キル・ゼム・オール 3-2
カラフルな電灯に照らされ、しかし娯楽施設特有の薄暗い雰囲気で保たれたゲームセンターのフロア。道路側の外壁は全面がガラス張りになっており、中々に未来を想像させるデザインである。
入り口から見て左方の奥がエスカレーターになっており、地下一階から地上三階まで様々なゲーム機で満たされた娯楽の化身。
このマップの設定は平日なのか、客(NPC)の姿は疎らで、誰しもが目当ての筐体の画面を凝視している。
そんな中、
その雰囲気をぶち壊すような、尋常ならざる轟音がクレーンゲームの筐体から響く。
栞だ。
栞が鞘に収めたままの刀を棍棒のように振り回して、クレーンゲームのガラス面を殴打している。しかし、うまくいかないようだ。本来そのような暴力を防ぐために設計された強化ガラスはひび割れるだけで、うまい具合に散らばらない。
栞はクレーンゲームに見切りを付け、今度はビデオゲームの筐体のディスプレイを叩き割る。そして、砕けたガラス片を手に取り、床にばら撒いた。
硝子のカーペットだ。姿が視えない敵、その存在を察知できるように、床に硝子のカーペットを作っているのだ。
一頻りその作業を繰り返して、電子音で喧しかった店内は静まり返り、入り口から中ほどまでガラスの破片を敷き詰め、ようやく栞は皐月に目をやった。
皐月は奥のカウンターに背を預け、両膝を抱えて震えていた。
当然だ。恐怖しているのだ。
皐月は世にいうフリーターだ。夢のためか、自由を欲するためか、単に惰性か、成人しても定職に就かずその日暮しを繰り返す、まさに今時の若者である。
今日の午前中も、彼女はバイトだった。近所のファミリーレストラン、そこのウェイトレスである。元来活発で明るい性格の彼女は同僚や常連からの人気が高く、看板娘と自他共に認めている。客に愛想笑いを振りまき、商品を運び、同僚とくだらない事で笑いあい、家に帰ってからは借りてきたDVDを観賞して時間を潰した。本当に他愛も無い、極々普通の彼女の日常である。
それがどうだ。時間を見計らって亡き父の親友が待つ、このFalse Huntにログインし、数時間。
「……有り得ない、有り得ない有り得ない有り得ない、ありえないからっ!」
今は戦場に居た。
死、常にその単語が付き纏う、正真正銘の戦場に。
覚悟できるわけもない。完膚無きまでの不意打ちだった。いや、不意打ちでなかったとしても、それが何だというのだろう。不変的な日常を過ごし、どこかで命有る事が当然だと思っている人間が、こんな異常に放り込まれて正気を保てるわけがない。
リアルの自分がゲームの中に入り込んでしまったような感覚。錯覚だと、催眠だと自覚するも頭に伸ばす手は空を切り、HMDの存在を否定している。
「嘘よ、うそうそうそうそうそウソッ。こんなの嘘に決まってるっ!」
回想するは普通だったはずの自分の日常。
網膜に焼き付くは首から血飛沫を噴出し、絶命するバハムート。
思い返すは死地に残したカイ。
そして、同じ状況で死したのかもしれない実の父親。
「父さん…。父さん、父さん………カイ、カイ……」
この現実な非現実から、あるいは非現実な現実から、逃避するように膝に顔を埋め、静かな嗚咽を漏らす皐月。
沈黙を守っていた栞は見かねて、自動販売機の錠前を刀で破壊、並んだ飲料からお茶を選んで皐月に手渡す。
「……飲むといい。仮想現実故に味こそは無いが、多少は落ち着く」
呆然とそれを受け取った皐月だが、お茶のペットボトルがもたらすリアル過ぎる日常的な手触りに、得体の知れない恐怖を覚え、慄くように投げ棄てた。
「―――ふ、ふざけないでよっ! わかってるの!? し、死んじゃうかもしれないんだよ!? 本当なんだよ!? 私の父さんも、ここで……。バハムートさんも…、もしかしたらカイだって、今頃……」
真っ青な顔で訴える皐月。それを栞は真っ直ぐな瞳で聞き入れ、しばらくして、
「……確かに、にわかには信じがたいのは事実だ。だが、拙が信じるかどうか以前に、そのような可能性を考慮するのならばこそ、泣いている場合ではない。違うか?」
「……そんなの、わかってる。…でも……」
「それに凶戦士なら大丈夫だ。一度死合った仲でしかないが、それでもわかる。奴はあのぐらいで死ぬ魂ではない。事実、戦況画面で確認する限り、今だ健在のようだ」
「――――!」
