弐
小さな呼び声を聴いた。
聴こえた、気がしただけなのかもしれないけれど。
――時間の感覚というものが、ルカには分からない。
毎日、一日中、仄かな光すら届かないような薄暗い場所に居る所為か、忘れてしまったのかもしれない。
此処に幽閉されて、どれ位の月日が流れたのか、知る由もなかった。
……カルタは。
今もきっと、巫女として屋敷の中をくるくると忙しく走り回っているのだろう。母もそうであったように、楼の国の先見の巫女としての仕事は、確か山ほどあった筈だ。
何を思うとも、ルカにとってそれは、手を伸ばしても届かない、光の中の生活でしかない。
「……あ……」
つ、と。
頭から身体を貫くように走る、不思議な感覚。ルカはその感覚の正体を、知っている。
先見の力。それが降りてくる、予兆だった。
伝えなければ。カルタに、伝えなければならない。ルカは横たえていた身体を起こし、格子戸を叩いた。
すぅ、と音もなく近づいてきたのは、この世界では多く使われている、式神と呼ばれるモノだ――殊更、楼の国と命の国ではこの式神が民の間にも浸透していて、その力を使えるものは多いとされている。
『ご要件を、ドウゾ』
抑揚の無い、無機質な声が響く。「お願い、カルタに取次いで」
『お待ちくだサイマセ』
式神はあっという間に姿を消し――正確には目にも止まらない速度で地上へ飛んで行ったのだが、またあっという間に戻って来た。
『お言葉を、ドウゾ』
「屋敷の在るこの都に、何かが、来る。何かが来るの。民に害は与えない。けれど……」
けれど。その先の言葉を、ルカは伝えて良いものか、悩んだ。
先見の力は告げている。“何かが来る”、と。そしてその“何か”は、
「……カルタに、会いに、来る……だた、会いに来るだけ」
そう、告げているのだ。
「今日、ではない……明日の夕刻。それははっきりと、分かるんだけど……」
曖昧で御免なさい……と、ルカは式神を送り出した。おそらくこのような言葉では、カルタは納得しないであろう。だが、民に危害を加えないということだけは分かっている。
それならば、警戒すべきはカルタの身の安全。だが不思議と、ルカは危険を感じていなかった。
傷付けに来るのではない、そう、純粋にただ「会いに来る」という感覚だけが言葉のようにはっきりと伝わってくる。
何時もであれば、頭の中に、まるで自分がその場に居るかのような風景を見たりするのだが、それも無い。些か、先見と呼んでも良いのか分からないものではあったが、それ以外のなにものでもないことも事実で。
式神が行ってしまった先を見つめながら、ルカは言いようのない困惑を覚えていた。
* * *
楼の国には、こんな言い伝えがある。
『その力を持つ巫女は、国を動かし、人々を導くとされている。
その姿美しく、夜空を閉じ込めた藍の髪は静かに揺れ、
月の光を閉じ込めた琥珀の瞳は、未来をも映すだろう』
これは、他の誰でもない“先見の巫女姫”のことであり、この言い伝えを知らぬ者は、この国の何処を探しても居ないだろう。
祖母から母へ、母から子へ、子から孫へ。
脈々と伝えられていく思想とも似たそれは、物心付くころにはすっかり心の奥に根を下ろしている。
巫女姫の姿は、毎朝神託を届けている長から、伝承通りの美しい姫君だ、と聞かされるのみ。
実際に見えることなど、平凡と暮らしている民は殆ど――否、まったく無いのである。
「はぁ……やっぱり、憧れるよねぇ」
「…………いい加減五月蠅いぞ、凛」
しっし。掌を乱暴に振って邪魔であることを指摘してやると、「うっわ、冷たい壱月兄」凛はじろりと睨み返して見せた。
生まれてからこのかた十六年。祖母に耳にタコが出来るほど巫女の言い伝えを聞かされてきた、と言っている凛は、毎度毎度この言い伝えを口にしては、机に肘をつきながらほう、と息をつく。
その姿は恋する乙女さながらなのだが、残念ながら彼女自身、ただの一度も恋というものに縁が無いらしい。以前指摘した時に烈火の如く怒り散らしたから、もう口にしない方がいいのだろう。
楼の国、巫女姫が住まう屋敷が鎮座する都、銀の一角に佇む学び舎。その書庫に何時も通り本を読み漁りに来ただけだったのだが、先客に気が付けなかったのは些か不注意だった、と壱月は溜息をついた。
「毎度毎度会う人間にそれ言って回ってるのか? お前は……」
「いやあ、おじい様の近くで言うと、いくら言ってもお会いにはなれないぞ! って言われるからさぁ……」
ずるいよねぇ、と頬を膨らませる凛に、
「仕方ないだろう、お前は孫娘であって長じゃない」
そう言い聞かせるのも、何度目になるだろうか。
凛の祖父は銀の都長で、毎朝巫女姫の神託を民に届ける役目を担っている。神託は都長を通じ、式神に託されて各地へ伝えられるのである。
身近に巫女姫の存在を幼い頃から感じていた凛にとって、彼女に会うことこそが今のところの人生の目標、らしい。
凛は幼馴染であり妹分でもあるが、どちらかと言えば一般民にである壱月にとってみれば、それは叶わない話である。だから、凛の夢のような話に付き合うよりも、本の虫になっている方がよほど為になるし、楽しいと感じた。
結果――
