審問後の衰弱による思考力の低下と伴った言及
互換性のある思考回路は存在しない。何故なら思考というものは常に変動するからだ。
こうした不完全な錯綜の発生に伴い新たな自己現実を築き未知を追究する。
頭で完全なる世界を創り上げるチューリッヒ哲学。錬金の一つ。
異なる思考を錯誤しない存在なんて、この世にはない。
もしあるとするならそれは。
創造の神――。
「あ、そういえば、鞄……」
校門まで足を運び、ふといつもの帰宅路との違和感を感じた美咲は、ふと校舎を振り返った。
どうして今まで気付かなかったものか。
手ぶらで帰ろうとしている自分が何となく恥ずかしくなり、美咲は早足に引き返す。
そして、再び足を止める。
「……鞄、どこよ」
事件が起こって(というより、美咲が認知して)四時間が経過し、現在はすでに五時過ぎだ。果たして鞄は警察が証拠物品として押収しているのか、それとも教室の机にかけられたまま放置されているのか、美咲には判断がつかない。
令状もしくは本人の許可なく証拠品を押収する事はプライバシーの侵害なのだが、その辺りを詳しく知らない美咲は、とりあえず教室から覗く事にし、再び歩きだした。
早く解放されたい。
取り調べをする刑事にあるまじき考えだが、滝野と遠野は心底からそう願う。
「……事件について、何か気付いた事はありますか?」
滝野は極めて義務的に、目の前に座る柊に訊ねる。柊は沈黙を保つ。
いや、沈黙なんて生易しいものじゃない。
見ていない。聞いていない。そんな言葉では、この少年は計れない。
柊は、顔を上げて、ずっと二人を見つめていた。
正確には、誰も見つめていない。二人を見ている割には目の焦点が合っていないのだ。
背後の壁を見ている訳でもなく、ただ顔を上げている。
そこに表情はなく、まるで精巧なマネキンの様に思えてならない。
滝野の声は届かない。
聞こえない訳がない距離にも関わらず、柊は言葉に何の反応も示さない。
「……何か?」
重い緊張感に耐えきれず、遠野が訊ねる。
当然ながら返事などなく、更に二人は気まずく思う。
柊は決して無視している訳ではない、のだろう。
ただ。
無表情な双眸は何も示さない。
様々な人間を見てきた滝野は、その無言が全てを物語っている気がした。
この少年に尋問は無駄だろう、と解釈し、滝野は〆にかかる。
出来れば何も訊かないでくれ、と半ば祈りながら。
「……事件について、何か訊きたい事は、」
「死亡推定時刻と凶器の詳細をお願いします」
ありますか、と続けようとした滝野は口を開けたまま、喉から『カッ……』と乾いた音を漏らした。
今まで何の気色も示さなかった少年が、訊ねてきたのだ。
その双眸の焦点はいつの間にか、滝野に合っていた。
そこから何の感情も読めないのは相変わらずだが。
「……先輩」
やや俯き気味の遠野が、肘で滝野を小突く。滝野は我に返る。
「あ……、それはお答えで」
「被害者の学年とクラス、姓名は?」
答えが期待出来ないと分かるや否や、柊は質問を変えてきた。
「えっと……。被害者は二年C組の折坂 千尋さん。女性です」
面喰らっていた遠野が、汚名返上とばかりに手帳に書かれていた内容を読む。
「容疑者はどうやって選ばれましたか?」
「事件前後の保健室の使用者です。指紋を鑑識に回したところ、一致した生徒を。入室の目撃証言も最も事件に近しい方を選びました」
「最後に使用した生徒は分かりますか?」
「……お答え出――」
「質問はありません」
あっさりと斬り返され、唖然とする滝野と遠野を余所に、柊は席を立つ。
「最後に一つだけ」
出入り口に向かいながら、振り返りもせず柊は言う。
「Philosophia enim simulari potest, eloquentia non potest」
