フォネティックメンバーズ 4-3
窓ガラスの消失した窓の先には曇天が広がり、電球によって照らされているはずの室内もどこか薄暗く淀んだ大気が充満している。
そんなキルハウスの四階廊下。
M4A1カービンを構え、足音を殺しながら歩くカイ。背後にハンヴィが続いている。
カイは最初の部屋の前で足を止め、そのドアの脇の壁に張り付いた。ドアの取っ手に手を掛けるハンヴィと目を合わせ、無言で頷き合い、踏み込んだ。
常に壁を背にするように移動しながら、銃口と視線を振り、敵影を捜す。
「………」
薄汚れた室内には、木製の机と木箱が幾つかあるだけで、閑散としていた。
「クリア」呟いて、そして次の部屋に向かおうという時に、
「ところでエクスレイ先輩」ハンヴィが小声で言う。「なんで僕を選んだんですか? いや、別にいいんですけど、何か理由があるんですかぁ?」
カイはハンヴィの方を見もせずに、意識は前方に集中しながら応じる。
「別に理由なんかねえけど、強いて言うなら、お前がサブマシンガン持ってるからだ」
ハンヴィは円筒形のドットサイトが装着されたロングマガジンモデルのH&K MP7サブマシンガンを装備していた。PDWと称される種類の、携帯性能に優れた短機関銃である。
「俺達の中じゃあ、一番この戦場に相応しい武器だ。取り回しに優れて機動力があるだろ。だからお前を選んだ」
「……なぁんだ。エクスレイ先輩らしい理由ですね。秘密の内緒話があるとか、そんなロマンチックな理由があるんだと思ってましたよう」
「………」
どこか拗ねたように言うハンヴィに、カイは沈黙する。
そして二つ目の部屋の索敵を終えてから、改めるようにハンヴィに問う。
「別に内緒話ってわけじゃないが、お前……スペシャルクエストって聞いた事あるか?」
「なんです? それ」
「クエスト中に死んだら、リアルでも死なされる、そんなクエストだ」
「はいぃ?」ハンヴィは一瞬目を丸くしてから、口を手で塞いで笑いを堪えるようにした。「な、何言ってるんですかぁ? そんなのあるわけないじゃないですかあぁ」
「そうか……。そうだな、そんなの、あるわけない……」
カイはどこか自虐的に呟いた。
そして、三つ目、四つ目の部屋と、索敵作業は順調に進み、四階の中ほどの部屋にまで来てしまった。なんの問題もなく来れてしまったが、それは決して歓迎すべき展開ではない。
カイとハンヴィは顔を見合わせる。
「なぁ、あんまり覚えていないんだが、確かキロとリマはいつも二人で動いていたよな?」
「ええ、ええ、そのはずですぅ。あいつらは二人で一人前ですからねえ」
「だったら、なんで誰も居ないんだ? 四階にキロが居たなら、その近くにリマも居るはずだろう?」
「……ですよねえ?」
ハンヴィが首を傾げた。その瞬間、
下の階から、爆音、というよりも破裂音に近い奇妙な音が響き、間髪居れずに連続した銃声が聞こえてきた。
数々の戦闘で培った経験から、考えるまでもなくカイはすぐにその音の具体的な正体が分析できた。最初の奇妙な爆音はフラッシュバン。光と音により相手の戦闘能力を奪う、非殺傷手榴弾だ。その後に続いた銃声はライフルか軽機関銃による短連射、そしてそれに応じるように巨大な対物ライフルの砲声が数発。
つまり、三階に残したシマドリ達が奇襲を受けたのだ。
カイは、このマップに転送された直後に設定しておいたチームスピークを起動し、シマドリに状況を確認しようとするが、それよりも先にシマドリからの怒声が聞こえてきた。
『おいッボケナスども! どうなっとるんや!? また挟み撃ちや! 三階南側からと、上からも敵が来よったぞ!? 索敵したんと違うんかい!』
「上からもだと? マジかいっ。くっそ、どっかに隠れてやがったか……」
カイは駆け出しながら、舌を打つ。
