土に還る日
旧暦の七月。
わたしの祖母は土に還る。
・・・
「は、さっむ」
八月というのに昨晩から異様に冷え込み、半年ぶりに大地は霜をかぶった。三年履き続けだいぶ傷のついたクロックスがさくさくと、まだ誰も歩いていない場所へ足を伸ばすたび靴底から音を鳴らす。朝方四時の講堂へ続く道はたまに通る車を除きほとんど人の気配がない。この様子なら扉は開いていても、人はいないかもしれない。ふむ、考え込んで詰めていた息を吐きだした。
学園の講堂地下に墓地があるのはうちじゃ常識だ。そこに親族が埋葬されている人間もそう珍しくない。わたしもその一人で、会ったこともない祖母の骨がここには埋まっている。
そして今日は、その骨を掘り出して土に還す予定の日だった。
「……早く来過ぎかな」
小さくつぶやく。講堂まであと五、六分といったところだ。さすがに早朝四時はやりすぎたかと今更になって後悔した。今更な気もするし、そもそもここまでで三〇分かかった。もう一度同じ労力を繰り返すのは気が重い。
そう考えているうちに重くて白い扉が目についた。鍵は掛かっていないようで、押したらぎい、ときしんだ音を立てながら外側へ開いた。
「は……」
また息を吐き出す。
そうして深く吸って、ステージの奥へ向かった。
・・・
わたしの生きた時代はとてもとても、冷たくて暗い、どんよりした世界情勢の時でした。これでもそれなりの家の娘でしたからどんなに大変な時期であろうと結婚だけはしなければなりませんでした。そうしてあてがわれたのはわたしたちよりほんの少し裕福なお家の二十数歳年上の男性。そのころわたしはまだ十六歳でしたから。四十歳に足掛けしようとしているその男性が恐ろしく老けて見えたんですね。女としてのしあわせは当然ほしかったけれども、どうしてこんなおじいさんと結婚させられるのかと内心怒っていました。ですがそんなこと、到底言えなかった。両親が怖かったのです。それに戦争だってはじまって、気が気じゃあなかった。流されるまま結婚して、何とも恐ろしい初夜を迎えました。ああ、とても怖かった。今では笑える話ですが、やっぱり心はまだ子供でしたから、そういった行為が汚らわしくて仕方ないとも思っていたんです。ひたすら苦痛でした。ですがそれの終わった後、翌朝のことです。主人はとても気遣わしげに笑って、ゆっくりわたしと話してくれました。昨晩のことがむしろ夢だったのではないかと思うほどに優しくて素敵な時間でした。わたし、その時に正直に言いました。「あなたのこと、頑張ってもおじいさんとしか思えないわ」すると彼は笑って「しょうがない。もうこんな歳だからね。でも、そうだね、友達としてなら、見ることはできるかもしれないだろう?」っていうのです。目の前を星が瞬くってきっとこういうことを言うんですね。そこからわたしたち、お友達になって、親友になって、大親友になりました。それからまた色んなことがあって、きちんと夫婦になったのはたぶん、結婚して十年が経った頃でした。ちょうど戦争も激化していて、悲しいかな夫の元へ赤い紙が届きました。みんなでお祝いして送り出しました。嬉しいだなんて思えませんでした。泣いて、泣いて、泣いて。それでも夫は帰ってこない。当然、国のため命を賭して戦っている最中なのですから帰ってこれるわけもないのですが、ひたすら胸が張り裂けそうでした。でも、ちょうどそのあたりにお腹の中にある命に気が付きました。だからわたしは、生きなければいけないと、彼とわたしの結晶を守り抜かなければいけない、と。ふしぎですね。数日前までワンワン泣いていたのに今は毅然とこの両足で立って、家を守っているんですから。
