False War 10-10
目の前に閃光が奔った。
グリズリーの、スライドから突出するように延長された銃身から、淡い硝煙が立ち上る。
あまりの突然の出来事に、俺は何が起きたのか理解できずに、だぶだぶのツナギを着た小柄なあいつには不釣合いな大型拳銃だな、とそんな場違いな感想だけが意味もなく脳裏を過ぎった。
あいつの手元、グリズリーの引き金に掛けた人差し指の爪の先が、力を籠められ白くなる。
再び銃口から閃光が解き放たれようとしている。
俺はあいつに手を伸ばして――
「やめろ――」
カイは右手を突き出した。
彼女に向かって掌を伸ばしたはずなのに、銃把をきつく握り締めた右手が、空に向かっていた。
「………」
針葉樹の根元、下生えと茶褐色の腐葉土に半ば埋もれる格好で、カイは仰向けに倒れていた。
一秒、カイは片手保持の突撃銃を天に突き出した体勢のまま、何も考えられずに停止していた。幾重にも重なった針葉樹の樹冠から差し込む頼りない木漏れ日が、黒色モデルのSCAR-Hの側面で鈍く無骨に反射している。二秒、左手に握った旗の存在を確かめ、三秒、思い出したように呼吸を吐いて、身体を起こした。
カイから五メートルほど先、草叢と森林の境界線、一輛のハンヴィーが大破していた。
樹木の幹に正面から衝突したボンネットは大きくへこみ、エンジンルームはもうもうと白煙を噴いている。太く鋭い枝がフロントガラスの中央を突き破り、運転席と助手席を隔てるように伸び、中央の銃主席にまで達していた。特に破損が著しいのが車体の後方、右半分が完膚なきほどに破壊し尽くされている。鮮やかだったOD色の塗装は見る影もなく黒く煤け、歪に切り取られた外装板からは、捻じ切れたフレームの一部が覗いている。
ディスと彼女の部下であるA・O社員は、後部座席で血達磨になっていた。
連続した30ミリ炸裂砲弾の数千にも及ぶ弾片によって、原型を留めないほどに引き裂かれた肉と骨と血の塊だ。
「……こんなところで……ふがいないわね」
口から赤黒い喀血を滴らせながらディスは隣の部下の絶命を確認し、口惜しそうに呟いた。左手でACR突撃銃を胸元に手繰り寄せる。利き腕であるはずの右手は肘から分断され、二の腕から皮一枚でだらりと垂れ下がっていた。糸をひくような粘った血液が止め処なく流れている。死が確定した、一分も持たないであろう致命傷である。
現実の世界では民間軍事会社のオペレーターとして活躍し、ゲームの中でも上級の腕前を持つ彼らでさえ、戦場に跋扈する圧倒的で絶対的な存在、“不運によって齎される死”には抗えない。そこには各々の技量が関与する余地がないからだ。彼らは、後部座席に座っていたというだけの理由で、命を落とす事になってしまった。
運転席ではドライバーがハンドルに突っ伏していた。苦痛に顔を歪めながらゆっくりと頭を起こし、ドアに手を掛けるが、軋むだけで開かない。変形したフレームが障害となっているようだ。車体を貫く巨大な枝が邪魔で助手席側に移動する事も適わない。
助手席側のドアはロック機構そのものが破壊されてしまっていたようで、傾ぐようにすんなりと開き、センチピードがずり落ちるように出てきた。額と頬から血の筋が垂れているが、彼女自身の出血なのか、後部座席のディス達の血飛沫を浴びたのか、判別できなかった。
「ちっくしょうぉ……。視界が揺れやがる」
センチピードは這いつくばった姿勢で頭を振り、AK-102の前部銃床を握り締めて立ち上がった。ドライバーを救出しようと運転席側へと回ろうとするが、
「待て! 駄目だ」
カイは鋭く制止した。振り向いたセンチピードが捜すように視線を彷徨わせている。見付けられるを待たずに、カイは続ける。
「こっちに来い。奴らが来てるぞ!」
細い立ち木と藪の向こう側にカイの姿を見付けたセンチピードは、カイが指し示す方向に視線を配り、戦慄する。
フェンリルの群が突進して来ていた。
尾根の斜面を麓へと転げ落ちるように、長く鋭い脚を目にも留まらぬ速度で躍動させながら、迫り来る。
先頭の一体との距離は、もう百メートルもない。掠っただけでも人間の手足を奪い去る本体上部の30ミリ機関砲と、既に回転を始めている下部のガトリング砲の照準は、ぶれる事なくセンチピードに据えられてる。
「行け!」
運転席からの声。状況を察したドライバーが怒鳴っていた。
「悪いけど、こっからは徒歩で行ってくれや。ほら、早く行けって!」
「急いで。進み続けてっ」虫の息であるディスが、最後の力を振り絞り身体を反転させ、左手だけで窓枠から突撃銃の銃身を突き出し、フェンリルに向けて発砲し始めた。「振り返らず、全力で走って……!」
センチピードは何も言わずにカイの方へと駆け出す。眉根を寄せ、下唇を強く噛んでいた。
炸裂する砲弾の風圧と高速で穴を穿つ弾雨の振動、そして「彼を頼んだわよ」、というディスの最後の言葉が、彼女の背を強く押した。
カイとセンチピードは南へ直進するのではなく、間近に迫るフェンリルから逃れるために、南東へと、森林の奥深くへと走り始めた。
突進してきたフェンリルは跳躍し、乗員諸共残骸と化してしまったハンヴィーの上に飛び乗った。乗ったというよりも潰したという表現の方が近い。鋭利な四肢で貫かれた車体は金属が絡む不快音を発して半ば地に沈む。そしてハンヴィーを足蹴にしたままで、フェンリルは30ミリ砲身とガトリング砲を目前の森林に向けて、連立する樹木の間を縫うように走る二人の背を捉えようと彷徨わせる。
その砲塔で突然、手持ち花火のように絶え間なく継続する火花が生じた。
先行していた先頭のハンヴィーは後続車輛が襲撃された事を察知して停車、ルーフに搭載されたM134ミニガンを繰るカンカラスと飛び降りた乗員達が、横合いからフェンリルに銃撃を加え始めたのだ。
「わたくしの目が黒い内は、させませんよ、絶対にね。もっとも、仮面を被ってるから外からわたくしの目は見えないわけですが」
フォックストロットと最後の一人になってしまったA・O社員、そして銃撃戦は不得手であるはずのビークルカンパニーのドライバーまでもが、我が身を省みず、フェンリルに突進しながら、銃弾と手榴弾で牽制しようとする。
「駄目か……!」
だが、小銃弾や対人手榴弾の炸裂程度では、ダメージはおろか、照準を逸らせる事さえ叶わない。フェンリルは彼らの必死の抵抗など、そもそも存在さえもまるで意に介さず、本体に搭載された二つの凶器は火を噴き始めた。
森林の奥へ吸い込まれる横殴りの弾雨は、枝を落とし、葉を微塵にし、幹を砕き、その進路上にある物を根こそぎ破壊しながら、カイ達の背後へ延びる。
「ああぁ、よせ、くそっ。くそ、くそっ、畜生があ!」一時足を止め、慣れない様子で短機関銃の弾倉交換を終えたドライバーが顔を起こし、更なる絶望に一瞬硬直する。「マジかよ……。勘弁しろよ、おい! どんどんきやがったぞ!」
止めるべき対象は眼前のフェンリルだけではない。後続のフェンリルも、もうすぐそこまで迫っていた。
遠方の尾根には全力疾走に向かってくる徒歩プレイヤー達の姿が、そして彼らの頭上、稜線からは機首を傾かせたバイパー攻撃ヘリコプターが現れる。それの後ろには戦闘車輛も続いているのだろうが、どう考えても間に合いそうにない。
接近するフェンリルの群が旗を持つ者を四散させるための銃火に加わるのは時間の問題。いや、時間の問題などという迂遠な表現はこの場合正しくない。明確に断言して、十秒後。そして加わったのならば、カイは掛け値なく周囲の樹木諸共、即座に粉砕させる。
……やめてくれ。
カンカラスは声に出さずに懇願していた。脳裏に浮かぶのは、共にフェンリルを開発した友人。
彼に頼んだところでどうにもならない事は知っているし、そもそも現実でフェンリルが実用化されていたのなら、大勢の人命を奪う事になっていたというのに、その罪悪感に折り合いを着けて研究開発に携わると決意したはずなのに、今まさに奪われようとしている一つの命を前にして、彼は友人に懇願し続けた。
お願いだから、やめてくれ……!
