絶望の底で 2-2
「一体どうしたよお? ええ?」
長瀬は、俺の顔をまじまじと見詰めながら質問を繰り返した。
俺は、なぜ長瀬がここに居るのかという驚きと同時に、長瀬だったのかという失望を感じていた。失望。カイと、その名で呼んでくれる人間が長瀬だったことに対する失望。……では誰を希望していたというのか。あいつらが現実で俺の名を呼んでくれるのを待っていたとでも言うのだろうか。もう死んでしまったというのに。俺の所為で殺されてしまったというのに。
「………」
何も答えない俺を見て、そして背伸びをするようにして俺の部屋の惨状を覗き見て、長瀬はどんと、片手を突き出して俺を押した。それは今のような衰弱状態じゃなくても倒れそうになるほどの割と加減のない突き飛ばしだった。辛うじてよろめくだけで踏み止まるが、その隙にするりと、長瀬は眼鏡の少女の手を引っ張って俺の部屋に侵入してきた。
「……なにすんだよ」
長瀬を睨むが、彼女は意に介した風もなく部屋を見渡して顔を顰めた。
「うわぁ、きたな、そしてくっさぁ! 何この部屋! 超臭いんだけど。うあっ!? これゲロじゃない!? なにやってんのあんた。バッカじゃないの!?」
のべつ幕なしに騒ぐ長瀬と、それを窘めるようにおろおろする眼鏡の少女。眼鏡の少女は俺と目が合うと、露骨に視線を逸らしてから、「お邪魔します」と小さく頭を下げた。その時ふと思い出した。彼女の名前は朋絵メイだ。
その間、長瀬は我が物顔で俺の部屋を横断する。
「換気しなきゃ換気。窓はっと、あれ? なんだ開いてるじゃん」と、ここで長瀬は俺の方に首を回して、不意に、とても冷たい眼差しになった。「ふーん、なるほどねぇ。引き篭もり丸出しの魔窟、今さっき窓を開けた痕跡、死にそうな顔をした魔窟の主……なるほどなるほど、わっかり易い構図だこと」
「何が、言いたいんだよ……」
「べっつにぃ。あたし言いたい事はすぐに言う性質でねぇ。あんたがしようとしていた事をわざわざ口に出す必要もないでしょうよ」
「………」
「あたしが言いたい事は、最初からずっと言ってるじゃない」
長瀬は言う。
「どうしたの?」
質問というよりは、詰問に近い声色だった。
俺は、何も言えずに、でも何かを言わなければいけない事はわかっていて、
「……別に」
とだけ言った。
「別に、かぁ。別に別にべつにぃー。便利な言葉だなおい。あたしは大嫌いだよ」
自分だってついさっき言ったじゃないか。こういうのをして舌の根も渇かぬ内にと言うのだろうと思って、鼻で笑ってやった。でも思うようには出来なかった。酷く醜く、意味のないものになっていたと思う。
「はあぁーあ、訊くだけじゃあ埒があかないみたいだねぇ。実はあたし達はね、二週間も学校サボってヒッキーやってた野郎なんてどーでもいいんだぁ。勘違いするなよってやつぅ。ただし、ツンデレでもなんでもなく本心からね。死のうが生きようが、窓からダイブをキメようが、勝手にしてくれって感じぃ」
「………」
「ここに来たのは、あんたを心配したわけじゃないんだよ。あたし達が心配してるのはただ一人、柿崎よ。柿崎詩織」
「――――栞?」
紫の忍び装束を纏った小柄な戦友が脳裏に過ぎった。そして思い出す。ああ、そうか。そういえばあいつはリアルではこいつらとつるんでいたっけ。
「風の噂で聞いたんだけど、あんた、中で詩織と一緒だったそうじゃない」
中というのは、言うまでもなくFalse Huntの中という意味だろう。
「まったく、あんたといい詩織といい。最上級プレイヤーってのは神経質な癖に無頓着だけよねぇ。詩織もね、あんたと同じでプレイヤーである事をあたし達に隠してたんだよ。紫の影の二つ名に負い目を感じていたのかどうなのか知らないけどぉ、気付かないわけないっつーの、馬鹿……」
最後の部分は伏目がちで寂しげに、独白のように呟かれた。そしてまた思い出す。いつぞやの学食での遣り取りを。俺が長瀬にカイである事を追求された時、彼女は俺を庇った。詮索するものではないと、長瀬を止めた。しかしあれは俺のためだけではなく、おそらく自身の身にその話が飛び火しないためでもあったのだろう。
長瀬は顔を起こして、斜め下から俺を見据えた。長瀬の身長は決して高くはなく、俺を見上げる格好になっているが、それでも俺はたじろいでしまう。
