フォネティックメンバーズ 4-4
カイとハンヴィは現在、攻撃を受け三階北側の一室に篭城しているという栞と皐月の救援に向かうため、南側の三階階段を急いで、けれども焦らずに駆け下りていた。
カイは階段を下り終え、壁の角に張り付き、頭だけを覗かせ廊下の先を窺がう。
「敵影なしか。速いな……」
シマドリが言っていた三階南側からの銃撃、今はもうすでにその射手の姿はない。シマドリの報告と死亡からまだ一分と経過していないにも関わらず、もう敵の姿が視えないのだ。凄まじいほどに速い展開だ。それほどに敵のチームは統制され、そして連携が取れている。無策のカイ達は完璧に翻弄されていた。おそらく仲間の救援に向かうというこの行動すらも、全てが敵の策戦通りなのだろう。ありがちな常套句で言うのならば、敵の手の内で踊らされているのだ。
しかし、それを知りつつも、やはりカイとハンヴィは栞達を助けに行くしかない。それは仲間のためだとか、そんな善意的な思想からではなく、他に建設的な案が何も思いつかない故の酷く受動的な行動であった。否、それよりもカイがおざなりに戦っている故の、とても軽率な行動だと、そう表現した方が適切であろう。
本気で勝ちに行くならば、他に幾つかの選択肢も出てくるのだろうが、しかしスペシャルクエストという“命に関わる本物”を体験した今のカイにとって、この戦いはただの練習試合でしかなく、つまりお遊びでしかない。必死になって生き延びる必要も、躍起になって勝利する需要も、この戦闘には皆無なのだ。
だからカイは、大して警戒もせずに角から飛び出して、三階通路をひた進む。
と、ほどなくして、
ある小さな違和感に最初に気付いたのは、ハンヴィだった。
「エクスレイ先輩。……気付いてますか?」
「ああ」カイは足を止めずに、感情の篭らぬ声色で素っ気無く応じる。「皐月が殺られたな」
ある程度このゲームに慣れたプレイヤーならば、銃声や爆音が聞こえたらスコアボードを開いて仲間の生死を確認するという、癖に近い技術を身に着けてる。当然その例外ではないカイにとって、それは口に出すまでもない事実だった。
「たぶん、敵に踏み込まれたんだろう。ま、あいつは初心者だからしょうがない。だが、栞が生きてるって事は、まだ敵と戦ってるって事だ」
現に、廊下の先からは時折銃声が聴こえる。
「ええ、ええ、それはそうなんですけどぉ、違うんですよう」ハンヴィは曖昧な感じで首を振る。「なんか、変な感じしませんか? ぶっちゃけ今、“ラグ”ってないですか?」
カイはピタリと足を止め、一度宙を仰いで虚空を見詰めるようにしてから、ハンヴィに振り返った。
「ああ、マジかよ……。確かに、微妙に“重い”な」
言われたところで気付けないほどの極々僅かにではあるが、先ほどから、カイとハンヴィの身体に若干のズレのようなものが生じていた。脚の動きに移動距離が追い付いていないというべきか、コマ送りされるようなというべきか。言いようのない奇妙な時間差。
これは俗に、ラグと呼ばれる現象だった。
プレイヤーとサーバ間で常に高速通信が行われているオンラインゲーム、その通信間に何らかの異常が発生する事をラグと言う。そしてラグが発生しプレイヤーのキャラクター操作が遅延することを、まるで身体が重くなったように感じる事から、重いと表現する場合がある。
「しかし、このご時世の、しかもこのゲームにラグなんて。俺は初めてだぞ」
カイの言う通り、現在ではネットワーク環境の改善により、ほとんど全ての地域において快適なインターネットが実現されている。そしてこのゲーム、Felse Huntは強固な回線設備と堅実なサーバ設定により、ラグが発生しない事で有名だった。Felse Huntの人気のわけも、その理由に因るところが大きい。リアルタイムでの機敏な操作が必要とされるFPSにおいて、ラグの発生は人気か不人気かを左右するほど、それほどに致命的なのである。
「ですよねぇ……。あれ、ラグ? ラグ……?」不思議そうに首を傾げるハンヴィだったが、ほどくして、「あああぁ! ヤバイですようエクスレイ先輩!」何かを思い出したように、叫んだ。
