよぉ。じゃあ、“一羽鴉”って呼ぼうかぁ?」
「……カンちゃんでいい」カンカラスなりの苦渋の決断だった。
そんな挨拶混じりの雑談の後、皆がソファに腰を埋め、次第に各々の話題で盛り上がり始める。時折、一瞬だけAFK状態になる者が数名。現実でも飲酒しているのだ。ネット上での飲み会だった。
来客で賑わうホールでは、どこから湧いて出たのか、R&S同盟のキングが場違いな踊り、おそらくオタ芸であろう奇怪な動きで周囲を圧倒。いつの間にかキロとリマ、フォックストロット、更にはA・O社員達も混じってダンスバトルの様相を呈していた。ビクターとディスがクランの恥だ、と彼らを止めに降りて行ったが、待ち構えていたようにテン煉に捕まり、執拗に言い寄られている。
バーカウンターではウィスキーとカンカラスが何かを話し合っていた。共にスツールに背を丸めて座り、時折グラスを揺らし、時折AFKになっている。酒を飲み交わしているのだろう。どこか似ている二人、気が合うのかもしれない。カウンターの向こうでは@リンリンが良く出来たママよろしく、会話に相槌を返しながら二人のグラスに酒を注いでいる。
「なぁにぃ。あの場末のスナック的空間。じじ臭いよなぁ」
カイの隣にセンチピードが乱暴に腰下ろした。尻を滑らせ近付いてくるなり、肩に手を回し抱き寄せてくる。
「お前も十分じじ臭いよ。セクハラだぞ」
「あんだってぇ? セクシャらぁ? セクシャらしゃらスメントがどーしたってぇ?」
顔を近付け、ぐりぐりと頬を擦り付けようとする。対面に座ったGGBが鬼のような形相で睨んでいたが、センチピードはどこ吹く風だ。時折、ひっく、と身体を揺らしている。
「おいっ。呂律回ってないぞ。酔っ払ってんのかい」
「ひえ? あたしぃ? よっぱりゃってないよっぱりゃってない。ただ酒呑んでいい気分ににゃってるだゃけぇ」
「それを酔っ払うつーんだよっ」
顔を払い除けると、センチピードはむにゃむにゃと一頻り呻り、こてんとカイの膝の上に頭を乗せた。
「……あのしゃ、カイ」
うわ言のようにセンチピードは言葉を紡ぐ。
「今日ねぇ、メイと二人でさ、お見舞い行ったんだぁ」
「――――」
カイの表情が凍り付く。対面ではGGBが息を呑み、カウンターの三人も会話を止めた。
「あんたのさ、お母さんに会ったよ。事情を説明しようとしたんだけどぉ……、話してる途中で怒り始めちゃって……」
「……お、おい」
喉元からせり上がってくる得体の知れない感覚を必死に抑え込みながら、カイはセンチピードの肩に手を置き、優しく揺する。だが彼女は言葉を止めようとしない。
「ふざけてるのかって……。そんな事があるわけないって……。病室を追い出されちゃったよ。まぁ、当然かもなぁ。こんな話、誰も信じないよなぁ」
頭の中で赤黒い靄が噴出し、それが全身に広がり、飲み込んでいく。怒っているのか。この感情は怒りなのか。何もわからなかったが、とにかくどうしようもなく、気持ちが悪い。気分が悪い。
「でもさぁ……。あたしもメイも、諦めないから……。またあんたと学校で――」
「おいッ」
カイは立ち上がった。カイの膝に頭を預けていたセンチピードは床に打ち付けられる。周囲を見渡すと、皆が不安げにカイを見ていた。
「余計な事を……するなよ。頼むから」
カイは何とか言葉をひり出して、足早に扉に向かう。
「カイっ! ご、ごめん。あたしそんなつもりじゃ……。ごめんよぅ。待ってくれよぉ」
センチピードの謝罪と懇願を背に受けながら、カイはその場を離れた。
メフィル砦。
False Huntの舞台である架空の島国、レイス。そこの最北端に位置するポータルから、更に北を目指して二キロほど進んだ地点、じめじめとした密林に四周を囲まれた小高い拓地の頂にそれは在る。