「でだ。詩織があんたとつるむようになって、二週間前からあんたは学校に来なくなって、そして、まったく同じ二週間前から、詩織も学校に来ていない」
「……」
わかっていた。栞が死んで、詩織がどうなったか、あいつらが死んで、リアルのあいつらがどうなったか、嫌というほどわかってはいた。しかし、それでも確証はなかった。無意識に確証を得るのを避けていたのかもしれない。だがたった今、確証を得てしまった。面と向かって決定的な事実を突き付けられた。
俺は、長瀬と、目を合わせられなくなる。合わせる顔が、ない。
「連絡も取れない。実家に訊いてみたら、捜索願いを出したそうだ。つまり行方不明だよ」
「行方、不明……?」
自殺ではなく、行方不明。それはどういうわけか考えて、すぐに想像できた。虎サンは、デパートの屋上から飛び降りて自殺させられた。自殺催眠、そう催眠だ。コントロールされていた。バハムート曰く、スペシャルクエストで死亡すると自身で考え得るベストな方法で自殺させられる。だからおそらく詩織にとって、発見が困難な場所で人知れず最期のときを迎えるのがベストな自殺だったのだろう。だから、迎えさせられたのだろう……。ふと、他の連中はどうやって死んだのかと考えてしまったが、早急に止めた。そんな事、考えたくもない。
「詩織とは、てゆーかあたしら三人は高校の時からの付き合いでねぇ。詩織は真面目くさったやつだ。家出するようなやつじゃない。万が一にしたとしても、二週間は有り得ない。このあたしに連絡もよこさないなんて、有り得るわけがない」
ここで長瀬は俺の肩を掴んだ。背丈の関係で長瀬の腕は伸びきっているというのに、指が食い込んで痛いほどに、強く掴んだ。
「だから、あんたに、訊きに来た。知ってる事があるなら、なんか言え」
怖いと思った。俺は、睨むような長瀬の視線から逃れるように口を開く。
「む、無茶苦茶だな。さっきからなに言ってんだ。悪いけど、俺はなにも知らねえよ」
「あらら? そうかそうか。ならしょうがないねぇ」
長瀬は俺の肩から手を離した。しかし離した手でそのまま俺の胸倉を掴んで、
「なあ。殺すぞ」
視界が歪んだ。何が起きたのかわからない。痛い。頬が、痛い。おそらく殴られた。続けて二発、三発、四発。
「いって! なに、すんだ! や、めろ!」
言ってる間も、殴られ続ける。痛い痛い痛い痛い。長瀬の腕を解こうとするがびくともしない。俺はすでに膝を折っているが、倒れる事を長瀬の腕は許さない。朋絵の悲鳴のような制止にも殴打は止まらない。五発、六発、七発、八発。もはや数は意味がない。
口の中は痛みに痺れ、唇からだらだらと血と涎が混じった粘液が垂れた時、ようやく長瀬はその手を止めた。開放され、俺は床に突っ伏した。
「今更シラ切れると思ってるわけ? そこに転がってるのはなんだぁ? HMDとVRGだろうがあッ。あんまりさあ、イライラさせないでよねえ。知らないわけがねえだろう。詩織はあんたと一緒だった。あんた、詩織に、何したンだよ! ええおい、黒い凶戦士さんよお!」
今度は、顎を押さえて蹲る俺を、長瀬は蹴り始めた。足の甲で背中を打ちつけられ、踵で頭を踏みつけられる。
あんなに強く殴られたのもこんなに強く蹴られるのも、初めてだ。痛い痛い痛い痛い。何も出来ない。頭を抱え丸まりながら、赦しを乞うしかない。
「いて、いたいよ! やめろ、やめてくれ! ほんとに知らないんだって! 俺は何も、知らないんだ!」
言えない。言ってはいけない。きっと栞も、それを望んでいる。虎サンの時と同じだ。皐月に話したら、皐月は死んだ。長瀬もプレイヤーだ。話せばきっと長瀬も危険に巻き込んでしまう。
いや……詭弁だ、言い訳だ、最低だ。本当に最悪だ、俺は。人の所為にしている。栞のためだと長瀬のためだと謳いながら、本当は、栞の所為にして長瀬から逃げようとしている。俺は、ただ怖いだけだ。話せば俺は恨まれる。きっと俺は軽蔑される。最悪な人間だとバレてしまう。ここは皐月に話した場所とは違う、現実だ。虎屋じゃなくて俺の部屋だ。現実で嫌われるのは嫌だ。今の俺は強いカイじゃないから、人に嫌われたくない。俺はそれが怖いから話したくないだけなんだ。
「ひぎゃうぅ」
ずどんと、一際強い激痛が下腹部を襲い、喉から奇声が漏れた。
――――でも痛い。怖いよりも今は痛い。痛いのは嫌だ。これ以上、痛いのはもう嫌だ!
