プロローグ
【プロローグ】
――失踪事件は、都市伝説から始まった
佐藤悠斗が消えた――
その電話を受けた時、俺はコーヒーを飲んでいた。
会社帰り、コンビニの安物だ。
プラスチックの蓋が震えて、湯気が指に触れる。
スピーカー越しの声は、落ち着いているのに不自然だった。
> 「冴島、お前、見て来てくれないか。悠斗が……いなくなった」
冴島大輔――それが俺の名前。
中小プログラム会社の、
どこにでもいるエンジニアだ。
慎重で、面倒くさがりで、合理主義。
幽霊も都市伝説も信じちゃいない。
だが「後輩がエレベーターで消えた」という話を、
笑い飛ばせるほど強い人間でもなかった。
夜のマンション前。
外灯だけが白く光っていた。
古い集合住宅。
鉄骨の重さがむき出しの建て付け。
壁を伝う苔の跡。
ガラス窓の奥で、テレビの光が揺れる。
管理人は渋い顔で俺を迎えた。
> 「防犯カメラの映像は見せられない。ルールなんでね」
当然だ。
ただ、管理人は少しだけ言葉を足した。
> 「……エレベーターが、不自然な階層移動をした。
ほら、上がって下がって、また上がって……普通じゃない」
普通じゃない動きを見た、と。
それだけで充分だった。
俺は軽く頭を下げる。
> 「ありがとうございます。助かります」
エレベーターの前。
ステンレスの鏡面に、疲れた自分が映る。
会社ロゴ入りパーカー。
肩からずれたショルダーバッグ。
扉が無機質に開いた。
俺は階数ボタンを押す。
――悠斗が最後にいた階。
――戻ってきた階。
――管理人が見た“順番”。
同じ操作、同じ順番で。
扉が閉まる。
箱が上に動く。
小さな重力の揺れ。
電子音。
ただ、それだけ。
何も起きない。
当たり前だ。
重力とワイヤーとモーターで動く機械。
ただ一人を飲み込み、帰ってこなかったという事実を除けば。
扉が開いた時、俺は息を吐いた。
> 「……信じたわけじゃない。確かめただけだ」
帰り道、古い神社があった。
苔むした鳥居。
割れた石灯籠。
濡れた敷石。
参道の奥は、闇が深い。
手水鉢に月が映り、揺れた。
俺は賽銭箱に小銭を入れた。
> 「悠斗が無事なら、それでいい」
信じているわけじゃない。
思考を整理する時間だけ、借りたかった。
――カラン、と石が転がる音がした。
振り向く。
一匹の“狐”がいた。
細く、白く、闇に浮かぶ輪郭。
尾が揺れる。
月光を吸ったような影。
目が合う。
狐は一度だけ鳴き、参道の奥へ走った。
理由なんてなかった。
ただ――
> 「気になる」
その衝動だけだった。
参道の先は森だ。
木々が深く沈む。
葉が空を覆い、月が細くなる。
狐の足音は軽い。
遠い。
追っているのか、導かれているのかも分からない。
数十メートル進んだ時――振り返った。
――神社が、ない。
鳥居も、参道も、石灯籠も。
来たはずの道が、存在しない。
湿った土と、無数の木々だけが広がっていた。
息が震える。
> 「……あれ?」
手のひらの汗が冷たい。
匂いも、音も、空気も変質している。
ここは――どこだ?
スマホを取り出す。
圏外。
GPSも現在地を返さない。
画面の光が、森の中で異物のように浮かぶ。
> 「山奥……なのか?」
森の中で生活など想像できない――その一点だけが鮮明だった。
まず――人里を探す。
湿った地面を踏み、枝を払いながら歩く。
風も、月も、空も――
さっきまでいた世界と違う気がした。
それでも、歩くしかない。
立ち止まれば、現実が“壊れる”。
だから前へ。
足音だけが、自分の存在証明だった。
――この夜、一人のプログラマーは、世界の裏側へ踏み出した。
都市伝説は、現実じゃない。
けれど――
> 現実が“都市伝説”を追い越す瞬間は、確かにある。