「おいっ、声がでかいぞ」カイは顔の前に人差し指を立てる。「思い出すのは勝手だが、静かに思い出せ」
すいません、とハンヴィは項垂れ、小声で続ける。
「最悪ですぅ。最悪のヤツが敵に居ますよう。覚えてますか? エクスレイ先輩。ヤツですよ。あの半チートプレイヤーですよう」
カイは眉を寄せ、しばらく考えるようにしてから、あぁあ、と嘆息した。
「ヤツか……。あの変態が、来てるのかい……。しかも急に重くなったのを見ると、きっと栞と戦ってるのはヤツだな」
栞も災難だな、とカイが嘯いた。
その瞬間、
「ご名トウッ!」
甲高い叫び声と同時、カイとハンヴィが居る通路の先、五メートルほどの距離を置いた一つの部屋から、二つの影が飛び出した。
青い戦闘服を着た少女、リマと、ワインレッドのスーツの女性、ビクター。二人は各々がその手に銃器を持っていて、
「ッ!」
カイは反射的に、すぐ脇のドアを突き破り、転がるように室内に飛び込む。ハンヴィは即座に伏せて、応戦の姿勢を取った。
回避と戦闘。この一見すると全く異なるように見えた二人の行動は、しかし、行き着く先は同じだった。
ハンヴィは照準もおろそかに敵方に向けてMP7を乱射。当然敵も、ハンヴィに向けて銃弾の速射を浴びせる。
三者の発した銃声は瞬間的な大音響となって通路に響き、薄暗い廊下は銃火によって黄色く瞬く。
ハンヴィが放った4.6ミリ弾は運よく、まったくの僥倖で、敵の一人、リマを撃ち倒した。
「ざまーみろ。シマドリさんの仇ですぅ……」
ハンヴィは不敵に呟き、しかし自身もうつ伏せのその背中に大量の弾丸を浴び、静かに絶命した。
一方、部屋に飛び込んだカイは、
「よぅ、久しぶりだな」
挨拶をしていた。
手にはM4A1カービンを携えているが、構えてはいない。否、構えられない。
それは、目の前にクリス スーパーVサブマシンガンの.45口径の銃口があるからで、目前に居る都市迷彩の戦闘服を着た男に、生殺与奪の権を握られているからだ。
指先を軽く動かしただけで、遠慮も容赦も無しに頭を吹き飛ばされるだろう。
「相変わらず流石だな。俺がこの部屋に転がり込む事も、全てお見通しってかい。まったく、勝てる気がしねえよ、あんたには」
そんなカイの苦し紛れに、都市迷彩の男、ウィスキーは表情も変えずに淡々と応じる。
「当然だ。勝つ気がない奴に、負ける気などするものか」
ふん、とカイは軽く鼻で笑う。
「最後に一つ聞きたいんだが、どうもあんた俺を嫌ってるよな? そりゃあ俺も色んな奴に嫌われてるけど、あんたに嫌われるような事した覚えはないんだが」
それに対しウィスキーは小さく片眉を上げて、不機嫌そうに言い放つ。
「嫌ってはいない。ただ、貴様が居ると腹が立つだけだ」
「……なんだよ、それ」
それがカイの、最後の言葉となった。
放たれた.45口径のフルメタルジャケット弾は、カイの頭皮を捻じ切り、頭骨を砕き、脳漿を掻き回し、後頭部を爆発させ、抜けていった。
鮮血は飛び散らない。それはカイがバラクラバを被っているからで、代わりに、そのバラクラバに穿たれた銃創から、蒸気のような白い煙がゆらゆらと揚がる。
薄暗い部屋に、一人佇むウィスキーは、黒い凶戦士の死体を見つめ、呟いた。
それは、頑なに無表情、無感情を貫いてきた彼を知っている人間が見たら驚嘆してしまうような、酷く忌々しそうな、深く妬むような声色だった。
「……なんでこんな奴に、ズールさんは………くそ」
栞が、フォックストロットの秘術の正体に気付いたのは、カイとハンヴィの死を知ったのと同時であった。
栞もカイと同様、戦場に何らかの変化が起きたら瞬間的にスコアボードを開くという癖を体得している。先の、部屋の外からの刹那的な銃声を耳にし、スコアボードを開き、カイとハンヴィの死を、つまり自分が一人になってしまった事を知り、そこで違和感を感じた。とても小さな、見逃すのが自然と言えるほどの微かな違和感だったが、しかし気付いてしまったら、それはまるで指先の切り傷のように、どうしようもないほどの大きな不快感へと変わる。
「動作が、遅い……?」
スコアボードを表示するという操作を実行してから、実際に表示されるまで、僅かな遅延が発生したのだ。
そう、ラグである。