その言葉に、皐月は顔を起こし、スコアボードを表示した。催眠によって自身の存在意識がゲーム内に閉じ込められてはいるが、現実の自分は普段通りにPCの前に座り、HMDを被ってVRGを嵌めて操作しているのであろう。画面は簡単に表示され、そこには『カイ、die、0』と黒い凶戦士の生存を証明していた。
「ああ、カイ、よかった、よかったぁ……」
「そしてその凶戦士が言った。ここに居ろと、貴方を頼むと、拙はそれに従う」
「………でも、でもっ、怖く、ないの? カイも、栞さんも、怖くないの…?」
その震える声に、
「怖い。怖いに決まってる。それは、おそらく凶戦士も」
栞は即答した。
「怖いからこそ、戦うのだ。怖いからこそ、戦えるのだ」
「――――」
その自身に言い聞かせるような、それでいて凛とした声に、皐月は言葉を失ってしまった。
そうだ、怖くないわけがないじゃないか。日常がある人間なのに、強いと言ってもそれは仮想現実の中だけだというのに、怖くないわけがない。それなのに、私だけ、こんなに怯えて……。
皐月は理解し、自身の醜態を恥じ、恐怖に堪える努力を始めた。しかし、それでも震えは止まらず、歯はみっともなくカチカチと音を鳴らす。
「……やっぱり、怖いよ。私はそんなに強くなれない。……栞さんも、カイも、凄い。凄く強い……」
しかし、その言葉に栞はゆるゆると首を振り、
「強い、か。……違う。コレは強さとは違う。そしておそらく、それも凶戦士と同じ……」
どこか自虐を孕んだ口調で呟いた。淡々と冷静に沈着に。皐月と同じような日常が有るはずなのに、こんな状況は彼女も生まれて初めてであるはずなのに、まるで百戦錬磨の老兵が語るように。
そう、皐月の恐慌はなんら異常ではない。人間らしい、至極当然の反応だ。この状況で落ち着いている方が異常なのだ。栞やカイのような人種の方こそが異常なのだ。
なぜカイ達がここまで落ち着いていられるのか。その答えは今の皐月では到底理解の届かぬところに存在している。それは初心者という正常な人間には理解できない、否、理解してはいけない域に在る、最上級プレイヤーという異常な人種ならではの本能的な思考回路。
そして、その最上級プレイヤーの中でも最たる存在である黒い凶戦士、カイは、
「――んあぁ! くそがッ!」
悪態を吐きながら、駆けていた。否、それは駆けているというよりも転げ回っていると言った方が適切であろう。
跳び、膝を折り、腕をかざし、頭部を下げ、傍から見たら滑稽を通り越し、もはや異様な挙動である。
しかし、それには当然、理由がある。
――――ヒュ、ヒュン、ヒュン
音だ。風を切るような音の群れ。鋭利な何かが空を斬る、嵐のような連続音。
その音が上がる度に、カイは視えない何かを躱すような動きをする。いや、躱すようなではなく、それは間違いなく、視えない敵の攻撃を躱しているのだ。
カイの予想通り、この視えない敵は皐月達を追わずに、カイに喰い付いてきた。姿が視えない故に全ての敵が食い付いてくれたのかは確証を持てないが、大半の敵は自分を追って来たであろう確信があった。それだけの数の気配に猛攻を受けている。
「ッつあッ! っくぅ!」
躱せる時は躱し、それが難しいようなら腕などを盾にして致命傷を防ぐ。視えない斬撃を音と気配だけを頼りに辛うじて凌いでいる。それが可能なのは僥倖などではなく、もっともな理由がある。この攻撃、視えないものの迅くはない。カイが思い返すのは先の栞との戦い。彼女との戦いで見切りを体得したわけではないが、彼女の刃と比べたらこの攻撃は格段に遅い。もし仮にこの敵が視えるのであれば、四肢で防ぐなんて愚を犯さず、全て躱せているだろう。
しかし、それでも、
「い! ――っつぅ」
ガキュ、と視えない白刃がカイのバラクラバを断裁し、頭皮を裂き、頭骨を削る。
この敵は視えず、そして多い。
駆けながら、追走しているであろう敵の、取り囲まれているであろうあらゆる角度からの攻撃を全て凌ぐには限界がある。
事実、もうすでに通算四度は致命傷まで数センチという、紙一重というのもおこがましいほどの裂傷を受けてしまっている。カイの身体、黒い戦闘服は所々が擦り切れ、黒光りするような水分がその地肌の出血を物語っている。
致命傷以外は立ち所に癒えてしまうこのゲーム。しかし、その回復を許さないような斬撃の嵐が今もカイの身体を裂き続ける。この一秒毎に命を削る逃避行は長くは続かない。
時間の問題だ。
カイの集中力が切れた。その瞬間、胸部を貫かれ、眼球を抉られ、頚動脈を裂かれるだろう。
――――なんて無力。弾さえあれば、弾丸さえ有ればこんな連中皆殺しにできるのに。
