別れの海
私の部屋の隅で倫太郎は膝を抱えて座っていた。まるでできるだけ私の部屋の場所を侵食しないように、細い体を縮めていた。窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
「そろそろ帰ったら?」
「…そろそろ帰るよ。」
テーブルの上には倫太郎がスーパーで買って食べた弁当のパッケージの残骸が残っている。私は勉強机から立ち上がり、倫太郎の前に座った。倫太郎は私から目を逸らした。倫太郎は昔から人の目を見ることが苦手だ。
「お父さんと、お母さんが、いや、違うよね。ごめん。雪絵さんが心配するよ。」
倫太郎の父親は先月再婚した。倫太郎の母親は倫太郎が5歳の時に亡くなっている。私が倫太郎と出会ったのは小学校に上がってからだ。だから私は倫太郎の本当のお母さんと会ったことが無い。ただ、一度倫太郎は私に写真を見せてくれた。倫太郎のお母さんは線が細く、儚げな人だった。少し垂れた目が倫太郎によく似ていた。詳しい事情は知らないのだが、倫太郎のお母さんは倫太郎を産んでから倫太郎を連れて蒸発し、倫太郎は5歳になるまで父親と一度も会ったことが無かったそうだ。倫太郎のお母さんが亡くなった時初めて倫太郎は父親に出会い、暮らし始めて今に至る。だから他人の私がそう簡単に再婚相手の雪絵さんをお母さんと呼ぶのは倫太郎の心を傷つけているのではないかと思った。
「雪絵さんが来てから、変だよね。」
倫太郎は父親が雪絵さんと再婚してからほとんど毎日私の家に来て自分で買った食事を食べていた。私の両親は倫太郎の気持ちを察したのだろうか毎日倫太郎が家に来ても倫太郎の好きなようにさせていた。
「…カレーが嫌なんだ。」
「カレー?」
「母さんの作るカレーは甘口で肉が薄くて水っぽかった。雪絵さんの作るカレーは濃くて牛肉が入ってて玉ネギが煮詰めてある。」
多分、倫太郎は僅かに残るお母さんの記憶を雪絵さんに塗り替えられるような錯覚に陥っているのだろう。倫太郎はその錯覚から逃れることができないのだ。
「明日行くんだ。小さい頃に住んでいた町に。…だからついてきてくれないか。」
倫太郎はそう言った。
「いいよ。」
倫太郎が住んでいた町は隣の県にある。一日で帰って来ることが出来るだろう。幸い今は夏休みだ。私たちには時間がいくらでもあった。
朝5時に倫太郎は私の家に来た。すでに準備は済ませてあった。倫太郎は紺色のリュックサックを背負っていた。
「それじゃあ駅に行こうか。」
倫太郎は頷いた。私たちは歩いて近所の駅まで向かった。既に日は昇っていて太陽の光が黒いコンクリートを照らしていた。倫太郎は黙って私の後ろを歩いている。
朝の駅には人がほとんどいなかった。切符を買い、ホームに出ると緑色の制服を着た駅員が背筋を伸ばして立っていた。
「暑いね。」
「そうだね。」
ホームの向こうに見える雑木林の木の枝はぼうぼうに伸び、緑色の葉に光が反射して輝いていた。雲一つない青空が広がっている。私は息を吸い込んだ。
「気持ちがいいね。」
「うん。」
倫太郎は眩しい太陽の光に目を細めていた。線路の向こうから微かな音が聞こえる。熱でゆらめく陽炎の向こうから黒い列車の姿が現れた。音は次第に大きくなり、ホームに列車が到着した。列車のドアが開き私たちは乗り込んだ。列車には私たちの他に1人の老婆が乗っていた。私と倫太郎はボックス席に向かい合って座った。倫太郎はリュックサックに手を入れて透明の袋に個装された透き通った水色の飴を取り出した。
「食べて。」
「ありがとう。変わった色だね。何味なの?」
「ソーダ味みたいだよ。ホームセンターで売ってるんだ。」
私は袋を開けて飴を口に入れた。涼やかな味がしたがそれはただの甘味だった。だけど口の中で水色の飴を転がしていると思うだけで涼しくなったような気がした。はじめは住宅の屋根が見えた景色も青々とした田んぼが見えるようになった。大きな白い鳥が青い稲の間を悠々と歩いているのが見えた。