言葉を聞き、二人はギョッとした。
何語かは分からないが、それは間違いなく、現場に残された血文字だったからだ。
「イタリア語です。意味は『哲学者の真似は出来るが、雄弁者の真似は出来ない』。覚えていて損はないと思います」
それだけを一方的に告げた柊は、応接室を後にした。
残された二人は、訳も分からず呆然とする他もない――。
「あった」
教室に戻った美咲は、自分の席に掛けられたままの鞄を発見した。荒らされた形跡はない。
中にはケータイが入っていて、この学校は一応ケータイの持ち込みは禁止しているので、見つかったらちょっとした事だ。何事もなくてよかった。
「あ、メール来てる……ぅおッ」
中を開けて確認した美咲は、絶句した。
メールが来てる、なんてもんじゃない。受信件数が五〇件。
「……ありえねぇ」
差出人を確認しなくても、誰からか分かる。
梓と香苗に決まっている。受信する身にもなってほしいものだ。
とりあえず、一件目から中を見てみる事にする。
アズサ『そっちは大丈夫!?大変な事に巻き込まれたケド、何かあったら遠慮せずに言ってね!』
カナエ『大丈夫ですか?もし怖い思いをしたら、是非相談して下さい。必ず力になってみせます』
……こんな内容が、延々と五〇件。正直、少し堪える。
「……私にどうしろと」
『心配してくれるのはとても嬉しいんだがここまでやられるとちょっとなぁ……』的な苦笑いを浮かべた美咲は、視線を窓の外に移す。茜空が血の色に見え、反射的に視線を逸らす。
そして、視界の片隅にフェラムの姿があったような気がして、今度は校庭に視線をやる。
いた。帰っている。
美咲は鞄を乱暴に持ち上げケータイをスカートのポケットに直し、弾かれた様に教室を飛び出した。
フェラムは賑やかな歓楽街を、人の波を避ける様に歩いていた。美咲もそれに続く。
「ちょ、柊!待って!」
美咲は人の波に押されたりしながらも、何とかフェラムに近付こうとする。
が、どうしてだか知らないが、一向に追いつけない。
こうして人が大勢いる場所では、フェラムの存在は希薄だった。
注意して見ていないと、いつの間にか消えていそうだ。
まるで、透明な空気の様に。
まるで、道端の小石の様に。
その少年は、ゆらゆらと消えかかっている。
「柊!待ってってば!」
美咲は力一杯叫ぶが、声は、言葉は、届かない。
街の喧噪に巻き込まれ、絡めとられ、かき消される。
届かない。
しかし。
不意に、フェラムが振り返っている事に、美咲は気付いた。
「あ……」
そして、美咲は足を止めた。
振り返ったフェラムに、感情が見えない。
それは無表情という言葉では真理を見出せない。
そんな言葉の形容は、何の意味も成さない。
それは。
フェラムは。
全くの無感情。
いや、もしかしたらそんな言葉さえも意味はないかも知れない。
きっと、フェラムという字も。
柊 瑪瑙の本名さえ。
彼には必要がないのかも知れない。
空気と比べても軽い、一つの存在。
それが彼なのだ。
「何、周防さん」
美咲が顔を上げると、そこにはフェラムがいた。
言葉は疑問文だが、その抑揚にクエスチョンは見当たらない。
「あ……えぇっと……」
昨日、小学生と遊んでいた時とのギャップが激しくて、美咲は言葉に詰まる。
あの時の茜色の笑顔とは真逆の、茜色の――
「事件について話したい事があるんじゃないの」
「へっ。あ、そうそうそう」
フェラムの言葉で我に返った美咲は、慌てて頷く。
無感情な双眸は美咲を眺め、しかし決して見つめていない。
「着いてきて。場所を移そう」
言うが早いか、フェラムは踵を返し、一人で歩きだした。
「あっ、ちょっと待ってよ!」
人混みをかき分け、美咲は早足でフェラムの後を追った。