1-15: 蛇に道を塞がれた日と、皿の上の救い
俺は行商人だ。
名前を聞かれることはほとんどない。
旅人は、名より信用で生きる。
信用は――荷が届くかどうか、それだけで決まる。
だから俺にとって一番怖いのは、
道に立つ影じゃない。
道そのものが消えることだ。
ブラッディパイソンという魔物は、道を殺す。
地図に線を引いても意味がない。
奴は線の上を這い、踏み潰し、
「通れる」という概念ごと壊す。
噂を聞く前に、俺はそれを知った。
森の入口で、地面が跳ねた。
次の瞬間、赤い塊が視界を埋めた。
蛇じゃない。
筋肉の塊だ。
馬は声を上げる暇もなく消え、
荷は森に散り、
俺は地面に転がった。
逃げた。
振り返らなかった。
商人が命を拾うというのは、
何かを捨てたという意味だ。
俺だけじゃない。
この街道を使う商人なら、
誰もが似た話を一つは持っている。
だから、蛇が怖い。
フェルミナ村は、本来なら重要な通過点だった。
だが蛇が出てから、
誰も寄りつかなくなった。
理由は簡単だ。
道が死んでいた。
それなのに――
再び村に立ち寄った時、
空気が違った。
車輪の軋む音が重なり、
馬が草を噛む気配があり、
人の声が遠くでほどけている。
そして、匂い。
肉を煮た匂いだ。
濃く、甘く、骨の奥まで煮詰めた匂い。
扉を開けると、ローデ亭は人で溢れていた。
笑い声。
足音。
低く押し殺したような笑い。
中央の大鍋に、白いスープ。
ミルクじゃない。
骨の白だ。
主人が、当たり前の顔で言った。
「蛇のシチューだ」
それ以上、説明はなかった。
胸が冷えた。
蛇は、俺から全てを奪った。
仲間を、馬を、荷を、道を。
その蛇が、
鍋の中にある。
どうやって?
誰が?
なぜ今?
答えは、誰も言わない。
誰も聞かない。
俺は椅子に腰を下ろし、
言葉が先に出た。
「……もらう」
肉は柔らかかった。
噛む前に崩れ、
味が舌から体に落ちていく。
深く、濃く、温かい。
蛇は俺を殺しかけた。
蛇は道を閉ざした。
だが今、
蛇が道を開いている。
それが、理解できなかった。
周囲の会話が、断片的に耳に入る。
「また増えたらしい」
「今日は角が四つ分」
「解体が楽なんだってさ」
「心臓が……ないとか」
笑い声。
冗談めいた調子。
だが、誰も理由を知らない。
倒した話をする者はいない。
戦った話もない。
名前も、顔も出てこない。
結果だけがある。
俺は、店の中を見回した。
旅人風の影はある。
だが、誰が“それ”をしたのかは分からない。
分かるのは――
蛇がいない、という事実だけだ。
恐怖が終わる瞬間は、
剣で倒した時じゃない。
魔物が、
生活の中に溶けた時だ。
皿の上で、
血が味に変わった時だ。
村を離れる。
空は暗く沈み、
星が一つずつ増えていく。
道は、静かだ。
次には荷車が動く。
次には商売が戻る。
理由は分からない。
だが、道は生きている。
それで十分だ。
最後に、独り言が漏れた。
「……誰がやったんだか」
答えは返らない。
この村では、
理由より先に結果が来る。
それが、
フェルミナ村の平穏だった。