その時である。
「マジックナイトメア・レクイエム!」
仮想世界の時間軸が異常をきたした。
「言ったでしょう。わたくしの目が黒い内はさせませんよ、と。絶対にね、と。もっとも仮面を被ってるから外からわたくしの目は見えないわけですが……と」
フォックストロットだ。伝家の宝刀であり諸刃の剣でもある秘術、ラグを発動させたのだ。
付近に居たA・O社員とドライバーの動作がコマ送りになり、驚嘆と呻き声も飛びとびで発される。
フェンリルの挙動も然り、発砲は停止と再生を繰り返す奇怪なものになるが、しかしカイ達も同様のラグに見舞われており、彼らが脅威に曝されているという事実は変わらない。ラグ自体で彼らが救われるわけではないのだ。ただ、この異様なる世界こそが“ラグ遣い”と畏怖されるフォックストロットのホームグラウンド。
「ウィスキーさんから聞きました。栞さんを殺害したのはアレと同様の多脚戦車とのこと」
フォックストロットは普通のプレイヤーなら直進する事さえ困難な混沌の世界を、消失と出現を繰り返しながら真っ直ぐに突き進む。繰り返すにつれ、出現するまでの距離が明らかに伸びている。加速しているのだ。通常状態の全力疾走など比べ物にならないほどの速度で、ラグの波に乗るように、さながら仙術の縮地のように、フェンリルに急接近する。
「いつか再び彼女と死合うその日のために、ラグを鍛え上げてきたのに、それが最早叶わないのならば、ここでそれを発揮する事に、わたくし、いささかの躊躇いも持ち得ない所存ッ。これこそ彼女へ捧げるレクイエム!」
力強く跳躍したフォックストロットはフェンリルの脚の間をすり抜け、ハンヴィーの残骸の上へと、フェンリルの腹の下に潜り込んだ。両手のP90の銃口をコマ送りで回転するガトリング砲銃身の付け根、僅かな隙間に歯車が覗く稼動部に突き付けて、引き金を絞る。
「アーリアリアリアリアリアリアリアリ……!」
意味不明な絶叫。ほとんど接触させた銃口からは発射炎と着弾の火花が激しく混じり合い、周囲の装甲が傷付き、へこみ、抉れていく。しかし、厚く硬質な装甲板に零距離から銃撃を浴びせれば自身も無事で済むわけがない。砕けた銃弾の破片が、そのまま弾かれた銃弾が跳ね返ってくるのだ。撃てば撃つほど、フォックストロットは自身の銃撃により鮮血で染まる。
「アリアリアリアリアリアリアリアリ……!」
全身に跳弾を浴び、鉄仮面が罅割れ、膝が折れそうになっても、フォックストロットは引き金に掛けた指の力だけは緩めようとはせず、そして、
「……アリーデヴェルチ……」
歯車が欠け、間に挟まれる形で銃弾が這入り込み、硬い音をたててガトリング砲の回転が停止すると同時、フォックストロットは崩れ落ちた。世界を束縛していたタイムラグも幻のように消え去った。
――――オオオオオオオオオォォォ。
搭載火器の一つを奪われたフェンリルが咆哮した。後足を折り、前足を持ち上げ、本体を傾斜させ、天に向かって吼えている。サイレンと暴風を混ぜ合わせたような身の毛もよだつ遠吠えだ。
カンカラスは全身を微細に震わせる音響に曝されながらも、瞬間的に察して、銃座を離れ、ハンヴィーの運転席に滑り込む。
ギアをバックに放り込み、咆哮に当てられ足を止めていたドライバーとA・O社員の元へ後退させた。
「乗れ! 来るぞ」
二人が飛び乗り、ドアが閉められるのを待たずに、アクセルを踏み込んだ。
直後、タイヤに巻き上げられた砂利が地に落ちる前にはそこに30ミリ炸裂弾頭が突き刺さり、爆ぜた。掘り起こされた土砂の中で紅蓮の爆炎が吹き荒れる。
フェンリルは森林へ向けていた照準を一転、錯乱したかのように蛇行するハンヴィーを追っていた。北側では、すぐ近くまで接近していたはずの後続のフェンリルの群も脚を止め、正対方向を180度反転させ、尾根から追走していた徒歩プレイヤーや機械化部隊に真正面から対峙している。
暗器分隊が露見した時と同様の豹変。先までの冷酷な無視が、存在を否定しているかのような無関心が、幻であったかのような急激に過ぎる襲撃だ。
しかしそれは何もプレイヤー達の意表を突くための行動ではない。フォックストロットの捨て身の敢行が、彼らのルーチンを書き変えたのだ。“何をおいても旗を持つプレイヤーを死滅させろ”、というプログラムが武装破壊という直接的な阻害を受けて、“旗を持つプレイヤーを死滅させるためにも邪魔者も積極的に排除しろ”、という風に変質した。
カンカラスは執拗に追い立ててくる炸裂の連続から逃れるため、懸命にハンドルを左右に切るが、運転に関しては門外漢とはまではいわないまでも、並の腕しか持たず、すぐに限界が訪れる。スリップした後輪に振り回される形で一時的に制御を失ってしまった。
「――ッう」
運転席側の地に砲弾が炸裂。飛散した石礫が窓から入り込み、カンカラスの顔面を襲う。
「あぐ……。目だ。目をやられた」
「停まンな! そのままアクセル踏み続けろ!」
助手席側のビークルカンパニーのドライバーがすかさず手を伸ばし、ハンドルを握った。
「……」
視力を奪われた暗闇の中、ドライバーとA・O社員の怒声と絶叫、機動車のエンジン音とタイヤの摩戛音、砲弾の飛翔音と炸裂音が錯綜する。暴力染みた聴覚情報のみが氾濫する混沌の極み。
けれども、それどころではないというのにカンカラスは、心の片隅で友人を想っていた。目蓋の裏に映る彼は、寂しそうに、けれどもどこか優しげに微笑している。カイ達が救われたのはフォックストロットの敢行のおかげなのは間違いないはずなのに、フェンリルのハード面だけではなく、ソフト面の開発にも関わっていた彼の存在を感じずにはいられない。
「おい……南だ。なんとか奴を撒いて、南へ向かってくれ」
「はあ!? 撒くって、こうして逃げてるだけで精一杯つーか、生き延びてるだけでも奇跡的なんですけどオ!」
「いいから、やってくれ。ブラックレイ達は森の中を徒歩で移動して基地へ向かうつもりだ。援護するためにもなるべく近くに居た方がいい」
「……クソッ! 目ェつぶれてる癖に、なんであんたそんなに冷静なンだよ!」ドライバーは八つ当たりするかのように怒鳴り散らした後、言葉を継ぐ。「約束できねえが努力してやる!」
力強く頷き、カンカラスは視えないはずの目で先を見据えるように真正面に顔を向けた。
根拠も何もない、浅ましい空想であり、自分勝手な妄想だと理解しているが、友人が、友人の意思がカイの生存を望んでいるように感じていた。
レクイエム。本気なのか、ふざけているのか、掴みどころのない調子で言っていたフォックストロットの言葉が脳裏で繰り返されている。
直径30ミリの弾頭が針葉樹の太い幹に喰い込み、内側で炸裂、木屑が混じった黒煙が噴き上がる。7.62ミリ弾の束が細い立ち木を薙ぎ倒す。木が、葉が、草が、土が、この森林を形成するありとあらゆる物質が微塵にされ、上下左右に吹き荒ぶ破壊の嵐。
獰猛な風切り音を発しながら後ろから押し寄せるその眼に見える破壊に、センチピードは両手両足を全力で振り回しながら絶望の叫びを発した。
不意に腕を掴まれ、強引に引き倒される。視界が真っ暗なり、全ての音がくぐもっていた。転倒したその先は、窪地の小さな池だった。水中で仰向けになる。濁った水の向こうでは曳光弾の鈍い光の筋が揺れ、それが巻き起こした塵が水面に落ち、無数の波紋を打っていた。
「――!?」
そこで奇妙な現象が起きた。その水中から視る光景が、停止を再生を繰り返すコマ送りになったのだ。もがく手足の挙動も、驚きのあまり口から大量に吐き出した気泡も、全てがコマ送りだ。しかしそれは生じた時と同じく唐突に消え去った。
一体なんだったのか、と思考する間もなくセンチピードは再び腕を取られ、引き上げられる。全身をずぶ濡れにしたカイが二の腕を掴みながら、行けるか、と無言で問い掛けていた。
センチピードは初めてここまで接近したカイの双眸を、返事も忘れ、暫し呆然と見入ってしまった。
それはあの部屋で会った、活力が消失し今にも死にそうな青年の眼とは懸け離れていた。常にどこか鬱陶しそうに細められた奥二重が今は見開かれ、長いまつ毛に水滴が付いている。だが、活気が満ちてるという風では決してない。虚ろで哀しげな印象はリアルと変わらない。ただ、決定的に違うのは眼の中心、漆黒の瞳の奥はどこまでも深く透き通っていた。
「おいッ。ぼさっとするなよ。今のはラグだ」
カイは水中の旗を掴みながら、先の現象を説明した。どこかぼうっとしているセンチピードを見て、不可解な現象を受けて混乱しているのだろうとカイは察したのだが、それは見当違いだった。
「……そっか。ラグかぁ。このゲームでラグるなんて、初めてなんだけどぉ」
しかしセンチピードも敢えて訂正しようとはせず、少し気恥ずかしげに、言い繕うように相槌を打つ。
二人はライフルを水に浸さないように胸の高さで掲げて進み、岸に上がる。先の奇妙なコマ送り以降、森林を蹂躙していた弾雨は収まっていた。だが、今も西側、草原の方角からは絶え間ない戦闘音が聴こえてくる。
「たぶん、フォックストロットが何か仕掛けたんだろう。今の内に進むぞ」
とりあえずは戦闘から離れるため、けれども極力距離を稼ぐために、再び南東へと密林を進み続けた。群生する針葉樹は行く手を阻む障害物であり、同時に身を隠してくれる遮蔽物でもある。如何に強大な腕力を持つフェンリルと言えど、自身の体躯より狭い間隔で連立する巨木の間に分け入って来るのは不可能だろうし、ここまで深く踏み入れば砲弾が届く事もないだろう。
しかし、その回避行動は思いも寄らない、酷く物理的な形で終焉を迎える。
「――危なッ!」
鬱蒼としていた視界が不意に開け、二人は急停止する。
「えぇ……これぇ、嘘だろぉ」
二人の爪先からほんの数十センチ先、そこにあるのは無だった。つまりそこには何もなかった。
崖である。
まるで切り落とされたかのようにほぼ垂直に切り立った断崖が、無骨な岩肌を晒して南北へと一直線に延々と延びていた。高さ百メートルはくだらないであろう遥か眼下では、霞がかかり白くぼやけた樹海が広がっている。