そしてその瞬間、閃いた。
ラグという単語とは無縁のはずのこのFalse Huntで、今まさにラグが発生しているのだ。通常であれば起こり得ないはずのラグが、なぜか起こっているという事は、即ち、この戦いには異常な因子が紛れ込んでいるという事。
風の噂で耳にした、まるで都市伝説のような与太話を、栞は思い出していた。
有り得ないはずの、有り得たとしてもマイナス効果しか生まないラグを、“奇跡的に敢えて発生させ、己の武器へと変える”プレイヤーが居る、と。
「なるほど、半チートプレイヤーとはそういう事か……。つまり奴は、“ラグ遣い”、か……」
点々と、栞の周囲で出現と消失を繰り返していたフォックストロットは、その栞の呟きを耳聡く聞きつけ、「おや?」と足を止めた。
「いやはや、バレちゃいましたか。実は、そうなんですよ。何を隠そう、そうです、わたしが変なおじさんです」
「………」
「冷たいですねえー、冷たいことヒャダルコの如しですねえ。まぁとにかく。簡易な呼び方で個人的にはあまり好きではないのですが、わたくし、ラグ遣いと、そう呼ばれることもままありますです、はい」
「……まさか実在するとは」栞は呟くように言う。「戯言だとばかり思っていた」
「ええ、今こうして実際に実在してますよ。まぁ、ちょっと前のオンラインゲームならね、結構ご同輩が居たんですが。でも、今の世の中のこのゲーム、わたくしのような存在は実在するだけでも大変なのです。PCを弄るのは勿論のこと、アレなプロバイダを探したりとか、モデムとルータを色々したり、ケーブルをごにょごにょしたりして……。ええ、ええ、そりゃもう回線的にも物理的にも大変大変、だい大変なのですよ」
フォックストロットの気軽な口調ではいまいちその大変さが伝わってこないが、事実、故意にラグを発生させるに伴う苦労は、生半可なものではない。
まず堅実強固なゲームサーバのフィルターが問題になる。ラグを生むような因子(例えば、パソコンの貧弱なマシンスペックや劣悪な回線環境)を持ったプレイヤーは、遠慮容赦なしに接続拒否されるのだ。しかし何事にも境界線と例外と、そして幸運があり、その細い毛穴のような境界線と例外の抜け道を幸運に見舞われ突破することができれば、ラグを発生させる事は可能。
しかしラグを発生させたとしても、そのラグに自身も翻弄されているようでは、ただの迷惑プレイヤーでしかない。ラグ遣いと呼ばれるからには、そのラグをある程度自在に操れる必要がある。そこまでに達するために要する苦労は、先の苦労が遠足に思えるほどの、まさに修羅の道だ。パソコンのネット設定から、ルータの内部構造、更にはケーブルの絡まり具合に至るまで、考えうる限りの数千もの、否、数億ものパターンを試しに試し、そして試し、シビアなフィルターの目を掻い潜り、且、他のプレイヤーに容易に気取られ看破されない程度の、更に、自分の戦闘スタイルに合ったラグの具合を探し当てなくてはならない。砂浜から針を探す、いや、砂漠から特定の砂粒を一個だけ探すような、気が遠くなるなんてものではなく、発狂必至の途方も無い作業である。
そんな魔法的な奇跡を起こし得たプレイヤーは、世界広しと言えど、フォックストロットただ一人であろう。そもそも起こそうと思うこと自体が、どうしようもない異端である。
やっている事は半チートプレイヤーと呼ばれるほど不正行為ギリギリだが、しかしその努力と成し得た結果は驚嘆に値する。
「でも、残念ながら栞さん」フォックストロットはかくんと、不気味に首を傾げて見せる。「わたくしの秘術を看破したところで、貴女はどうする事もできないでしょう?」
「………」
それは、その通りだった。
フォックストロットの出現と消失を繰り返す奇怪な移動法、その正体をラグだと見破ったところで、状況は何も変わらない。ラグだと理解しても、面妖過ぎるその挙動に、どうしても栞の感覚が狂わされる。それにフォックストロットの機敏な身のこなしも相乗し、栞の斬撃は尽く躱されてしまうのだ。
先日、異常な戦場で戦った姿が視えずに数が多いだけの鈍重な雑魚とはわけが違う。まるで、実体のない空気と戦っているようなもどかしさ。
だがしかし、