策士の異名を持つウィスキーならば、このマップの絶好の隠れるポイントぐらい把握していても不思議じゃない。更に、リマは小さな子供タイプのキャラクターなので隠れられたら発見するのは困難である。おそらく、索敵してきたはずのどこかの部屋に潜んでいたのだろう。そこでカイとハンヴィをやり過ごし、三階南側の他の仲間とタイミングを合わせて、再び挟撃を発動させたのだろう。
「おい、俺達はこのまま南側に進んで連中をケツから叩く。それまで持ち堪えろ」
『持ち堪えろ言うてもな……。今の撃ち合いでわしはもう致命傷やっちゅうねん、バカたれめ。なんとか援護射撃して嬢ちゃん達を近くの部屋に逃がしたけど、もう動けへん――――って』
そこで一瞬、シマドリの声は途切れ、すぐに再開した。
『おう、リマ。久しぶりやのう。え? キロの仇? あっそう。じゃ、そういうわけやから、ほなお先にー』
そして銃声。
カイはスコアボードを開いて、シマドリの死亡を確認した。
後ろに続くハンヴィもそれを確認したのだろう、あーあ、と嘆息する。
「正直、負けちゃうかも知れませんねえ……」
カイも小さく嘆息してから、ゆるゆると首を振る。
「かも、じゃねえよ。これは間違いなく負け戦だ。賭けてもいいぜ」
勝つ気がないのに勝負を始めるのは、最高の敗北フラグだからな、と。
皐月は緊張していた。
今しがた受けた突然の攻撃、クラッカーを耳元で百発同時に鳴らされたような爆音と、カメラのフラッシュを千回同時に焚かれたような激光を浴びて、真っ白な視界と思考の中、シマドリに指示され、そして栞に引っ張られ、飛び込むように入った部屋。
十五畳ほどの室内、その隅に隠れるように伏せながら、カイから借りたショットガンの銃口を入り口の方に向けて構えている。
「……静かになった」ようやく正常に回復した視力と聴力を気遣いながら、皐月は呟いた。
部屋の外の銃声が止んだのだ。といっても、それは短い喧騒であった。数秒間の連続した銃声の後、数発の大きな砲声が轟いただけだ。それが止まったという事は、どういうわけか。そこから導き出される結論を理解できないほど、皐月は馬鹿ではなかった。
シマドリが撃破されたのだ。つまり、殺された。
「……だいじょうぶ」
殺された、なんて言っても、実際に死んだわけではない。ゲーム内のシマドリというキャラクターが戦闘不能になり、レッドチームとブルーチームのスコアがイーブンになっただけで、リアルのシマドリのプレイヤーは無事だろう。これはスペシャルクエストではないのだから。
だから大丈夫。
そして、皐月は入り口のドアの上に目を遣る。
そこには、栞が奇妙な体制で踏ん張っていた。
ドアの上にある僅かな縁に爪先を掛け、両の手に握ったクナイを天井に突き刺し、自重を支えている。知らずにドアから入ってきた敵に上から斬りかかろうと、待ち伏せしているのである。
常軌であれば、爆笑せずにはいられないような栞の体制だったが、しかし、さすがに皐月は笑わなかった。というより、笑えなかった。
皐月は自他共に認める初心者である。
つい一昨日、このゲームでの初めての戦闘(スペシャククエストという異常な戦闘ではあるが)を経験したばかりの彼女だ。これは二回目の戦闘であった。いや、正しい手順を踏んだ正規の戦闘は、正真正銘、これが初めてである。
それで緊張しないわけがない。
スペシャククエストの時のような“死の恐怖”はないにせよ、それでもやはり怖いものだな、と彼女は思う。
思うに、このゲームはリアル過ぎるのだ。風景も、さっきの死体も、爆発も、この銃も、そして自分も、まるで現実と変わらない。
実写のような美しいグラフィックのゲームは彼女が小学生の頃からすでにあったが、それでもテレビ画面に映し出されたものだった。しかし、HMDなる装置を被って、VRGというコントローラーを使って、正に自分が別の世界にワープするような、この仮想現実ゲームは、恐ろしいほどにリアリティに富んでいる。