「……マップの限界」
カイの呟きに、センチピードはマップ画面を表示した。
自身の位置を示すシンボルマークは三十キロ四方の右辺上にあった。正対方向を表す矢印はマップ画面の枠から少し飛び出すような形で東側を指している。つまり、二人の位置は提示されたクエストエリアの最東端に達してしまっていた。即ち、マップの限界だ。
「で、でもさぁ。エリア外に出ようとしたら警告されるのが普通でしょ? こんなのあからさま過ぎるだろぉ。西や、北や南はどーなってるわけ?」
「ここと同じような断崖か、それとも絶壁か。……しかし、まあこれでも随分親切になった方だと思うぞ。最初のヘルズブリッジの時は、あからさまなんてモンじゃない。手抜きのレトロゲームよろしく、視えない壁があった体たらくだからな」
「はぁ!? このVRゲームで視えない壁って……」
「まあいい。ここまで来れば草原側から攻撃される事はないだろうし、こいつがある以上、隠密行動は不可能だ」カイは左手の旗を振り動かす。「ここからは南へ一直線に進むしかない」
センチピードは曖昧に頷きながら、微風に揺らめく旗の反物とカイの右手に握られたバトルライフル、神妙な面持ちでそれらを交互に見詰めた。
不自然な事に、崖の縁であるはずなのに針葉樹の密度は森林の只中と変わらなかった。まるで本来は繋がっていたはずの深緑の大地が、さながら豆腐を切るかのようにスパっと、そしてストンと沈下したかのような、不自然というよりも自然界では有り得ない形状の崖なのだ。故に崖の縁であろうが森林の只中であろうが、結局は密集する樹木を縫いながら走るしかなく、思うように速度が出ない。
「うわっち。ああぁ、もうっ」露出した木の根に躓き、転倒しかけたセンチピードが悪態を吐く。「草原って銘打ってるクエストだってのに、あたし達ずっと森を走り回ってる気がすんだけどぉ。緑の地獄、ヘルズフォレストって感じぃ」
更に旗取得者に付き纏う独特の制限が、二人の枷になっていた。乗り物を用いて運搬する場合はその限りではないのだが、旗を徒歩で運搬する際は、右手か左手、必ず自らの手で持っていなければならない。背に差すとか、どこかに括り付けるなど、効率的な運搬方法は一切が仕様上不可能になっている。結果、鬱蒼とした道無き道を往く際に、長尺の旗は邪魔物以外の何物でもない。
「フォレストか。確かにここはジャングルって風じゃない。日本的な針葉樹林だ」
相槌を打つカイに、センチピードは暫し沈黙した後、問い掛ける。
「……カイ。話は変わるんだけどさぁ。ちょっと前、二人でデートしたの覚えてるぅ?」
「はあ? そりゃいつの話だ?」
「ええぇ。しただろぉ。ほら、朝さぁ、二人で売店で朝飯買ってさぁ。仲良く乳繰り合ったべ」
カイは暫し記憶を辿り、ああ、と頷く。
「遅刻した時だな。俺はコーヒー買ったんだよな」
売店のベンチの前で缶コーヒーを片手に煙草を喫ったのを思い出す。あれから一ヶ月ぐらいしか経っていないはずなのに、懐かしく感じられた。いや、あの出来事だけでなく、大学も、通学路も、いつも利用していた最寄のコンビニも、ありふれていたはずの日常が、自分の部屋以外の現実の全てが、酷く懐かしい。
「……つーか、あれはデートじゃないし別に乳繰り合ってないだろ。捏造すんなよ」
「たとえ五分間でも男子と二人きりで一緒に居るってのは、女子にとっちゃデートなのぉ。だから今もある意味デートだよなぁ。森林ピクニックさ」
「……そんな話がしたかったのかよ?」
渋い顔をするカイに、センチピードは苦笑して首を振る。
「いや、あの時さ、このゲーム、False Huntの話したよなぁ」
「ああ。そうだったかもな」
「その言い草だとあんた、あの時に嘘吐いた事も覚えてないだろぉ」
ばつが悪そうに視線を泳がせるカイ。センチピードは嫌らしい笑みを浮かべて言い募る。
「タイトルを知ってるだけだーとか、ゲームはオフラインしか興味ないぜーとかさぁ。挙句の果てに、あたしはブラックレイのファンだって、ご本人を前に宣言しちまってよぉ。たくぅ、とんだ羞恥プレイだっつーの。いい性格してるよなぁ」
「わかったわかった。覚えてるよ。……悪かったな」
「へんっ。いや、まあいいんだわ。あれ実はちょっとわざとっていうか、鎌掛けでもあったんだよなぁ」
「なんだそりゃ?」
「別に確信があったわけじゃないし、本気で疑ってたわけじゃないんだけどぉ、ただなんとなぁくさ、リアルのあんたとカイが似てるなぁって、前々から思ってたんだ」
「ほんとかよ……。GGBが俺の声を録音する以前に、ずっと疑われていたわけか」
「いやいや、だから疑ってたっていうよりもっと些細なさぁ。ほんとになんとなくなんだよね。うっすらっていうか。あんたのファンサイトがあって、そこにはあんたの顔写真のスクリーンショットが貼ってあるって話はしたよなぁ。そこの写真、リアルのあんたと瓜二つだってのに、我ながら不思議なもんで、録音された声聞くまで気付かなかったんだから」
「ああ。……俺が言うのも難だが、その気持ちはわかるよ」
カイにもその心情に心当たりがあった。カイもリアルのクラスメイトである柿崎詩織が紫の影の栞だと、本人から宣言されるまで気付かなかったのだ。センチピードとGGB、つまり長瀬と朋絵は前々から察していて、しかし本人が口を閉ざしている事から敢えて触れなかったらしいが、カイの場合、柿崎と会話をしても疑う事さえしなかった。
カイは現実と仮想現実は別物であると、無意識的に、けれども明確に二分していた。予てから虎サンとリアルの話をしようとはしなかったのは、ヘルズブリッジのクエスト開始直後、虎サンからリアルの身の上話を語ろうとした時に奇妙な焦燥感が生じたのは、皐月と栞、二人とリアルで会合する運びとなった際に気が進まなかったのは、全てがそれに起因している。
「でもさぁ。思うんだけど、リアルでバレないようにしたいなら、顔変えればよくないかぁ? このゲーム、GGBみたいに自在にキャラメイクできるんだしぃ」
そう。二分しているはずなのにカイは、これもやはり無意識的に、己の容姿に拘っていた。HMDのキャプチャー機能を使い、顔も髪型も体型も、自分とほぼ同一であるこのプレイヤーキャラクターを作成した。黒い凶戦士という二つ名が有名になり過ぎ、それが煩わしくなるような出来事がある度に変えてしまおうかと思ったが、結局は思うだけで一度も変えようとした事はない。あくまでも自分自身がこの仮想現実世界で戦う事に拘った。
「………」
カイは左手で自分の頬に触れる。そこにあるのは地肌ではなく、黒い布地の覆面。
このバラクラバはカイにとって殻であり、盾だった。眼と口が露出するタイプの眼出し帽ではあるが他の部位が隠されるだけで、露骨に顔に出てしまう感情を多少は隠せる。周囲からの奇異の視線に強気な態度で対応できる。リアルと同一である容姿を隠す意味合いもあったが、どこぞのサイトに顔写真が晒されている事からわかる通り、そちらの方はあまり機能していなかったはずだ。戦闘時以外はバラクラバを捲り上げ、ニット帽のように被っていたのだから。以前はそうしていた。
以前は……。
カイはふと気が付いた。自分が久しくバラクラバを捲り上げていない事に。一体いつからこの覆面を被り続けているのか。最後にこの世界と地肌で相対したのは、いつだったのか。
虎屋にて皐月と協力を誓い合い、拳を突き合わせた時、あの時は脱いでいた気がするが、定かではないし、もう確かめる術はない。
「……えっとぉ、だぁいぶ進んだよなぁ」
カイの顔色から何かを察したのか、話題を現状に戻すセンチピード。
「今は横軸9。基地の横軸が10だから、あとワングリッド。精々三、四キロか。眼と鼻の先だねぇ」そこまで言って不意に表情を曇らせる。「と、喜びたいところだけぉ……。畜生ぉ、この音、あたしの気のせいじゃないよなぁ」
カイは草原側に頭を向け、鼻から嘆息しながら首肯した。
「ああ。さっきからずっと戦闘が付いて来てやがる」
多種の砲声、車輛のエンジン音、そしてフェンリルの足音。樹木の厚いベールの向こうでは今も戦闘音が断続的に轟いている。カイ達がいくら南に駆けようともその音は一向に遠退かなかった。つまり戦闘はカイ達の後をずっと追従してきている。
NPC達のルーチンが書き変えられたとはいえ、それでも“旗を持つ者”という最優先標的は変わらないのだ。フェンリルは生き残りのプレイヤー達と戦いながら、旗を追うようにゆっくりと草原の森林の縁を平行移動し続けているのだろう。
「やっぱりかぁ。音が小さくなってるから、もしかしたら気のせいかもって、騙しだまし来たってのに」
「小さくなってるんじゃない。減ってるんだ」
カイ達がここにまで達する十数分の間、当然敵味方共に損害は多大であり、当初よりもその音の規模は明らかに萎んでいるが、継続し、追従して来ているという事実は変わらない。そしてそれこそが問題である。
旗を届けるべき自軍の基地の小山はマップ上の南端中央に位置している。そこは草原の只中である。つまり、あと三、四キロは安全な森林を南へ進めるが、ゴールからの最短地点に達した時点で進路を西へ変え、危険極まる草原に出なくてはならないのだ。
「味方が奴らを殲滅してくれるまで、このまま森で待機ってのはぁ……?」
「わかってるくせに訊くなよ。音で戦況がわかるだろ。押されてるのはプレイヤーだ。ここで待機してても、俺達が二人きりになるだけだ」
「だよなぁ……。そこまでぬるけりゃ苦労ないかぁ」
「今は味方が一人でも多く残ってる内に、ゴールとの最短距離まで森を進み続けるしかない。そこに着いたら、味方が残っていようが俺達だけだろうが、基地を目指して草原へ出る」
センチピードは真剣な、深刻そうな顔色でカイを見遣る。
「なぁ……カイ。一つ、約束してくれるかぁ?」
「………」
