第三話:False Hunt
最悪だ。
我ながら飽きもせず毎日、しかも一日二回は確実に思うことだが、この人の量なんとかならないのだろうか。
隣にいる女子高生の香水の臭い、大声でバカ笑いする頭の悪そうな連中、そして何よりこの熱気。
乗車率120パーセントを超えた電車の中で、ついつい眉間に皺が寄ってしまう。
なぜこんなに混むのか? 答えは簡単。通勤、通学時間が大体どこも一緒だからだ。しょうがないと言えばしょうがないが、なんとかならないものか。うちの学校だけ時間をずらすとか、多少なりとも工夫をすればこんなに混雑することはないだろうに。それでいて熱中症だの痴漢だの盗難などで騒いでいるのだから、本当に救いようがない。
ふと、この電車の中で俺と同じ事を考えている人間が何人いるか、予想してみる。五人、いや、十人は固い。そう思うと本当にどうでもいい、くだらない悩みだと思えてしまう。まあ、その通りなんだろうが。
「っと」
携帯電話の振動でくだらない脳内議論は一時中断。
胸のポケットから携帯電話を取り出し確認する。メール、送信者は……。
本文を読む前につい四周を警戒してしまう。誰も他人様のメールの内容になんか興味ないだろうが、この送信者の事を考えると以前の教訓からそうせざるをえない。
恐る恐る内容を確認する。
件名は『オッハヨー♪』だった。
件名からしてぎりぎりアウトだ。正直中身を見たくない。しかしそうも言ってられないので本文を開く。
本文:元気ぃ? ワタシは猛烈に元気だヨー
昨日は何も言わずに落ちちゃうなんてヒドイぞぉ、プンプン
今度、あんなことしたら生まれてきた事を後悔させてやるからな☆
まぁ、ワタシもあの後ソッコーで落ちちゃったんだけどね(爆
ほんじゃあ、今日もお互いがんばりますかぁ、GOOD KILL!!
―追伸―
今日は新しいクエストいっしょにやろーYO!
じゃあね♪お兄ちゃん
静かに携帯を閉じポケットにしまう。
「っはあぁぁぁぁ」
体内の二酸化炭素を全て吐き出してしまったんじゃなかろうか、と思える程の溜めに溜めた溜め息を吐いた。
溜め息を吐くと幸せが逃げるという話もあるが、今のでいったい何年分ぐらいの幸せが逃げただろうか。もっともそんなこと言ったら俺の幸せはとっくに枯渇している。
「……やれやれ」
あの、オッサンには低血圧やくだらない悩みは関係ないらしい。
それにしてもメール内容はよく考えて送ってもらいたい。このメールを四十過ぎのオッサンがほくほく顔で作成しているとは誰も思うまい。もしこのメールをクラスの男の半数を占める童貞同盟に見られたら、俺は非国民扱いを受けねばならない。中立な立場を保っている身として、それは避けたい。
ここで電車のアナウンスが次の駅を知らせた。
これも毎回思うことだが聞きなれたあの声によく似ている。寝惚けている時なんかは中にいると錯覚して、飛び起きてしまうほどだ。
「ほとんど病気だな。ほんとに……」
口の中で呟くと同時、電車が止まりドアが開く、人の流れ乗って電車から降り、その流れに乗ったまま改札を出て、そのまま徒歩で学校を目指す。
駅前で学校運営のシャトルバスが目に付いた。人の列が蟻の巣に帰還する働き蟻のようにバスに吸い込まれていく。俺はよっぽどの事が無い限りあのバスには乗らないと決めている。別に歩くの大好きってわけじゃない。単に混むから乗りたくないのだ。ちなみによっぽどの事というのは遅刻しそうなときなのだが。授業開始が九時、現在の時刻は九時十五分……。完全に遅刻決定の時も乗らない。うん、人間諦めが肝心なのだ。
「やっぱり二時寝はキツイか。ボーダーラインは一時半だな」
誰に言うでもなく一人で反省するように呟いて、足を進める。
歩くこと十五分、ようやく学校に到着した。