故に、このゲームにハマる人の気持ちも十分に理解できる。彼女も始める切欠が“あんな事件”じゃなかったら、きっと純粋に楽しめていた事だろう。
「……父さん」皐月は呟いた。
悔まれる。
男手一つで私をここまで育ててくれた父さんに、私は何もしてあげられなかった。
いや、むしろ酷い事をした。
特に理由もないのに、それなのに、無視をしたり、悪口を言ったり、罵声を浴びせたり……。
あの日も、仕事から帰ってきた父さんと顔を合わせないように、わざと早目にバイトに出掛けた。
そしてそのまま、もう二度と会う事もなく、父さんは――――死んでしまった。
警察から自殺だと聞かされた時、私の所為かもしれない、と、そう思った。
レイトタウンの臨海公園でカイと初めて会った時、父に何か酷い事を言わなかったかと、父を自殺に追い遣ったのはあなたじゃないのかと、心にもないのにそんな事を口走ってしまったのは、きっと誰かの所為にして責任から逃れたかったからだ。
だから、本当に、悔まれる。
そんな、何度繰り返したかわからない懺悔に似た後悔に、皐月は下唇を噛み締め、俯いた。
その、ドアから目を離した瞬間、まるでその隙を狙っていたかのようなタイミングで、ドアが開いた。
「――――!」
いや、わざわざ皐月の隙を狙う必要なんてなかったであろう。不動の姿勢で微塵も油断せずに、微かな動きがあればドアごと敵を撃ち抜くと、それほどの技量と覚悟が皐月にあったとしても、おそらく彼女は反応できなかったはずだ。
皐月と違い、栞は一瞬も油断しなかった。獲物を待つ蜘蛛のように天井に張り付き、死を連想させるほどの停止で意識をドアへと集中させていた。それなのに、皐月同様、栞も反応できなかった。否、ドアが開いた事には反応したが、そこから入ってきた敵に気付けなかった。
「おや」
と。
「おやおやおやおや、二人ですか。いいですねえ。もえますよ。あっ、今のもえは燃える炎のもえですからね。勘違いされるとわたくし的には、ちょっと恥ずかちいです」
狐の顔の絵が描かれた鉄仮面を被った、白一色の男が、ちょうど皐月と栞の中間、部屋の中央でそんな事を言った。
「な、に?」天井に張り付いたままで、栞は驚嘆する。
まるで初めからそこに居たという風に、さながら幽鬼のように、佇んでいる奇怪な男。それが敵なのかどうかさえ一瞬判別できないほどに、唐突で突飛で、不審な登場だった。
「どうしたんですか? お二人さん。鳩が豆鉄砲喰らって、更に大好きなあの人のデートシーンを目撃しちゃったわキャー…みたいな顔して」
狐面の男は早口で意味不明な事を口走ったかと思うと、両大腿部に巻き付いていた大型の特製レッグホルスターから、二丁の奇妙な形をしたサブマシンガン、FN P90を片手に一丁ずつ、抜き取った。
「そんなにぼーっとしてると、あっと言う間に蜂の巣ですよ?」
「――――」
その言葉を皮切りに、栞は一転。この男がどこから沸いて来たのか等は些事だと言わんばかりに、呆けていた思考を強制的に掻き消して、見敵必殺。天井から飛び降り、落下の最中、空中で苦無を投擲した。
一動で三本放たれたその刃は、しかし空を切り、向かいの壁に軽快な音を立てて突き刺さる。
「あらら、危ないですねえ。当ったら相当痛いですよ。しかし、クナイとは、これまた随分古風な武器ですねぇ。見た目も忍者風ですし、そういうキャラは、わたくし実はもえますよ。あ、このもえは、若草が萌えるのもえですからね。参考までに……」
狐面の男は、面の下では一体どんな顔をしているのか、想像し難いほどに気持ちの悪い口調で言った。栞の投擲したクナイの射線から、一メートルほど離れた位置で。
「……!?」
栞は再び我が眼を疑う。
おそらく躱されたのだろう。それ自体は別段不思議な事ではない。今の攻撃、手練ならば容易に躱せるだろう。しかし問題はその回避方法。栞の目には、狐面の男が一瞬“消えた”ように見えた。そして少し離れた位置に再び“現れた”ように、そう見えた。
