お針子令嬢 〜結婚直前で貧乏を理由に婚約破棄されたけど、服作りが楽しくなってきたのでどうってことないです〜
お知らせ ★電子書籍化が決定しました。リブラノベル様より 9月25日(水)シーモア先行配信(限定SS付き)10月19日(土)kindleなど他書店 となっております。素敵なイラストは浅島ヨシユキ先生です。イリスたちのその後の一騒動を書きました。よろしければ読んでいただければ嬉しいです。
エーベルハルト男爵家の令嬢であるイリスは、幼い頃から美貌と可憐さを兼ね備えていると評判だった。
しかし、転落は突然だった。
それはイリスが十八になった年のことだった。
女子学院を卒業し、今年の秋には婚約者のヴィクトールに嫁ぐ。
花嫁修業として、簡単な料理や屋敷の管理を学んでいた。
そんな矢先のことだった。
薄曇りの朝、イリスはいつもと変わらない屋敷の静寂の中で目を覚ました。
まだ早い時刻だが、鳥のさえずりが微かに聞こえる。薄いレースのカーテン越しに差し込む淡い光が部屋を照らしていた。
だが、その日の空気にはどこか重苦しいものが漂っていた。
父親の男爵は普段の威厳を失い、疲れ切った表情でテーブルに向かっていた。
銀の器に盛られた食事もほとんど手を付けず、深い溜息を繰り返している。
その姿にイリスは胸騒ぎを覚えた。
「お父様、どうかなさいましたか?」
イリスは静かに尋ねた。
男爵は一瞬だけ目を上げたが、すぐに視線を落とし、重い口を開いた。
「イリス、みんなも……聴いてくれ。うちの事業は行き詰まってしまった。あれほど期待していた鉱山も、出資者たちもすべて去ってしまった。もうどうにもならない……」
その言葉にイリスは言葉を失った。
大きなピカピカ光る宝石を、首輪をつけた飼い犬のように首から下げ、肥え太っている母親が食器を取り落とした。
遊び人で有名な弟のライナスが、
「まさか、そんな! 嘘でしょう、お父様」
と取り乱している。
イリスの頭の中で、これまでの生活が崩れ落ちる音が響いた。
父親の事業は誇りであり、家族の支えだった。
それが一瞬で消え去る。
現実を受け入れるのは、あまりにも厳しいものだった。
「それでは私たちは……」
イリスは震える声で続けた。
「貧しくなる。そして多くの借金が残る。もう使用人たちを雇うこともできない。この屋敷も、すぐに手放さなければならないかもしれない」
男爵の声は深い絶望に満ちていた。
その瞬間、屋敷のドアが乱暴に開け放たれた。
執事が駆け込んできて、顔色を失っている。
「旦那様、外に出資者たちが……」
イリスたちは顔を見合わせた。
重い足取りで応接室に向かうと、そこには厳しい表情の男たちが立ち並んでいた。
彼らは冷たく言い放った。
「我々の投資はもう限界だ。回収できるものはすべて回収させてもらう」
「ま、待ってくれ! まだもう少し……」
「これまで、我々は待ち続けた。もう限界だよ」
父親は抗議しようとしたが、言葉にならなかった。
屋敷中の貴重な舶来品や高価な芸術品には、値札が貼られ、持ち去られた。
不幸はそれだけでは終わらなかった。
その翌日、イリスの婚約者であるベリーズ伯爵の長男ヴィクトールが、婚約破棄を言い渡しにやってきたのだ。
朝早くから、メイドが緊張した様子で報告に来た。
「イリス様、ヴィクトール様がいらっしゃいました」
その言葉に、イリスの心臓は一瞬止まりそうになった。
婚約者であるヴィクトールが、こんな早朝に訪れるとは思ってもみなかった。
彼女は急いで髪を整え、礼儀正しく応接室に向かった。
応接室のドアを開けると、そこにはにきび面のヴィクトールが、熊のようにのっそりと立っていた。
父親が蒼白な顔でうなだれて、ソファに座っている。
「ヴィクトール様、おはようございます」
イリスはできるだけ平静を装った。しかし、ヴィクトールの次の言葉は彼女の心を氷のように冷たくした。
「正直に言う。僕はもう君との婚約を続けることはできないと告げに来たんだ。婚約を解消しよう」
その言葉にイリスは目を見開いた。
やはり、そうではないかと頭で理解はしていた。
ヴィクトールは視線を逸らした。
「君の家の財政状況が悪化したことを聞いた。僕の家族もそれを知り、婚約を続けることは不可能だと判断したんだ」
イリスはショックを受け、言葉を失った。彼女の頭の中で、昨夜の父親の言葉が再び響いた。貧しくなったことで、全てが崩れ去ろうとしているのだ。
十四の頃から今まで四年間、この人に嫁ぐと信じていた。
ときめきを感じる間もなく決まった結婚でも、種から芽が出るように夫婦の絆は育つものだと思っていた。
