1-7: アリサ・レインフォード
ギルドの扉は、朝一番が一番重い。
湿った木の匂いと、紙に染みたインクの匂いが混ざっている。
誰もいない部屋は少し冷たくて、私の指先まで空気が通り抜ける。
窓を開けて、光を布の上に落とす。
それで、少しだけ仕事の気持ちになる。
今日も、いつもの仕事が始まる。
依頼票を揃えて、印章のインクを混ぜて、出納帳を開いて――
すべて“誰が来ても対応できるように”。
人は、訪ねてくる時、必ず困っているから。
扉のベルが鳴った。
振り返ると、見たことのない服を着た男が立っていた。
肩が少し落ちていて、目は疲れているのに、言葉の形は丁寧だった。
「冒険者登録をしたいんです」
旅人だ、と思った。
声に故郷の癖がない。
フェルミナは、旅人が時々迷い込む村。
大雨のあと、狼煙のあと、戦争の噂のあと――
“理由のある旅”がほとんどだった。
けれどこの人は違う。
目の奥に「理由のない迷い」があった。
私が知っている旅人は、“逃げてくる人”か“帰る場所がない人”。
この人はたぶん――
帰る場所が分からない人。
だから、印章を持つ手が少し優しくなった。
「生活魔術が使えるなら、登録できますよ」
そう言うと、彼は小さく、ほっと息をついた。
胸の奥で、“全身を下ろす音”がしたように思えた。
その瞬間だけで分かることがある。
この人は――戦うために来たんじゃない。
生きるために来た。
彼の名前は、冴島大輔。
年齢は私の父より少し下で、魔術士(一般)だと言った。
“魔術士”と“一般”を同時に言う人は珍しい。
普通、魔術士は自分の力を誇る。
魔力の量や、得意属性や、学院での成績。
この人は、力を隠す way ではなく、自分を小さく置いた。
それは臆病ではなく、慎重さだ。
旅人は時々、力で居場所を作ろうとする。
けれど、彼は違った。
力で賭けない。
力で証明しない。
力を隠す方が安全だと知っている。
そういう人は、村で生きられる。
登録には身元引受人が必要だ。
ベルトンさんが保証人を申し出てくれた瞬間、私の心配は半分消えた。
ベルトンさんは剣の腕よりも、人を見る目が確かだ。
人が嘘をつく時の息の止め方を知っている。
人が沈む時の目の光を知っている。
その人が「保証する」と言うなら――
まずは信じていい。
それが村のやり方。
だから、私は判子を押した。
印章が紙に沈む瞬間、大輔さんは深く頭を下げた。
旅人にとって、このカードは“生きていい”という許可証。
私にとっては、“守るべき人が一人増える”という印。
その日の昼過ぎ、ベルトンさんが笑っていた。
「ホーンボアを一撃で倒したぞ」
私は驚いて声を飲み込んだ。
一撃。
生活魔術でホーンボアを倒すことはできる。
だけど“消えた”と聞いた。
そして、「肉が残った」と聞いた。
矛盾だ。
魔術は、形を持つ。
火なら燃える跡、氷なら凍った跡、雷なら裂け目。
“跡もなく消える”なんて、魔術の形をしていない。
私は笑って聞いた。
「事故だったんですよね?」
大輔さんも笑って答えた。
「事故です」
その瞬間、少し安心した。
事故は、理由がある。
事故は、次に防げる。
事故は、“制御できる可能性”がある。
“才能”なら、手が届かない。
“異常”なら、誰も守れない。
でも事故なら、守れる。
だから、私は彼を“危険人物”ではなく**“守る冒険者”**に分類できた。
銀貨を渡した時、彼の指が僅かに震えた。
その震え方が、私には忘れられない。
“命を賭けた震え”じゃない。
“今日を生きられる震え”。
旅人が初めて稼ぐ銀貨は、重い。
値段じゃなくて、意味が。
「危険な依頼は禁止ですよ? 一般魔術士さん」
そう言うと、大輔さんは困ったように笑った。
まるで、何か大きなものを抱えてるのに、軽く見せようとしている人みたいに。
でも私は知ってる。
人は、軽くできる荷物しか軽く見せない。
だから、彼の荷物はまだ私には見えない。
夜になって、帳簿を閉じる。
ペン先に残ったインクが、光を吸う。
窓の外に、誰かの笑い声が混ざる。
ローデ亭の光が、細く伸びて道路を照らしている。
今日、冒険者が一人増えた。
村にとっては小さなこと。
でもその人にとっては、生き方が変わること。
旅が、“生活”になる日。
私は、受付の机に手を置いて思う。
> 「この人は、きっと誰かを壊さない」
それが一番大事だ。
魔術が強いとか弱いとか、私は分からない。
戦ったこともないし、学院の理論も知らない。
でも生活魔術だけで生きてきた私は、分かる。
> “壊す魔術じゃなく、残す魔術を使った人”
その価値は、世界のどこよりも――村で輝く。
誰も見ていない場所で。
誰にも知られない形で。
生活は、革命の始まりになる。
そんな人を、私は守りたい。




