夕暮れの放課後
「声が聞こえるんだ」
こうした静寂に支配された空間は、自分の存在規定を再確認する事が出来る。
『自我』の確立が困難な今日び、客観をある程度まで排除したコギト・エルゴ・スムを意識する機会はそうそうない。
だが、勘違いしてはいけない。
『自我』とは主観だけではなく、主観と客観の相対性――相互を含有する帯域でのみ意識する事が出来るのだ。
「君は聞こえないかい。静寂の声が」
今の僕には聞こえる。静寂の声が。
心地よい閑静の喚び声。
君には聞こえないかい?
夕方にもなると、商店街は主婦で賑わうのは古今東西の常識だろう。
美咲は両手に買い物袋を抱えてえっちらおっちらと危うげに歩いていた。
傍から見れば、小学生がお使いをしている様に見えなくもない。
辛うじて小学生に見えない理由として、高校の制服を着ているという事実がある。
が、普段の私服――Tシャツやジーンズ――を着ていると、小学生の男の子に見られる事がしばしばあり、彼女としては不服以外のなんでもない。
非常に根深いコンプレックスを抱いている美咲は、買い物袋が地面を擦って破けない様に細心の注意を払って、重々しげに歩く。
足を前に出す度に、肩が大きく左右に振れる。
どうして美咲が学校帰りに買い物しているかというと、美咲は一人暮らしだからだ。
母は弟が産まれると同時に他界し、父は仕事の都合で四年前からロンドンに。
弟は父に連れられて同居。
本来は美咲も一緒に行く筈だったのだが、友人と別れたくないという理由でこっちに留まったのだ。
女の子の一人暮らしは危険だと言い張る父をどうにか説得し、美咲は四年前からずっと一人で暮らしていた。
年末や月に一度の休みは父と弟は帰省するので、父が騒ぐ程の寂しさは感じない。
まぁそりゃ、急に強盗やら強姦魔やらが押し入ってきたら怖いけど、今んとこそれはないし。
と、なにやら一部、女性らしくない思考が展開されたが、美咲は気にした様子もなく歩く。
商店街のアーケードを抜けた先には、こじんまりとした児童公園があり、いつも子供の元気な声で賑わっている。
その光景は見る者を微笑ましくする――のだろうが、私はギョッとした。
(嘘だ。有り得ない。これは夢か)
自分の頬をつねってみたいが、両手に荷物を抱えた状態の美咲ではそれも叶わず、目の前の光景を鬼の形相で凝視する。
常に無愛想、人に無関心、切に無気力と、3Mが整った根暗青年である柊 瑪瑙――フェラムが、公園で子供達とサッカーして遊んでいる。
しかも何より恐ろしいのは――フェラムが、微笑っている。
「あ……」
不意に、美咲はフェラムと目が合った。合ってしまった。慌てて逸らす。
数秒経っても、数十秒経っても、何も話しかけてはこない。美咲は恐る恐る顔を上げてみた。
(って、サッカーに夢中になってる!?無視かよ私!)
何の反応もないのはそれはそれでツラいのだが、それならそれでこっちも無視してやる、と美咲は肩を怒らせて歩きだした。
「あ。危ない」
「へ?」
小学生の一人がボソッと呟き、美咲が視線を再びフェラム率いる少年らに向けると、ヒュゴン!
もの凄い速度で飛来してきたサッカーボールが美咲の短い髪を掠め、背後のフェンスに衝突した。
あと数センチずれていたら、確実に美咲の顔面ヒットだっただろう。
「……――!?!?」
パクパクと金魚の様に口を開閉する美咲。声ならぬ声という奴だ。
「周防、平気か?」
無表情フェイスに戻ったフェラムが、小走りで美咲に近付いてきた。
美咲は首をブンブンと横に振りながらも何とか言葉を発しようとして、結局金魚の物真似みたいな動きしか出来ない。
「キンジ。ちゃんと謝れよ」
「ごめんなさい、姉ちゃん」
フェラムが一人の少年の頭をグッと下げて謝らせる光景を見て、美咲はハッと我に返った。
「き、気にしないでいいよ。ちょっとビックリしちゃっただけだから」
苦笑を浮かべながらキンジ少年を弁護すると、フェラムは
「向こうで遊んでろ」
とキンジ少年に告げ、フェラムは逆方向に歩きだした。
「えっ、あの……いいの?子供たち、あっちだよ?」
フェラムが歩きだした方向とは反対側を見つめながら、美咲が言う。だがフェラムは意に介した様子もなく、
「一応、僕からも詫びたい。ついてこい」
ちょいちょいと、夕日をバックに人差し指でジェスチャーをする。
そんなフェラムを見て、美咲はドキリとした。
薄い色素の髪は夕日に当てられ鮮やかな茜色に輝き、長い睫に隠れた双眸は愁いを帯び、線は全体的に細い。
いつもは気にならないくらい、……まるで空気の様な存在のない存在のフェラムだが、間違いなく美少年の部類に入りそうだ。
「子供はいいよね。君はそうは思わないかい?」
「はっ?」
歩きながら考え事をしていた美咲は、立ち止まったフェラムに危うくぶつかりそうになり、急ブレーキを掛けた。
見れば、自販機で缶コーヒーを購入している。
「……ごめん。聞いてなかった、もう一回言って」
「子供はいいよね。君はそうは思わないかい?」
苛立った様子もわざとらしい様子もなく、ただ無表情にさっきの問答を繰り返す。
「え、うん。そうだね。可愛いし、いい感じに素直でいい感じにひねくれてるし。私は好きかな」
「やっぱり。周防ならそう言ってくれると思ったよ」