もっとも、そこは嘗ての姿が想像できないほどに朽ち果てている。瓦礫という形容が妥当であろう残骸が点々と散らばっているに過ぎない。島の最北なので更に北に進めば大海原が広がっているはずだが、鬱蒼とした深緑に邪魔をされ、ここからでは目視する事も叶わない。見るべきものも、やるべきことも、何一つ存在していない、終わってしまったような場所。
瓦礫の群の入り口に立ち、カイは懐かしげに、そしてどこか寂しげに微笑する。
「……変わらないな。ここは」
あの戦いではNPC側の基地として登場したこの場所は、以前に度々訪れた時と何一つ変わらずに無表情でカイを招き入れた。
そぞろ歩き、旗が突き立てられていた広間に行き当たる。当然、旗も何もない。
適当な瓦礫に腰を下ろし、両膝に両肘を付き、顔を手で覆った。あんだーへぶんを出て、虎屋に帰る気にもなれず、ただ独りになれる場所を探してここに辿り着いた。
スーツ姿のままなので、バラクラバも被っていない。素顔を擦りながら、溜息を吐く。
手には頬に触れる感触、頬には手で触れられる感触、微かな吐息の風を感じ、手の中に篭る熱も感じる。本来、ゲームでは感じるはずのないリアルな体感。ゲームの中で生きている感覚。あれ以来、こんな感覚が日増しに強くなっている。
――――カイはこの仮想現実から、ログアウトできなくなっていた。
スペシャルクエスト、ヘルズプレーリー。それがどのように終わったのか、カイは覚えていない。最後に覚えているのは、旗を手に小山を目指して駆けている場面。次の記憶では、カイはレイトタウンの噴水広場に立ち尽くしていた。
どうなったのか。何が起こったのか。何も理解できずに、事情を求めて彷徨った。そんなカイを最初に見付けたのがビクターだった。まるで幽霊を見るかのような表情で迫られ、偽者ではないかとも疑われた。意味がわからずに呆然とするカイだったが、そこでビクターが事情を知る皆を呼び集め、現実での出来事を教えられる。
現実のカイは自室で意識を失っていたらしい。発見したのは戦いの直後に駆けつけた長瀬と朋絵らしい。病院に運び込まれ、未だに意識不明らしい。らしい、というのは、自身の身に起きた事であるはずなのにカイは何一つ知らなかったからだ。あの戦いの直後から、意識はずっとこの仮想現実に在ったのだから。
教えられてようやく、ある奇妙な感覚に気が付いた。現実の世界というものの存在が、わからない。記憶としては残っているのだが、ただ感覚として、体感としてわからないのだ。身体がどこにあると問われればこことしか答えようがなく、身体を動かそうとすれば動くのはリアルの自分の身体ではなく、カイの身体であった。
嘗てのスペシャルクエストで皐月や栞、バハムート、シマドリやハンヴィが陥ったという、リアルを見失い、ゲームの中に意識が取り込まれる感覚。それと近いのかもしれない。ただ彼らと決定的に違うのは、現実のカイは既にFalse Huntをプレイさえしていないという事。VRGとHMD、それらの操作機器を全て外され病院の一室で意識不明のまま寝かされているのだから。だからログアウトできないという表現は正確には正しくない。ログアウト云々以前の問題だ。それ以上に異常な事態だ。不明であるはずのカイの意識が、なぜかこの世界に存在し続けている。
「……」
自然と深い溜息がこぼれた。
このような事態に陥ってからの数ヶ月間、空腹は一度も感じていない。病院の点滴で生存に必要な栄養は全て補えているからだろうか。ただ睡眠欲だけはあり、眠くなれば横になり眠った。目覚めても、やはりここに居るままだった。
カイは中空を見上げる。夜の帳が下がりかけた空はどこまでも薄暗い。もう少しで全てが闇に閉ざされるだろう。