カイはセンチピードが何を言おうとしているか、何を約束させようとしているのか、容易に察する事ができた。脳裏を過ぎるのは雪原の戦場。悲痛に笑い死地に向かう皐月。
「もしもの時は、あんた、HMDを外せよ」
既にカイがHMDを外せる事はクエスト開始直後に実証済みだった。“スペシャルクエスト特有の仕様”であるリアルでの死。カイだけがその仕様の適用対象であるはずなのに、やはり、カイはこれまでと同じくHMDを普通に外す事ができた。HMDを外せなくなる現実と仮想現実が倒錯する催眠には今回も罹っていない。逃亡という選択肢が残されているのだ。
「……ああ」
静かに頷くカイ。しかし、嘘だった。
勘でしかないが、もし戦いに敗れたら、この騒動の裏にある真実を知る機は永遠に失われる気がする。きっと敗北とはそういう事だから。
やられそうになってHMDを外し、自室で一人、全てが闇に消え去ってしまったのを確信し、PCの前で呆ける自分を想像する。吐き気がした。そんな事は想像できない。それは想像できないほどに、酷く恐ろしい光景だった。そんな体験をするぐらいなら、死んだほうが遥かにましだ。真実と一緒に、闇に葬られたほうがずっとましだ。
「その時はそうするよ」
嘘を吐いているのは、あの時と同じ問答をしたくなかったからだ。皐月の言っていた言葉。逃げて、生きろ。その言葉を改めて言われたくなかったのだ。
「おい」
肩を掴まれ、振り返ると、センチピードの睨め付けるようなきつい眼差しがあった。カイは昨日の出来事を思い出す。
「絶対だぞ。約束だからなぁ。絶対、ぜーったい外せよぉ。もし外さなかったらぁ、またあたしが折檻してやるからなぁ」
やや間を置いて、カイは苦笑する。昨日よりは、うまく苦笑できた。
「死体を殴る気かよ……。とんだ変態だな。まあとにかく、そうならんように、今は急ごう」
肩に置かれた手を優しく解き、南へ駆け出す。
カイの物言いに納得しきれなかったセンチピードは追い縋りながら口を開こうとするが、ふわりと空気が踊るような微かな圧力を左肩付近に覚え、直後、前のめりに転倒してしまった。いや、吹き飛ばされたという感覚の方が近い。
何が起きたのかわからない。
顔を起こし、
「うわぁ……わアアアァッ」
目の前の光景に絶叫した。
森林を猛然と進む複数の人影。全員が一律に森林迷彩の戦闘服を着込み、頭部のフルフェイス型バイザーまでもが同様の迷彩柄が施された異様な集団。深緑に溶け込むその格好で、個々が点々と一定の間隔を保ちながら小銃を抱えて突進する様は、さながら狂った山狩りである。
シャープシューターだ。横軸4の尾根にて、徒歩プレイヤー達と相対していたシャープシューターの一団である。
暗器分隊が発見され、フェンリルに追いかけられた際、機械化部隊だけでなく、徒歩プレイヤー達も援護のためにフェンリル追撃に加勢した。まずは暗器分隊を生かすためにと、シャープシューターとロシナンテから成る敵の徒歩NPCを捨て置いてしまっていた。放置された彼らは最初は草原を南へと、追撃戦を更に追いかけるような形で進んでいたが、旗が森へ入ったのを見て、自身達も森へ踏み入った。そして、鈍足のロシナンテは遅れているが、VSSヴィントレスと手榴弾程度しか持っていない軽装のシャープシューター達は、旗という枷を持つカイ達にとうとう追い付いた。
先頭の四体は“旗を持つ者”の背を同時に照準し、同時に引き金を切った。
センチピードの悲鳴が木霊する中、旗がくるくると宙を舞っていた。
ただし旗だけではない。その柄には肩の付け根から切り離された左手がきつく握られたままだった。不恰好なシルエットが回転するのに合わせて、断面からは鮮血が円を描くように撒き散らされている。
身体の部位欠損は、たとえ四肢でも致命傷。
カイは身体を反転させながら仰向けで倒れた。上体を低く起こし、喉の奥から声にならない怒声を発しながら、樹々の影から銃口を除かせるシャープシューターにSCAR-Hバトルライフルを構え、バースト射撃を指で刻む。無倍率のドットサイトの中では、全身迷彩柄のNPC達が血飛沫を噴き卒倒していく。
その精確な射撃は両手保持によって放たれた物に他ならない。カイはまだ五体満足。致命傷を受けてはいない。
「痛ってぇ……。しくったぁ……」
樹木の裏まで這い進み、幹に背を預けるセンチピード。彼女の左手は肩から消失していた。
先の崖に達した時点で、センチピードはカイに進言していた。旗は自分が持つ、と。もし交戦するような状況になった場合、戦闘に秀でたカイの両手が空いていた方が有利だ、と。しかし、それは副次的な目的であり、真に意図するところは違っていた。敵に真っ先に狙われる旗の護送役を、事ここに至ってまでカイに続けさせるわけにはいかなかったのだ。
「ああぁ。でも、やっぱよかったぁ……。あたしが旗持ってて」
カイは立ち上がり、駆け出しながら掬うように旗を掴み取った。右手で突き出したバトルライフル、人差し指と中指を同時に絞り込む。擲弾の発射音に重なってライフル弾の連射音が尾を引く。擲弾の炸裂と同時にセンチピードの足元に転がり込む。
爆発の音響の中にヴィントレスの銃声が微かに混じった。この数十メートルの至近距離でも子供が咳き込む程度にしか聞こえない。樹の幹を削る不気味な振動が肌を震わせ、劈くような着弾音のみが極端に大きく響く。
「くそがッ。追いかけられてたのかい」
カイはライフルに弾倉を嵌め、ボルトキャッチを叩いて装填してから、再び旗に左手を伸ばすが、腕を掴まれた。
「約束」センチピードが残った右手でカイの腕を掴んでいた。「こればっかりは忘れたとは言わせないよぉ」
数秒間、二人は互いの瞳を凝視し、沈黙する。
「悪いけどさぁ、ここまでだよ。あたしはこの様だし、流石のあんたでもたった一人じゃあどうにもならないだろぉ」
「……」
カイは伸ばした左手を戻そうとはせず、むしろ更に旗に向かって突き出す。センチピードもそれを止めようと更にきつく右手を握り締める。
「それにそもそも、ここで連中に追いつかれなかったとしても、敵が待ち構えてる草原に突撃なんて真似、あたしはさせる気なかったんだぁ。白状するとさ、あんたの脚を撃ってでも、あたしが一人で行くつもりだった」
「……」
「でも、たぶんそうしてても失敗してた。残念だけどさぁ。ハンヴィーが壊された時点でもう終わってんだ。繰り返すけど、もうどうにもならないんだ。わかってるだろぉ?」
「……」
無言で、けれども一向に引こうとしないカイに、センチピードのこれまで必死に押さえ込めてきた感情は瓦解した。
「おいっ! わかってんのかって言ってんのぉ! 敵がッ、あんたの死が、すぐそこまで来てンだよぉ! 外せよ! 外せ外せ外せはずえ! 今すぐHMDを外せ! 頼むから、お願いだから外してくれってぇ!」
泣きそうになりながら、センチピードは駄々っ子のように喚き散らす。
「大丈夫だって! ここで負けても、まだチャンスはあるから。あたしも朋絵、きっとウィスキーにリンちゃんだって、協力してくれるからぁ! リアルであたしが慰めてやるし、あんたの言う事だったらなんでも聞くからぁ! 生きてればどうにかなるって! でも死んじゃあだめだ! 死んじまったらどうにもならないんだよ! だからさ、ほら、速く、ほんとに、今すぐ、外してくれよおぉ!」
「なあ」カイは宥めるように静かに口を開く。「俺も白状するとさ。実は今、随分楽なんだよ」
「………」
「街の戦いでも、雪原の戦いでも、俺だけが逃げられて、他の仲間は逃げられなかった。あいつらに死んで欲しくなかった。あいつらを護ってやりたかった。言い方悪いけど、邪魔だとさえ思っていた。だから今のお前の気持ちはわかるよ。俺と同じだから」
「………」
「死ななくちゃならないのは俺一人でいいと、ずっと思っていた。今はその通りになった。他のプレイヤーが死んでも、リアルで死なされるなんて事はない。だから今は、すごく気が楽だ」
「……なんだよそれぇ。あんたと同じなんだったら、残された方の気持ちだってわかるだろ。あんたが一人で、どれだけ苦しんでいたか。あたしはまだわからないよ。けど、あんたが死んじまったら、あんたと同じ気持ちを味わう事になるんだぞ……」
カイは息を漏らすように力なく笑い、腕の力を緩めた。それを察したセンチピードが手を放すと、カイは旗ではなくセンチピードの肩に手を伸ばし、優しく置く。
「昨日、部屋で言ってた事と矛盾してないか? お前だって言ってたじゃないか。あんたは楽をすればいいって。だから、楽をさせてくれよ。残されたお前らの気持ちを察するなんて苦行も、今は勘弁してくれ。今は楽に戦わせてくれ」
唇を噛み、俯くセンチピード。
カイの言葉だけを聞けば、まるで人生に疲れた自殺志願者が楽に死なせてくれと言っているようだったが、そんなものとは全くの別物である事はわかっていた。カイの優しげな表情は眩しく、穏やかな声色はとても暖かく感じた。絶望的な死地へ向かう諦観ではなく、希望に溢れた帰路に着こうとしているかのような笑顔を前に、何も言い返せなかった。空しさを感じるほどに、どこか遠くに居るような澄んだ眼差しを前にしては、止める事など出来なかった。
涙の粒が頬を伝って落ちる。
「おい、泣くなよ。安心しろ。俺だって勝ちたいんだ。死ぬ気はない」カイはセンチピードの身体の前に負い紐で吊ってあったAK-102を持ち上げ、彼女の右手にあてがう。「だからできる限りここで援護してくれ」
片手では弾倉交換も覚束ない事を配慮して、センチピードのマガジンポーチから残りの弾倉を出して脇に置く。涙を流して、けれども嗚咽は漏らすまいと俯き、小刻みに震えるセンチピード。優しげな面持ちで準備を整えてやるカイ。まるで子供の身支度をしてやる親のようだった。
最後に自身の手榴弾を二つ、センチピードの脇に置いて、カイは旗を掴み上げ、頷く。
「頼んだぞ。長瀬」
ここまで力強く名を呼ばれたのは生まれて初めてだった気がした。センチピードは涙で腫れた眼を上げ、口を一文字に結び、こくこくと何度も頷きを返す。