お腹の子が生まれました。とても可愛い顔で笑うのよ。あなたがここに居ないのが悲しいです。戦争はまだ終わりそうにありませんね。貴方、知っていますか。空から爆弾が降ってきたことがあります。恐ろしかった。聞いたこともない轟音、肉の焼ける匂い、濃い煙に子供の泣きわめく声。きっと、地獄ってここと似た姿をしているんでしょうね。ええ、シェルターに逃げ込みました。きちんと無事ですよ。
・・・
ステージの右袖の奥の扉へ手を掛けた。講堂の入口のそれよりもはるかに重い、ずっしりとした感覚が腕に来る。やっぱり地下だからか、中に入ると外よりも数度低く、ひんやりとして感じられた。壁伝いに歩いて行って電気を付ける。うす暗闇がぱっと色をともし中を照らした。ここに祖母がいるというのは知っているが来たのは初めてだった。名前を探して歩き、広い広い地下の奥から三番目にあるのを見つけた。誰が供えたのかもわからない真っ白な百合が二輪、透明なガラスの器に活けられているのがなんだか頭に残った。
しゃがみこんで古い墓石をなぞる。土に還る日、だなんて言うけれどここに埋められた時点で土に還っている気がするのはおかしいだろうか。なんとなく、ここの風習はよくわからない。腕時計をそっと見る。いつの間にか五時を過ぎていた。意外と探すのに時間がかかったらしい。
足を屈伸して近くのベンチへ腰を落ち着ける。それなりに広い墓地だからか、こういった座る場所があるのはとてもありがたい。
墓を見つめる。と、扉の開く音がした。ゆっくりとそちらへ目を向ける。わたしと同じくらいの青年が白百合を片手に、左足を引きずって入ってきた。
「……ん、おや。おはよう。君もお墓参りか?」
優しそうな笑みとやわらかい声を掛けられる。それに軽く頭を下げて返事をした。
「はい。会ったことはないんですけれど、祖母が今日、土に還る日らしいので」
そうかそうか!とこころなしうれしそうにこちらへ彼は近づいてくる。そうして祖母の墓の前で泊まり、手に携えた白百合を祈るように花瓶へ挿した。
「あ、もしかして祖母の知り合いですか……?そこ、祖母のお墓なのでもしかして、とおもって」
気になって話しかける。対する青年はとても愛おしそうなまなざしをして、その墓を見たままだ。
「ああ、うん。ちょっとね。大切な友人さ」
祖母はわたしが生まれるころには死んでいたから、彼が友人になれるとはとても思わなかったが曖昧に頷いておいた。
「ねえ、きいてもいいかい。君は土に還るとはどういう意味だと思う」
突然の質問に戸惑った。風もないはずなのに白百合の匂いがふわりとこちらへ流れる。
「あ、えと、土に埋められること、じゃあないんですか」
なんとなく答えないといけない気がして凡平な答を返す。
「そうだね、でも私は思うんだ。六道の輪に戻ることじゃないか、とね」
「りくどう・・・?」
「いわゆる輪廻転生というやつさ。だから土に還る日に君が来てくれたのが、とてもうれしくてね。きっと彼女も喜ぶ」
意味がよくわからなくて、でもなぜか説得力があるのだから困る。
「隣、座っても?」
とっさに首を横に振りたくなって、引きずる脚を思い出し縦へ振り替えた。
・・・
夫が帰ってきました。戦争で片足を駄目にしてしまったから早くは歩けないけれど、生きていてくれただけで嬉しいのです。戦争が終わったことが、ようやく知らされました。ながい、ながい、悪夢でした。やっと終わるのね。初めて見ただろう娘に拒絶される姿がなんだか可愛くて笑ってしまったら、拗ねてしまったので好物のおむらいすを作ってあげました。もう、洋物だからと規制する必要もないのです。隠れて作る必要はありません。せっかくすべてが終わったのだから、街が落ち着いたら三人でどこかに出掛けましょうね。しばらく危ないですから。以前よりしゃっきりしたわたしに目を見張りつつ誇らしそうにする貴方と久方ぶりに手を繋ぎました。もう離したくありません。ああ、でも悪い癖ね。貴方が死んでしまうんじゃないかってことばかり考えていたものだから、いまもまた考えてしまいました。きっとわたしよりも。早くにこの世から消えてしまうんでしょうね。哀しい想いがあふれてやまないわ。幼い娘は何かを察したのか、ぎゅっと抱き着いてくれました。別に、いまだに娘から逃げられているあなたに自慢したわけじゃないのよ。そんなことしないわ。確証はないけれど。