「あの鳥、大きいね。不気味だ。」
倫太郎がそう言った。倫太郎はあまり鳥が好きではない。爬虫類のようなごつごつした足とふわふわした羽根のミスマッチな見た目が不気味だと以前話していた。
「色はきれいだけどね。」
それから私たちはしばらく流れていく田んぼを見ていた。だんだん眠気が来て私はしばらく眠っていたようだ。目を開けると列車は森の中を走っていた。そしてトンネルに入った。暗くなった窓に自分の顔が映る。倫太郎は黙って窓を見つめていた。突然辺りが明るくなり、窓の外に青い海が見えた。水平線の向こうはきらめいていた。
「海が見える。」
「もうすぐだよ。次の駅で降りるんだ。」
列車がホームに着きドアが開き一歩踏み出すとじっとりと湿っぽい風が吹いた。かすかに塩気がある。これが潮風なのだろうか。駅を出ると倫太郎は迷うことなくバス乗り場と反対方向につかつかと歩いて行った。私は倫太郎の後に着いて行った。
「まずはどこに行くの。」
「昔住んでいたアパート。駅から近いよ。」
倫太郎は迷うことなくいくつもの角を曲がり、歩いて行った。私は倫太郎とはぐれたらもう駅には戻ることができないような気さえした。アスファルトの地面、並ぶ民家。電柱と電線。雲一つない青空が続いた。倫太郎は近い、と言ったが私たちはしばらく歩いた。私の額には汗が滲んでいた。湿っぽい空気のせいか蒸し暑い。いくつめの角を曲がっただろうか、倫太郎は空き地の前で足を止めた。空き地、立ち入り禁止と赤字で書かれた木でできた立札が建てられていた。空き地にはぼうぼうに雑草が生えてその生命力は毒々しいくらいに逞しく黄緑色の葉が縦に伸びていた。倫太郎はその場でしゃがみこんだ。
「ここなんだ。昔、ここで母さんと二人で住んでたんだ。」
アパートは何年か前かに何らかの理由で撤去されたのだろう。だけど、この茂る雑草を見ていると初めからこの場所にはアパートなんて存在していない。この空き地では春になると草が茂り、冬には枯れる。それを何十年も繰り返しているように思えた。幼い倫太郎はこの場所でどう生活をしていたのだろう。私が倫太郎に出会ったころは倫太郎は無口な子どもだった。それは母と別れた悲しみを背負っていたのだろうか。幼い倫太郎は母の死という事実を理解していたのだろうか。聞きたいことはたくさんある。だけど今は倫太郎の邪魔をしてはいけないように強く思えた。倫太郎はその場に咲いていた黄色いタンポポを2本手折り、それをリュックサックの中に放り込んだ。倫太郎は立ち上がった。
「次はどこに行くの?」
「公園に行きたいんだ。」
倫太郎は再び歩き出したが今度は私の横に並んで歩調を合わせて歩いた。頭には夏の日差しが焼き付けるように降り注いでいる。
「ねえ、帽子被ってくればよかったね。」
私はそう言った。
「そうだね。これじゃあ髪の毛が焼けるよ。」
道路に干からびたミミズの死骸が見えた。ミミズは縮れ、道路に張り付く紐のようになっていた。道の突き当たりの公園に出る。低い石の門にはみどり公園という名前が刻まれていた。公園には子どもの姿はおろか誰もいなかった。ただ茂る緑の葉と木々が立っていた。名前も分からないがジージーというセミの鳴き声が聞こえる。倫太郎はブランコの方に歩いた。私も倫太郎の後を追う。ブランコの座席はくすんだ青色をしている。上に乗っていた赤いテントウムシを倫太郎は手で抓み、近くの草の上に置くと倫太郎は座席に乗った。私も隣のブランコに乗った。
「ここにお母さんと来てたの?」
「そう。母さんと何回か来たことがあった。」
倫太郎はゆっくりブランコを揺らしていた。倫太郎はブランコに乗ることがあまり得意ではなかった。背筋が寒くなると言っていたのを思い出した。私が思いっきり両足で地面を蹴るとブランコは勢いよく前に乗り出した。次第に勢いをつけていく。