高速移動――――そんな類のものではない。
そもそも回避行動とも言えない。
一瞬の、半秒ほどの刹那ではあるが、狐面の男は完全に消えたのだ。
そんな目の前で起きた現象、いや超常に、栞は接近戦は危険だと判断。バックステップで一気に部屋の隅に後退した。
しかし、次の瞬間、更に眼を疑う事になる。
「――――ッ!?」
狐面の男の体が再度消失し、そして数メートル離れた位置に、現れた。そして消失、そして出現。消失、出現、消失、出現……。
まるでコマ送りされるパラパラ漫画のように、さながら点滅するUFOのように、消失と出現を繰り返すその男は、現れる度に立ち位置を変え、栞に近付いてくる。現れる度に両手のP90の銃口が、栞を捉えようと、徐々に持ち上がる。有り得ない。
「なんと……面妖な」
怪訝そうな表情で驚嘆を漏らす栞だったが、瞬時に覚悟を決めたように顎を引き、背後に手を回し、すらぁと、背の鞘から抜刀、そして腰を落とした。
「おや? なんです、もしかしてもう諦めちゃったんですか? 追い駆けっこには自信があったんですけどねえ」
言って、狐面の男は出現したまま、消失せずに停止。P90の銃口は完全に栞を捉えていた。
凄まじい速度のサイクルで駆動するP90二丁分の甲高い銃声が響く――――その零コンマ二秒前、
栞は視る。
狐面の男から向けられた銃口、そこから真っ直ぐに伸びて来る半透明のホースのような弾道の映像を。
銃口の少し奥の引き金に掛けられた指が、歯車で動く機械仕掛けのアームがまるでスイッチを押そうとしているように、きりきりと絞られる幻影を。
栞は動く。
右へ、左へ、上へ、下への、最小限の細かい動き。それでいて縦横無尽に、次から次へと伸びて来る弾道から、滑るように全力で体を逸らす。
要は目。警戒は初弾。重要はリズム。
臆する事なく確実に相手の銃口と引き金を見据えて、しっかりと照準された初弾の弾道からさえ逃れてしまえば、あとは射撃の際に生じる反動の一定のリズムを見切り、常に射線から外れるように身体を動かせばいい。相手の銃器の連射速度が幾ら速かろうが、関係ない。いや、一定の向きからの銃撃である分には、むしろ好都合。銃とは連射の速度に比例して、激しい反動が生じ、照準がブレ易いものなのだ。しかもそれが二丁拳銃となれば、尚更だ。
そんな数撃ちゃ当るの概念でばら撒かれた銃弾など、弾道を線で捉え、弾丸を点で見る至極単純な概念を、概念としてだけではなく技術として体得している栞に、命中するわけがない。
「ややや!」
狐面の男は面を食らったように、引き金から指を放した。
「まさか、えー! うそでしょう? あなた、弾丸躱しちゃってませんか!?」
「………」警戒心を剥き出しにしたまま、何も答えない栞。
それを無言の肯定と受け取ったのか、狐面の男は「あ! あああっ!」と何かを思い出しように叫ぶ。
「あなたもしかして、あの有名は刀剣使い、紫の影の栞さんですか!?」
栞は変わらず口を噤んだままだったが、しかし様子を窺うように小さく頷いた。
「なんとっ! なんとなんとなんと! いやはや、こんな所でシャドウステップと相対する事ができるなんて、人の出会いとはわからないものですなあ」
さながら舞台俳優のように、大仰に両手を広げる狐面の男。
「相手の名を知ったからには、こちらの名も明かすのが礼儀。わたくしフォネティックメンバーのFのナンバーを務めております、フォックストロットと申します」
以後お見知りおきを、と。
不意に、狐面の男、フォックストロットは、広げたままにしていた両手のその右手、そこに握られたP90の引き金を、小さく絞った。
その銃火の先には、目の前で起きている戦闘行為を、戦闘行為だとすら理解できていない皐月が、目を点にして呆けていた。
「あ」
フォックストロットに、銃口という殺意を向けられて、ようやく呟きのような驚嘆を漏らした皐月だが、絶望的に遅過ぎる。皐月は自分の胸に三発の5.7ミリ弾が飛び込んだのを知る前に、絶命した。