「……くそ。そういや暗視装置も持ってきてない。ポータルまで帰れるのか」
たいして意味のない独白が現実逃避するかのように口を吐いた。フォネティックメンバーであった頃は何度もこの場所に訪れていたので目をつぶってもポータルまで行けるだろうし、それ以前にこんな状態ならばどこに居ようとも関係がない。そして逃避するにも現実がわからない……。
センチピードとGGBは献身的にカイに尽くしてくれた。当初、二人は交代でFalse Huntにログインし続け、常にカイの傍から離れようとしなかった。数週間目にしっかりと話し合い、今でこそ彼女達は昼間は自身の生活を送るようになったが、それでも夜になればカイの元を訪れた。
彼女達だけではなく、ウィスキーやビクターのフォネティックメンバー、@リンリンにカンカラスやディスも、度々カイを訪ねて来た。そして面と向かって口に出そうとしないが、彼らは“調査”を行っている。カイが陥るこの不可思議な現象を解決するめに、カイを現実に取り戻すために、色々と手を尽くしているようだった。
やめてくれ、そんな必要はない、と迂遠に意思表示しているが、彼らは決してやめようとはしないだろう。あまつさえセンチピードとGGBはリアルのカイのお見舞いへ行き、母親と話したとまで言う。
調査をやめさせたい理由は、先にあれほどまでの激情に駆られた理由は、調査など全て無意味だからだ。カイが危惧していた通り、特別な危険もなく、代わりに進展もなく、終わることもなく、彼らの時間と心を徒に縛る枷にしかならない無意味な調査。
ただ予想と違ったのはカイはまだ生きているという事。自殺催眠にかけられ、死ぬものだとばかり思っていたのに、リアルでは意識不明などという中途半端な形で、バーチャルリアルでは意識が捕らわれるなどという有り得ない形で、生き残った。死に損なった。
「……」
右手を伸ばし、左の懐に手を差し入れる。スーツの下に吊っているホルスターと、そこに収められたHK45の無骨な手触り。強化ポリマー製のフレームは冷たくもなく、暖かくもない、無温だった。指先にはスパイダーマングリップと呼ばれる独特な滑り止めのざらついた感触。中空を呆然と見上げたまま、爪の先で擦る。かり、と無機質な音が鳴った。
このような事態に陥ってから、カイは一度も死んでいない。
バトルにもクエストにも参加せず、主に虎屋でガンスミスの真似事をして過ごしていた。死んだらどうなるかわからないからだ。通常のプレイヤーと同様に再出現するのか、それともそこで本当の死が訪れるのか、わからない。知るためには試しに死んでみるしかないが、もし本当に死ぬのだとすれば、試すもなにも、一度切りだ。死後の世界、いわゆる天国や地獄があるかどうかという問答に似ている。
実はこのようにタウンの外に出る行為をセンチピードとGGBにはきつく止められていた。タウンの外は自由射撃地帯であり、銃弾飛び交うクエストやPKが横行しているからだ。最初に彼女達がカイから目を離そうとしなかったのは、きっと監視の意味もあったのだろう。監視が夜だけになってからは、昼間の間、彼女達には内緒で何度かタウンの外へと出ていた。クエストやバトルこそ自重しているが、PKと思しき集団と戦った事もある。
昂ぶりはした。死んだら終わるかもしれないという緊張感は確かに甘美だった。だが、それは思いの外たいした事はなかった。事が済んだ後、こんなものか、と思えてしまう程度のものでしかなかった。
それはきっと、もうある意味では終わってしまっているからかもしれない。
Xで終わり。あのスペシャルクエスト当選メールの末尾にあった短い言葉が示唆していた通り、きっともう全てが終わってしまった。真実を知る機会は永遠に失われ、望まぬ形で結末に達してしまった。だからもうどうでもいいと、死んでしまっても構わないとどこかで思っているからこそ、緊張感が薄れて、スリルがかけて、戦いがたいして面白くもないものに成り下がってしまったのかもしれない。