缶コーヒーを二つ購入すると、再びフェラムは歩きだした。
美咲は両手に荷物を抱えているのだが、それを持とうという気はないらしい。
いい性格してやがる、と美咲は内心毒づく。
「子供はいい。物事の判断を主観だけで行い、対象の存在規定の副因を相対的ではなく絶対的に見る。まさにデカルトの『我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)』の典型対象だ。そうは思わないかい?」
「……はぁ」
訝しげな表情で曖昧な返事をする美咲だが、フェラムの言ってる意味がまるで分かっていない様子。
「大人は物事を考えない。だが、子供はあらゆる角度から考える。考える事こそが、主観と客観の境界線を見出す大切な精神活動なのにね。そして、境界線を見出すからこそ『自我』の確立を促進できる。相対的に全てを見る事が悪い事とまでは言わないが、人はたまには絶対的に物事を視聴すべきだ。真理を追求するには、常に合理的推論を必要とする。まぁ、これは僕の好きな哲学者の思想だけどね」
「哲学者って誰?」
「ルネ・デカルト。……座ろうか」
公園のベンチに腰掛けたフェラムの隣に、美咲は申し訳程度に座る。
フェラムは表情を崩さず、缶コーヒーを手渡す。
「さっきはすまなかった。キンジの奴にはちゃんと言っとくよ」
「え、いやいいよ。私も怪我とかした訳じゃないし」
「一応、とさっきも言った。そのコーヒーは詫びのつもりだから、奢るよ」
「あ、ありがとう……」
促されるままにプルに指をかけた美咲が、ビタリと凍り付く。
缶のパッケージが真っ黒なコレは、ひょっとして――
「無糖は苦手かい?」
あくまで無表情のまま、フェラムは聞いてくる。
美咲はビクッと肩を震わせ、振り向いてひきつった笑みを浮かべる。
「ううん、平気……」
明らかに平気そうな顔ではないのだが、フェラムは追及しない。
そう、と一言呟くと、プルを勢いよく開けた。
「そもそも『自我』とは何か。自分の思考、主観性と思われがちだが実はそうじゃない。『自我』を意識するには、客観性も不可欠なんだ。例えば周防。君は無糖コーヒーを苦手意識しているが、それは『自我』だ。だがそこで、自分の苦手意識……主観だから当然だろう、と思っちゃいけない。苦手意識される缶コーヒーやそれを眺める僕から見れば、君は客観的な存在でしかない。主観だけではただの『思い込み』で客観だけではただの『偏見』であるが、その相互を含有する境界線、それが『自我』だ」
長々と哲学を語るフェラムは口の中が乾いたのか、コーヒーを一口飲む。
美咲も負けじと口に含み、苦そうな表情で何とか飲み込んだ。
というか、どうして私はこんなトコで同級生による哲学講座を受けているんだろう、と美咲は内心訝しげる。フェラムは構わずに続ける。
「どうして君は無糖コーヒーを飲めない?苦いからかい?」
「へっ?あ、うん……どうしてもこの苦さが嫌いで……」
「どうして、苦いのが嫌いなんだい?」
「どうして、って……何か、舌がビリッとする様な変な感じがするから、かな……?」
まるで禅問答の様な言葉のやりとりに、美咲は目眩を覚えた。
(コイツ……もしかして電波?)
いくら美少年でも、電波系となれば全てが台無しになる。
というか、そろそろ帰りたいと、美咲は切に願う。
「どうして《苦み》が嫌いなのかを考えてみてくれ。口の中がビリッとする変な感じがする……それの何が非なのかを。人間、固定概念が一番怖い。幽霊を怖いというが、果たして何が恐怖の対象として確立するのか考えるべきだと思う。そもそも『苦手』とは何なのか。……さぁ、もう一度飲んでみなよ」
つまりは苦手じゃないと思い込めばいい訳か、と美咲は噛み砕いて解釈する。
そんな事で嫌いな物が飲食できる様になるのなら、古今東西のお母さんは大助かりだろう。
「こう言えば、苦手じゃないと思い込めばいいと勘違いする人が多々いるのだが、違うんだ。苦手意識しないんじゃなくて、対象意識を消すんだ。そのまま飲んでごらん」
「……よく分かんないんだけど、ようは何も考えるなって事?」
まったくその通りに考えていた美咲としては、なんとなくバカにされた気がしてならない。
意を決し、美咲はコーヒーを一口飲む。
「……あれ?」
無心になって飲んでみると、思ったより飲める。というよりなかなか美味しい。
「うっそ……どうして?」
「固定概念の変動さ。君は今まで『無糖だから苦いに決まっている』っていう初期設定が認識されていたのだろう。『苦い飲料』として考えずに『こういう飲料』として飲めば結構、大した事もないよ」
そう言ったフェラム――決して交わらない鉄・柊 瑪瑙は、静かに微笑を浮かべた。
とてもとても神秘的な、けれど浮き世離れしている訳じゃない、幼く綺麗な微笑を。
「それじゃ、僕はもう行くよ」
夕日に映える微笑は、ほんの刹那だけだった。
無表情に告げるフェラムはコーヒーを一気に飲み干し、別れの挨拶すらせずに、サッカーをしていた少年らの元へと、歩いていった。
「……」
美咲は缶コーヒーを手に持ったまま、呆然とフェラムの後ろ姿を眺めるだけだしか出来ない。
呼び止めるのも躊躇われる、綺麗な後ろ姿を網膜に焼き付けて――。