身を捻り、距離を詰めてきていたシャープシューターに銃撃を浴びせる。
「行けえ! カイ! 行っけええええ!」
樹々の間を縫いながら西へと離れて行く黒い後姿を横目で確認し、センチピードはAK-102のバナナ型弾倉を取り外し、カイが置いてくれた弾倉を拾い上げ、差し込む。片手ではチャージングボルトを引くのも難しかった。
手間取っている内に西側へと進路を変えるシャープシューターの一団。敵からしたら、瀕死のセンチピードを無理に相手にする必要などないのだ。旗を持つ者がカイに変わったのなら、カイへと矛先を転じるのは道理。
「待てやこらあ! ヌーブどもぉ! お前らの相手はあたしだよぉ!」
口で手榴弾のピンを抜き、進路上に投擲する。炸裂する黒煙に撒かれた数体のシャープシューターが倒れ込んだ。
もう一発手榴弾を投じ、位置を変えるため立ち上がろうとするが、不意に、視界がぼやけ、その場にストンと座り込んでしまった。
「あ、ら……?」
瞬きをする度に世界の全てがモノクロに色褪せ、先の手榴弾の爆音が酷く遠くで聴こえた。もう既にセンチピードの死は確定しており、残されているのは極僅かな時間に過ぎないのだ。意識が終わるまで、あと数十秒か、十数秒か。
「待てよくそぉ! 待てってぇ!」
西へと這い進みながら、ふらつく照準でシャープシューターの背を懸命に追いかけ、引き金を引く。だが当然、そんな射撃では中らない。シャープシューターは見るみる遠退いて行く。カイの方へと向かってしまう。
とうとうセンチピードはその場に突っ伏した。
「ごめん、カイ。……詩織。メイ。ごめん。みんな、ごめんなぁ……。最後まで、護ってやれなかったよぉ……」
カイから全てを聞かされた時、長瀬は言った。詩織は生きている、と。だがそれは大部分がただの強がりだった。認めたくなかっただけだ。無口だが誰よりも思い遣りのある親友、柿崎詩織の死を信じたくはなかったのだ。そういう意味では、自分の精神はカイより弱いのかもしれない、と長瀬は考える。親友の死という現実を受け止める過程にさえ、まだ達していないのだから。
がくがくと震える右手を突っ張って、上半身を起こす。
突然、奇妙な人影が視界の隅に入り込んだ。
遠ざかって行くシャープシューターの側面へ向かって、南側から突進してくる。いや、突進というような乱暴な言葉は相応しくない。その者は静かであり、それでいて迅かった。まるで一陣の風のように目にも留まらぬ速度で肉薄し、自身の背に手を伸ばすと、一閃。
シャープシューターの首を刎ねた。
「あ」センチピードは小さく呟いた。引いていたはずの涙が一瞬で再び溢れ出す。「……ば、バカ野郎」
異常に気付いたシャープシューター達が襲撃者を捉えようと銃口を振るが、その手元だけの動作でさえ、その者には追いつかない。まるで影のような紫の装束をはためかせながら、樹から樹へと、遮蔽物から遮蔽物へと流れるように移動し、翻弄する。瞬く軌道を残して一振りの白刃が振るわれ、また一体、胸元を大きく切り裂かれたシャープシューターが地に転がった。
最寄のシャープシューターのヴィントレスの銃弾が、先ほどまで襲撃者が存在していたはずの空間を通過し、数秒を置かずに無数の苦無が飛来、その一体をハリネズミに変えてしまう。
圧倒的だった。遮蔽に富んだ森林は、彼女にとってはまさに絶好の狩場である。
一撃で必殺し、瞬時に離脱。それがただただ速く繰り返され、ものの十秒でシャープシューターは残り三体。まるで怯えるように背中を合わせて全周を警戒している。
そして、ゆらりと。
彼女は樹の裏から姿を現し、身体を晒す。
腰を落とし、諸手で握った日本刀が低く構えられている。鼻から下をマスクで隠した精悍な眼差しが、三体を真正面から見据えていた。
三体は同時に同点を、彼女の胸部を狙い撃った。だが、ここからこそが彼女の本領。彼女の秘技。その弾道上には、もう彼女はいない。甲高い音をたてて三発の9ミリ弾は背後の樹に減り込んだ。
感情を持たないはずのNPC達は一瞬、硬直する。絶対といっていいほどの高い命中率で放たれた銃弾が中らないという事実を、彼らは理解できない。
しかし、彼女からしたらその銃弾を躱すのは酷く容易だった。これまで行ってきた“弾避け”の中でも、一番容易いと断言してしまってもいい。せっかく三体もいるのに同時に、しかも同点を撃ち、更には音速以下の亜音速弾など、彼女からしたら蝿がとまるほどに鈍い。あまりにも御誂え向きな、まるで躱してくださいと言っているようなものである。
硬直から解かれたシャープシューター達の銃弾を、無駄な抵抗だと言わんばかりに、さも当然のように躱しながら、彼女は苦無を連投した。三体は腕や肩に突き刺さった苦無に怯み、その隙に間合いを吶喊。
刃が三度振るわれ、三体は斃れる。首から、胸から、腹部から、夥しい鮮血が血煙のように噴き出していた。
彼女は日本刀の血を振り払い、鞘に収めながら、センチピードの元へ駆け寄った。手を取って抱き起こす。すでに映っているかどうかも危うい瞳を覗き込む。
ゆっくりとセンチピードの右手が持ち上がり、彼女の頬を叩いた。それは力無かったが、彼女の胸にはきつく響いた。
「……すまない」
「バカ野郎……バカ野郎……バカやろおぉ……」
センチピードはぼろぼろと涙を流しながら、初めてゲーム内で逢う事が出来た親友の胸を、最後の時まで片手で叩き続けた。
「護ってもらってばっかりだな、俺は……」
一人になったカイは森林を駆けながら呟いた。
最初のヘルズブリッジでは虎サンに、ヘルズスノウフィールドでは皐月と栞、シマドリとハンヴィに、そして今は皆に、ずっと護られてばかりいる。
極力誰とも連まず、世界を狭めて生きてきた。親しいプレイヤーといえば虎サンだけだった。虎サンを亡くしてからも、努めて仲間を増やそうとした事はない。そのはずなのに、不思議な事に今はこれだけの人達に支えられている。
カイは走りながら背後を振り向いた。シャープシューター達は追ってきていないようだった。正直、瀕死のセンチピードにそこまで多くを期待していたわけではないが、追われていないという事は、きっとうまくやってくれているのだろう。
「……終わらせなくちゃな」
スペシャルクエスト当選メールには“Xで終わり”とあった。つまり終わらせるためには、カイが死ぬか、戦いに勝利するしかないのだろう。HMDを外して逃亡し、有耶無耶に敗北するなどという選択肢は端からあってないようなものだ。カイにもそんな真似をするつもりは毛頭ないのだから。
ただ、カイが死ねば、きっと残された者達はカイがそうしたのと同じように、このゲームを調べ始めるだろう。しかし、Xで終わりという文言を信じるならば、その調査はおそらく無意味だ。特別な危険もなく、代わりに進展もなく、終わることもなく、残された者達の時間と心を徒に縛る枷にしかならない。センチピードが言っていた通り、カイが経験した苦しみを無駄に味わうだけにしかならない。
だから、勝って、終わらせるより他にない。
「終わらせよう」
カイは静かに力強く呟き、薄暗い森林から眩い草原へと躊躇いなく飛び出した。
そこにはフェンリルの砲口があった。
――――。
カイの右側、ほんの五メートル先、機体から淡い黒煙を噴く多脚戦車。
そのすぐ背後には一輛のハンヴィー。運転席のドライバーと銃座のA・O社員、助手席のカンカラスが目を見開き、呆けたように口を半開きにしているのが見える。
背負うようにした陽の光を受けて影に染まったフェンリルの巨体。本体下部のガトリング砲は破壊されているようで明後日の方向を向いて傾っているが、上部の30ミリ機関砲は健在だった。突き出した砲身と、こちらに据えられる砲口だけが嫌にはっきりと浮かび上がっている。
草原に飛び出してから瞬く間もなかったはずの刹那の刻が、カイの中でだけ何倍にも凝縮されていた。
どくん、と。一際跳ね上がった鼓動がゆっくり聴こえ、目の前の砲口の無限の闇の中から、30ミリの鋭利な弾頭がライフリングにより回転を与えられながら轟爆のガス圧により押し出されるのが確かに視えた。そして視える前には、すでにカイは腰を折り曲げ、前傾姿勢で身を屈める動作に入っていた。
数センチほどのすぐ頭上を通過した砲弾の衝撃波により身体が左に持っていかれそうになり、直後、すぐ脇の地で炸裂した砲弾の爆風により今度は右へと吹き飛ばされる。しかし、カイは瞬間的に右足を踏ん張ってそれに耐え、息つく間もなく踏み切っていた。
破片を喰らったか。わからない。
フェンリルの次の攻撃は。関係ない。
ただただ一点を見据え、足を前へと動かした。
西へと、ようやく目視が叶った基地の小山に向けて。
「―――」
カンカラスは回復して間もない目に焼き付く眼前で起きた超常に言葉を失った。否、そもそも言葉を発する暇がないほどの刹那の出来事。
最初は積極的にプレイヤーを狙ってくると思われたフェンリル達が、攻撃しながらもじりじりと南へ進もうとするのを見て、すぐに敵の意図に気が付いた。彼らにとって他のプレイヤーは二の次に過ぎず、あくまでも目標は旗を持つカイなのだ。南へ移動する旗に追従しているのだ、と。
突然、森林からカイが飛び出してきた時に、驚くと同時、自分と同乗者達の間抜けさを呪った。
考えが及んでいれば、それは突然でもなんでもなく、驚く必要もなかったはずだからだ。マップ画面を注視していれば進路を西へ変える旗のシンボルマークに気付いたはずだ。カイが草原に出るタイミングを掴めたはずだ。目が潰れていたカンカラスはマップ画面を見る事も出来なかったが、それならばドライバーやA・O社員にそれを伝えればいいだけの事。
一方、フェンリルはすでに森林から近付いてくる旗の動きを察しており、その不可視の標的を追うように砲塔をじりじりと旋回させ、待ち構えていた。そして激発。
黒い凶戦士に向けて、30ミリの砲弾が発射された。終わった。敵の意図に気付いていながら、戦闘に気を取られ思考を怠った結果、終わってしまった。