カイは嘗て望んだものを手に入れた。どうしようもない異常事態。自身を取り巻く世界の変化。
つまらなく、退屈で、平凡で、醜悪なほど不変な現実が完全に消失し、おもしろく、偏屈で、非凡で、狂気なほど異質な仮想現実が全てになった。
そのはずなのに、今の自分にあるのはただの惰性のような生だけだった。なんてことはない。現実の日常で感じていたものと同じだ。いや、仮想現実という救いがつまらない日常になってしまった今となっては更に達が悪い。
最近、虎サンと一緒にこのゲームをただのプレイヤーとして普通に遊んでいた頃の事をよく思い出す。嫌な日常にやきもきしつつも、夜にはこの仮想現実ではしゃいでいた頃の記憶。
「ああ――。畜生。楽しかったなぁ……」
不意に、虎屋で銃を弄くっている今の日常が脳裏を過ぎる。時折手を止め、誰も居ない周囲を見渡して、恐ろしい虚無感に駆られるが、それから逃げるように再び手を動かす。
それが続く。いつまでかはわからないが、永遠と思えるほどに、たっぷりと。
「――――う」
カイはHK45のグリップを握り、止め具を親指で弾き、引き抜いた。
銃口を銜え、撃鉄を起こす。
ガチリと、固定された撃鉄の振動が頭骨に伝わる。
「ッ!」
だが、すぐ背後、唐突に何者かの気配を感じ、口から抜いた銃口を突き付ける。
「あは」
照門の間の照星の先には、心底嬉しそうな無邪気な笑顔。
そこに居たのは一人の女性。だぶだぶの濃紺のツナギを着て、同じく濃紺のニット帽を浅めに被った小柄な女性プレイヤー。
「久しぶりだね。レイ」
それはカイと共にフォネティックメンバーを設立し、仮想現実の世界全土に多大な影響を与え、しかしある日を境に忽然と姿を消した、ズールと呼ばれるプレイヤーだった。
「元ロメオが言ってたサプライズ。それが私だったんだよ。私の復帰を祝うパーティでもあったんだ」
「……お、お前っ」
「ね。それ下してくれないかな。話しづらいよ。あ、でもちょっと待ってね」
そこでズールは背伸びをして、カイが持ち上げたままのHK45の銃口に小さな唇を重ねた。口付けをするかのように目蓋を薄く閉じている。
「な、なにやってんだよ!?」カイは跳ね退けるように拳銃を引く。「馬鹿じゃねえのか」
「馬鹿じゃないよ。間接キス。性的行為ができないこのゲームでは、カップルの間では割と有名な求愛行動なんだよ」
「……ば、馬鹿じゃねえのか」
カイは視線を逸らし、小声でもう一度繰り返しながら拳銃をホルスターに戻した。
ズールは薄く笑い、後ろで手を組み、更に一歩カイに近付く。
「事情は全部知ってるよ、レイ」
そしてゆっくりと両手を広げ、カイの腰に手を回した。
「安心して、私だったらずっと傍にいられるよ」
はにかんだような笑みを浮かべて、カイの胸に顔を圧し付ける。
「センチピードやGGBとは違って、私ならずっと、ずぅっと、レイと一緒に居られるの。三百六十五日、二十四時間。ずぅぅっとね」
子供を宥める母親のように、愛しげに、優しく背中に指を這わせる。
「もう二度と独りになることはない。私と一緒ならきっと自殺したくなるほど辛くはならない。これからはずっと一緒だからね」
ズールは顔を上げ、カイを見上げた。そこでピタリと硬直。
一瞬にして、塗り替えたように、能面のような無表情になった。
「わからないなあ。どうしてそんな顔をしているの? レイ」
カイは唇を噛み締め、眉間を寄せ、泣き出しそうな、寂しそうな、辛そうな表情で、ズールを見詰めていた。
「――――って、いうのがバッドエンドB」
ズールがやれやれとばかりに嘆息して、微苦笑した。