「それは貴方も同じだろう」
栞は、ここで初めて鮮明な口調でフォックストロットに向かって言う。微塵も物怖じを感じさせない凛とした声色で断言する。
「確かに、拙の攻撃は当たらないかもしれないが、貴方の攻撃も、拙には当たらない」
それも、その通りだった。
フォックストロットのラグ移動という秘術同様、栞にも弾道を避けるという秘技がある。たとえ挙動が異常だったとしても攻撃が通常の銃撃である分には、容易に躱せる。更に、フォックストロットの射撃技術は、決して上手いとは言えなかった。いや、はっきり言ってド下手である。おそらくフォックストロットは、今までラグ移動とそれを利用した回避法を鍛える事のみに重きを置いてきた、偏ったプレイヤーなのだろう。故に射撃に関しては初心者並み。仮に、銃撃を受けた際、栞が弾道避けを発動させなくとも、命中する銃弾は二割か三割程度であるはずだ。両手に持ったサブマシンガンが何よりの証拠。短機関銃の二丁拳銃なんて、たくさん撃てばどれかが当たるだろう、と自ら公言しているようなものである。
「あっはっはっはぁー。ええ、ええ、そうですそうです。そうなんですよねえ。いやはや、痛いところを突かれちゃいましたねぇ」フォックストロットは、何がそんなに可笑しいのか、頭を振るように大袈裟に笑う。「このまま続けても、終わる事にはその内終わるでしょうが、でもどちらかがミスをするまでの持久戦なんて泥臭い真似、できれば避けたいですよねぇ」
そして言いながら、右手のP90を左腕の脇に挟んで、左手のP90の空になりかけた半透明のプラスチックマガジンを外し、新しいマガジンを装填した。もう片方も、同じように装填する。決して速くはない、むしろ緩慢な装填速度である。露骨に余裕綽々だ。つまり、この装填は隙にはならない。今攻撃を仕掛けても、やはり躱されるだけだろう。
それを理解しているからこそ、栞は動かずに、白く薄い直刃の刃紋が輝く刀を、自分の体の中央で構え続けた。
両手のP90のボルトを、互いの銃をぶつけるように器用に引いて、フォックストロットは続ける。
「そこで提案があります。わたくしの秘術中の秘術、今風に言うなら卍解を、今から発動させたいと思います」
「ばんかい……?」聞き慣れない単語に首を傾げる栞。
「おや? ご存知ないと? なら、ちょっと古くなりますが、スタープラチナのザ・ワールドバージョンとか、戸愚呂弟の百パーセント中の百パーセントとか、言い換えてもいいです」
「すたぁ? とぐろ?」栞は怪訝そうに眉を寄せる。「すまないが、拙は日本語しか解さない」
「え、あ、いや、すいません。わたくしが悪かったです。時代ですかねぇ……」
フォックストロットはどこか寂しげに項垂れた。しかしすぐに咳払いを一つして、仕切り直すように言う。
「まぁとにかく、つまりわたくし、今から限界突破のフルスロットルで本気を出すと、そう言っているのですよ」
「……本気を出す、だと?」
そこで栞はようやく言葉の意味を解し、そして、その言葉の真意を悟った。
本気を出すなんて自ら宣言するという事は、あえて言うまでもないが、今までは本気ではなかったという事。それがただのはったりだという可能性も無きにしも非ず、だが、おそらくこの男、フォックストロットはつまらない虚仮威しを使うような輩ではない。栞は身構えていた体を、更に強く、身構えた。
しかし、フォックストロットは、「いやいや」と、顔の前で銃を振る。
「誤解しないでくださいよ。わたくし今までも十分本気でした。シャドウステップの栞さんと手加減して戦えるほど、わたくし強くも自惚れ屋でもありません。ただ、それは通常状態の本気であって、今からは限界突破の十二分で本気を出すと、そういう意味です」
そしてフォックストロットは、再びラグ移動で歩き出す。栞の周りで消失と出現を繰り返す、先ほどと変わらない移動だ。
「限界を突破するという事の意味がわかりますか? 限界とは、それ以上進むべきではないから限界なんですよ。それを超えるという事はつまり、これはコイントスに近い運試しなんです。表が出たら、貴女の勝ち、即座にわたくしは消滅してしまいます。でも裏が出たら、わたくしの勝ち、絶対に貴女は助からないでしょう。それでは――――」