大腿部のホルスターに収まったソーコムピストルを呪いながら、カイは思う。弾丸の込められていない銃なんて、もはや火器ではなく無駄に重い玩具でしかない。
ふくらはぎのレッグホルスターにはサバイバルナイフが収納されてはいるものの、カイの得物はあくまで銃器に限られる。そんな飾りを携えて、視えない敵の群れを相手に殺陣を決められると思うほど、カイは馬鹿でも自信家でもない。
――――だったら、だったらより堅実な打開策が在る方へと、今は走り続けるしかない。
皐月達と別れてから、来た道を戻り大通りを左に折れたカイ。歩道を歩く疎らな通行人(NPC)を縫うように、時には押し退けて、直進を続ける。そう、直進し続けているのだ。何処か明確な目的地があるように、何か確実な目標物を持つように、カイは嵐のような斬撃の中を疾走し続ける。
この状況で、何か打開策を見出して、それを実行に移すカイや栞を、皐月は“強い”と表現した。
それを栞は否定した。“コレ”は強さとは違う、と。おそらく凶戦士も同じだろう、と。そう自虐的に呟いた。
そして、その推測は、その通りだった。
「くっ、くそがッ! くそ、くそっ……――――く。くっくっく、あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」
唐突に、何かが切れたように、カイは笑う。
堪えてきた感情が爆発したように、爆笑する。
覆面から覗く口を半月型に吊り上げて、出血に染まる眼球を三日月型に吊り下げて、人生で一度あるかないかという程の満面の笑みで、哄笑っている。
「やべえ! やべえやべえやべえやべえ! すっげえ――――楽しい!」
脳はエンジンのように脳内麻薬を爆産し、稲妻のように毛細血管を疾駆する。頭のてっぺんから爪先まで、全身の血が滾るような高揚感。肌という肌の毛穴という毛穴が逆立って、性感帯に変貌わってしまったような悍ましい快感。
不謹慎だとはわかっている。
――――これは虎サンを殺したゲームだ。バハムートも命を落としたかもしれず、皐月と栞も危険に晒されている。
認めたくない気持ちもある。
――――バハムートは言った。最上級と呼ばれるプレイヤーは、ゲームに究極のリアリティを求めるようになる、と。それは即ち、命を賭せるような危険を望む、社会不適合者ということ。
しかし、それでも、収まらない。
目まぐるしく回転し過ぎて、逆に真っ白になる思考。脳から発せられた命令の伝達速度は限りなく零に成り、反射のような迅さで複雑多岐な動きを繰る身体。神経が研ぎ澄まされ、世界の全てが遅くなるような錯覚。自分だけが加速するような感覚。
秒間三度にも及ぶ視えない斬撃を、胸から外し肩を刺突させ、首から逸らせ顎骨を削らせ、眼球を守り手のひらを穿たせ、ついでに視えない敵にボディーブローをお見舞いしながら、
「ハッハー、どうだ? 効いたか!? あっは、あははははははは! 最高じゃねエかくそったれ!」
カイは咆哮するかのように、高らかに哄笑う。
日常を嫌い、危険を望むと自負するアウトローなど世間に五万と居る。しかし、そういう連中の大半は実際に死に直面した場合、怯え散らし泣き喚き、死にたくないと懇願する。それはそういう連中が本当の意味で日常を嫌い、危険を望んでいないからだ。ただそんな事を言う自分に酔っているだけなのだ。
カイは違う。日常を好きになれない自分を嫌い、危険を望む自分を憎んでいる。自身の存在そのものを、自分の全てを、殺したいほど毛嫌いしている。自身の存在否定をしている自分を、嫌っているのだ。
過去にカイは望み、そして言った。“このつまらない現実の何かが変わる”、と。しかし実のところ、もっと強く望むモノがある。
それは自己愛。世界を『悪くない』と讃えられる寛容なココロ、自分を『嫌いじゃない』と誉められる鈍感なココロ。それを何よりも欲している。
しかし、それは自分には絶対に手に入らないモノなのだとカイは思う。世界など見方一つで激変する事は知っているが、自分にはそれが出来ない。それは目視すら叶わない遥か高みに超然とある気がして、手を伸ばす気も、脚を踏み出す気にもなれない。
故に、自分ではなく、世界の方の変化を望んだ。生きることが容易く、そして誰しもが自分のためだけに他人に嫌われない事のみを考え、惰性のように生きている現実、それを最悪だと罵りつつも、どこかで尻尾を振っているもっと最悪な自分。そんなつまらない全てだからこそ、カイは変えたいと望んでいた。ややこしく絡まった世界の全てを、『どうでもいい』と吹き飛ばすような異常事態を切望していた。