「……俺だッ」
痛みと自己嫌悪と情けなさで、俺は、涙と鼻水と涎と血を流しながら、床に頭を擦り付ける。
「ごめんなさい、すいませんでした、赦してくれ。全部、俺の所為なんだ……」
ピタリと蹴撃が止んだ。見ると、長瀬は振りかぶった脚をゆっくり下ろして、鼻で大きく深呼吸するようにしてから、俺の頭のすぐ前に胡座を掻いて座り込んだ。
「ようし、話す気になったみたいだねぇ。ごめんねぇ痛かった? でも話の内容によっちゃ、再開するからねぇ。そのつもりで」
「………」
俺は話した。自白した。
相槌一つ打たず、瞬きも碌にせずに、無表情で俺を見据え続ける長瀬と、伏目がちだが、決して俺から目を離そうとしない朋絵。始めは、二人の視線に怯えながら、二人の機嫌を窺うように、言葉を選んで話していたが、次第に声色が熱くなり、最後には覚えている限りの事を、思いつく限りの事を、吐き出すように俺は喋っていた。重要であろう事柄を全て語った後も、俺は喋り続けた。自分でも何を話しているのかよくわからなくなっていた。だがおそらくそのほとんどが懺悔や詫びや贖罪の言葉だった。聞くに堪えないであろう事は自分でもわかっていたが、止める事は出来なかった。
「おい」
俺が何度目になるかわからない謝罪を述べた時、長瀬は唐突に言った。
「もういい。やめろ。あたしは帰る」
あまりに突然だったので意味がわからずに長瀬を見るが、立ち上がりドアに向かう彼女の背中から、その心中を察した。痛いほどに感じ取れてしまった。きっと長瀬は信じたのだ。図らずとも俺の度重なる謝罪が言葉に真実味を持たせたのだろう。長瀬は俺の言葉を、俺が体験した異常事態を、信じてくれた。だが、それと同時に信じたくないのだ。信じれば、認める事になってしまう。詩織の死を肯定する事になってしまう。だから、その葛藤の末、長瀬は俺に背を向けた。
俺は待ってくれと言いかけたが、ゆっくりと口を閉じた。俺には長瀬を止める事も、そもそもそんな資格はない。
「タマエちゃん!」
しかし、突然響き渡ったその声に、長瀬は足を止めた。
声の主は朋絵だった。朋絵は両手で白いスカートの裾を引っ張るように握り締めながら、真下を向いて震えていた。
長瀬は背を向けたまま、宙を仰ぎ、ぶるぶると震えた。そして吠えた。
「ぁぁあああああああああああああああ、クッソ!」
まるで爆音だった。狭い部屋の空気が振るえ、びりびりと肌が痛むほどの震動がこだまする。
その音響が鼓膜から離れぬ内に、長瀬はこちらに向き直り、早足に戻ってきて、俺の前に乱暴に腰を下ろした。
「本当なんだな」
まるで般若のような目と、それとは不釣合いな悲しみを堪えるように縛られた唇。俺はそんな長瀬の表情に心当たりがあった。あれは誰だったか。漆黒の覆面を被った男だ。怒りに燃え、悲しみに溺れ、そして何より自分を呪った男の顔に、今の長瀬は酷似していた。
「おい、訊いてんだよぉ。今の話は、本当なんだな」
「……すまない」
俺は謝る事で肯定した。
長瀬は俺を見詰めたまま、鼻から大きく息を吸い、目を閉じて呼吸を止めて、数秒後、目を閉じたまま吐き出した。ふーんという鼻息を肌に感じる。そして直後に見開かれた長瀬の目を見て、訂正させられた。先の俺の想像を、訂正させられた。
長瀬は俺とは違った。
俺なんかとは、断じて違った。
「なあ」
長瀬は言う。
「受け入れるのは簡単か?」
「………」
「認めるのは楽だろう?」
「………」
「諦めるのは格好いいなぁ?」
「………」
「自分の所為にするのは、最高だよなぁ?」
「………」
「あんたがどうかは知らないが、あたしにとっては否、否、否、否」
「………」
「詩織は死んでないよ」
長瀬は軽く俯き、短い髪を掻き上げるようにしてから、俺に向き直り、続ける。
「あんたの話に出てきたバハムートとか皐月とか、そんな連中の事は知らんしどーでもいい。けど、詩織は生きてる」
「………」
「なんか言えよぉコラ」
べしんと、頭を叩かれた。
その時、唐突に、まるでその打撃が化学反応をもたらしたかのように、俺の奥でふつふつと煮え立つ物が生じてきて、爆ぜた。腹の底がどろどろに熔解し、焼け焦げた空気が喉を焦がすように、実際に身体の中身が熱く、痛い。とてつもないこれは、久しく感じる憤り。
こいつは本当に俺の話を聞いていたのか? 俺の死にたくなるほどの謝罪や懺悔を受け止めていたのか? こいつは事態を理解しているのか?
