1.序と僕
人類は、多分、正しい方向へと進もうとしていた。
西暦二二一〇年。およそ二百年前に発見された、光速よりも速い素粒子は、それまで人々が常識としていた理論を完全に覆す物だったが、その事実の大きさから、どの学者も手を付ける事が出来ず、重要懸案のまま放置された。地球温暖化は足を止め、三十年ほど前からは寒冷化につま先を向け、各国政府は寒帯の井戸の凍結を防ぐ事が出来ず、冷害によって何年か不作が続いた。北朝鮮が独自に開発した核に対する防衛装置は、総書記の意思を超えて世界中に広がり、核の脅威は消え去った。北朝鮮は平和的に韓国と併合を果たした。車は空を飛ばず、テレパシーはその実在性が証明されながら実用化されていない。
僕の話もしよう。
高校二年生の僕は、独り暮らしで送る高校での生活を、多分に楽しんでいる。一年生の間に、文芸部に入った。平易な文しか書けなかったが、その着想が良いと、現代文の澤田先生から褒められた。隠然とした表現は苦手だったが、その実直さが良いと、顧問の松木先生にも褒められた。乗せられ、夏休みには雑誌の小説大賞に応募もしたが、筆運つたなく一次審査を通るに留まった。成績はどちらかと言えば優秀だったので、当然の如く進級を果たした。家で小さな祝賀会を開いた。冬休みになった。今度は、一次審査も通らなかった。始業式を迎えた。クラスメート達が、久しぶりの会話で体育館を賑わわしているのを見て、ふと疑問に思った。何故僕は、こうして一人で真面目にクラスの列に並んでいるのだろうか、と。そうしてやっと、僕は友人を作れていない事を自覚した。作るべきだと決心した。
そんな僕にとって渡りに船だったのが、新入生の文芸部への入部希望だった。僕が入った時には五人だったのが、三年生の卒業によって一人になっており、このまま行くと来年には、同好会への格下げが行われる所だったのだが、何を思ったのか、新一年生から七通もの入部希望届が提出されていた。全て、違う名前。どれも丁寧な字で書かれていて、悪戯という風でもない。僕は小躍りするような心持で、入部届部長確認欄にサインをした。
それが、昨日だ。今日は、新入部生徒が部室である二〇二教室に来る予定になっている。これまで一年間、全く友人色恋沙汰に関心を抱かなかった僕だからこそ滑稽なのだろうが、おかしい事に、不思議と人恋しさを覚えていた。だから、今日は普段にないほど落ち着かず、二年生初の授業も、聞いているようでノートは空白のままだった。
足音がする。どうやら待っていた彼らが来たらしい、と、僕は扉の方を注視し始めた。
「先輩先輩。"おだてる"も"あおる"も、同じ漢字でしたよね?」
「え? うーん……どうだったかな。辞書、要る?」
「あ、いえ、自分の物がありますので」
取り出しかけた電子辞書を、向かう先なくかばんの奥へと戻した。目の前で、古い広辞苑を開く彼女、愛は、新部員の中でも特に異端と言って良さそうだった。
「コイツ、いつもそうなんだよ。授業中なんてもんじゃない。中学の頃なんて、耐水紙使って風呂場でも書いてたんだぜ?」
隣から、同じく新部員の敏哉が、身を乗り出してそう言った。
「あ、私は、トイレで書いているのも見ましたよ~」
「どうやって?」
「え!? ……か、カメラで撮影、とか?」
「犯罪だぜ、それ」
ほわほわと、どこか浮かんでいるような雰囲気を持っているのが真紀。時々不用意に出る言葉のせいで、多数の女子との百合疑惑があるらしい。
「……これで全員か」
僕は、集まってくれた三人を見回して、そう呟いた。
思いの外、少ない。全部で七通あったのだから、半数以下しか来なかった計算になる。三人居れば同好会格下げからは逃れられるからそれで良いのだが、薄く寂しさを感じる。
「あ、はい、先輩。質問があります。先輩の作品、見せて下さい~」
「え? あ、うん、どうぞ」
僕の心中の落胆を全くの他所に、真紀が僕の半年前の作品を読み始めた。人に読んで貰うのはとても嬉しい。が、さっき知り合ったばかりで読まれるのは、多少恥ずかしい。