まだ夏本番とまで行かなくても、歩くにはキツイ季節になってきた。シャツの中はうっすら汗ばんでいる。しかし教室までまだ少し歩かなければならない。まったく無駄にでかい学校というのも考え物だ。入学当初は感動したものだが、三年目ともなると億劫でしかない。
中央の広場を抜け、目的地の教室棟Bが見えてきた。その時、不意に後ろから声を掛けられた。
「おっすぅ! おはよっ」
語尾を伸すアンニュイな感じの声色に不釣合いな語勢。その覚えのある声に振り向く。
髑髏がプリントされた黒いシャツに黒いジーンズ、ゴツゴツしたシルバーのベルト、茶色に染めたショートヘアー。一見ヤンキーかバンド少女にしか見えない彼女はクラスメイトの長瀬……下の名前は忘れた。
「おはよ」
軽く手を上げ挨拶に応じる。
「どしたどした? 朝から元気ないねぇ。なんかあったのかぁ? お姉さんに言ってみぃ?」
駆けて来て俺の隣に並ぶ長瀬。
彼女は攻撃的な外見に似合わず誰とでもフレンドリーに話せるタイプなのだ。お姉さんとか言ってるが、特別な事情でもない限りクラスメイトなので当然同い年のはずである。
「元気あるよ。駅から歩いて来たんだぜ?」
おそらく彼女はバス組みだろう。
「はっはー、健康一番ってか。朝から元気だねぇ。でもあんたは毎朝歩いてるだろぉ?」
「だから毎朝元気なのさ」
「へん、よく言うよぉ。あんたは朝の通学で元気を使い切ってるって感じだけどなぁ」皮肉げに笑って左手に巻いた高価そうなシルバーの腕時計を示す長瀬。「で、走らなくていいのぉ?」
「知ってる。今行ってもどうせ欠席扱いだ。一限はふけるよ」
長瀬は満足げに鷹揚に頷き、
「奇遇だねぇ、あたしもそのつもり。売店でも行こうぜぇ。どうせ朝飯食ってないっしょ?」
と親指で売店の方を指す。
「いってらっしゃい」
そんな長瀬にヒラヒラと手を振ってあげた。
「えぇー、ノリ悪いなぁ。どうせ二限まで暇だろぉ?」
「暇じゃない。俺は煙草を吸わなければいけないんだ」
「そういうの暇っていうんだよぉ!」
結局、売店で買い物をして近くのベンチに二人で座った。
長瀬はサンドイッチにコーヒー牛乳、俺はブラックコーヒーに煙草。遅刻するぐらいだ。長瀬の言う通り俺も朝飯を採ってないが、堕落した大学生活で朝食を抜いても平気のスキルを手に入れた。よってこれで十分だ。
「いやぁ、昨日の夜からなんも食ってなくてさぁ」
サンドイッチを頬張りながら、訊いてもいないのに説明しだす長瀬。
「……夜からって、じゃあ夕飯は食ったんだろ?」
「ん、あたしん家には夜食ってシステムがあるから」
お前ん家の食事情なんて知らねーよ、と心の中で突っ込む。
「昨日は帰ってからずーっとゲームしてたんだぁ」
「へぇ……」思わずゲームという単語に反応してしまう。「なんてゲームしてたんだ?」
「“False Hunt”。ESって会社のMMOFPS。知ってる?」
「――――」
固ってしまった。
しかし、冷静に考えれば不思議なことじゃない。以前聞いた話によると日本の若者の十人に一人はあのゲームのプレイヤーらしい。クラスメイトがあのゲームにハマっていたとしても、別段驚くことじゃないだろう。
何気ない視線で彼女の服装を確認する。黒尽くめ……。いや、まさかな。嫌な予感を感じながら長瀬の怪訝そうな視線に気付いて、応じる。
「ああ、まあ、有名だからな」
「なになにぃ? もしかしてやってんのぉ?」
「いや、聞いた事あるだけ」
嘘を吐いて、煙草を銜え深く吸い込む。
「おもしろいのにぃ、絶対ハマるって、いっしょにやろうぜぇ」
知ってるさ。誰よりもハマってる。
「いや、いいよ。ゲームはオフラインしか興味ないんだ」
煙と一緒に嘘を吐き出した。
「もったいない。ま、いいけどぉ」
長瀬はコーヒー牛乳をズズッーと飲み干して言う。
「そのゲームにさ、“カイ”ってプレイヤーがいるんだけどねぇ」