わかってる。こいつは全てを聴いて、受け止め、理解したんだ。
それなのにこいつは、このクソ女は、聴き、受け止め、理解したくせに、それでいて尚、そんな事を言うのか――――
「……死んだんだよ」
「ああぁ? なんだと」
「詩織は生きてねえ。死んだんだよ! 栞が死んで、詩織も死んだ! 皐月も、バハムートも、シマドリも、ハンヴィも、虎サンも、みんな死んだ! 自殺させられたんだ! 俺の所為でな! そうさ、全部俺の所為だ。俺の所為で、みんな殺されちまったんだよッ!」
熱く焼けた塊を、喉から引っ張り出し、口から吐き出すように、俺は叫ぶ。
「なに勝手なこと言ってンだ! 受け入れるのは簡単なわけねえだろ! 認めるのは苦しいに決まってる! 諦めるのは格好悪いさ! 自分の所為にするのは、最低で最悪だ! ふざけんなよ。そんなの、そんな事は誰よりも俺が知ってるさ!」
そうさ。
受け入れるのが、どれだけ難しかったか。認めるのに、どれぐらい苦しんだか。諦めた俺は、どれほど格好悪かったか。自分の所為で自身が、どこまで最低で最悪な気分になったことか。その結果、こいつらがこの部屋に闖入してくる刹那前、俺がどのような終結を採ろうとしていたのか。
こいつは一体、それの、なにを知っているというのだ。
「俺の気持ちなんてなんにも知らねえくせに、勝手な事を言うんじゃねえ!」
「その通り」
不意に、長瀬はさらりと言った。
「あんたの気持ちなんて、あたしはなんにも知らないし、そもそもさあ、あんたがどう思うかなんて関係ないねぇ。死んだと思いたいならそう思ってろ。だから、あたしの気持ちをあんたが勝手に決めるなよ」
だから、詩織は生きてるんだよ、と。
まるで俺の怒号などなかったかのように、二人で会話をしているのに俺の意見など意に介さないという風に、実に淡白に、長瀬は断言した。
何も言えなくなる俺を見て、長瀬は微笑むように嘆息した。
「あたしが思うにさぁ、あんたは優し過ぎる。あの人はこう思っている、だからこう言おう。あの人はこうしたいはずだ、だからこうしよう。あの人は俺の事を嫌いだ、だから近寄らないようにしよう。みんな死んで自分だけが生き残った、だから全部俺の所為だって、自惚れるなよ、そして見縊るなよ。あんたは人の気持ちを理解できるほど悟ってないし、人はあんたが理解できるほど単純じゃない。行き過ぎた優しさの正体は、脳内で勝手に作り出した在りもしない空想の非を全部自分に押し付ること。その結果が、どうしようもない自己嫌悪なのさ」
……あぁ。
「そしてあんたは素直過ぎる。バハムートが言った。キルされたらリアルでも死ぬ。みんなキルされた。だから死んだって? だからあんたが死ぬほど苦しんでるって? おいおいおいおい、なんだよおそりゃあ。受け入れるのが難しいなら、受け入れなければいい。認めるのが苦しいなら、認めなければいい。諦めるのが格好悪いなら、諦めなければいい。自分の所為にするのが最低なら、他のものの所為にすればいい。足掻いて、もがいて、逆らって、抗えばいい。あんたは楽を、すればいいんだ」
このあたしのようにねぇ、と長瀬は不敵に嘯いた。
その言葉を聞いて、ああ、そうか、と思った。納得できた。
全ての苦しみが消え去ったわけではなく、免罪を受けたというわけにもいかず、俺の心境はほとんど変化していないが、しかしそれでも、俺の心に長瀬の論理は、とても深く得心いった。
優しくて素直。
オレンジに染まった臨海公園で、戦友の姿をしたその娘から、親友だった人の口癖を聴いた。
――――捻くれてるけど、あんなに素直で優しい若者、俺は知らない。
「……畜生」
俺は言う。
「お前は精神学者かよ」
苦笑しようとしたが、うまくいかなかった。唇は震えて、歯がかちかちと鳴って、目からは涙が流れた。