第十八話:絶望の底で 2-1
レイトタウンの繁華街エリア。
中世ヨーロッパを髣髴とさせる大小不規則な石畳が敷き詰められた大通り、その両脇にはまるでコピー&ペーストしたかのように統一された近未来的な建物群が隙間なく並んでいる。新しい物を積極的に採り入れる一方で故きを重んじているという、いかにも浅はかな人間臭さを感じさせる町並みだ。
道往くプレイヤーは疎らで、その誰もが一様にどこか陰鬱な表情である。しかしそれもそのはず、今は早朝である。空が明らむよりもまだ早い時間帯だ。白い靄のような大気が薄く淀んでいる。常識的なタイムスケジュールを送る人間ならば夢の中である。つまり今この世界で活動しているプレイヤーはそのほとんどが夜通しでログインしっぱなしという事になる。いくら夜に慣れたオンラインゲーマーといえど徹夜となれば流石に顔に疲れが出るのは当然だ。
「あー、マジでクソ眠いわね。眠くて眠くて、目蓋が半自動で下りてくるわ。これが噂のオートジト目ってやつね」
大通りの中心を、欠伸をしながら貫徹特有の変なテンションで練り歩くワインレッドのスーツの女、ビクターもその例外ではなかった。
彼女の独り言は、もはや独り言というレベルではなく、行き交う人々全てに向けて話し掛けてるような大声である。しかし当然そんな危ない人の声には誰も耳を貸さず、そもそも誰しもがビクターと同じような睡魔に襲われているわけで人に構っていられる余裕などなかった。
「なんかここまで来ると今更寝るのもめんどーじゃない? でもこれからの六時から七時の間が一番キツイんだよねえ。睡魔のゴールデンタイムよ。ま、それを乗り切ればなんとかなるわ」
本来は頭の中で行うべき自問自答を盛大に舌に乗せながら、ビクターは大きなアーチ状の門を潜り、繁華街エリアから出た。すると通りは一気に拓け、ターミナルのある噴水広場に辿り着く。風体こそ違えど、リアルの一般的な駅前と同じような構造である。
と、そこで、見慣れぬ物を発見した。
「んぁ? なにかしら……」
噴水広場の人の数も繁華街と同じく少ないが、その少ない人口が一箇所に集中していた。何かを取り囲むように、路上パフォーマンスを見物する通行人のように、ターミナル付近のベンチ前に人垣が出来ていた。人垣といっても十数人程度の小規模なものではあるが、珍しい事に変わりはない。彼らが何かの野次馬である事は遠巻きからでも理解できる。
そしてビクターは、その野次馬達から少し距離を置いた位置に、良く見知った人影を見つける。
都市迷彩の戦闘服を着込み、大きな黒い十字のフェイスペイントをあしらった仏頂面の男。現フォネティックメンバーのクランマスターでありビクターの直属のボスにあたる、ウィスキーであった。
途端、ビクターの表情から疲労が消え失せ、笑みが満面に溢れる。
「あ、マスター! おはようございまーす!」
見つけるが速いか、ビクターはぶんぶん手を振りながら、ウィスキーに駆け寄った。
彼女はウィスキーの事を心の底から尊敬していた。崇拝していると言い換えてもいい。ゲーム内でここまで強烈な主従関係は珍しい。
「………」
一方、ウィスキーはというと頑なまでに無表情。返したリアクションと言えば、さも迷惑そうにビクターを一瞥しただけだった。彼の事を知っている人間からしたら、それはいちいち驚くような事ではない。それが彼のデフォルトである。しかし、彼の事をとても良く知っている人間には、その反応は些か懸念を抱かせるものだったらしい。ビクターは満面の笑みを一転、不安げな表情になった。
「あの、どうかしたんですかマスター? 今日は一段と仏頂面に磨きが掛かってるような気がするんですけど」
貫徹のテンションも手伝ってか、さりげなく失礼な事を口走りながら、ビクターはウィスキーの視線の先を覗った。
