1-1: 森の奥から
湿度が重かった。
靴底に泥が貼り付き、歩くたびに足が沈む。
夜の森は、音が少ない。
風で揺れる枝の擦れ合う音だけが耳に届く。
スマホの光を頼りに歩く。
圏外の文字が、世界との断絶を象徴する。
> 「まずは、人を探す」
希望じゃない。
祈りでもない。
現実的な判断だ。
狐が消え、神社が消え、参道が消えた。
なら次にすべきことは――疑うことじゃない。
“生きる方法”を探すことだ。
どれだけ歩いただろう。
枝を払い、湿った土を踏みしめる。
方向感覚は頼れない。
空は木々に遮られ、月の位置も曖昧だ。
汗が額を伝う。
呼吸が熱い。
足を止めたら、心が折れそうだった。
その時、空気が変わった。
木々が途切れ、視界が開ける。
風が広がり、湿度が薄れる。
草の匂いが重層的に混ざり――“人の気配”がした。
脳より先に、心が反応した。
> 「……村、か?」
開けた先に、小さな村があった。
木組みの家。
干し草。
遠くで水車が鳴る音。
低い煙突から、ゆらゆらと上がる煙。
“古い”――でもどこか知らない。
看板に文字が彫られていた。
【フェルミナ村】
……読めた。
どうしてかは分からない。
見たことがない書体なのに、意味が理解できる。
つまり――言語の壁が存在しない。
その事実が、現実を大きく曲げた。
農具を担いだ男がこちらを見る。
驚いた顔のあと、普通に声を掛けてきた。
> 「おう。旅の人か?」
言葉が通じる。
息が漏れた。
それは安堵だった。
“俺は完全に孤立していない”――
その一つだけで、足はまだ前に進める。
> 「ええ……そうです。旅の者です」
言いながら、自分で違和感を覚える。
本当は旅人なんかじゃない。
帰り道も、目的地もない。
地図から落ちた人間だ。
だが、「旅の人」と呼ばれた瞬間に、
俺はこの世界での“立場”を得たように感じた。
村の中心に酒場兼宿屋があった。
【ローデ亭】
扉を開けると、暖かさに包まれた。
皿の音。
笑い声。
パンとスープの匂い。
店主はベルトンと名乗った。
大柄で、よく笑う男だ。
> 「通貨は持っていない」
そう正直に告げると、ベルトンは躊躇なく笑った。
> 「困るのは当たり前だ。まずは腹を満たせ。それから働け」
知らない世界で、知らない文化の中で。
俺を“旅人”として扱う言葉があった。
救いとは、こういう形で降ってくるものらしい。
テーブルで、水が空中に集まり、カップに落ちる。
別の席で、少女が指先で風を起こし、泡を飛ばす。
魔術が生活の技術として存在している。
特別ではない。
日常に溶け込んだ“技術文化”。
魔術は才能でなく、学習で使える。
そう聞いた瞬間、胸が熱くなった。
ここは――本当に“別世界”だ。
夜が更けて、店が締まる頃。
俺はベルトンに尋ねた。
> 「簡単な魔術を教えてくれないか?」
ベルトンは驚いたあと、愉快そうに笑った。
> 「いいとも。俺は剣士だが《ファイア》くらいは教えられる」
俺は深く礼をした。
> 「ありがとうございます」
すべてが分からない。
だが――学べば使えるなら、やる価値はある。
この世界で生きる術を、手に入れるために。
ベルトンは娘のミリアを連れて、村の外れへ向かった。
その時はまだ知らなかった。
たった一度の《ファイア》が、世界を変えることになるなんて。




