慣性的な相互性によって逸脱した日常に属する恐怖の対象
そもそも存在規定……『自我』とは何か。
『自我』の確立によって人は何を得る事が出来るのか。
虚数的で確実論たり得ない『自我』はあらゆる反動ないし流動により交差性を帯び、事象の生成変化を行い刻々と反転する。
これらの因果関係を解く為には膨大な倫理的な解釈を有する。
記号化された現代において『自我』の触媒は主観と客観の相互関係ではなく、あらゆる意味での客観性のみに絞られている。
ポリシーやテーゼと言われる主観的思考は失われつつある。
これではただ自己矛盾性をはらむだけに過ぎない。
僕は見極めたい。
自己矛盾なく、森羅万象の理を精神的に見つめる事で、『自我』を確立したい。
その為には、閑寂の声を聞く必要がある。
螺旋に塗り固められた幾何学的空間に。
僕は歩みたい。
たとえその世界が、無機の光景を晒しているだけだとしても――。
美咲が目を覚ました時、そこは保健室ではなかった。
畳の上に敷かれた布団で、何故か寝ていた。
「……あれ?」
身を起こし、周囲を確認する。
部屋の片隅には、まるで影の様に一人の女性が座っていた。
「気がついた?」
柔らかな笑顔を向ける女性は、恐らく二〇代後半といった所か。
「ここは……」
ぼんやりとした頭を支えながら、美咲は女性に訊ねる。
「ここは宿直室よ。保健室は現在、使用禁止なの」
「保健室……」
はっきりしない意識の中、美咲は呟く。
が、不意にあの赫い光景がフラッシュバックし、美咲は口元を手で押さえた。
赤い。
紅い。
赫い。
緋い。
カーテンの染み。
血の海。
横たわる何か。
あれは。
アレは。
人。
その傍で静かに佇む。
フェラム。
「……フェラム」
「どうかしたの?」
急に呟く美咲に、心配げな表情で女性は顔を覗き込む。
だが、美咲にはそれに構っている余裕はない。
人。
横たわる人。
真っ赤な染み。
血の海。
異臭。
「顔色が悪いわね。先生を呼んできましょうか?」
極めて懇切丁寧に女性は言い、宿直室を出ていった。
人。
人。
人。
真っ赤な。
真っ赤な人。
「ウブッ……!!」
こみ上げる嘔吐感。
美咲は宿直室の流し台に駆け込み、それを思い切り吐き出した。
ビチャビチャと嫌な音が一人きりの空間に響くのも構わず、嘔吐を繰り返す。
一通り吐いたと思ったら、今度はあの異臭――いや、悪臭と言い換えても差し支えない――を思い出し、再び吐く。
胃液も何もかもを吐いて、ようやく美咲は呼吸する事を思い出した。
吸って、吐いて、吸って、吐いて――。
咥内の残有物を唾で絡めて吐き捨て、口を濯ぐ。
不快感が消えたとは言わないが、それでも先程よりは幾分マシと言えよう。
(アレ……人だよね。どうして血塗れの人が、保健室に……?)
肩で呼吸をしながら、冷静さを取り戻し始めた頭を回転させる。
落ち着け、まずは落ち着けと自身に言い聞かせる。
(……オーケイ。
私は冷静だ。
冷静だ。冷静だ。まずは事実を受け入れろ。アレは死体……屍体だ。人が死んだんだ、私のベッドの隣で。いや、死んだんじゃなくて殺されたんだ)
迅速に、脳味噌に根強く焼き付いた殺人現場を思い浮かべる。
気持ち悪いが、泣きそうになるが、大丈夫、もう吐く程ではない。
もっとも、もう一度血の海の現場を見せられたら吐く自信があるのだが、思い出すぐらいならば問題ない。
(私の隣で人が殺された。
これは事実。
どうして殺されたかは後回し。
どうせ考えても分からない。
ここは宿直室。
つまり私は運ばれた。
とすると、既に警察が介入している。さっきの女の人もきっと関係者だ)
流し台にブチ撒けた汚物を水で洗い流しながら、美咲は目を閉じる。
(一番の問題はフェラム。
どうしてあそこにいたか。
犯人なのかも知れない。まだ証拠も何もないから、疑うのは失礼だろうが)
キュッ、と金属音がすると同時に、宿直室のドアが勢いよく開かれた。
ドヤドヤと騒がしく入ってきたのは、友人の二人と保健の先生とさっきの女性。
「大丈夫!?ケガとかない!?私も香苗もずっと心配してたのよ!」
「気分悪くない?さっきジュース買ってきたから、飲んで!ココアには鎮静効果があるから落ち着くよ!」
「ちょ、ちょい待ちちょい待ち!ストップストップ!アンタ達がまず落ち着け!」