「――――……」
不意打ち気味に繰り出されたその名で、俺は再び固まってしまった。
嫌な予感は見事に的中。いつかこうなるだろうとは思っていたが、よりにもよってクラスメイトとは、予想外だ。
「そのカイってのが凄いんだぁ! むちゃくちゃ強くて、黒い凶戦士とか単独多殺とか呼ばれてるんだ」
まるで自分の事を自慢するように恍惚の表情で語る長瀬。
「でさ、実はあたしその人の追っかけしてるんだぁ」
微妙にはにかみながら言う長瀬に、
「だから服も黒尽くめなのかい」とさりげなく言ってみる。
「ええ!? やだ、そこまで知ってんのぉ!?」
頬を染め驚いている。わかりやすい。
「まぁ、実はそうなんだぁ。その人にインスパイアされてさ。でさ、更に実はなんだけど、昨日その人に会っちゃったんだぁ」
「――――会った?」
三度目の不意打ち。
思わず吸った煙を肺に入れず吐き出してしまった。それは喫煙者にしかわからない形容しがたい味がした。少し考えてから不自然にならないように訊いてみる。
「どこで会ったんだ?」
「え。言ってもわかんないだろぉ? まぁ、会ったって言ってもタウンで後ろ姿見かけただけなんだけどぉ」
「ふうん、なんとなくわかるよ」安堵しながら応える。
できれば時間帯も訊いておきたかったが、さすがにそれは不自然だろう。
「で、あんたもどうせ寝坊だろぉ? 何のアニメ観てたんだぁ?」
「おい、ちょっと待て。なんで俺がアニメ観たことは確定なんだ?」
「え? 見てないのぉ? あたしゃてっきりあんたはそういう人種だと思ってたけどぉ」
「………」
俺はクラスの女子にそんな風に見られていたのか。正直、かなりショックだ。精神ダメージが半端ない。しかし、ここで引き下がっては男が廃る。この女を少し苛めたくなった。
「アニメは観てない。萌え萌えのおんにゃのこを陵辱するゲームをしてたんだよ。十人は犯してやったぜ。ぐふふ」
我ながら人として廃る発言だ。これを言えば大体の女は脱兎の如く逃げていく。しかし、甘かった。この女を舐めていた。
「ほんとにぃ? なんてゲーム? あたし陵辱系はしたことないからなぁ。今度貸してよっ」
「してねぇし持ってねぇよっ。嘘に決まってんだろ!」
「何ぃ!? 大の男がエロゲの一つもやってないのぉ!? つっまんねえ野朗だなっ」
逆に見下されてしまった。今どきの女子大生はエロゲーや美少女アニメを嗜むらしい、世も末だ。
「っと、そろそろ時間だねぇ。行こうか」
腕時計を見ると一限が終わるであろう時間帯だった。
「だな」と煙草を灰皿に投げ入れる。
俺達はベンチを離れ教室へ向かった。
授業はいつも通り、ひどく退屈なものだった。教員が何かを言いながら黒板に白いミミズを這わせる。こちらは必死にそれを板書する。教員の言ってること、書いてること、半分も理解できないまま授業が終わっていく。このクラスの中でどれだけの人間がしっかり理解できているのだろうか。きっと半分ぐらいだ。残りの半分はテストの直前に焦るだけである。自分もその焦る側の人間であることは言うまでも無い。
隣を見ると頬杖を付いてカクカクと睡魔との攻防戦を繰り広げている男がいた。どれ俺も参戦してやるか。
気が付くと一日の授業は終わっていた。どうやら睡魔に惨敗を喫したようだ。
「なあ、ゲーセン行かねえか。ゲーセン」
涎を拭いながら隣の戦友だった男が話し掛けてくる。どうやらこいつも大敗したようだ。
「悪いが今日は予定があってな」
「そっか。じゃ、一人でナンパしに行こう」
逞しい奴だ。名前を知らないのが残念。
朝とは逆順の通い慣れた経路で帰路に着く。その電車内、乗ってから二つ目の駅で一気に車内の人口密集率が上がり、自然と俺の眉間に皺が寄る。