そこは例の人垣だった。そして、人と人の狭間に一瞬だけ垣間見えた一人のプレイヤーを発見し、人垣が出来ている原因とウィスキーが不機嫌である理由を知った。
「ゲ。何かと思ったら、あの根暗男じゃない」
漆黒の戦闘服と目と口だけが覗く不気味な覆面。見間違うはずがない。人垣の中心に居たのは、黒い凶戦士の異名を持つ、元フォネティックメンバーのエクスレイだった。今ではカイと名を改めている。
ビクターはカイの事が嫌いだった。彼女からしたらカイはフォネティックメンバーを脱退した裏切り者である。まあそれだけならばカイ以外にも脱退したメンバーは数知れず、快く思わないにしても嫌悪するほどの事ではないのだが、彼女が崇拝するウィスキーが常にカイの事を気に掛けている節があるのが、非常に度し難い。気に掛けているなんて言い方をすると友好的なそれだと勘違いされてしまうかもしれないが、どちらかと言うと敵視している。しかし敵視と言っても積極的に敵対行動を起こしているわけではない。数週間前の練習試合でも、シエラが連れて来た対戦相手が偶然カイだっただけだ。だからやはり気に掛けている程度の形容が相応しい。
とにかく、なぜ他人には無関心であるはずのウィスキーがカイの事だけを執拗に気に掛けるのか。実は、ビクターはその理由を知っている。知っているからこそ余計に腹立たしい。フォネティックメンバーの創設者にして嘗てのクランマスターを務めていた一人のプレイヤー、ズールだ。全てあの女の所為だ。でも、今はもうズールは居ない、消えてしまった。だからやり場のない怒りの矛先をカイに向けてしまうのである。
「それにしてもあんなに野次馬集めて、あいつ何やってんですかね? マスター」
ビクターは言いながら隣に視線を戻すが、すでにウィスキーは居なかった。ウィスキーは人垣の方に、カイの方に歩を進めていた。ビクターの目が驚きで点になる。予想外だったのだ。先に述べた通り、ウィスキーはカイの事を気に掛けてはいるが、積極的に関わろうとはしなかった。そのウィスキーが今は自らカイに歩み寄っている。
一頻り首を傾げてから、ビクターはウィスキーの後に続いた。
人垣に近づくにつれ、野次馬達の潜めた声が耳に入る。
「なぁ、あれほんとにブラックレイか? なんか様子おかしくね?」
「止まってるな。AFKか? それとも寝オチか?」
「いや、目開いてるだろ。それに瞬きもしてる。そこに居るんだよ」
「じゃあなんで固まってんの?」
「知らねえよ。けど噂によると、なんでもあいつこの二週間ずっとあの調子らしい」
「マジかっ……。二週間もここでああしてんの?」
「ああ、今更だけど、なんかヤバイよな、あいつ」
どういうことだろう? と、その会話の意味を考えながら、ビクターは人垣と肩を並べて皆の視線の中心にあるカイの姿をはっきりと目にする。そして思わず息を飲む。『様子がおかしい』や『なんかヤバイ』どころの話ではない。他の野次馬達とは違い、ビクターは通常の状態のカイと多少なりとも面識があるからこそ、その衝撃は大きかった。
カイはベンチに座っているだけだ。どっしりと腰を据え、だらりと膝に肘を置き、軽く頭を垂れている。それだけだ。特に人を集めるような事をしているわけではない。しかし、その雰囲気があまりにも異質。焦点は定まっているがどこを見ているのか一向にわからない洞のような瞳。だらしなく開けっ放しの口からは人間の生気というものが感じられない。野次馬達が言っていた通り、瞬きという動作がなければAFKだと勘違いしてしまうほど、微動だにせず、固まっている。漆黒の身体全体から、尋常ではない虚無のオーラが滲み出ていた。
まるで、そう、脱け殻だ。
