第六話・夢の楽園
「何処まで行くんだ?」
「もうちょっと。ほら、そこだよ」
アルーシェは自分の愛馬とファミリオの馬の手綱を引きながら、先導する少年の後に付いて歩いていた。彼女の数歩先には、荒い呼吸を繰り返すファミリオを背負い、ふらふらと危なっかしい足取りで歩く少年が居る。
歩き始めて五分前後。アルーシェはファミリオの容態が何よりも気に掛かっていた。
スカルピオの猛毒を受けて、すっかり意識を失ってしまっている。随分と毒が回っていると、少年は言っていた。これだけ回ってしまった以上、解毒剤では快復が難しいとも。
それを思い、アルーシェの心はどんどんと落ち込んでいく。そして痺れを切らして向けた問いだった。
少年はやや息を切らしながら、行き着いた崖で足を止める。
「……そこ、と言われても……」
アルーシェは足を止めた少年と、行き着いたその場所を見て困惑したような表情を浮かべた。
当然だ、彼女の目の前には巨大な穴がある。大きな崖っぷち。アルーシェと少年が立っているのは、まさにそんな場所だったのだから。
この崖の下に休める場所があるのだろうかと、崖から下方を覗き込んでみても、底の見えない大きな穴がぽっかりと口を開けているのみ。まるで転がってくる獲物でも待ち構えるように。
万が一、この下に休めるような場所があるのだとしても、どうやって降りていくと言うのか。傾斜は非常に急で、足を滑らせれば真っ逆さまだ。断崖絶壁、そう表現するのに相応しい。
しかし、困惑するアルーシェの様子に少年は小さく笑うと「ついて来て」とだけ告げて、崖に――否。穴に向けて足を踏み出したのだ。
ファミリオを背負ったまま、なんと言う無茶を!
咄嗟に、アルーシェはそう声を上げたくなった。彼女にとってファミリオは信頼する側近と言う以外に、剣の師匠でもあり、実父以上に父親らしい人物なのだ。幼い頃から面倒を見てくれたファミリオはとても大切な存在である。
そんなにも大切なファミリオを背負ったまま崖下に身を投じるなど、断じて許せることではなかった。彼を止めようと、アルーシェは片手を伸ばす。
だが、すぐに彼女の双眸は大きく見開かれることとなった。
穴へ向けて歩いた少年は重力に倣い真っ逆さまに崖下に落ちる――と言うことはなく、それどころか何もない場所、まさに宙を歩いていたからである。
少年は数歩進んだところでアルーシェを振り返ると、鳩が豆鉄砲を喰らったような様子で唖然とする彼女の様子に声を立てて笑った。
「あはは、落ちないから大丈夫だよ。騙されたと思って来てごらん」
アルーシェは伸ばしたまま固まった手を引き、何度も自分の目元をその腕で擦った。だが、何度目を擦っても、どう見ても。少年は崖下に落ちることなく宙に浮いている。
なんで、どうして。アルーシェの頭には率直な疑問が浮かんだ。少年は依然として笑いながら「早く」と急かしてくる。ファミリオの治療が必要なのだ、それは理解出来る。
しかし、幾ら目の前で少年が崖の――否、巨大な穴の上に浮いているからと言って、そこに足を踏み出すのにはかなりの勇気が必要だった。なぜ彼が宙に受けるのかどうか、アルーシェには全く分からない。
アルーシェは何度か穴と彼とを交互に眺めてから、恐る恐る足を踏み出し始める。万が一の時に馬を巻き込まないように、手綱からは手を離して。
「(急がねばファミリオが……もう、なるようになれ――……!)」
自然と呼吸が詰まる。鼓動は緊張に比例して速まり、頬を嫌な汗が伝った。眼下には底が見えないほどの崖。落ちれば命はないだろう。運良く助かったとしても無事では済まない。
アルーシェはキツく双眸を伏せて固唾を呑み、意を決して崖へと足を踏み出した。
「……え……? な、なんだ……此処は……!?」
襲い来るだろうと思われた落下の感覚はいつまでも感じることはなく、数拍の後にアルーシェはそっと双眸を開く。
しかし、彼女が目を開けた時。そこには見たこともない景色が広がっていた。
荒廃した黄土色の大地はそこにはなく、青々とした草が辺り一面に広がり、耳に心地好いせせらぎの音さえ聞こえてくる。無論、アルーシェにはそれが何の音なのかは分からなかったが。
草原の中には真ん丸い形をした大きな物体が幾つも転がっている。扉に見えるものが付いていることから、それは家屋と思われた。
周囲からは麗しい鳥達の囀りが響き、挨拶でもするようにアルーシェの目の前を横切って生い茂る木々へと飛んでいく。後ろを振り返ってみれば、馬二頭がついて来ていた。
「さあ、こっちだよ」
瞬きさえ忘れて現実とは思えない光景を眺めるアルーシェは、少年の声に意識を引き戻す。自分は確かに、つい今の今まで荒廃したあの大地に居た筈だ。なのに、一歩穴に踏み出しただけで全く別世界に来てしまった。
アルーシェは、こんなにも自然豊かな場所を知らない。ディザードにこのような場所がある筈がないのだ。辺り一面に草原が広がり、寄り添うように木々が聳える。そんな場所、間違っても存在しない。
では、此処は何処なのか。自分は崖下に落ちて天国にでも来てしまったのか。アルーシェはそう思った、そう思うしかなかった。