「ハハハッ! やべえ、やべえなちくしょう、マジで楽しい! 最っ高じゃねえか!!」
つまり今この瞬間、カイの目的は叶っている。
危険を孕んだ戦場で、死と隣り合わせな状況で、今はつまらない現実の事なんて微塵も考える必要はなく、『生き残る』という人間として最もわかり易い最優先目標のみを考えればいい。
不意に、カイはここでレッグホルスターからナイフを抜き、駆けながら思い切り腕を伸ばすように前方へと突き立てた。ズン、と柔らかい肉体に刃が突き通る手応え。視えない敵のどこか、おそらく胸部を確実に貫いた。倒れたであろう物音に、敵から障害物に成り下がった視えない何かを跨ぎ。疾走を続ける。
背後と両脇で固まっていた気配の一体が、前方に回り込もうとする動作を察知し、先手を打ったのだ。
「ハッ、あめえんだよクソども! バラけてくれるなら俺でも殺せる!」
戦闘能力で言うのならば、カイは確かに強いだろう。しかし、人として言うのならばコレは断じて強さではない。そんな体裁の良いモノではない。
異常事態に恋焦がれ、死の恐怖を愛でる。戦争中毒者のような救いようの無い本能的な思考回路。恐怖に立ち向かうために戦っているのではなく、恐怖を糧にし戦っている。そう、栞の言葉通り、怖いからこそ、戦える。
しかし、それもこの仮初の世界ならではの思考なのかもしれない。
彼が現実で同じような状況に瀕した場合、今と同じような高揚感に満たされるかどうかは、わからない。それこそみっともなく泣き散らし、死にたくないと喚くかもしれない。
この世界は圧倒的に現実と酷似しているものの、決定的に現実と異なる。傷ついても痛まず、常軌ならば死亡しても生き返る。そんな仮想現実だからこそ、発揮される本性なのかもしれない。
死に慣れたはずのこの偽物の世界で、今は本物の死の恐怖を感じているという矛盾。そんな曖昧な感覚だからこそ、恐怖がほどよく中和され、カイは今ここで哂っていられるのかもしれない。
バハムートの推測が正しいのであれば、
――――まさにそんなカイにとっての理想郷を、AIエルヴォは創り出してくれた事になる。
「――――あった」
カイはガードレールを飛び越え、歩道から車道に躍り出たところで、唐突に呟いた。
二十メートルほど離れた位置。歩行者天国と化し車輛が一台も見当たらない巨大な交差点。その中央、四方を縞々の横断歩道に囲まれて、直径二メートルほどの巨大な箱がこれ見よがしに鎮座している。
「あった、あったあったあったあった! マジで在りやがったぜ!」
見慣れたその深緑の箱と、そこに黒い塗料で記された何よりも欲していた単語を見て。カイはまっしぐらに加速する。
False Huntは現実と同じくキャラクターが疲労する仕様になっている。体力ゲージというゲームではお馴染みのリアルでは有り得ない画面表示こそないが、その目盛りの最後の一マスを振り絞るようにカイは駆ける。
False Huntは致命傷以外の傷は回復するが、軽症でも絶え間なく度重なれば命を落とすように出来ている。赤く霞む画面効果が、脈打つ心音の効果音が、カイというキャラクターの、そしてもしかしたらカイのプレイヤーの、命の危険を知らせている。
それでもカイは止まらない。儚い命の灯火を自ら烈風の前に差し出すほどの価値が、その箱には詰まっている。
そして、箱の三メートルと迫った時、
「――――ッ!? チイィィ! 取らせねえってか!」
脚に何かがしがみ付いた。言うまでもなく、視えない敵だ。今までも十分に接近こそしていたものの、ここまで露骨に接触してきたのは初めてだ。それでは位置を露見してしまう。姿が視えないというメリットを活かせない。それほどに、敵も見境がなくなっているということ。黒い凶戦士をその箱に近づけさせまいと必死になっているということ。
カイはすかさず、右手のナイフを反転させ逆手に握り直し、脚に纏わり付いた敵を突く。
両膝に回された握力が解け、足を再び進めようとしたところで、
刃の迫る気配を聴いた。
―――ヒュ、ヒュンヒュン、ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン
音は重なり、まるで一つの強大な轟音となって。
前方、右方、左方、右斜め後方、左斜め後方、真後ろ、上段、下段。あらゆる角度から同時に迫る死角無しの視えない斬撃。
カイは、もはや避けようとは考えず、ただただ、目の前の箱の手を伸ばし―――――