「真紀は読み専だかんな。中学校の頃も、こんな感じだったし」
「中学校にも文芸部があったの?」
「んー、いや。同好会崩れみたいな、ただ空いてる教室使って集まってただけなんだけどな」
敏哉の妙にフランクな口調は、そこで覚えてきたらしい。僕自身は別に良いのだが、対外的にはどうなのだろう、とも思ったが、あえて止めて敬語で話されても気まずいので、結局言い出さなかった。
「ほら、愛。書くのやめろって。家でやれよ」
「…………ふぇ。何か?」
「先輩が困ってっから、とりあえずこっちに来いって言った」
「……困ってますか?」
「え、と、困ってるかな」
僕がそう言うと、愛はやれやれと言った風で立ち上がり、僕の右前の椅子に座った。八つ円形に組んだ椅子の内、四つが埋まっていない異常事態だったが、とりあえず半分が埋まって心は落ち着いた。
愛が来たので、真紀も読んでいた僕の原稿を膝に置いて、僕の方を向いた。そうして、三人に見詰められると、果たして何を話して良いものか分からなくなった。
「……えと、戸田さん。自己紹介、お願いできる?」
戸田さんとは、愛の事だ。真紀が須本で、俊哉が上田だ。
「戸田愛。高校一年生です」
「…………」
「…………」
「……あ、うん、どうも」
とても簡素な自己紹介だった。また、三人の視線が僕に集中する。
「え……ええと」
僕は、去年入部した時の事を想起した。確か、あの時は、リレー小説なるものをした筈だ。
「交流も兼ねて、リレー小説でも書かない?」
三人の猛反対によって、僕のささやかな交流計画は一瞬にして更地へと姿を戻した。幼稚すぎて、やる気が起きないらしい。
「あ、じゃあ、先輩と私達で作品交換しましょうよ~」
そして結局、一番無難な真紀の意見に収束し、僕は三人からそれぞれ頒布用に印刷された薄い原稿を受け取った。
「…………」
「…………」
三人ともが、僕の少し分厚い本原稿を受け取ると、黙り込んで読み始めた。一人、取り残されたような気持ちになって、僕も一束手にとって開けてみる。
――
仮に、世界に梨が一つしかなかったとする。人々はその梨を欲するだろう。希少価値があるからだ。ただし理由はそれだけではない。梨自体が広く認知されていることも、条件に加わってくる。希少価値があり、周知がなされていれば、梨は人々によって欲されることが出来る。
世界に多数あるリンゴと、世界に多数ある虫食いリンゴを比較するなら、人々はリンゴをより欲するだろう。リンゴに価値があるからだ。リンゴに価値があり、価値のあることが一般的事実として認められていれば、リンゴは虫食いリンゴに勝る。
世界で一番足の速い人が居たとする。彼には、希少価値も、価値もある。だが、それが誰にも知られていなければ、彼は誰にも欲されないだろう。希少価値も、価値も、ただ彼自身でのみ知られ認められている物になるからだ。
では、私はどうだろうか。少なくとも、クラスメートには存在が認められているから、誰かに欲して貰うのには、希少価値か価値を求めれば良い。これは簡単な事のように思える。だが、私は、誰にも欲されていない。これは、私には希少価値も価値もない、という事実を示している。人間に於ける希少価値とは、突出した能力か明らかな個性のことであるが、そのどちらもが、私に欠けているのだと言う。
果たして、これは正しいのだろうか? 私は、正しくないように思う。何故なら、人には発現していない能力や個性が、眠っているからである。私は宇宙空間を泳いだことがないが、泳げば人類で最も速いかも知れない。お手玉は苦手だが、時に爆発的な集中力で、世界新記録を達成するかも知れない。これらは、自らにも認知されていない希少価値であろう。恐らくそれらの殆どは、その後の人生でも発露されない。しかし、潜在的な能力が誰にでもあり得る、と考えれば、この世に希少価値のない人間は居ない事になる。
――