愛などなかったが、情はあった。
しかし、それも今日で終わりだ。
そう思うと、哀しみよりも一抹の寂しさがイリスの胸を突き上げた。
今日までありがとうございましたと頭を下げようとしたイリスに、ヴィクトールは言った。
「まあ、僕は他の男たちに比べて、随分と誠実な男だと思うよ。使用人ではなく直々に僕が挨拶をしにきたのだから、光栄に思ってくれ。君のところの事業が傾いてるのは知ってたけど、まさか破産するだなんてね。ふん、金払いしかとりえのなかった男爵も、これで終わりか。つまらないもんだな」
「そんな言い方、おやめになってください」
イリスの目に涙が浮かんだ。
「お父様は……お父様だって、これでも精一杯やっていたのです」
ヴィクトールはため息をついた。
「やれやれ。君は僕を苛立たせる天才だな。いちいち泣くなよ。負け犬を負け犬といって何が悪いんだ? これだから女は面倒なんだ。君も金があるうちはよかったけれど……もうドレスも宝石も買えなくなって、没落するだけ。若さを失ったら女は終わり。無情だな、人生は」
「訪問には感謝しますわ。ですが、もうお帰り下さい」
イリスの声は震えていたが、彼女は必死に涙をこらえて、冷静になろうとした。父親を侮辱し、女のことなんて分かってもいないのに見下げてくる。
こんな男のために泣いてなんかやるもんか。
ヴィクトールは訳知り顔で言った。
「まあ、今日まで僕の婚約者でいられたことを誇りに思ってくれよ。君は釣り合いというものを考えたことがあるか? 僕の家は伝統的な貴族だ。君の家は潤沢な資産があり、僕の家は爵位と伝統があった。今や状況は変わったんだ。君のところの負債を負って共倒れになるわけにはいかないし、もしも君の家が没落すればうちは後ろ指をさされる。正直に言うが、家に代々伝わる家宝もなく、流行のドレスも着られない女性は、僕にとってもはや女性ではないのだ。まあ、君はそんなに美人でもないし、未練なんてないよ」
その言葉に、イリスは深い怒りと失望を感じた。
婚約を破棄されることは仕方がないとしても、言い方がある。
「貴方にとってはそうかもしれませんが」
イリスはキッとヴィクトールを睨んだ。
「伝統的な貴族は、不必要な言葉で他人を傷つけるのが習慣なのですか?」
早く黙って帰れと念じながら、イリスは唇を噛んだ。
ヴィクトールは高圧的な表情でイリスを見下げていたが、おおげさに首を振った。鼻がまがりそうなきつい香水の匂いがした。
「僕個人としては同情を禁じ得ない。母も言っていたよ、イリスのような成人にさしかかろうとしている女性との婚約を無くすだなんて! 僕が刺されるんじゃないかと気が気じゃ無い様子だったさ。今日だって家を出るのも苦労したのだ。僕は優しいからね、イリスに最後に顔を見せてあげようと思ったのさ」
「それは、どうも、ありがとうございました」
イリスは吐きそうになりながら、言葉を絞り出した。
この期に及んで、婚約者はほとほと愛想が尽きた。
うなだれた父の姿がイリスの胸を痛めた。
(ああ、ヴィクトール様って、こんなにくだらない男だった?)
必要の無い悪意が飛んでくる不快な違和感にイリスは顔をしかめた。
ヴィクトールはペラペラとまくしたてる。
「だけどねイリス、そう、運が悪かったというだけのことさ。そうじゃなければ、僕はイリスを予定通り、今年の秋には妻に迎えてあげていたんだからね。僕以上の条件の男なんてイリスにはなかなか巡り会えないだろうし、未練があるのは分かるけど、頼むよ。もう僕には近寄らないでくれ。社交界で変な噂がたつのは嫌だからね。母がいつも言っているんだ。付き合う人間は選ばないとって」
ヴィクトールは全く悪びれていなかった。
彼にとっては家のために誰かを傷つけることは、何の罪でもないのだ。
イリスは冷静に立ち上がり、ヴィクトールを見据えた。
愛情の種など、発芽の前に真っ二つに割れてしまった。
「分かりました、ヴィクトール様。あなたの決断を尊重します。もう金輪際、貴方にも貴方のご家族にも関わりませんわ」
「ああ。これまでの付き合いに感謝するよ、イリス。それじゃあさようなら」
ヴィクトールは頭を下げ、応接室を後にした。
イリスは婚約者が去った静かな応接室に立ち尽くした。
「すまないイリス……お前たちに心配をかけたくなくて言えなかったんだ。私のせいだな……悪かった」
父親がかき消えそうな声で自分に謝罪するのが、どうにも哀れで気の毒でならなかった。
「大丈夫よ、お父様。私たちみんなお父様の味方よ」
イリスはそう言って父親の背中を抱きしめた。
それ以外に何ができただろう?