だが、少年は改めて「早く」と声を掛けて促しを向けてくる。取り敢えず今は従う以外に道はない。アルーシェはぎこちなく頷き、先を行く彼の後に続いた。見れば、ファミリオからは既に呼吸さえほとんど感じられなくなっている。先程まで苦しげに上下していた背は、今となっては非常に静かだ。それを見てアルーシェは息が詰まるような錯覚を覚えた。
程無くして行き着いた場所は、幾つか転がる丸型の家屋の一つだった。少年は片手でなんとか扉を開けるとファミリオを背負ったまま室内に入っていく。今は少年の呼吸の方が荒い。ずっとファミリオを背負い歩いた為だ、そろそろ体力的にも限界なのだろう。
アルーシェも彼の後に続いて家屋の中に入ると、中は思った以上に広かった。出入り口付近には薪が積まれ、隣には簡素な台所。その後方には居間と思わしき空間が小上がり形式で広がる。奥には梯子が設置されており、二階に繋がっているようだ。
少年は小上がりの居間にファミリオを下ろすと、そこで深々と息を吐き出した。
「はああぁ……疲れたあぁ、おじさん重いね……」
「あ、ああ。ファミリオは騎士だから……」
アルーシェの言葉に少年は眉尻を下げて力無く笑う。そして軽く肩を回した。どうやら腕に感覚が無いらしい。無論、それは一時的なものなのだが。
アルーシェは静かにファミリオの傍らに歩み寄ると、仰向けに倒れるその顔を覗き込んだ。
しかし、ファミリオの顔には既に生気がなかった。呼吸は弱々しく、今にも途絶えてしまいそうなほど。そんな様子を見て、アルーシェは思わず片手で口元を押さえる。油断すれば涙が溢れてしまいそうだった。
少年に聞きたいことは山のようにある。だが、今はなによりもファミリオのことが先だ。アルーシェは弾かれたように少年へと向き直った。
「大丈夫、そんな顔しないで。オレは約束は破らないって決めてるんだ」
「しかし……」
「大丈夫大丈夫、ちょっと離れてて」
先程よりもファミリオの容態は悪い。一目瞭然だ。
しかし、それでも少年は大丈夫だと言ってのける。とにかく今のアルーシェに出来ることは、ファミリオが助かることを祈るだけ。彼の言葉に小さく頷き、言われるまま数歩後退した。
少年はファミリオへと向き直り傍らに座り込むと、右手を患部となった腹部に、逆手を自らの胸に添えて双眸を伏せる。一体何をするのかと、アルーシェは不安な気持ちのままに見守った。
すると、次いだ瞬間。ファミリオの身体が淡い光に包まれたのである。その様子にアルーシェは双眸を見開き、祈るように胸の前で両手を合わせて息を呑む。
暫しそのままファミリオは柔らかな白い光に包まれていたが、やがてゆっくりとその輝きは止んでいく。しかし、光が収まった時、少年の身が小さく跳ねた。
「――ぐッ……!」
「!? キミ、どうした……大丈夫か?」
「な、なんでもないよ、大丈夫」
不意に苦悶を洩らした少年にアルーシェは慌ててその傍らに寄り添うと、彼の身を支えるべく肩に手を添えた。心なしか、少年の顔色が悪くなっているように見える。だが、すぐに優しく笑うと小さく頭を左右に振った。
本当に大丈夫なのかとアルーシェは彼の様子を窺いはしたのだが、それは微かに鼓膜を揺らした声に阻まれる。
「う……姫、様……?」
「――ファミリオ!」
先程まで、生気の感じられなかったファミリオの意識が戻ったのだ。血色も戻りつつある。薄くだが目を開けて、アルーシェを見つめ返してきた。
アルーシェはその様子を見下ろして涙を滲ませる。無論、嬉し涙だ。
少年はそんな二人の姿を横目に見遣り、そっと微笑みはしたのだが――――
「――シエル! 居るんだろう!?」
不意に外から怒声が聞こえてきたのだった。
次いで玄関の扉が勢い良く開かれ、杖をついた白髪頭の老婆が駆け込んでくる。その後ろには少年と同じような格好をした数人の男女の姿も見えた。手には槍や剣が握られている、完全に臨戦態勢だ。
少年は慌ててそちらを振り返ると、老婆の姿を視界に捉えて表情を曇らせる。
「シエル! なんだって人間共を集落に入れたんだい!」
「ババ様……!」
シエル――そう呼ばれた少年はアルーシェとファミリオを庇うように二人の前に出ると、申し訳無さそうに一度視線を下げる。だが、すぐに老婆に目を向け直し言葉を連ねた。
「ババ様、ごめん。でも……見過ごせなかったんだ。スカルピオの毒を受けてるのを見て、それで――――」
シエルは早口に言葉を向けるが、老婆は怒りをありありと表情に滲ませたまま弛むような様子がない。また一つ怒声を飛ばすべく改めて口を開く。
だが、その口から怒号が飛ぶことはなかった。
「……!? キミ、どうしたんだ!?」
不意に、シエルが先程と同じように苦悶の声を洩らしてその場に屈んだからだ。アルーシェは慌ててその傍らに屈み、彼の身を支えた。シエルの横顔は先程よりも苦しそうだ。表情は苦痛に歪み、顔色は血の気が引いて真っ青に染まっている。
老婆は信じられないと言うような表情を滲ませ、再び怒りを露に、今度は駆け寄ってきた。
「シエル、お前……っ! アタシの許可無く力を使ったんだね!?」
「力……? まさか、ファミリオを治した時の……」
ワナワナと拳を震わせてシエルを見下ろす老婆を見つめてから、アルーシェは不安そうに彼の横顔を窺った。