凄まじい剣幕でまくし立ててくる香苗と梓を手で制し、なんとか宥める。二人は揃って、深呼吸をし始めた。
「周防さん……だったわよね?具合の方は大丈夫?」
二人を押し退け、保健の先生は美咲の腕を取り、脈拍を調べながら訊ねる。
「脈拍は安定してるわね。吐き気がしたり、頭痛がしたりしない?」
「大丈夫です。さっき吐きましたから」
苦笑いを浮かべ、チラリと横目に流し台を見る美咲。
やはり女の子という事で、そういう事は気になるらしい。
「ちょっとすいません」
保健医の手を振り解き、美咲はスーツ姿の女性に近付く。
「えっと……刑事さん、ですか?」
「えぇそうよ……と一度は言ってみたかったりするけど、私は違うわ。警部補なのよ」
警察手帳を上着のインナーから取り出しながら微笑する女性。
顔写真の横には、尾崎 恵津子と記載されていた。
「尾崎さん……これはやっぱり、殺人事件ですか?」
「ん……まぁ、ね」
歯切れ悪く答える尾崎を前に、美咲は少し黙考する。
「私は……容疑者になるんですか?」
顔を上げ、美咲は尾崎と面向かって訊ねた。
香苗と梓は驚愕に目を剥き、保健医は俯いて目を閉じた。
「まだ容疑者と決まった訳じゃないわ。でも……そうね。重要参考人ではあるわね」
尾崎は腕を組み、美咲を見下ろしながら答えた。
「ちょっと待って下さい!」
梓は、立ちふさがる様に尾崎と美咲の間に入り込み、尾崎の目を見据えて叫ぶ。
「美咲はずっと保健室で寝ていたんです!そんで、起きたら人が……その、倒れてるトコを見ちゃって怖い思いをして!むしろ被害者ですよ!?どうして美咲を疑うんですか!!」
最後の方は、声が震えていた。
敢えて、人が殺されたとは言わずに。泣きたいのを我慢して言っているのだろう。
「ずっと寝てたって言うけど……残念ながら、証明できる人がいない訳だし……」
困った顔をした尾崎は、頬に手を当てながら呟いた。
「梓、ちょっとごめん。もう一つ聞きたい事があるから。……私の為に弁明してくれてありがと」
ポン、と美咲は梓の肩に手を置き、微笑う。
が、次の瞬間には真顔に戻り、再び尾崎と向き合う。
「もう一つ、確認してもいいですか?」
「……部外者の前で答えられる範囲なら、構わないわよ」
「それじゃ遠慮なく」
ため息を吐き、美咲は一番気になっていた事を訊ねた。
「フェ……柊 瑪瑙は、確実に容疑者ですよね?」
表情を崩さず、尾崎は頷いた。
尾崎に連れられて、美咲は応接室に放り込まれた。
梓と香苗は警察に送られ帰宅した、と聞いている。美咲は胸をなで下ろした。
こんな状況の学校に、いつまでも大切な友人を残しておきたくない。
応接室には二人の刑事と尾崎、そして容疑者だろうと思われる生徒や教師。
美咲、フェラム、同級生が一人と先輩が二人、それに保健の先生。容疑者は全部で六人らしい。
「まず、学年と名前の照合を行いたい」
刑事の一人――滝野と名乗った――が催促する。
隣の若手刑事――遠野と名乗った――は手帳とペンを構えている。
「二年E組、杜若 暁」
茶髪にロン毛(死語)といういかにもな容姿の青年が名乗る。
「同学年同組、杉浦 千里」
化粧がやけにケバい、やはりいかにもな容姿の少女が名乗る。
「一年B組、壱岐 俊郎」
先程の二人と違い、こちらはいかにも勉強してますと言わんばかりのメガネ少年。
「一年A組、周防 美咲」
ショートカットで小柄という、しょっちゅう小学生に間違われている少女が名乗る。
「谷 姫子です。保健の教師を務めています」
慇懃丁寧にお辞儀をする、白衣に身を包んだ女性。
次は……フェラムの番だが、壁に背を預けて黙ったまま、微動だにしない。
「……君の名前は?」
滝野が訊ねる。フェラムは顔を上げ、すぐに俯き、蜻蛉の鳴き声の様な小さな声で呟く。
「一年A組、柊 瑪瑙」
さも面倒くさそうに。
「はい、分かりました。それでは事情を聴取したいと思いますので、まずは杜若さん以外の方はご退室下さい」
「こちらです」
尾崎がドアを開ける。
一番ドアに近かったフェラムを筆頭に、杜若と言う青年以外の人が外に出て、会議室に集められた。
「こちらでお待ち下さい。すぐにお茶を用意します」
尾崎は深々とお辞儀をし、会議室を後にした。
こうして、事情聴取は始まった。