「やっぱり、お気に召さなかったみたいだね、レイ」
「――え」
気が付くと、カイは暗闇の中に居た。
目前に佇むズール以外は何も見えない。どこまでも続く暗黒。
視線を下げると、自分の身体だけははっきりと見えた。暗闇であるはずなのに、全周から照明で照らされているかのように、ズールと同様、はっきりと浮かび上がっていた。
暗闇というよりも、これは無だ。宇宙空間において、泡沫状に分布する超銀河団の間、圧倒的に虚無であり、絶望的に広大な空間、超空洞のような場所。カイとズール、二人のみが存在している世界。
「――……は?」
そこでふと、違和感を覚え、カイはもう一度自分の身体を見回した。
スーツ姿ではない。黒い戦闘服に、黒いタクティカルベスト。両手には黒いグローブ、右手だけ指貫のものだ。足元は編み上げのタクティカルブーツ、右大腿部にはHK45を飲んだレッグホルスター。ベストのマガジンポーチを確認すると、7.62ミリのFMJ弾が給弾されたSCAR-H用の弾倉が二本しか残っておらず、腰の40ミリグレネード弾が連なったベルトにも、数発分の空きがある。
そして顔に手を伸ばすと、馴染み深い、最早素肌よりもずっと慣れ親しんだ布地の感触。双眸と口元が貫かれた黒地のバラクラバ。
「!」
青い空を背景に白と黒、二つの反物が揺れている場面が脳裏で瞬いた。
そしてすぐ近くで、こちらを見下ろしながら、必死に何かを喚きながら、大粒の涙を流す一人の女性の姿。伝い落ちた涙の粒がバラクラバへと、そして地肌へと浸透する。熱く、暖かい、温もり。
「ねえ、レイ。いい加減教えてよ。どういう終わり方がいいの? もう八十三回目なんだけどさ、どんなエンディングでも、毎回最後にはあの顔するんだもん」
ズールの言葉が意味を持たない音として鼓膜を通過する。
頭の中で、先までの、メフィル砦でズールと邂逅した時の記憶が、あんだーへぶんで皆と談笑していた記憶が、リアルに戻れなくなり、数ヶ月間ゲームの中に取り込まれていたという記憶が、遥か遠い記憶であるかのように急速に色褪せ、現実感のないものへと変貌していく。偽りの妄想であったかのように消えていく。
ズールは両手を広げ、周囲を、虚無の世界を指し示すようにその場でくるっと回った。
するとズールの背後、暗黒をスクリーンにして投射されるかのように無数の場面が浮かび上がる。上下左右、無限とも思える広がりを見せる様々な動画群。
銃弾の嵐の中を哂いながらズールと共に駆け抜ける場面、ズールを交えたフォネティックメンバーの仲間達とレイトタウンの噴水広場で楽しげに会話をする場面、ズールと二人で虎屋を整理する場面。
ズールと、そしてカイが映っている動画が圧倒的に多かった。
「さっきのは何が気に入らなかったの? やっぱりFalse Huntの中に取り込まれるっていう設定が良くないのかな。まあ、見せる前から確かにバッドエンドくさいとは思っていたんだけど」
ズールは“設定”と言った。“見せる”と言った。
カイは、八十三回目だという先までの捏造された記憶を見せられていたのだ。そしてその前には八十二回も違う種類の嘘の記憶を見せられていたのだ。
「でも、最初の頃に見せたベリーグッドエンドでも、レイはやっぱりあの顔するもんね。うーん、わかんないな」
ズールの後ろの動画の中には、虎サンの姿が見えるものもあった。カイが虎サンと二人で、少年のような無邪気な笑顔で戦っていた。現実でのカイを映し出すものもある。大学を卒業し就職。仕事に追われながらも、夜にはFalse Huntにログインし、虎サンや新たに得た仲間達と過ごしている動画だ。きっと、虎サンがヘルズブリッジで命を落とす事なく、何事もなく時が進んだという設定の動画なのだろう。