ねえ、貴方。死んでしまってもまたいつか、会いましょうね。娘のしあわせをしっかり見届けたうえで、いつの日か貴方に会いたいわ。
今日、貴方の骨を焼きました。わたしも泣きたかったけれど、娘がいるもの。娘が泣いているのに、わたしが無責任に泣いて彼女を放置するなんてこと許されないわ。何とか上を向いて、目に張る涙をこらえました。お家に帰ったら思わず泣いてしまったけれど、わたし、がんばったでしょう。お箸で骨を拾ったわ。貴方、こんなに小さくなっていたのね。抱えた骨壺が異様に重かったわ。貴方の命の重みね。貴方の書斎がとても寂しかったわ。きっともう、貴方が居ないからね。涙が止まらないわ。でも立ち止まってしまうと、娘も前に進めなくなってしまう。いつの日か、お話したわね。また、あいましょうね。
そうね、再開した時はとびきり綺麗な白百合の花をくださいな。貴方とわたしが、初めて友達になったときも、夫婦になった時も、変わらずお庭にあったあの百合よ。
そのお花を見たら、わたし、こういうわね。
「おともだちになりましょう」
・・・
そのまま青年とは特に話すこともなく、祖母が土に還るのを待っていた。何時だっただろうか。多分八時だ。人がぞろぞろやってきて祖母の墓をゆっくり掘り返した。それから骨壺を取り出して墓地の右奥にある外へ続く階段へ移動した。わたしもその青年も、ゆっくりそれについていく。
「……」
みんなが見守る中、“土に還る日“は始まった。
祖母の骨壺からそっと骨を匙で取り出し、広げた白い紙の上へ並べた。初めて見た人の骨は薄く、脆く、粉々だった。ぼんやり見るうちにその作業は終わり、いつの間にか火をつけたらしい小さな焼却炉のなかへ、それは投じられた。
「これで、おわりです」
一切の流れを取り仕切っていた男性が声を張る。ぽかんと見つめてしまったわたしは悪くない。なんだか、拍子抜けした。こんなあっけないものだったのかという気持ちだ。この青年もそう思ったんじゃないだろうか、そうやって隣に目を移すが彼はただ嬉しそうに微笑んで炉を見つめるばかりで、なんだか怖いなと思った。
「……おわり?」
ちいさく、つぶやく。
あっけなかった。だが呟いてみるとなんだか、本当に終わったんだなとも認識した。
今日、祖母は土に還った。
ただ骨を燃やしただけに見えたそれは、後で母に聞くとどうやら灰にして土に埋めるためにしていたらしい。掘り起こしておいてまた埋めるんだな。相変わらず、土に還ったのかどうか、よくわからなかった。
最後、聞いた言葉がある。
あの青年が焼却炉で燃える祖母に向けて言った言葉だ。
「また、ともだちになろう」
こんどは赤いバラも添えて。
なんだかそれは、愛の告白のようだった。
今から五年前の2020年7月17日が最終保存日になっている短編を見つけて、過去の私の文字をほんの少しでもいいから他の人に見てほしいな。と思い投稿しました。
昔はどんなことを思ってこれを書いたんだろうか、たぶん言葉の響きがきれいなものになることばかり考えて書いたような気がします。
文章を書くことなんてもうすっかり忘れて当時に及ばないようなですます調のものしか書けない今、ちょっとだけ、私と一緒に過去を懐かしんでいただけたら嬉しいです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。