「……で、用事は済んだな。じゃあ帰る。俺は忙しいんだ」
「え、何その脈絡のない区切り」
まだ話は終わってないのに! と叫ぶ凛を背に。壱月は数冊の本を片手に椅子を引くと、スタスタとその場を後にした。
だいぶ草臥れた書庫の戸を開けると、壱月自身が埃臭さを纏っていることに気が付いた。途端、眉間に皺が寄る。
古いだけあって歴史的書物があることは評価出来るのだが、この匂いだけは毎度いただけない。
やれやれ、と首を軽く回してから、家に向けて足を進めた。
……今日もまた、凛のあの話を聞いてしまった。それこそ、此方にも耳にタコが出来てしまいかねない。よく飽きもせずああしていられるな、と関心すらしてしまう。
慣れた道の角を曲がって、駆け足で通り過ぎていく子供たちを視界の隅に見た。すれ違う際に、巫女姫様ごっこ、という単語が聞こえた。
右を見ても左を見ても、巫女姫の話題が尽きることはない都。それが悪いことだとは思わないが、壱月はおそらく、皆ほど巫女姫に熱心に信仰を注ぐことは出来ていないだろう。
各国に祀られている、それぞれの巫女。どの国の巫女も摩訶不思議な力を持ち、常人とは違うそれで国家を支えている。
たった一人の力が、その土地に住まうすべての人の希望となり、光となるのだという。
――それは即ち、そのたった一人の存在が崩れてしまえば、国は駄目になってしまうということ。
「頼りきりっていうのが……どうもな」
ぽつりと呟いた言葉は誰に対するものでもない。だが、いくら“崩壊の刻”というあるかもわからない理から人々の心を救う為とはいえ、たった一人にその重荷を背負わせるのが気に入らないと言えば気に入らない。本人たちが、重荷と思っているにせよ、しないにせよ、だ。
……気に入らないからと言って、何が出来るわけでもないのだけれど。
「……?」
ふいに、慣れない気配を感じ、壱月は顔を向けた。目に映るのは見慣れた何時も通りの都の風景。行き交う人々も、馬車も、何ら変わった様子はない。
気のせいだろうか。数回辺りを見回してみたが、やはり何も感じ取ることが出来ない。
一瞬張ってしまった気を散らすように軽く首を振って、壱月は帰路を進んだ。
* * *
会いに来る。ただそれだけだと、ルカは言っているらしい。
カルタは自室でルカより飛ばされて来た式から、なんとも不可解な“先見”結果を聞いた。
都に、ルカもよく見えない何かが来る、という漠然とした言葉。今まで、ルカの先見がそんな曖昧な状況を見ることは無かった。
明日地震が来るから何処の地域の民を何処へ逃がせとか、天候が荒れるから対策をしなければその先数年何処の村が飢餓に苦しむことになるとか――これはほんの一部にすぎないが――的確なものが殆どだった。
それなのに、今回は“何か”が来る、しかも、カルタに“会いに来る”だけなのだという。
「……私に、会いに……」
考えられるのは、先見の巫女姫の力を求めて何処からか来る者くらいだが、そうとなると少々厄介なことになる。先見の力はルカにしか使えない。カルタは、突然の来訪者に対して先見が出来るわけではないのだ。
そもそも先見の力は、楼の国の役人の方針だとかで、神託という形で民に知らせることはあっても、個人的に先見をすることはない。誰か一人が巫女姫を抱え込み、大きな力を得て悪用することが無いようにという、これはカルタの母、祖母、更にはその前の代から続く決まり事であった。
ならば、いくら会いに来たとしても、先見の力をその相手に見せる必要は無いだろう。屋敷の人間が許す筈もない。
カルタは机の上の湯呑を手に取り、中身を口に含む。喉を通るまでにふわりと薫る桃の香りに、そういえばこれが桃の茶葉から入れた茶だということを思い出した。
「カルタ様」
一声に、びくり、と肩を揺らす。「如何ですか? お口に合いますでしょうか」
「……ええ……とても美味しいわ、有難う。入っても、大丈夫よ」
「失礼致します」
侍女がにこりと微笑みながら戸を開けた。手には茶器を乗せた盆を持っている。手にしていた湯呑を彼女が取り易い場所に置くと、有難う御座います、と頭を下げる。
「本日も良いお天気ですね」
「そうね。その所為で酷く冷えている気もするけれど」
「左様で御座いますね。寒さばかりは火鉢があっても辛いですわ」
何気ない会話。カルタは気付かれないように息をつく。早く、部屋を出て行ってくれればいいのに。
屋敷の中の人間は、誰もがカルタに対して親しみと敬意を込めて接してくる。それが嫌というわけではないのだが、些か肩が凝ることも事実だった。
昔は、そうではなかった筈だった。少なくとも、あの日までは。あの日から、すべての生活が一変したのだから仕方がない。それも、自分が望んだ道なのだ。
実の妹を、踏み台にし、利用しようとも構わない。何の罪悪感すら、感じていないのだ。
――だってあの子は、私からすべてを奪った元凶なのだから。
何を今更、迷う必要があるのだろう。何が来ても、この秘密に気が付く者など、居る筈が無いのだ。
カルタは、再び注がれた湯呑の中身を見て、有難う、と柔らかく笑った。
その笑みは、とてもとても美しい、無邪気な少女のようだった。