「あは。そっか」
ズールは蛇のようなつり目を輝かせ、口角を上げる。
「ここでこうして、色んな種類のエンディングを見続けるっていう選択肢もあるんだね。二人きりでさ」
カイの全てを見逃さないように、見透かすように、レンズのような無機質な輝きを放つ瞳。
カイは何も答えず、何も考えられずに、そんな彼女に呆然とした視線を送ってから、再び虎サンが映る動画に目を遣った。
かははと、闊達に笑いながら、カイと背中を合わせて、TsKIB RG-6グレネードランチャーを連射する虎サン。
きっとカイは、このような無数の動画を見せられて、あの頃に戻りたいと、ああだったらよかったのにと、そんな願望に流されるまま、八十三回も様々な形のエンディングを見るに至ったのだろう。
そして今は、何事もなく時が進んだという設定の動画に心惹かれている。
あれがいい、とほとんど何も考えずに願望に絆されるままにその動画に指をさしかけて、
「――え」
不意に動画の中の虎サンが動きを止め、頭をこちらに向けた。明らかに動画の中からカイを見ていた。
そして動画の中のカイの尻を蹴り飛ばし、画面の外へと追い出してしまう。すると徐に右側に歩き始め、隣の動画の中に現れた。繋がりを持たないはずの動画と動画の間を行き来した。その動画はカイがたった独りで戦い続けているというものであり、呆けるカイを先と同じように画面の外へと追い立てる。
そうして、一人、動画の中に残った虎サンは再び中からこちらを見て、ゆるゆると首を振り、優しげな表情で微苦笑した。
途端、無数に広がっていた動画の群が、端から消えていく。ばしん、ばしんとブレーカーが落ちるような音を上げ、次から次へと閉じていく。
「………」
ズールは背後に首を回し、消えていく動画を見ていた。見開いた目はそのままに、しかし口は無感情な一文字に閉じている。
「なあ」
カイは初めて、明確にズールに向けて言葉を発した。
「もういい」
レッグホルスターのHK45に右手を添える。二度、拳を閉じてから、指を小刻みに動かす。
「……虚偽は終わりだ」
ズールはぐりんと、カイに頭を向ける。
何度も見せたというエンディングの中で、カイが毎回最後には辛そうな顔をするのと同様、ズールも同じような表情をつくっていた。彼女の本当の貌。この虚無の世界を統べるに相応しい、能面のような無表情。
「銃を出せよ」
ズールが背後のヒップホルスターにグリズリーを差しているのは知っていた。
小柄な体躯には不釣合いな大型拳銃、LAR グリズリー・ウィンマグ。発砲の反動で排莢と装填を行うブローバック方式でありながら、強力過ぎる弾薬を使い故障が多発すると悪名高い特殊な拳銃。
嘗て彼女にどの銃がお勧めかと訊かれた時に、危うい雰囲気を漂わせる彼女にぴったりだと思い、カイが勧めた拳銃だった。
「俺は、お前を――」
薄暗い自室で、涙を流しながら決めた事だった。堅く誓った事だった。
待っててください、虎サン。絶対に、何においても、何があろうとも。仇は俺が、
「――撃ち殺さなくちゃならない」
ズールは無表情のままで、背後に右手を回した。
広大な虚無の世界、一メートルもない、密着した距離で対峙する二人。
「いいよ。それがレイの望むエンディングなんだね」
「ああ」
カイはHK45を抜き、ズールはグリズリーを抜いた。
精確性など皆無。ただただ迅さを求めた銃撃。発射炎が瞬き、血飛沫が散り、硝煙が広がり、肉片が弾け、空薬莢が跳んだ。頭部がどうなろうとも、胸部が裂けようとも、右手の人差し指が繋がっている限り、引き金を落とし続けた。大口径同士の拳銃の銃声が、機関銃を連射しているかの如く、絶え間なく錯綜する。弾倉の弾がなくなるまで、死んでも、二人とも止めようとはしなかった。
「真実を――」