急速の霞んでいく視界が、天井を仰ぎ、暗転する。
この仮想現実の世界で、皐月が初めて経験した死の瞬間だった。
唐突で、残酷で、一瞬の、戦場での死だ。
「せっかくシャドウステップの栞さんとバトれるんですから、邪魔者は不要です」
まるで、本当に部屋の隅に転がっていた邪魔な物を退かしただけという風に、なんの感慨もなくそんな事を言うフォックストロット。
「………」
栞は軽く目を細めたが、しかしそれだけだった。腰を落として、刃の峰越しに相手を見据えたまま、微動だにしない。
そんな栞の反応を冷酷だとか、薄情だとか、そして先のフォックストロットの言動を残酷だとか、狂気だとか、そんな風に感じるのはナンセンスだ。これはスペシャルクエストではなく、正規の手順を踏んだ常軌のバトルなのだ。ここでの死は、仮想現実の死でしかなく、現実の死では断じてない。いや、そもそも呼吸のように慣れ親しんだ究極の理不尽である戦場での死に、いちいち狼狽えるプレイヤーは初心者以外在り得ない。要するに慣れの問題である。
「さてさて、もうお気づきかと思いますが、わたくしの動き、かなり変でしょう?」
フォックストロットは銃口で自分の頭部、狐面を指すようにする。
「栞さんが弾を躱せるのと同じで、実はわたくしにも飛びっきりの“秘術”があるのです。その秘術から、二つ名なんて立派なものではありませんが、わたくし幾つか仇名があるのですよ」
白昼夢。
魔殺狐。
そして、半チートプレイヤー、とかね。
と、言い終えて、フォックストロットは動く。
出現と消失を繰り返す、不審過ぎる挙動で、栞の周りを弧を描くように軽快に駆ける。点々と現れる白い影は、まさに亡霊。狐の面がその禍々しさを強調している。
そして四度目の出現の瞬間、P90の銃口が跳ねるように持ち上がり、引き金が引かれた。ストロークの短い、短連射だ。
栞はこの銃撃を、大きく左に身をずらす事で回避。P90特有のグリップの下部にある排莢口から、5.7ミリ弾の空薬莢が軽い音を立てて床で跳ねる時には、すでにその持ち主であるフォックストロットの姿は視えず、
「っふ」
一瞬の間を置いて、その一瞬でタイミングを合わせて、栞の体は弾けた。
その場から、助走なしで走り幅跳びをするように、体を弓のように大きく撓らせて、その両腕に刀を振り被り、フォックストロットが予想した通りの場所に出現した瞬間、天から斬りかかる。
渾身の一振り、天から地への一刀両断である。
しかし、フォックストロットは、もうそこには居ない。
現れたはずのフォックストロットは、栞の刃が触れる瞬間に消失し、そして数メートル先の地面で、前転を終えたような、斬撃を前転で躱し終えたような体勢で出現した。
「やはり」
栞は呟く。
やはりこの男は攻撃を躱している。幽霊のように消えて無くなっているわけではない。己の脚で普通に移動しているその最中に、体を不可視状態にしているのだ。しかし、一体どのような理屈で不可視状態にしているのだろう――――?
と思考しながらも、栞は攻撃の手を緩めない。フォックストロットが体勢を立て直す前に、身体を低くし大きく一歩を踏み出した下段斬りで追い打ちを掛ける。
「うわっとと」そんな焦ったような声は聞こえるが、しかし声だけだ。フォックストロットの体はまたもや視界から消えていた。
「危ない危ない、危ないですよー。まったく栞さんもせっかちですねえ。狭い日本、そんなに急いで何処に行くって言葉、知らないんですか?」
そして例の如く、数メートル離れた位置に出現するフォックストロット。
「………」
栞は何も言わない。顔も日本人形のような無表情のままだ。しかし、見る者が見れば、例えば仮に皐月がこの場でまだ生存していたのなら、きっと彼女は感じ取ったであろう。栞の感情の変化を。
それはつまり、苛立ちだ。