ええいママよのレッツポップです、とフォックストロットは意味不明な文言を宣い。
次の瞬間、
「なっ!? ――――ッくぅ……!」
栞は呻き声を上げた。
体が、重く、そして遅い。
グンと、空気が通常の十倍ほどの重みを持ち、体を縛る感覚。しかも、その感覚が秒増しに強くなる。
グングングングンと、体が、いや、音が、空気が、空間が、重く、遅くなり、そして終に、
カクン、と、
世界が止まった。
それは比喩ではなく、誇張でもなく、今この瞬間、確実に世界が、全てが止まっている。しかしすぐに、時間の流れが通常に戻った。そして間髪を容れずに、再び世界が停止する。再度再生。再々度停止――――再生停止再生停止再生。
まるでビデオのリモコンを子供が悪戯で操作するような停止と再生。それが幾度と無く繰り返される。カクン、カクン、カクン、カクンと。
「なんだ」
「これ」
「はッ?」
栞の驚嘆すらも、コマ送りで聞こえる。
「うふふ。どうですかぁ? 栞さん」
そんな栞とは対照的なフォックストロットの流暢な声。
「これがわたくしの本気です。そしてわたくしの世界です。感覚共有、とでも言いましょうか。通常ならば、わたくしにしか影響を及ぼさず、周りには微弱な違和感しか与えないラグを目一杯に解き放ち、周囲にも如実な影響を及ぼすようにしたのです」
停止と再生の世界の中で、フォックストロットは点々と、それでいて自在に、まるで瞬間移動をしているかのように、決して狭くは無い室内を、縦横無尽に現れ、そして消える。
「平たく言うのならば、ラグのレヴェルを叩き上げたのですよ。今のラグの具合を例えるなら、十年前のオンラインゲームでプレイヤー全員がISDNで接続してる感じですかねえ……って言っても、ジョジョや幽白を知らない世代の栞さんにはわからないでしょうけれども」
フォックストロットの言葉の意味を解すか否かは、今の栞にとって然したる問題ではなかった。と言うよりも、それどころではなかった。
まず、言葉を聴けるような精神状態ではない。
世界が一時停止するなんて言っても、それは勿論仮想現実の世界であって、現実の世界の時間軸は異常なく進行し続けている。つまり、キャラクターの身体は停止していても、プレイヤーの思考までが停止する事は断じてないのだ。だがしかし、思考できるからといって、その思考が働かなければ意味がない。今の栞がまさにその状態――――彼女は今、混乱の極致にいた。
脚、腕、指、首、眼球に至るまで、それら全てを動かそうとする度に、身体が停止し、そして再開した瞬間には、もうすでに動かした後の状態になっている。間がない。行動を起こそうとしてから、その行動が終わるまでの、間がないのだ。
栞は、攻撃の警戒を前方だけに絞るために、バックステップで壁際に退避しようとしたが、後ろに跳んだ瞬間、時間が停止し、再開と同時に、ドンと、背中から壁に激突してしまった。加減のない、まるで自傷行為のような体当たりだ。
「――――か、フっ」栞は肺から息を漏らす。「馬鹿、な……」
間がなければ、加減を見誤り、明後日の動作を繰るのは至極当然。まるで自分の体ではないような、自由も何もない世界。これこそがラグであり、そしてまさに今の状態は、最悪に重度な究極の時間差。
「あははぁー。駄目ですよ栞さん、慣れない内にそんな激しい動きしちゃ」フォックストロットは笑う。「もっとも、慣れろなんて言うのも無理な話だと思いますけどねえ。なんせわたくし、このラグに慣れるまで三ヶ月掛かりましたから」
フォックストロットの捲くし立てるような早口は、コマ送りされる世界の、ちょうど再生のタイミングに合わせて、途切れずに鮮明に響き渡る。まるで勝手知ったるという風に、喋り慣れている。ラグに慣れ親しんだフォックストロットにとって、今のこの世界はホームグラウンド。
世界を自分のフィールドに変え、しかもそのフィールドでは対戦相手は無抵抗にならざる得ないほどに動き難いのだ。まさに秘術中の秘術と呼ぶに相応しい反則技である。
しかし、
「どうやらコイントスの結果は、裏が出たようですね。つまり、賭けはわたくしの勝ち――――」