だが、違った。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。しかし、全身に総立った鳥肌が本当は理解している事を証明している。ただ常識的に信じ難いのだ。
カイは砲弾を躱した。
十メートルもない至近から発射された超音速の砲弾を、身を屈めて、避けて見せたのだ。まぐれでも偶然でもない。カイはフェンリルの砲口を凝視し、明らかに故意に体勢を低くしていた。噂に聞く刀剣遣い、紫の影でも、この業は再現不可能だろう。彼女は相手と真正面から相対して銃弾を躱すらしいが、今のは心の準備を整える余裕もなければ、身構える事も出来ない、完全な不意打ちだった。それをカイはやってのけた。
しかも、それだけではなく、なんとそのまま微塵も怯む様子を見せず、基地へ向けて足を蹴り出したのだ。自身の死を理解し、それを奇跡的に回避して、刹那の間も置かずに敵に背を向け、目標にのみ向かって突き進む。全体、どうなっているのか。自殺志願とは違い、自暴自棄とも違う。カンカラスには理解が及ばない。超常と表現しても余りある桁外れの反射神経と精神構造。
だが、二度はない。
それがまぐれでも偶然でもない技術だったとしても、何度も出来るような業ではない。しかもカイはフェンリルに背を向けてしまっている。あれでは躱す事など不可能だ。
コンマ数秒の間、カンカラスは忙しなく思考を巡らせる。ハンヴィーで衝突して体勢を崩させるか。銃撃を加えて気を引くか。否、全て遅過ぎる。どう足掻いても手遅れだった。毎分二百発で発砲されるフェンリルの30ミリ機関砲。カイの背を捉える砲身の薬室にはきっともう次弾が装填されており、もしかしたら撃針が奔り始めているかもしれない。
フェンリルの砲口が火を噴いた。
「――――」
カンカラスは反射的に視線を逸らしてしまった。フェンリルが現実で人を殺める瞬間を目の当たりにしたくはなかった。
世界が凍りついたかのような数秒間が過ぎ、恐るおそる顔を起こす。
「なに……?」
しかし、カイは無事だった。背後を振り返ろうともせずに、小山の旗に向かって徐々に遠退いて行く。
何が起きたのか。カイを照準したフェンリルの機関砲から火炎が迸るのが確かに見えたはずだが、何かが起きた。
不意に遥か遠くで何かが光った。西方、尾根の向こうに霞んで見える車輛格納庫の屋根の上で、何かが瞬いた気がした。
直後、ごうんと、そしてぐるんと、フェンリルの砲身が白熱した業火を伴い、見当違いの方向へ回る。
「ッ!?」
業火は機関砲の発砲に伴う発射炎とは違い、そして砲塔もフェンリルが故意に旋回させたにしては異様な挙動だ。よく見れば、砲身がひん曲っていた。途中でカーブするようにくの字に、不恰好に変形している。そしてその変形の中心では、向こう側が覗けるような大きな孔が奇麗に丸々と穿たれていた。
やや遅れて、西からの尾を引くような微かな破裂音が耳に届く。
「な、なあおい、どーなってんだ?」
絞り出すようなドライバーの驚嘆。
カンカラスも未だわからない。ただ、何者かによって、それが成された事だけはわかった。
再び車輛格納庫の屋根で何かが鈍く光るとほぼ同時、今度はフェンリルの砲塔で業火が噴出。焔の中心の刳り貫かれたような孔を見て、そこでこの現象の正体を理解する。
「これは、狙撃なのかッ……?」
何者かが、何かを使って、フェンリルの砲身を貫いたのだ。恐ろしく重く、硬く、速く、そして鋭い、極めて物理的な暴力を砲身の一点にピンポイントで命中させた。
先からの車輛格納庫での光は発射炎なのだろう。だが7.62ミリは言うに及ばず、12.7ミリでもこうはなるまい。そもそもここから車輛格納庫までまだ三キロ以上もあり、届く事さえ困難なはずだ。唯一、可能であるとすれば、それは銃弾ではなく砲弾、20ミリクラス以上の徹甲砲弾であり、その砲弾の中でもこのような貫通孔を形成し得るのは、劣化ウラン弾だけだ。
鉄の二,五倍の比重を持ち、対象への侵徹過程で自身をより鋭く変形させていく自己先鋭化現象という特殊な性質を発揮するその金属ほど、徹甲弾の弾芯に相応しい物質は存在しない。
そして着弾の際に生じる業火が、その推理を決定付けている。着弾時、劣化ウラン侵徹体の結晶構造が変形して運動エネルギーが熱エネルギーへと変換、その熱を帯びた劣化ウラン成分が飛沫し、酸素と結合、焼夷効果を引き起こしているのだ。
――――オオオオオォォォ……。
フォックストロットによってガトリング砲を、何者かの狙撃によって機関砲を破壊され、全ての火器を失ったフェンリルは、カイを追いかけようと右前足をゆっくり持ち上げながら咆哮する。しかしその声には先までのような恐ろしさはなかった。さながら苦痛に咽ぶ慟哭のようでさえあった。いや、断末魔なのかもしれない。その砲塔といわず、脚の接続部といわず、本体側面といわず、あらゆる箇所で、吼えている今も一秒毎に濃密な白煙を伴う燃焼が生じ、粘土に針を突き刺したような孔が次から次へと穿たれていくのだ。
二歩目を踏み出す前には脚を折って腹をついた。呻るような稼動音が冷やされるかのように引いていく。
「ッしゃあー! 誰だか知らねえが、ナイススナイプだぜ!」ドライバーはハンドルを叩き、自分の手柄のように歓喜する。「芋スナも馬鹿にしたもんじゃねえやな」
「……20ミリアンチマテリアルライフルで狙撃」
幾つかのキーワードがカンカラスにある人物の名を連想させた。いかなる戦場にも長大な対物小口径砲、ダネル NTW-20を持ち込む奇人。元フォネテックメンバーの最上級プレイヤー。
「魔槍……?」
しかし、カイから聞いた話では彼は命を落としているはずである。前回のスペシャルクエストでフェンリルと戦った時に。いや、そもそも本当に彼なのかはわからない。彼でなければ20ミリ対物ライフルを扱えないわけでもなし、違う誰かが狙撃を行っているのかもしれない。
ただ、そもそもが超長距離射撃用である対物小口径砲の有効射程をもオーバーしているであろう三キロ超という超超長距離射撃で、ここまで精確に命中弾を得られるには相当以上に、病的なまでに熟練せねばならず、20ミリというまずお目に掛かれない特殊な銃器をそこまで使いこなせる人物と言えば、やはり彼しか思い浮かばない。
しかも、劣化ウラン弾などという特殊な砲弾は、フェンリルの装甲の硬さを事前に知っていなければ選択し得ない代物ではないだろうか。
――いや、と。常に耳を打っていた戦闘音が変質するのを感じ取り、カンカラスは思考を切り替える。今はそんな事を考えている場合ではない。
「おい、車を出せっ」
カンカラス達の後方、機械化部隊と付かず離れずの距離で追撃戦を繰り広げながら緩やかに南下していた後続のフェンリルの群が、突如、踏鞴を踏むように脚を振り回し急激に方向転換、三度、旗を持つ者へ矛先を豹変させた。
「くそったれえ! 現金な奴らだなあ、オイ!」
ドライバーはハンドルを回転させ、アクセルを踏む。車体は滑るように旋廻、西へと車首を向けて発進する。
「カイの後に続け! 彼を護る“盾”になるんだ」
盾。ウィスキーが地上戦部隊に付与した符丁。時間稼ぎのための囮だったはずの部隊が、今はカイを守護するための本物の盾となっている。
ただ、現状ではその盾は随分と貧相であり、あまりにも心許ない。
フェンリルの数は五体。当初、尾根にて遭遇した時の数は十五体であり、三分の二の破壊には成功しているが、まだ三分の一も健在なのだ。対する機械化部隊の総数は90式戦車二輛にプーマ歩兵戦闘車三輛、バイパー攻撃ヘリコプターが一機のみ。徒歩プレイヤー達は早い段階で全滅していた。言ってしまえば残り滓。カイが草原に現れフェンリルの矛先を一身に引き受けなければ、数分と持たずに全滅していたであろう残党でしかない。
しかも、最初に暗器分隊が露見した時と同様、今は全てのフェンリルがカイに向けて猛然と突進しており、ただでさえ頼りない機械化部隊は置き去りにされてしまっている。遥か遠くの狙撃手がいかに優秀でも、高速で移動する複数の標的を射抜く無理だろう。実質、カイを護れるのは最寄に居るカンカラス達のハンヴィーだけなのだ。
カイは小山まであと二キロ。その間を数発の30ミリ機関砲を受けただけで紙屑のように引き千切られてしまう高機動車一輛で護り抜く事ができるか。無理だ。盾と称するにはおこがましい。障害物にさえ成り得ない。だが、それでもやるしかない。数発しか防げないのではない。数発ならば防げるのだ。たとえ一歩だけでも、カイがゴールに近付けるのならば、一も二もなく、身を挺するしかない。散っていった者達の意志を継ぐためにも、友人のためにも。
カイの右後方、十メートルほどにまで達してハンヴィーは速度を落とし徐行する。カイは間近を並走する機動車を一瞥しようともせずに、真っ直ぐに前方を、小山の旗を見据えて走り続けていた。
「なあおい! 拾ってやった方がよくないか? ゴールはすぐそこだぜ」
「いや、駄目だ」
ドライバーの意見に首を振りながら、カンカラスはマガジンポーチを弄る。
「もう奴らに射程内だ。覚悟を決めろ。撃たれるぞ」
北から迫る魔獣の群。彼我の距離はもう二百メートルを切っていた。
おそらくこの戦いではこれが最後に撃つ事になるであろう弾倉を装填する。ちょうど最後の弾倉だった。チャージングハンドルを引いた手をフォアグリップに持っていき、巻き付けるように握る。引き金を切った。すぐ頭上では銃座のA・O社員がミニガンを撃ちっ放しにしている。空薬莢の雨が発射炎により白く染まった大気の中で舞っていた。だが不思議と銃声は聞こえない。手元の突撃銃の稼働音と着弾の手応えが鼓膜と脳に克明に浸透する。
フェンリルの砲口が禍々しい赤い焔の塊を吐き出す。
全身を殴り付けられたかのようなこの世のものとは思えない激しい衝撃。意識が身体を置き去りにして吹き飛ばされる。
幻覚だろうか。自分の意志とは関係なくあらゆる方向へと振り回される視界の隅、ちらりと、青い空を背景に一機の巨大な機影が映った気がした。
