第二話・過去の悪夢
おかあさま、おかあさま。どこにいるの?
アルーシェは、真っ暗闇の中で目を覚ました。
そして、すぐに悟る。これは夢だと。今までに何度も見てきた、見たくもない夢なのだと。
これは、あの忌まわしき日。
ヴィレス族の男達が、アルーシェの母を殺害した時の記憶を元に再現された夢だ。
見たくない。見たくない。
これ以上、見せないで。
何度も何度も、アルーシェは願ってきた。
それでも、夢が覚めることはない。
夢の中――真っ暗闇の中には幼いアルーシェが居る。
暗闇の中、ただひたすらに母の姿を探して必死に走っていた。
その数拍後。闇の中には耳を劈くような悲鳴が木霊しする。今は亡き母のものだ。幼いアルーシェは一度大きく肩を跳ねさせ、大きな双眸から涙を溢れさせながら、また駆け出す。
幼い頃の自分の姿が見えなくなった頃、アルーシェは自らの耳を両手で押さえてその場に蹲り、声を殺し身を震わせて涙を流した。
今の自分があの場に居れば、ヴィレス族など斬り捨ててやるのに――!
そう、思いながら。
* * *
アルーシェは、自室の寝台の上で目を覚ました。何度か双眸を瞬かせると、程無くして焦点が定まる。視界には部屋の高い天井が映った。
此処はフォルティア公国の城の中、アルーシェの自室だ。開け放たれたままの窓からは、朝のやや冷えた空気が入り込んでくる。
ほぼ砂漠に近い環境にあるフォルティア公国だが、朝晩は結構冷え込むことが多い。
雨が降ることのないこの地方は、年がら年中晴れている。しかしその分、空には雲もほとんど存在せず、昼間に暖められた大地は夜に一気に冷え込み熱が逃げてしまうのだ。
だからこそ昼間は暑く、夜は寒いと言うまさに砂漠そのものの気候になってしまっている。
アルーシェは静かに身を起こすと、慣れた動作で自らの眦を片手で拭う。既に慣れたことだ。
あの忌まわしい日の夢を見る度に、彼女は目を覚ますと目尻から涙が垂れているのを知っていた。もう何度見たか分からない夢だからこそ、当然である。
「……駄目だな、このようなことでは……」
ヴィレス族に逢いに行く。
その現実は、思った以上に自分に影響を与えているのだとアルーシェは自嘲した。
ヴィレス族と和解すれば、過去の自分のように大切な者を奪われて悲しむ者は出ないだろう。それは当然喜ばしいことである。
しかし、一族への憎悪と復讐心から剣を取ったアルーシェの心境はどうにも複雑なものだった。
和解すれば、母の仇を討つことは出来なくなる。和解後に犯人を見つけて仇を討てば、また新たな諍いの原因となってしまうのだから。
そこまで考え、アルーシェは苦笑を洩らして静かに頭を左右に振った。
「犯人がどのヴィレス族なのか分からない以上は、仇を討つなど無理、か……」
仇を探そうにも、手掛かりが少な過ぎる上に、アルーシェは彼らとの和解に行かねばならないのだ。
どれだけ憎くとも、皇帝の命令とあれば抗う訳にはいかない。嫌だと拒否すれば父の責任になる。
だが、アルーシェは諦めていなかった。母の仇を捜す、と言うことを。
ヴィレス族に逢いにいくと言うことは、彼らのアジトにお邪魔すると言うことでもある。ならば、そこで犯人を見つけること――犯人ではなくとも、何か手掛かりになる情報くらいは得られるかもしれないと。そう思ったのだ。
「母上を奪った男……絶対に許すものか……!」
そう静かに――しかし憎々しげに呟いて、アルーシェは固く拳を握り締めた。
暫し身を起こした状態のまま、胸中に渦巻く憎悪に浸っていたアルーシェだったが、やがて意識と思考を切り替えると寝台を降りる。
寝巻きの白いネグリジェを脱ぎ捨て、いつもの騎士服を身に付けながら視線は机の上に置いた書状へ。中にどのような内容が綴られているのかは、アルーシェには分からない。だが、書状を渡すことで恐らくは和解に向けて話は進んでいくのだろうと、頭の片隅で考えた。
ヴィレス族が過去に母の命を奪いさえしなければ、アルーシェは手放しで喜べた筈である。日頃から彼女は、無用な争いを好んでいないのだから。
そんなことを考えていた彼女の耳に、扉を叩く音が届いた。その後に「姫様」と控え目に呼ぶ声が聞こえてくる。ファミリオがアルーシェを迎えに来たのだ。
「姫様、準備は出来ておりますか?」
「ファミリオか。ああ、出来てるよ。もう行くのか?」
「はい。早めに発ち、早々に用を済ませた方が宜しいかと」
扉越しのファミリオの声には、聊か申し訳なさの色が滲んでいる。彼は彼なりに、アルーシェを心配しているのだろう。
アルーシェは手早く髪を三つ編みに結うと、最後に腰に剣を提げ書状を片手に部屋の出入り口へ足を向けた。扉を開いた先にはいつもと変わらず、身なりをしっかりと整えたファミリオが立っている。だが、表情は幾分心配そうだ。厳つい風貌にはやや翳りが見えた。
「……大丈夫。私は大丈夫だよ、ファミリオ」
「……は。お辛いようでしたら、休憩しながら向かいましょう。ジイは何処までも姫様に付いてゆきますぞ」
普段と変わらず、自分を元気付けようとするファミリオを見つめてアルーシェは微笑む。彼女が内に秘める憎悪を、ファミリオが理解しているかどうかは定かではない。復讐の為に剣を取った、それを知ったら彼はどう思うのか――アルーシェはそこまで考えて、すぐに思考を止める。
今は、まずヴィレス族との和解についての問題が先だ。余計なことを考えている暇はアルーシェにはない。早々に意識を切り替えて、アルーシェはファミリオに声を掛けた。
「では、行こう。この書状、必ずヴィレス族に届けなければ」
「はい。お供致します、姫様」
ヴィレス族のアジトがあるのは、フォルティア公国から南。砂丘を越えた先にあるとされている。
時間にして約半日ほどは掛かる、発つのは早い方が良い。
アルーシェはファミリオを伴い、ヴィレス族との和解を目指す任務へと向かった。