と、フォックストロットが言いさした瞬間、不意にそれは訪れた。
「あ。あああぁぁー、なんですかぁ、もぉうぅ! せっかくいい感じだったのにぃ」
もっとも、訪れたなんて言ってもそれを観測できたのはフォックストロット本人だけだった。彼は瞬間移動を止め、先ほどまでの余裕とは打って変わって、悔しそうに地面を踏み鳴らして苛立ちを顕にする。情緒不安定の最たる例だ。
栞はフォックストロットの突然の地団駄を見て、怪訝そうに眉を寄せた。彼女から見たら状況は何も変わらない。混沌とした世界で自分が圧倒的に不利なままなのだが、
しかし――――実はもうこの時、勝負は決していた。
「栞さん、前言撤回です。コインは表で倒れました。つまり、賭けはわたくしの負けだったようです」フォックストロットは気を取り直すように、と言うよりも気を持ち直すように栞を見て言う。「やっぱり限界なんて突破するものではないのかもしれません、が、でもわたくしは諦めませんよ。いつかきっと、最高で最悪なラグを探し当ててみせます。そう、わたくしはラグ遣いなどではなく、言うならばラグの探求者、ラグサーチャーなので――――」
す。と、言い終わるその前に、フォックストロットの姿は忽然と消えた。
またラグ移動か、と栞は身構えるが、しかし違った。フォックストロットが消えると同時に、世界を支配していた異様な時間差も幻のように霧散したのだ。そして消えたフォックストロットが再び現れる事は、もうなかった。
その代わりに、あるテキストが画面に映し出された。
『プレイヤー:フォックストロットが回線不良によりサーバから切断されました』
それはつまり、ラグの具合が劣悪になり過ぎて、その原因であるフォックストロットがサーバからキックされた事を指す。ラグのレヴェルを上げ、そのレヴェルがサーバフィルターの許容範囲を超えた事により、強制退出させられたのだ。フォックストロットの限界突破とは、本人が言っていた通り、それほどに一か八かのリスキーな秘術だったのである。
そしてフォックストロットが秘術に失敗し退出させられたという事は、栞の勝利を意味していた。勝利は勝利でも不戦勝に近い。
「………」
栞は盛大に眉を寄せながら、身構えていた体勢を正し、そして呟く。安直すぎて、ベタすぎて、実は栞は呟きたくはなかったが、状況的に呟かざるをえない。
「いやはや、狐に抓まれるとは、この事か……」
自分で言って、軽く頬を染める栞だったが、しかしすぐに気持ちを切り替えて、部屋の外へ向かった。一つしかないドアへ、駆け寄った。
最早レッドチームには自分一人しかいない事を栞は知っていた。そして当然敵も知っている。ならば敵は総員で自分を狙ってくるだろうと、一刻も早くこの部屋から離れて単身のゲリラ戦を展開すべきだと、栞はそう判断したのだ。
「やっぱり、あの変態マジで使えないわね。ほとんど自殺じゃない。でも、戦力の分散的には、丁度いい時間稼ぎになったわ」
「――――ッ!?」
しかし遅過ぎた。
部屋の外から女の声。もうすでに敵はそこに居た。
栞は一息に部屋の奥に後退し、弾道避けの構えを採った。そして開けっ放しにされていたドアを見据える。踏み込んで来るであろう敵の初撃を躱すための行動だったが、しかし敵は、待ち構えられている所にわざわざ踏み込むなんて危険は冒さなかった。
部屋の外から声が聞こえた時点で、敵が自らの存在を露見するような真似をした時点で、栞は次に何が来るのかを予想するべきだったが、たとえ予想できたとしてもどうしようもなかっただろう。
ゴロンゴロンと、五発。
開いたままのドアから手榴弾が五発、転がり這入ってきた。
一発は左隅、一発は右隅、一発は手前、一発は中央、そしてもう一発は奥に、十五畳ほどの室内の空間を全て殺傷範囲に収める完璧な位置で、手榴弾は停止した。
回避は不可能。防御など問題外。
「……不覚」
栞は呟き、爆死した。
跡形も残さないというほどの爆風の槌と破片の刃が、栞の身体を微塵にする。
低く唸るような轟音の後、黒煙と粉塵に覆われた室内は、嵐の後の静けさとでも言うのか、奇妙な静寂に包まれ、そして、
ブルーチーム WIN