「上手だね。君は小学校の頃はブランコ名人だったから。」
「そうだっけ。」
私は足を地面に着けてブランコを急停止させた。倫太郎は公園を囲むように生えている木を眺めていた。木は好き放題に枝を伸ばしじゃらじゃらと大きな葉を付けていた。セミの鳴く声が響く。
「夏だね。」
「うん、そうだね。」
私たちは来た道を帰り、駅の方向に引き返した。駅の反対側に回ると黄色い屋根と赤い幟でにぎり屋と書かれた建物があった。
「にぎり屋だって。おにぎりなのかな。それとも寿司のことなのかな。」
私はなんだかおかしくなって吹き出した。
「ここ、ずっと前からあるんだ。ここでお昼にしよう。」
にぎり屋にはふくよかな女主人が一人いて私たちが近寄るとにこにこと笑い、いらっしゃいと言った。塩むすび50円、おかかおむすび80円、たらこおぎり150円…どうやらここはおにぎりだけを扱った店らしいと私は理解した。おにぎりの呼び名がおむすびだったりむすびだったり店の名前がにぎり、だ。なんともちぐはぐだと私は思った。空は雲一つない晴天だった。倫太郎が塩むすびと鮭むすびを注文したので私はおかかおむすびとたらこおむすびを注文した。女主人は注文を受けるとその場でおむすびを握ってくれた。まず手を消毒し、炊飯器からほかほかのご飯を手に載せて具をいれて握った。女主人の手はぷくぷくしていてまさにおにぎり向けの手だと私は思った。女主人は紙でおむすびを包みビニール袋に入れて私たちに渡した。私が鞄から財布を取り出そうとすると倫太郎が私の分まで払った。女主人はまいどあり、と言った。倫太郎は一礼すると歩き始めた。
「おごってくれるの?」
「うん。付き合ってもらったからいいよ。」
私がなんか悪いね、というと倫太郎はううん、とあいまいな返事をした。倫太郎は人にお礼を言われたり感謝されても中々上手に反応できない。道の白い歩道の隙間からタンポポが葉を伸ばし、黄色い花をいくつも咲かせていた。植え込みからは名前も分からない薄桃色の花やタンポポが咲いていた。私は植え込みよりも雑草に目がいく。つるつるとして剪定された植え込みの画一的な植物よりも好き放題に伸びて黄色い花を咲かせるタンポポをどうしても好ましく思ってしまう。このタンポポとさっきアパートの空き地で倫太郎が抓んだタンポポは何が違うのだろうか。倫太郎の中では何かが違うのかもしれない。倫太郎は私の前を歩いている。どこに向かうのだろうか。
「おむすびどこで食べようか。」
「この先にまた公園があるんだ。今度はきれいな公園だよ。」
私はうん、と返事をした。倫太郎の言う通りで少し歩くと公園が見えた。その公園は広く、子どもたちが何人かでボール遊びをしていた。私たちは木のベンチに座り、おむすびの包みを開けて食べた。おむすびは塩気が効いていて体から出て行った汗を補ってくれるような気がした。私は鞄を開けて大きな水筒に口を付けた。今日は暑いから持っていきなさいと私の母が持たせたものだ。倫太郎はペットボトルに口を付けていた。
「それ、一本じゃ足りないんじゃない。」
「大丈夫。もう一本あるから。」
「倫太郎は子どもの頃のこと覚えているの?」
「何となくだけど。あの公園とか、アパートの位置は覚えている。アパートは木でできてて相当古かったから無くなったと思う。大家さんも魔女みたいに歳を取ってたからね。」
「お母さんってどういう人だったの。」
「よく分からない。優しい時もあれば、俺を家に1日中一人にしてどこかに行ってしまう時もあった。母さんはとにかくカレーを作るのが下手だった。水っぽいぐしゃぐしゃのカレーだった。他の料理もそう。目玉焼きは焦げてたし。」
私はどう返事をすればいいのか分からなくてそうなんだ、と言い、おかかおむすびに噛り付いた。鰹節には醤油がよく染みていてしょっぱい。
「時々公園にも連れて行ってもらってた。」