婚約破棄の噂は瞬く間に広がった。
すぐに、イリスたちは貴族社会での地位を失っていった。
「エーベルハルト家はもう落ち目だ」
「付き合っていても、落ちぶれるだけだわ」
彼女の元友人たちは手のひらを返し、陰湿な陰口や噂話の応酬が始まった。
特にヴィクトールの新しい婚約者になった伯爵令嬢のレナは、イリスをことごとく陥れるためにあらゆる手段を使った。
「所詮は成り上がりの男爵家ね!」
レナは取り巻きの令嬢たちとイリスを嘲笑した。
お茶会にも、舞踏会にも、あらゆる貴族たちのパーティーに、イリスは招かれなくなっていった。
没落し孤立したイリスにとって、淑女たちの集まりは苦痛になった。
イリスは自然とだんだん外に出ず、室内で過ごすようになっていった。
*
エーベルハルト男爵家の屋敷は、かつての栄華を誇った時代とは対照的に、今や見る影もなく荒れ果てていた。
使用人がいなくなった屋敷はもはや、お化け屋敷のようだ。
広大な敷地に建つ屋敷は、その壮麗さで一時は多くの人々の目を引いていた。
しかし、それも鉱山の事業がうまくいっていた時の話だ。
今ではその壮麗さは失われ、かつて手入れの行き届いていた庭園も、雑草に覆われ、花壇は荒れ放題だった。
豪華な噴水は水を失い、乾ききったままの姿で放置されている。
広々としたホールにはシャンデリアが埃をかぶり、かつての輝きを失っていた。
床の大理石は磨きがかけられることなく、薄い埃の層が積もっていた。
壁にはイリスたち家族4人の肖像画が掛けられていたが、いつの間にか斜めに曲がり、直す者は誰もいなかった。
父親が多くの時間を過ごした書斎も、荒れ放題だった。書棚には乱雑に積み上げられた書類や本が山積みになっており、埃が厚く積もっていた。机の上には未整理の書類が散乱しており、その中には未払いの請求書や督促状が混じっていた。窓から差し込む薄い光が、その惨状を浮き彫りにしていた。
イリスの部屋もまた、かつての輝きを失っていた。
豪華だったベッドは古びたシーツに覆われ、化粧台には埃が積もっている。
イリスは部屋に閉じこもり、ほとんどの時間をそこで過ごした。
時折、通いの家政婦のエレナという女性がやってきて、厨房でパンを焼いたり野菜の酢漬けを作ってくれた。
十分な給金も払えていないのに、エレナは
「奥様にはずっとお世話になっていますからねぇ」
と快活に笑うのだった。
他の貴族の家にも通いで仕事をしているらしいから、エーベルハルト男爵の家など辞めてしまっても困らないはずなのに、エレナは昔の恩義があるからと律儀に世話をしにきてくれていた。
作り置きをしてくれているエレナの大きなパンをナイフでスライスして、小さなチーズをのせて自分で食べる。
昔は手間取ったが、自分で食事の準備をするのは、もう慣れたものだ。
「イリスお嬢様ぁ、エマももらっていい?」
ひょこっと愛らしい金髪の巻き毛がテーブルの縁から顔を出した。
エレナの娘のエマだ。
「こら、エマったら。いけませんよ」
と、窘めるエレナにイリスは首を振った。
「いいのよ。私たちがエレナにご馳走になっているようなものなのだわ。はい、エマちゃんどうぞ」
「ありがとぉ」
嬉しそうにチーズをのせたパンを頬張るエマは、少し痩せているが快活そうで、活発な女の子だ。
「全く、男まさりに育ってしまって……スカートをはかせてもはかせても、転んだり引っかけたりして破いてくるんです」
エレナは愚痴混じりにイリスへ言った。
部屋へ戻ったイリスはぼうっと窓辺を見た。
お気に入りの人形が、レースの真っ白なドレスを着て、小さなビロードのクッションに座っている。
イリスには誰にも知られていない特技があった。
それは人形の服を作ることだった。
幼少の頃から大切にしてきた、たった一つの人形。
昔はたくさんの玩具を買うことができない代わりに、屋敷の古い端布や廃棄するドレスを解体して、ミニチュアのドレスや小物を作っていたのだ。
母親と弟は、家計を立て直すために父に代わって動き始めていた。
彼らは家の古い帳簿を調べ、父親が過去に手がけた事業の詳細を学び始めていた。
中でも、遊び人だった弟のライナスの成長は、見事だった。遊ぶ金が尽きたと分かるや、金儲けの才能を発揮していた。
金の動きを掴んで、父親が一度手を引いた鉱山の開発にやっきになっていた。鉱山の再開発に向けて、少ない資金を使って現地の労働者を雇い、鉱山の再調査を行っているらしい。
