1-24: 黒い壁が来る
森が、音を失った。
ほんの一瞬前まで、確かにそこにあったはずのものが、まとめて消える。
鳥のさえずり。
枝葉を揺らす風。
虫の羽音。
代わりに残ったのは、低く、重い振動だけだった。
地面が、唸っている。
それは地震じゃない。
揺れ方が違う。
波打つようでもなく、割れるようでもない。
近づいてくる。
大輔は無意識に、足元の土を踏みしめていた。
靴底から伝わる感触が、はっきりと変わる。
――量だ。
数でも、速さでもない。
もっと原始的な感覚。
> 「……来てるな」
呟きは、風に乗ることなく、すぐに落ちた。
森の奥。
視界の向こう側で、影が動く。
一本、二本――いや、違う。
それは一本ずつ数えるものじゃない。
角。
角。
角。
黒い線が、無数に絡み合いながら、前へ前へと押し出されてくる。
ホーンディアの群れだった。
一体一体は、鹿だ。
魔力を帯びた角を持つ、危険な鹿ではあるが、それでも単体なら対処できる。
だが――
> 群れになると、話が変わる。
森を“飲み込む”という表現が、これほど正確な光景もない。
下草が消え、低木が折れ、地面が削られていく。
群れが進んだ跡には、道ではなく、空白が残る。
踏み固められ、荒らされ、
そこに「生き物がいた痕跡」だけが刻まれる。
> 「……災害だな」
大輔は、乾いた息を吐いた。
正面突破は無理。
これは判断ではなく、事実だ。
地上に立ったまま迎え撃てば、
角の密度に押し潰される。
一体を倒す間に、十体が迫る。
十体を捌く前に、百の突進が重なる。
速度でも、威力でもない。
量そのものが、攻撃になっている。
> 逃げ道は――
視線が、自然と上を向いた。
> 上だ。
決断に迷いはなかった。
躊躇している時間は、すでにない。
大輔は左手を上げる。
指を軽く曲げ、何かを掴むような形。
空気は、掴めない。
だが、押すことはできる。
肺に空気を満たす。
胸の奥まで引き込む。
そして――吐いた。
ドンッ!!
足元で、空気が爆ぜた。
爆発ではない。
破壊でもない。
反転だ。
下向きに圧縮された空気が、
逃げ場を失い、地面を叩き、跳ね返る。
その反発が、大輔の身体を持ち上げた。
一瞬、胃が浮く感覚。
視界が揺れ、足元が遠ざかる。
だが――落ちない。
下からの風圧が、確かに身体を支えている。
> 「……よし」
声は、思ったより落ち着いていた。
森が、下に沈んでいく。
さっきまで立っていた地面が、
一段、また一段と距離を取る。
その瞬間、群れが反応した。
数百の頭が、一斉に上を向く。
無数の瞳。
無数の角。
> 「……見られたな」
その言葉通りだった。
獲物を見つけた、というより、
邪魔なものを見つけたという目だ。
群れの前列が、跳ねた。
鹿は飛ばない。
――普通は。
だがホーンディアは違う。
筋肉と魔力を同時に使い、
地面を蹴り、角度を無視して跳躍する。
一体。
二体。
三体。
前列が跳び、
その影から、次の列が押し出される。
> 「……来るぞ」
言った瞬間、理解した。
これは第一波だ。
まだ、始まりですらない。
角が、空間を裂く。
風切り音が、鼓膜を叩く。
空に逃げたつもりが、
空も安全ではないと、教えられる。
大輔は空中で身体を捻った。
足裏に意識を集中させる。
まだ、撃たない。
まだ、倒さない。
今は――位置を取る。
> 「……数で来るなら、こっちも場所を使う」
言葉にした瞬間、
最初の角が、目前を掠めていった。
第一波が、完全に跳び切る。
そして――
森の奥で、さらに大きな影が、動いた。
群れは、まだ終わっていない。
黒い壁は、
これから本気で、押し潰しに来る。