「あの公園って変わってるよね。木の剪定とかしないの?」
「もしかしたら誰かが個人的に作った場所で私有地なのかもしれないね。」
自分の土地に公園を作る。その場所は公園であり、公園ではない。偽公園の主は公園がもぐりの公園であることを注意しなければならない。偽公園だと分かった瞬間にその公園は子どもたちから後ろ指をさされる。冷たい顔をした背広を着た役人が来てロードローラーを起動させてあの鬱蒼と茂る木も私たちが腰掛けたブランコもぺっしゃんこに踏み潰してしまうのだ。私はそんな想像をした。3人の子どもたちの足元で蛍光色のピンク色のボールが行ったり来たりしていた。私はおにぎりを食べながらなんとなくそれを眺めていた。
食事を終えて私たちはおにぎりを包んでいた紙を畳んでビニールに入れた。倫太郎はそのビニール袋の口をきつく結ぶとリュックサックに放り込んだ。よく見えなかったけれどまだこのリュックサックの中にはタンポポがあるはずだ。紺色のリュックサックは太陽の光を浴びて熱を孕んでいるだろう。その熱でタンポポが圧死しないか私は少し心配になった。いや、結局タンポポは萎れて汚く枯れてしまうのだ。
遮る雲一つない空からは太陽の光が容赦なく私たちの頭に降り注いでいた。腕時計を見ると13時になっていた。
「最後に海に行こう。」
倫太郎はそう言って立ち上がった。私もつられるように立ち上がり、倫太郎と歩き始めた。
「海って近い?」
「30分くらいかかる。ごめん。」
私はううん、と返事をした。黒いコンクリートの車道と白いアスファルトの歩道が続く。道端の端にはタンポポもさっきの薄桃色の花も咲いている。空は青い。気温は高くて蒸し暑い潮風が吹く。道路の向こうは陽炎がゆらめいてぼやける。サンダルを履いた日に焼けた男の子たちが駆けていく。
倫太郎の言う通り、30分ほどで砂浜に出た。砂はよく乾いている。水平線の向こうまで続く青い海が見える。波打ち際に白い波が寄せては引いて行く。倫太郎は波打ち際と並行に歩き始めた。私はその後ろを歩いた。倫太郎はしゃがみ、何かを拾い私に見せた。それはすり減ったガラスのかけらだった。
「一度母さんに海に連れて行ってもらった。その時いっぱい集めたんだ。もう、無くしたけれど。」
「きれいだね。」
そう言うと倫太郎はあいまいな笑みを浮かべてまた歩き出した。私はその場にしゃがんだ。たまに小さな二枚貝の貝殻が落ちていることに気付いた。私はその場でしゃがんで貝殻を一つ一つ拾い集めた。黄土色の貝殻や白い貝殻。それにガラスのかけら。私はいつのまにか倫太郎のことを忘れ、貝殻を集めるのに夢中になっていた。私の片手が砂浜の収穫物でいっぱいになった時、私は立ち上がった。遠くに倫太郎の姿が見えた。
私は倫太郎に自分の獲物を見せびらかすために歩み寄った。倫太郎は体育座りをしていた。
「ねえ、倫太郎。」
私はその時倫太郎が泣いていることに気付いた。私は倫太郎の隣に座った。空の青と海の青と砂浜の白色。私の手の中の貝殻。青色のガラス。倫太郎の真っ黒の瞳。涙の色は、透明だ。
倫太郎は泣くのをやめると顔を膝に埋めていた。涙を乾かしているのかもしれない。感動に薄い倫太郎が泣くことは珍しい。倫太郎は顔を上げた。涙は乾いていた。そのまま歩きだし、バックから丁寧に黄色いタンポポを取り出す。波打ち際まで歩き、寄せてきた波に黄色いタンポポを乗せた。タンポポは波に乗り、海の水に消えて行った。倫太郎はタンポポが見えなくなっても海の方を見つめていた。私の手からはいつのまにか貝殻もガラスのかけらも無くなっていた。
あれから一週間が立った。私の机の上には一粒の貝殻が乗っている。あの日来ていた服のポケットに偶然入っていたのだ。相変わらず気温は高い。今日も晴天だ。ただ一つ変わったことは、倫太郎が自分の家でお父さんと、雪絵さんと食事を摂るようになったことだ。