ウィスキー達の勝利を示し、カイ達の敗北を知らしめるリザルト画面が表示され、戦いは終わった。
「つまんないですねぇ……」
誰に言うでもなく、不貞腐れるようにハンヴィが言った。
カイ達五人は現在、一階の北側階段付近に居た。先のリザルト画面の直後、再びスタート地点に出現したのだ。
各々がどこかやりきれないような、不完全燃焼といった面持ちである。
「ま、ぶっちゃけこーなる事はわかっとったけど」シマドリは言いながら眉間を揉み、嘆息する。「こうも予想通りやと、ちと気分悪いわ」
「完璧過ぎるぐらいにこっちの動きが読まれてたな」カイはシマドリとハンヴィを見て、目を細めた。「まさかお前ら、スパイやってんじゃねえだろうな?」
「スパイて……久しぶりに聞いたわ。それ死語やぞ」シマドリは厭きれたように冷笑する。「なにが悲しゅうてそないアホな事せなあかんねん。理由もないし、意味もないわ」
「そうですよう。僕達がわざわざ密告しなくても、ウィスキー先輩ならきっと全てお見通しですぅ」
カイは鼻で嘆息し、それもそうだな、と続ける。
「奴からしたら俺達の事を知ってる分、余計に有効な作戦を立て易いんだろう。だからこっちも嵌り易い。これだったらぺーぺーの初心者集団の方がまだ善戦できたかもな」
と、そこで、
「あのぉー」とぺーぺーの初心者である皐月がおずおずと手を挙げた。
「終わったんじゃないの? えと、バトルだっけ? 私達が負けて、もう終わったんでしょう? なんだまたここに転送されるわけ?」
そんな皐月に目を遣り、カイはもう一度嘆息した。
「このバトルは五回勝負なんだよ。先に三勝した方が勝ちになるんだ。ちなみに今は作戦会議の時間。一分もしたら、また始まるぞ」
「ああ、そうなんだ。またやるんだ……」
皐月は不安と倦怠を混ぜたような、なんとも言えない神妙な面持ちで頷いた。
「で、次はどないするんや?」シマドリはカイに訊ねる。
「だからなんで俺に訊くんだよ。少しはお前らも考えろよ」
「思い付かないから訊いとるんや。それにお前一応リーダーやろ」
「リーダー?」カイは片眉をぴくりと持ち上げた。「そんなもんになった覚えはないぞ」
「そりゃそうやろ、わしらが勝手に決めただけやからな。場の流れと無言の多数決で決まる。リーダーとは得てしてそういうもんや」
「どういうもんだよ。意味がわからん……」
「なぁ。そう思うやろ、栞ちゃん」
と、ここで突然シマドリに会話を振られた栞は、困ったようにカイとシマドリを交互に見て、けれども小さく頷いた。
「ほれみろ。諦めてとっととダサダサで最悪な作戦考えんかい、アホウ」
「この野郎……」
そんな二人を傍から見て、喧嘩するほど仲が良いという常套句を、皐月は思い出していた。
シマドリと漫才のような口論を繰り返すカイの横顔が、少し嬉しそうなのは、決して気のせいではないだろう。
「………」
そして、そのカイの横顔を見て、自分の心内でほのかに芽生えている感情は、きっと気のせいなのだろうと、皐月はそう思う事にした。
そんな遣り取りをしている内に、
何の契機もなく、不意に、唐突に、まるでそれが自然の流れであるかのように、それは再び始まった。
戦いである。
戦いは戦いだが――――違う。
本来始まるべきバトルの二回戦目ではなかった。
本来始まるはずもないクエストだった。
特別なクエストだった。
カイが渇望し、皐月が忌避していた、命に関わる、本物だった。
スペシャルクエスト:ヘルズスノウフィールド 時刻:1322
敵の戦力:不明 敵戦闘車両の有無:有 利用可能車両:有 エリア位置:不明 エリアの規模:不明 制限時間:無制限
任務内容:UGV−XT『フェンリル』を破壊せよ。
カイは一瞬驚き、すぐに笑った。
常に半月状にしている双眸を狼のように丸く見開いて、犬歯を剥き出し、声を出さずに喉の奥から邪悪に笑った。
この戦いがどんな結果に終わるかを知らずに、今は笑った。
久しぶりの投稿です。
楽しみにしてくれていた読者様(居るかどうかわかりませんけれどもw)には長らくお待たせしてしまい、申し訳ないです。
もはや自分の口癖になりつつある台詞ですが、『死なない限り必ず完結させます』ので、あわよくば最後まで見捨てずにお付き合いください。