乗り込んで来たサラリーマン風の男は俺の隣に座るや否や携帯電話を取り出し、話し始めた。電車内での通話はマナー違反だが、大声でバカ笑いする連中や香水くさい女子高生よりずっとマシだ。
聞きたくもないのに自然とその会話が耳に入ってくる。
「――――はい、はい。申しわけありません。はい。すいません――――」
どうやら仕事でのトラブルの謝罪をしているようだ。その男は情けない顔で携帯電話に向けて必死に謝っている。その携帯の向こうで怒鳴り散らす声まで聞こえてきた。
「………」
突然、形容し難い感情がふつふつと内側から込み上げてくる。別に隣で通話されていることに対してじゃない。では何に対してか。自分でもよくわからないが、とにかく、怒りと言うより憎悪に近い。それは過去の嫌な出来事を思い出した。そんな比喩がぴったりな、そんな感情。
……この世の中は、本当につまらない。この残酷なほどにくだらない現実で人間として生きていかなくてはならないなんて、ある意味、拷問だ。
こんな気持ちは誰もが抱えているものなのだろうか。それを忘れる。もしくは心に奥に隠して、小さな幸せを糧に日々を生きていく。それが大人になるということなのだろうか。自分は大人に成り切れず無いものねだりを繰り返す。ただの我が儘なガキなのだろうか。……わからない。わからないが。
最っ低に嫌な気分だ……。
その気分を拭いきれないまま、自宅に到着した。
見るからに普通そうな極々普通のアパート。カードキーで錠を開け自室に入る。部屋は四畳半とかなり狭いが一人暮らしなら十分だ。
我ながら関心してしまう程、見事に殺風景な部屋だ。ベッドにパソコン、テレビと冷蔵庫とクローゼット、他に目ぼしい物は何もない。家具家電付きの部屋の初期状態のような有様だ。ある意味、生活観はゼロを越しマイナスに突入している。
パソコンに電源を入れ、狭い部屋を更に狭くしている原因であるベッドに横になった。
「やれやれ、長瀬か……」
中でなら何度もそんな手合に絡まれた事もあるが、リアルでは始めてだ。まったくいい迷惑だ。向こうはこっちのキャラを知ってるが、こっちは向こうのキャラを知らないときた。もし声を掛けられたらアウトだろう。
顔を変えた方がいいか? ボイスチェンジ機能を使った方がいいだろうか?
「……めんどくさ。どうでもいいや」
その一言で悩みは解決した。切羽詰った問題以外は先送り。それが俺の基本的なスタンスだ。
どっこいしょ、とベッドから身を起こしたとき、電車のサラリーマンを思い出して、その悩みとは別に嫌な思考が頭を過ぎる。それはいくら考えても結論なんか出ず、負の悪循環に突入し更なる負の感情を生むだけのどうしようもない思考の迷宮……。
溜息を一つ吐いて「……アホくさ」と、半ば強がりのような独白を呟き、栓の無い思考を早急に打ち切る。
煙草に火を付けパソコンの前に座りメールをチェック。通販サイト、情報サイトと日課になっている軽いサーフィンを楽しむ。得に真新しいものはなかった。
吸い殻でいっぱいの灰皿に煙草を圧しつけ、脇に置いてあるデジタル時計を確認する。五時半になっていた。
「さてと」
VRGを嵌めて、HMDを被る。最初にこれらを使用した時は凄まじい好奇心と若干の扱い難さを感じたものだが、今となってはすっかり慣れてしまった。
一瞬にして真の空間が消え失せ、偽の空間が現実を支配した。その擬似空間に浮かぶように映し出された“False Hunt”のアイコンに指で触れる。
彼はこの瞬間、卑屈な大学生から“黒い凶戦士”の二つ名で呼ばれるプレイヤー、カイへと変貌を遂げたのだった。
『ようこそ、カイ様。サーバをお選びください』
作り物の女性の声が聞こえる。
カイは今朝、電車内で聞いた音声を思い出していた。
――――やっぱり似ている。
そのいつもの声を聞きながら、いつものサーバを選択する。
『それではカイ様、成功と幸運を祈ります』