意思を、魂を、大事なものを、どこかで失くしてしまったかのようなカイの姿がそこにはあった。
「………」
沈黙せざるを得ない。憎まれ口の一つでもぶってやろうと思っていたビクターだったが、そんな考えはどこかに消え失せた。
一体何があったのか? 練習試合で一見した時には、少なくともこんな様子ではなかった。野次馬達の噂では、カイがこんな様子になったのは二週間前からだと言う。練習試合があったのも、二週間前だ。
そういえば、とビクターは今になって思い出す。あの練習試合、一回目の戦闘が終わり二回戦が始まる前のウォームアップ中に、突然カイ達のチームがサーバーから抜けたのだ。ビクターは負け逃げだとか腰抜けだとか悪態を吐き、あの無感情のウィスキーですら相当に苛立たしげだったが、深く詮索しようとはしなかった。しかし、あの後、一体何が起こったというのか……。
目の前に張本人が居るのだから訊けばいい。だが、それすらも許さないような雰囲気をカイは放っていた。と言うよりも、訊いたところでまともな応答があるとは考え難い。
ビクターが迷っていると、ウィスキーが動いた。人垣から歩み出て、カイの真正面に立った。項垂れるカイとそれを見下ろすウィスキー。
周囲の野次馬が小さくざわめく。フォネティックメンバーに纏わる伝説と因縁を知っている老練のプレイヤー達が、ウィスキーと元エクスレイの邂逅に驚嘆を漏らしているのだ。
ビクターも少し遅れてウィスキーと並ぶ。
「………」
手を伸ばせば触れられそうなすぐ目の前に二人が立っているというのに、視界に入っていないはずがないのに、カイは微動だにしない。無反応だ。
「どういうつもりだ?」
ウィスキーはカイを真っ直ぐに見据えたまま、挨拶も前置きも何もなく唐突に問い掛けた。
「二週間前の練習試合、なぜ途中でサーバーから抜けた?」
「………」
案の定、カイは答えない。身動ぎ一つしない。まるで二人の存在に気付いていないという風に、停止している。
長い、とても長い沈黙。居た堪れなくなるビクターだが、彼女は口を出そうとはしない。口を出すべきではないと、今のこの二人に割って入るべきではないと、そう感じているのだ。
更に暫くの静寂を置いてから、ウィスキーは呟いた。
「あの後、元シエラと元ホテル、あの二人と連絡が取れなくなった」
それは先の問い掛けとは異なり、まるで独白のような口調で発された言葉だったが、その言葉にこそ、カイは反応した。
がばっと、弾けたように垂れていた頭が跳ね上がり、ぽっかりと開いた空洞のような眼を向けられる。
その挙動にビクターは肩を揺らして半歩後退ってしまった。そこはかとない怖気を感じたのだ。気味が悪い、と素直に思う。しかしウィスキーは微動だにせず、カイの化物じみた眼差しを真正面から受け止めていた。そして再び問い掛ける。
「何が、あった?」
「………ぁ」
カイは初めて何かを言いかけた。まるで懇願するような、慈悲を求めるような、懺悔するような、そんな声色で、小さく喉を鳴らした。しかし言葉を続けようとはしなかった。若干の沈黙の後、不意に視線を切り、青い光に包まれ、消えていった。
周囲の野次馬達は霧散するようにどこかに離れて行った。ウィスキーとビクターだけがその場から離れようとせず、ただただカイが座っていたベンチを見詰めていた。
「あいつ……」ビクターがゆっくりと口を開く。「何なんですかね?」
黙っていたウィスキーは、ここで初めてビクターをまっすぐに見る。ビクターはまたもや半歩後退ってしまった。それは今回に限らずウィスキーと知り合ってから自分をまっすぐに見据えてくれた事自体が初めてだったからだ。そしてその眼差しが真剣だったからだ。
「どう見えた?」
「え、えっと、え?」赤面し、しどろもどろになってしまうビクター。「何が、ですか?」