開いたのは、愛の作品だった。物語小説が九割九分を占めるだろう、高校文芸部の中で、哲学論的な文章とは珍しい。感情のない書き方なのに、どこか物悲しい印象を受けるのも、不思議に思った。
まだ文章は続いていたが、今読むには重過ぎるような気がして、次の一束に手を伸ばした。
――
「飛ぶ豚も、ただの豚だ」
三十二世紀半ば。この頃になって、世紀前から全く動きが見えなかった進化について、目に見える顕著な例が示された。
羽を持つ豚が発見されたのだった。初出は、飛行機が墜落するというショッキングな事件に疑問を抱いた週刊誌が、その最中に空を飛ぶ謎の黒い物体を撮影し、それが紙面の右下コラムを飾ったことだ。色は、既存の豚とあまり変わらない色で、既に十種以上が発見されていた。
困ったのは畜産業農家である。飛び回る豚が各地で発見され、その数が増すに連れ、牧場の豚が段々と数を減らしていったのだ。豚が羽化する映像、などもインターネット上に広く公開され、人々は久々の楽しげな話題に、耳を傾けていた。
――
どうも、長編小説らしく、薄い筈の原稿用紙が、重なり合ってかなりの重量になっていた。文字の乱雑さから見て、恐らく俊哉の作品だろう。短い時間で全ては読めないので、各所を拾い読みしていくと、宇宙戦争物である事が分かった。飛ぶようになった豚が、ついに宇宙環境にも適応するようになり、既に宇宙開発に手を伸ばしていた人類を襲い始める。といった、考証や理論的な説明からは遠く離れた、ある意味遠大な作品だ。最後には、羊と山羊も宇宙を飛び回るようになり、それらが人類を救う。何をどうすればそうなるのかは分からないが、面白そうなので家に帰ってからじっくり読む事にした。
となると、残るは『読み専』の真紀の作品だけだ。丁寧にクリップで留められたそれを、丁寧に開く。
――
蜘蛛。彼は、それを、一心不乱に鷲掴みにして、幾度も、幾度も、口へと運んだ。暴れる何匹かが、彼の口内を強く咬んでも、彼は構わなかった。蜘蛛への、純粋な、憎しみ。それだけが、彼の殆どを、支配している。蜘蛛が、憎い。どうしても、憎い。何故、畜生ですらないお前達が、私を、こんな悲しみに突き落としているのか。何故、蚕にも劣った糸しか吐けぬお前達が、私を、こんな苦しみに縛り付けていられるのか。そんな疑問と、怒りと、憎しみに、彼は染まっていた。
――
……。もっと、詩的な、美しい文章が並んでいるかと思っていた。どろどろしているというか、おぞましさがこんなにも溢れる作品を書くようには、真紀の雰囲気からしても、外観からしても、やはり見えない。更には、このおどろおどろしい書き出しを、美しいエンディングへと導くには、あまりに原稿の枚数が少なかった。多分、ずっとこの調子なのだろう。
束をまとめて後ろの机に置いて、三人を見回してみた。どうも、彼らが書いている小説に比べると、僕の書いているそれは、あまりにも幼いように思える。いわく、大剣を振り回す少女だとか、陰陽道に通じた少年だとか、FBIに忍び込むスパイだとかだ。しかし、三人は、そんな僕の小説を、じっと読んでくれているようだった。
「ど、どう?」
恐る恐るそう訊いた僕の声に、下校時間を伝えるチャイムが重なった。まだ、新学期が始まってすぐだから、完全下校の時間も早いのだ。
「あぁ~……あ、先輩、これ、家に持って帰って読んでも良いですか?」
「うん、どうぞ。僕も、持って帰って読むね」
僕を含めた三人ともが、真紀に倣ってかばんの中に原稿をしまった。
立ち上がって、部屋から出る段になって、まるで当然の事を確認するかのような軽い口調で、俊哉が問うた。
「そういや、活動時間書いてなかったけど、毎日って事だよな?」
「……うん、そうだよ」
実際には、不定期という意味だった。募集要項を書いた時には、恐らく入部希望が全くないだろうと予想していたからである。一人で定期的に活動する気は全くなかったのだ。
「では、また明日」
愛の挨拶で、僕たちは別れた。
明日からは活動時間も長くなるから、明日までにどれか一つ読んでおこう、と僕は思った。