幻聴だろうか。カイの息遣いが聴こえた気がした。
「 」
荒い呼吸に合間に、カイは何かを呟いているようだったが、なんと言っていたのか、終にカンカラスが知る事はなかった。
質量を持っているかのように厚く重い低音に満たされた薄暗い密室。壁の一面を埋め尽くす様々な機器類の前には備え付けのシートが幾つか並び、そこに腰を下ろしている数人のプレイヤーが目配せをし合った。
一人が自身の両耳をすっぽり覆う形のヘッドセットを操作し、指で示す。騒音に満ちたここでも、その通信機によりスムーズな会話が行える。
「一体どうなってるんだ? なんでずっと待ってた俺らがここで、いきなり現れたあいつがコックピットなんだよ」
「知らないわよ。あたしだって納得してないんだから」
「うちらの分隊長、あのガスマスクのガキにべったりだ。知り合い同士だったとか?」
彼らは奥にある一枚の扉に視線を遣る。その中では、彼らの分隊長と“いきなり現れたガスマスクの子供”が一緒に居るはずだ。
「お前ら……」別のもう一人の呆れたような声が会話に割って入る。「無知って幸せだな」
「ンだと! どういう意味だよっ、それ」
「どんな乗り物でも乗りこなす最上級。聞いた事あるだろ」
「まあ、噂だけなら。隊長や他の先輩方が随分入れ込んでるっていう」
「入団を誘い続けてるけど、ずっと断られてるんだってね。それがなに?」
くつくつと含み笑いを漏らし、そのプレイヤーは言葉を継ぐ。
「それがあのガスマスクの子供だよ」
「はあ!?」
「うそっ!?」
「あれが、“万能操縦”……?」
再び奥の扉を注視する。先の会話はこの室内、カーゴスペースにのみ限定していたので、扉の向こうの者の耳には入っていないはずだが、皆がどこか恐々とした機嫌を窺うような顔色だった。
ここは巨大な航空機の機内。そして彼らはビークルカンパニーの航空分隊、鷲だった。プレイヤー全体で決められた符丁に則した呼称では“大剣”。
クエスト開始当初から基地の滑走路付近にて航空機の出現を辛抱強く待ち構え続けていた彼らだが、事ここに至るまで出現せず、とうとう諦めて適当な戦闘車輛を探して応援に向かおうと滑走路に背を向けた矢先、一機のみ出現したこの巨大な航空機をどこからともなく現れたガスマスクのプレイヤーに奪われてしまった。離陸に向けて動き始めた航空機に飛び乗り、分隊長がコックピットを占領するガスマスクのプレイヤーと何かしらの話を付け、そして現在。
「えー、ご搭乗のみなみなさまぁー」
突如、パイロットからの声が鷲の面々のヘッドセットに届く。異名持ちの最上級プレイヤーと聞いて恐縮していた鷲達が呆けてしまうほど場違いな明るい声色。幼少期独特の間延びした口調だ。
「当機はまもなく自由射撃空域に到達しまぁす」
機体が僅かに傾くのを感じる。地上目標の上空に到達し旋廻飛行に入ったのだろう。その飛行自体は別段難しい操作ではないのだが、ほとんど揺れを感じさせずにこの巨体の挙動を変更させる丁寧さは、パイロットの腕を推し量る基準になる。ガスマスクの少年の腕前は、命を預けるに足る技術力だった。
「一つ注意事項です。目標のすぐ近くを走るエクスレイ先輩には、絶対、ぜぇったいに、破片の一欠けらもいかないように細心の注意を払ってくださいね」
鷲達はシート正面のモニターを覗き込む。地上を映したガンカメラのライブ映像だ。操作桿を握り締め、発射スイッチのカバーを跳ね上げ、指をあてがった。
「うふふ。雪原の戦いを思い出すですうー。もっとも、今回はモノホンのドラゴンですが」
コックピットにて、ガスマスクの少年は小さく笑う。
「それでは、蜘蛛の化け物に死の雨を注いでやってくださいっ!」
微かな飛来音が空を切り裂く。
直後、土砂と火花と紅蓮の劫火が世界を埋め尽くした。
プレイヤーの基地から東へ約一キロの地点、五百メートルにも及ぶであろう広大な範囲に破壊の雨が降り注ぐ。
25ミリガトリング砲の光弾の束が地上を這い、40ミリ機関砲の砲弾が耕し、105ミリ榴弾砲が全てを吹き飛ばす。
それらは全て、たった一機の航空機によって為されている。AC-130U スプーキー II、俗称ドラゴン。本来は武装を有さない輸送機に目一杯の弾薬と対地火砲を搭載した唯一現役で使用されているガンシップだ。
地獄のような炸裂の上空二千メートルを反時計回りに、常に目標に対して機体左側面を向けるように傾きながらその巨体は旋廻し続けている。それは武装の砲口が全て機体の左側面から突き出しているからであり、尚且つコックピットの左側に座る機長が目標を視認しやすいためでもある。
機体から不恰好に飛び出した三種の砲身は絶えず火を噴き、それに伴い地上でも絶える事なく地獄が継続している。対地支援集中砲撃、逃れようがなく救いようのない天上からの死。最早フェンリルは影も形も見当たらない。攻撃が激し過ぎて残骸の欠片さえも見る事ができない。
それでもドラゴンは地に炸裂の絨毯を敷き続けた。節約や温存とった言葉とは無縁。弾薬が切れるまでやめるつもりがないのだろう。これが最初で最後の航空攻撃になるであろう事は機体を繰る少年は元より、銃座を務める鷲達も心得ていた。
地上を映すモニター、大部分が煌々と輝く爆炎に彩られていたが、その隅に見える黒い点を鷲達は凝視していた。炸裂から離れるように西へと進んでいく黒点は、さながら太陽から飛び出し宇宙空間を漂う黒点のようだった。その隣では時折白い反物のようなものが揺れている。それは旗であり、黒点は万能操縦がエクスレイ先輩と呼んだ人物、カイに他ならない。
基地の小山まで、あと一キロを切っていた。
いつの間にか、機内の皆が遥か眼下のその黒点に向けて声援を送っていた。届くわけがないと知りつつも、声高に。
小山の頂上にて、ウィスキーはカイを見詰めていた。
AC-130U スプーキー IIによる対地支援集中砲撃の爆炎を背負って徐々に近付いて来る。場面だけを見ればまるで映画のようで如何にもドラマチックではあるが、ただ、左手の旗と右手のライフルを乱暴に振り回しながら駆けるカイの様は格好良さとはほど遠く、不恰好極まりなかった。
あんなに必死になっているカイを見るのは、初めてだった。
フォネティックメンバー同士であった頃からそれほど友好があったわけではないが、どこか気障で、常に何かを蔑んでいるような、そんな印象を持たせる青年だった。一言でいうなら、いけ好かない。
しかし、今のカイからはそんな雰囲気は微塵も感じない。
今の彼は泥臭く、青臭く、醜悪なほどに懸命だった。
ウィスキーの隣ではビクターが小刻みに震えていた。カイを凝視するその目尻には涙の粒が浮かんでいる。周囲には通信員と砲撃部隊大槌の面々。最早通信や支援砲撃の必要はないと車輛から飛び出して、カイの声援に駆け付けていた。
油断は出来ないと重々承知しているが、それでももう安心していいはずだった。フェンリルはドラゴンの対地攻撃により殲滅された。周囲には、少なくともカイに直接的な危害を加えられる範囲にはNPCの姿は見受けられない。
ここは己の感情に素直になるべきか、とウィスキーは微笑する。
彼もカイがここまで駆けて来るのが楽しみだった。それは単に勝利するからという理由だけではなく、カイには伝えたい事があった。
車輛格納庫の射手について、ドラゴンを駆る少年について、理屈はわからないがとにかく彼らの生存していたという事実を一刻も早くカイに伝えたくて、しょうがなかった。
あの小生意気な青年はどんな顔をするだろうか。怒るだろうか、喜ぶだろうか、それとも泣くだろうか。
ふと、いきなり現れた彼ら、魔槍と万能操縦がこのクエストではどういう扱いになっているのか気になって、ウィスキーは戦況画面を開いた。現在生存しているプレイヤーネームの羅列から、彼らの名前を探しに掛かろうとしたのだ。
「……?」
しかし、そこで違和感を覚え、本来の目的を忘れ、硬直する。
四十八。
プレイヤーリストの上端には現在生存しているプレイヤーの総数が表示されていた。即ち、四十八名のプレイヤーが健在という事になるのだが。
嫌に多い。
この小山には通信員と大槌、それにビクターとウィスキーを合わせて十八人。ドラゴンの乗員と、その絨毯砲撃を迂回しながら南下してきている機械化部隊は多く見繕っても十人前後だろう。それにカイを足しても三十人ほどでしかない。残りは十八人。広大な戦場であり、生き残りが点在している可能性もあるが、そんな幸運な者達が十八人も居るだろうか。精々数人、最大限に多く見積っても十人ぐらいが妥当ではないか。
十八という数は、少し多過ぎる。
不意にクエスト開始直後の一場面が脳裏を過ぎる。この小山の頂上でプレイヤー達の動向を観察していた時、ある一団が目に留まった。彼らはにたにたと下卑た笑いを浮かべて話し合っていたが、ウィスキーの視線に気が付くと、どこかに散っていった。暗器分隊が潜む森林の方へと向かおうとするわけでもなかったので、捨て置いていた。今の今までそのような者達の存在など忘れていたが――――
ウィスキーは弾かれたように駆け出しながら、カイに向けて手を振り、怒鳴った。
「エクスレイッ! 伏せろ! 伏せろお!」
熱風と砂塵、大気を焦がすような赤黒い光を背に受けて、カイは走り続けた。
すぐ背後では地獄のような炸裂が膨張と縮小を繰り返しているというのに、まるで気が付いていないという風に前だけを見て大地を蹴り続けた。
カイの眼が映しているのは五百メートル先、小山の頂に刺さる一本の旗、爆風の煽りを受けて激しく靡く黒い反物だけだった。
もうすぐだ。
あそこに行けば、全てが終わる。
もうすぐだ。
報われる事はもうないけれど、終わらせる事ができる。
もうすぐだ。
虎サン、皐月、バハムート、栞、シマドリ、ハンヴィ。
もうすぐだ。
カイは旗の反物だけを視ていた。だから、そのすぐ下で手を振って何かを伝えようとしているウィスキーの存在に気が付かなかった。気付く事ができなかった。