「今の奴が、お前にはどう見えた?」
「どうって、えと、そうですね。気味が悪かったです」
軽く表情を歪めるウィスキーを見て、焦ったようにビクターは取り繕う。
「あ、いや、でも……あんなあいつは、初めて見ました。何て言うか、弱いっていうか、とても悲しそうでした」
「………」
ウィスキーは自分から訊いておいて返事をしようとはせずに、空を仰いで目を細めた。
巨大な壁のように立ち並んだビルの頭上から幾筋もの光が、そして朝日が顔を出し、広場を白く優しく包んでいく。まるで、闇のような黒い凶戦士が去るのを待っていたかのように、彼を見捨てたかのように、それが座っていたベンチも、白く、淡く、光に覆われる。
「日が昇る。俺は寝る」
ウィスキーは、つまらなそうに呟いた。
青い。
視界が真っ青だ。
清流のように、ノイズのように、電流のように、幾筋もの青い光の線が不定期的に縦横に広がっている。
俺はこれを見た事がある。
ピアノだろうか。高音の透き通るような電子音が不規則に鼓膜を震わせる。
俺はこれを聞いた事がある。
そして、青い光の中央には、白抜きのテキストが躍っている。
『False Hunt』。
俺はこれを知っている。オンラインゲームのメニュー画面だ。
頭に手を伸ばして、HMDを外した。
「………」
まただ。またいつの間にか眠ってしまっていたようだ。いや、意識を失っていたのか。まあどちらでもいい。もう何度目になるかもわからない。とにかく全身が痛い。特に頭が、割れそうに痛い。見慣れた薄暗い四畳半が歪んで見える。ぐわんぐわんと、脳の血管が脈打つ音が早鐘のように耳の奥で響き渡っている。その度に吐き気を覚えるほどの酷い頭痛が生じ、物が二重に霞んで見える。今回は……特に酷い。
立ち上がろうとして、膝を折って倒れてしまった。まるで力が入らない。膝に手を置いて力を籠めるが、脚がガクガク震えて、手がずり落ちる。
何か、変な味がした。鼻を突く、酸味を含んだ苦味。これは、血だ。倒れた時に口の中を切ってしまったらしい。咥内で舌を動かして確かめる。ざらざらだ。ねっとりとした血が乾燥してガサガサの内頬にこびり付く。口の中とは、こんなに乾いているものだったか……?
そこで初めて、自分の喉が渇いている事を悟った。そういえば、しばらく何も飲んでいない。ああ、そういえば、しばらく何も食べていない。俺は、腹が減っているんだ。死にそうなほどに、空腹なんだ。
這うようにして部屋の隅の冷蔵庫まで行き。めぼしい物を口に入れた。食べれそうな物を口に押し込んで、飲めそうな物を喉に流した。
「――――うっプ」
戻してしまった。咳き込む度に、一度胃に入れたはずの食べ物は、ボトボトと、ほとんど咀嚼した状態のままで出てきた。
再び開きっ放しの冷蔵庫を漁るが、おかしい、もう他に食べられそうな物が見つからない。そこで足元に散乱した様々な食べ物の殻が目に入った。そうか、こんな食事ももう何度目になるかもわからないんだ。今ので部屋にある食料は全て食べ尽くしてしまったのか。
しょうがないから、先程吐き出して床に散らばった吐瀉物を鷲掴みにして、もう一度口に押し込んだ。もう吐き出すわけにはいかない。落ちてこないように上を向いて、出てこないように手で口を押さえて、頬張る。更に床の物を掻き集めて、鷲掴み、頬張る。頬張り過ぎてぴゅっと、口から、指と指の間から水分が吹き出してきたが、なんとか飲み込んだ。
「………」
口元を拭い一頻り肩で呼吸を整えてから、再び机まで這って行く。机の上に乗っているパソコン、そこから延びているケーブルの先のVRGを手に嵌め、HMDを被るために両手で持ち上げて、ふと思う。
俺は、何をしているのだろうか……?