不意に、恐ろしく速い甲虫の羽音のようなものが聴こえたかと思うと、視野に閃光が奔る。
鮮明に視えていたはずの漆黒の反物が霞み、ぼやけ、薄れていった。いや、違う。視界が、世界が黒い闇に染まり、溶け込んでいく。
その眼には、もう何も視えていなかった。
「イエス、イエス、ィィイエスッ! ブラックレイを討ち取ったぜえい!」
小山から南東へ三百メートル、カイから南へ百メートルの地点。そこは南端の森林手前に位置する小さな丘陵地帯であり、八名のプレイヤーの姿があった。
「馬鹿言うなや。あの血飛沫の散り方は俺の.308winだっつーの」
「キャハハハハハハッ! 見た? ねえ見た? あのコケかた、マジさいこーなんですけど」
「いやはや、にしてもツイてるねえ。旗手がまさかのブラックレイだとは。二重の意味でうまうまだよね」
数人の持つ自動小銃からは淡い硝煙が立ち昇り、その銃口は小山の麓で倒れ込むカイに向けられていた。
「ひひ、たまらんのー。待ちに待った甲斐があった。みんなの一生懸命を、最後の最後でブチ壊すっ。これぞPK冥利に尽きるってもんだあ」
なんてことはない。
彼らはPKだ。そこそこ腕が立つという理由で呼ばれたPKクランだ。
なんてことはない。
クエスト開始からずっと、旗を獲得した者が基地へと帰還し、自軍の旗元へタッチダウンする今まさにこの瞬間を狙い撃つためだけに、一時間以上も基地の南側の丘陵地帯に潜んでいたのだ。
なんてことはない。
皆の努力を懸命を必死を、最後に無造作に軽薄に適当に、踏み躙るためだけに、悪役に徹した自分のロールプレイを、現実での憂さを、有り余り加害欲を、満足させるがためだけに、彼らはここで待ち、そしてカイを撃った。
なんてことはない。
その実、彼らは皆の努力など何も知らない。皆がどれだけ強い思いを繋げて、カイをここまで到らせたのか、微塵も知る由がない。ただしたいからそうした。何も知らないという事さえも知らずに、そうした。それが他の者達に、延いては彼ら自身にどのような不幸を齎すのか、何も知らず、何も考えず、カイを撃った。
ただ、それだけのことだった。
「あ、やべっ。ウィスキーにバレたぞ」
「へへ。こうなりゃ乱戦だべ。あいつらも地獄送りだ!」
腹部に衝撃を感じ、ウィスキーは転倒した。
撃たれた。下腹部が血に染まっていた。周囲で着弾の土埃が噴き上がる。
「ぉ、オオオオォ……!」背後ではビクターが凄まじい怒声を放っていた。「やつらを殺せ! 殺せ、殺せエえぇ!」
応戦の銃火が錯綜する。
この長い長い戦闘で、最後に殺し合う事になったのは、プレイヤー同士だった。異常なNPCとの激戦、理不尽な死闘、神との戦い……。勝利したはずだった。だが、最後の最後でプレイヤー自身の手によって、奪われた。
「………」
揺れる若草の向こうをウィスキーは虚ろな表情で見ていた。尾根の麓でうつ伏せに倒れるカイ。動かない。微動だにしない。
PK達に対する怒りはない。ウィスキーは最初に問うた。この世界が好きか、と。最初に言った。我々の世界を護るための戦いだ、と。誰もがプレイヤーといういち個人でしかない本当の自由と平等。彼ら、PKもこの世界に容認された住人だ。やりたいからやる。やれるからやる。それが出来る自由があるからこそ、皆がこの世界を愛して止まないのだ。
ただ空しかった。
きっとあのPK達は、もうこの世界では生きられないだろう。例え可能であろうとも度の過ぎたマナー違反行為は、その他大勢の自称善良なるプレイヤーの手によって執拗に徹底的に排他される。彼らはそこまで深く考えず、そこまで深刻なものだと思わずに、カイを撃ってしまった。きっと数日後、彼らは今の行為を心底悔いて、大好きなこの世界から離れなければならなくなるだろう。
誰も報われず、誰も救われない。
だから、ただただ、全てが空しかった。
若草が静かに揺れていた。
この結末は、あまりにも空しい。
「カイ……!」
すぐ近くで発される声に、ウィスキーは頭上を見上げる。
一人のプレイヤーが脇を駆け抜けて行った。
途中で足を止め、一繋ぎの長方形の箱から銃把とドラム型の弾倉、短い銃身と照準器だけが飛び出したような特徴的な形状のショットガン、アッチソン AA-12をPKが居る尾根に向けて連射している。
緑色の空ショットシェルが排莢口から吐き出される度に、丘陵地帯のそこここで小さな炸裂が花開く。稜線から身体を晒していたPK達は破片に晒され、向こう側へと沈む。FRAG-12。AA-12と共に新開発された12ゲージの榴弾である。
その個人から成される容赦のない炸裂の嵐は、元フォネティックメンバーのタンゴ、火薬庫と謳われた男を彷彿とさせた。
そのプレイヤーは再びカイに向かって駆け出す。
背にもう一丁、負い紐でショットガンを吊っていた。それは通常のポンプアクション式のものだったが、何か入り組んだ金属に無理やり突っ込んだような縦に奔った銃身の疵が目に付いた。
そして、FRAG-12の炸裂と同じく、燃えるような鮮やかなオレンジ色のツナギが印象的だった。
「!」
カイの持つ旗が、ぴくりと、動いたように見えた。
どこか遠くで名前を呼ばれた気がした。
自分がどこに居るのか、どういう状態になっているのか、何もわからなかったが、とにかく身体を前へと動かそうとした。
直後、暗黒に閉ざされた視界で眩い閃光が迸る。
あいつが右手に構えた拳銃、グリズリー。
銃口は斜め下に向けられ、その先には数人のプレイヤーが倒れていた。
再び閃光。
グリズリーのスライドが後退し、硝煙を牽きながら空薬莢が弾き出される。くるくると虚空を舞う煤けた金色の薬莢が、奇妙に鮮やかに映った。
閃光。
けたたましい銃声の中に、銃弾が人間の胸板を貫いた時の木の板が割れるような軽い音が僅かに混じる。
閃光。
地に伏し、とうに絶命しているプレイヤー達は、着弾の度に生き返ったように跳ね上がる。まるで電気式のショックパドルで人体蘇生を試みているかのように跳ねている。ありえない。むしろその真逆の事をしているのだ。
目の前の出来事が理解できないからだろうか、あるいは理解したくないからだろうか、先ほどから関係のない思考だけが忙しなく浮かび、そして消えていく。
閃光。
彼らの名前は知らない。初対面に等しい。一緒に戦っていた同じチームのプレイヤーに過ぎない。あいつに小規模なバトルに誘われて、ついさっきまでたどたどしく談笑しながら一緒に戦っていたのに、あいつは唐突に銃を抜き、彼らの背を照準した。
閃光。
鈍い輝きの度に照らされる硝煙越しのあいつの表情は、言いようのない奇妙なものだった。
蛇のようなつり目は見開かれ、小さな唇は呆けているかのように開いている。そして、微かに喜んでいるかのように吊り上がる口角。
閃光。
あいつは目の前で斃れるプレイヤーに執拗に銃撃を加えながら、けれどもそちらには一瞥もくれようとはせず、俺を凝視していた。
いつもは暗く淀み底が見えない瞳が、今は半透明な大気のように澄んでいて、俺の視線や口の動き、微かな震えに至るまで、すべてを見逃すまいと、レンズのように、爛々と、ただただ俺だけを観察していた。
あいつはこれをやるために俺をバトルに誘ったのだ。関係のないプレイヤーを俺の目の前で撃ち殺し、俺がどういう反応を示すか、知りたいがために……。
閃光。
そして、あいつはいなくなった。
その事件以降、あいつはFalse Huntに姿を現さなくなったのだ。
普段から何を考えているのかさっぱりわからず、どんな行動を起こすのか皆目見当もつかないあいつだったから、もし他のメンバーに事件の事を話したとしても失踪と関連付ける人間はいなかったかもしれない。ただ、俺だけは違った。
深く考えたわけではないし、特別な証拠があるわけでもないが、無意識的に、思考の片隅で、けれども確信していた。
唐突にTK行為に走ったあの時、あいつの中で何かが変わったのだ、と。
あいつは、自分だけの中で何かに気付いたのだ、と。
――カイ。
また名前を呼ばれた。
聞き覚えのある、ずっと聞きたかった声色だった気がした。そこで止まって、その声にずっと耳を傾けていたかったが、しかし身体だけが勝手に前へ進もうと足掻き、もがく。自分が歩いているのか、這っているのかも、わからない。自分はどこに向かおうとしているのか、何をしたいのか。わからない。
確かなものは一つだけ。左手に握り締めた旗の感触。これだけは手放してはいけない。勝つために、終わらせるために。そしてその感触だけが、身体を前へと突き動かした。
「カイ!」
旗を突き刺した。
体中に衝撃を感じる。どうやら力尽き、転倒したようだ。自分が立ってここまで歩いて来た事を、まるで他人事のように今になって知った。
微かな光を取り戻した視界の中、白と黒、二つの旗の反物が青い空を背景に揺れていた。
誰かの顔がすぐ近くにあった。
オレンジに染まったセミロングの髪。いかにも活発そうでボーイッシュな顔立ちが、今は涙でぐしゃぐしゃになっている。涙の粒が頬に落ちてきた。バラクラバ越しにでも、その暖かさを感じる事ができた。
ああ。そうだ。決めた。
彼女の家に行こう。虎サンのお悔やみに行かなくちゃ――――。
視界が再び闇に溶け込む。
何を決めたのかも、思い出せなくなった。
二つの旗が並ぶ小山の頂上。ぽつり、ぽつりと生き残った者達が集まる。
鎧の通信員達。大槌の砲手。ビクター。ウィスキー。満身創痍で這って現れたカンカラス。機械化部隊のビークルカンパニー数名、その中にはレッドハンドルとテールの姿もあった。車輛格納庫で狙撃を行っていた青年。AC-130U スプーキー IIに乗っていた鷲達とパイロットのガスマスクの少年。忍び装束の少女がセンチピードの遺体を抱えて登って来た。しばらくしてから、ジャミとGGB、キロとリマも姿を現した。
いつか、伝説と謳われる事になるこの戦いを最後まで見届けた生き証人達は、皆が旗の下で寄り添う二人を見詰めていた。
泣きじゃくるオレンジのツナギの女性と、もう動かない黒尽くめの青年。
戦いは終わった。