あるいは、何をしていたのだろうか……?
もしくは、何をしようとしているのだろうか……?
こんな、空腹と疲労で意識を失い、気が付いたら腹に物を詰めて再びFalse Huntに入るような生活を何度も、何日も、もしかしたら何週間も、部屋の食べ物がなくなるまで、幾度となく繰り返しているが、何のためにそんな事を? 俺は一体、何がしたいんだ。
ああ、そうだ。
人を、待っているんだ。
クエストから戻らないあいつらを、ずっとずっと待っていたんだ。戻るまで、ずっとずっと待とうとしているんだ。
「……戻るわけない」
まったくあいつらは、何をしているんだ。人がずっと待ってやっているっていうのに、どこで油を売っているのだ。
「……戻って来る、わけがない」
シマドリとハンヴィはともかくとして、皐月と栞は約束したではないか。虎サンの死の真相を、False Huntの危険性を孕んだ謎を、一緒に究明すると約束したではないか。
「……だって、し」
怖気づいたのか? やっぱり怖くなって、逃げ出したのか? ああ、有り得るな。だったらログインしてこないのも頷ける。普通あんな目にあったら、もう二度とゲームに近付こうともしないだろう。誰だって死ぬのは怖い。正直、なぜだか俺はそうでもないが、世間一般は強烈に生に執着したがるんだ。だからあいつらは、残念だが、もうリタイヤなのかもしれない。
「……いや、違う。戻って来たくても、来れないんだ。だってあいつらは、し」
では、どうしようか。俺一人で調査を再開するか。しかし何をすればいい。一人で出来る事は、虎サンの死の直後に全て試した。様々な資料を調べ尽くして、色々な方法を試し尽くして、全て空振りで、疲れ果てた。もう何も出来ない。独りでは何も出来ないんだ。だからもう少し、もう少しだけ、あいつらを待ってみようかな……。
「……来ない。いくら待っても、あいつらは来ない。だってあいつらはし」
――――死んでしまった。
俺の所為で――――殺されてしまった。
「あああ、ぁぁぁぁぁうあああああああああああ!」
被りかけたHMDを投げ棄て、乱暴に手を振ってVRGを外し、椅子をひっくり返し、蹲る。
あああ、くそ、くそくそくそくそくそくそクソッ。
なんて事だ何てことだナンテコトダッ。こんなはずじゃあなかったのに。どうしてだ。なんで、こんなことに。
「……俺だ」
全部、俺の所為だ。
俺は、俺は、なんて事を、なんて事をしてしまったんだ。
二度目だ。虎サンで一回。皐月達で二回。俺は、同じ事を、まったくおんなじ過ちを、二回も、繰り返してしまった。死んでしまいたくなるほど、嫌な想いをしたのに。それと同じ心で、己の悦楽だけを望み、そして今、俺は再び死んでしまいたい。
もう、駄目だ。
もう俺は、ダメなんだ。
「俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ俺はもう駄目だ」
ああ、その通りだ。
もう、やめよう。
もう駄目なんだから、もう終わりにしよう。
立ち上がり、窓まで進み、カーテンを開けた。空が青い。澄み渡っている。ロックを外し窓を開けた。冷たい空気が肌を包む。クシャミが出て、鼻水が垂れた。それを啜って、窓枠を跨ぎ、ベランダに出る。
――――所詮は全て人間よ、とあいつは言った。
どんなに偉かろうが、バカだろうが、ぜーんぶ同じ人間。みんな、寝て、起きて、くだらない事を考えて、また寝る。人間はそうやってこのくだらない世界で生きている。勿論、あなたも。だから人間の事なんて気にするものじゃない、所詮はおんなじ人間なんだから――――。
俺は、それを聞いた時には、冗談なのかと、痛い事を言う奴だと、小馬鹿にして適当に返事をしたが、実は、随分救われた。その言葉に、今まで生かされた。俺はそれまで、ずっと周りを気にして生きていた。常に周囲の目に注意して、怯えて、隠れるように生きていた。でもあいつに出会ってからは、あの言葉を聞いてからは、変われた。いや、変われたなんて言っても、それは劇的な変化ではなかったけれども、救われたのは間違いない。
他人なんて気にするな――――他人も同じ人間なんだから。
世界なんて意識するな――――所詮俺とおんなじくだらない人間でしかないんだから。
そうやって俺は生き延びてきた。自分と極々近しい人間だけとつるんで、世界を狭めて、生きていた。心の弱い俺は、そうしないと駄目だった。
「でも俺は、そうやっても、やっぱり駄目だった」
俺はそこまで孤高にはなれなかった。そこまで強くは、なれなかった。あいつのようには、生きられなかった。救われたけど、時間稼ぎにしかならなかった。結局、どこかで他人を気にしていた。そして落ち込んだ。周囲にずっと注意していた。そして嫌になった。
そうだ、だから何かを望んだ。何かが変わると、望んでいた。でも今ならわかる。その何かは、具体的な物の変化じゃなくて、何かが起こる事自体を望んでいたんだ。何でもいいから普通じゃない事態を渇望していたんだ。
あの戦場には、それがあった。あの戦場にも、あの戦場にもあった。
他人や世間、そしてそんなうざったいものを気にするつまらない自分すらも気にする必要も意味もなく、あるのは生と死、その二つだけ。
楽しかった。
こんな事になってしまった今でも切に思う。思ってしまう。愉しかった。世界なんてどーでもよくなって、楽しかった。あの戦闘とあの戦闘とあの戦闘は、本当に、たのしかった。
「でも、嫌だよ、もう」
だって、辛いよう。辛過ぎるよ。嫌だよ嫌だよ。わかったんだよ。あれは、麻薬みたいなものだって。ずっとじゃないんだ。一瞬なんだ。効いてる最中は最高だけど、でも終わったら、最低になる。終わる度に、誰かが欠けてる。得る物よりも失う者が、大き過ぎる。どんどんどんどん、辛くなる。
だから、もう駄目なんだよ。
もういい加減認めようよ。今更だけど諦めようよ。どうすることも、出来ないって。俺は、ここまでなんだって。
手摺に両手で掴まり、身を乗り出した。
ああ、ようやくわかった。始めから、こうすればよかったんだ。
嫌な事しかないこの世界に、生きる意味などどこにある。俺は今まで無理をしていたんだ。意味も必要もない癖に無理矢理生きてきたんだ。その無理が周りにも迷惑を掛けていた。そしてとうとう、人の命まで奪ってしまった。
本当に今更で申し訳ないけど、もう手遅れだって知ってるけど、お願いだから許してください。これで勘弁してください。
これで俺も、楽になれるから。
ふわりと、足が浮き、
「……カイ……!」
ふわりと、足が地に戻った。
幻聴かと思ったが、違った。
「……おい! ……カイッ!」
なんだよ。
「……カイ……カイカイ!」
なんなんだよお。
「カイ! カイカイカイカイ、カアぁイ!」
どんどんどんどんと、部屋のドアを殴打する度に、カイカイカイカイと、聞き覚えのある名を連呼している輩が居る。
一体誰だ。なんでその名で呼ぶ。今更誰が俺をその名で呼んでくれるんだ。ここは現実だ。誰だ。誰なんだよ。
無我夢中で窓枠を飛び越えて部屋に戻り、飛び付くようにドアを開けた。
「なんだよ、居るなら返事ぐらいしろよなぁ。つかどーしたのぉあんた!? いつにも増して死にそうな顔してっけどぉ!?」
一見ヤンキーかバンド少女にしか見えない長瀬と、
「長瀬さん……大声は近所迷惑だよぅ」
節目がちでおどおどしている大人しそうな眼鏡の少女。
そこに居たのは、俺のクラスメイト達だった。