豚のように肥っていた母親は、この間見かけたら、イリスが暫く見ないうちにずいぶん痩せていた。弱気になった父親の尻をたたいて焚き付けているらしい。元平民だった母親は、昔は女商人としてしたたかに商売をしていたのだと、イリスは初めて知った。
(私にも何かできることがあればいいのだけれど)
でも、計算などしてこなかったイリスには、暇をつぶして人形の服を縫うくらいしかやることがない。
「はあ……こうやって老人になって、閉じこもったまま朽ちていくのかしら……」
イリスはお気に入りの人形を窓際に立てかけた。
もう彼女の服ばかりが増えてしまった。
深紅の薔薇のようなドレス。
黄色いひまわりのようなサマードレス。
可憐なすずらんのようなネグリジェ。
それらはイリスにとって無数に湧き出る、心臓の鼓動の根源のようなものたちだった。
「でも、もっと、他の……」
ドレスは作り飽きてしまった。
もうあらゆるパターンは一通り全て網羅したつもりだ。
パフスリーブの袖のふわふわした形。
一時期、令嬢たちに大流行したバルーンスカート。
縁取りの丁寧なロングスカート。
宝石のきらびやかなコルセット型のくびれたドレス。
イリスはじっと窓際の人形を見た。
令嬢の見本のような、美しくしなやかな色白の肢体。
(この子だけに似合うものを考えて作ってきたけれど)
エマの痩せた、健康的な肌を想い出す。
イリスは突如、ひらめいた。
(もし――もし、この子以外に作ったとしたら、どうだろう)
ある日のこと。
イリスは、通いの家政婦のエレナがパン生地を捏ねているのを見つけて、話しかけた。
「あの、エレナ……ちょっといいかな」
「ええ、もちろんですイリスお嬢様。どうされました?」
「うちは困窮していて……たぶん、お父様はエレナに十分なお金を払えていないよね。そうでしょう?」
エレナは曖昧に微笑んだ。
「十分……とは言えないかもしれませんが、ですが、今はそれでいいのです。あの奥様が本気で改革に乗り出しているのだから、応援しないわけに参りません。ええ、きっと復興しますよ。きっとです。奥様は約束して下さいました。家が復興したあかつきには、給金は三倍にして渡すとね。私は奥様を信じております。きっと、きっと良い方に向かいますよ。それまではエレナが、お嬢様たちをお助けいたしましょう」
イリスは、エレナの気遣いにじんと心が温かくなった。
「エレナ。本当にありがとう。あのね、心ばかりのものだけど、あなたたちに渡したいものがあるの。おいで、エマちゃん」
イリスは厨房に走り込んできたエマを抱き上げた。
「見て! どうかしら?」
可愛らしい妖精のようなスカートをはいたエマが軽やかに笑い声を立てた。
イリスはここ数日間、夜遅くまで針と糸を手にしていた。
布地を慎重に選び、エマの動きやすさを最大限に生かすデザインを考えた。
スカートの部分は、中にドロワーズのような綿の短いパンツを縫い付けてみた。こうすれば、走っても動いても下着を気にしなくていい。
昔の文献を読むと、このような衣服を『キュロット』というらしい。
一昔前は男性の貴族の服装のようだが、今のエマにはぴったりじゃないだろうか。
イリスは刺繍糸を使って、小さな花柄をキュロットにあしらった。
心を込めて一針一針を縫い進めた甲斐があって、仕上がりはばっちりだった。
「エマちゃんがこれを着て、もっと自由に遊べるようにと思って。売り物じゃなくて、私が作ったものだから……その、気に入ってもらえるか自信がなかったのだけれど」
「これを……お嬢様が?」
と、エレナは信じられないように言った。
「エマ、とぉーっても気に入ったよ! ねえ、ママ、見て! イリスお嬢様がエマに作ってくれたんだよ!」
エマは嬉しさのあまり、キュロットのすそをぎゅっと握りしめた。
その様子を見ていたエレナも、目に涙を浮かべた。
「イリス様、こんなに素晴らしい贈り物をありがとうございます。私たちの身に余る、このような贅沢な……」
エレナは感激のあまり、言葉が詰まった。
「ほんの感謝の気持ちよ。それにごめんなさい、高級品じゃないわ。もちろんデザインや刺繍に思いは込めたけれど、ただの布と糸よ。高級なドレスじゃなくてごめんなさい。でもね、こんなどん底の中で、今あなたたちがいてくれることが、どれほど心強いか伝えたかったの。少しでもお礼がしたかったのよ。本当にありがとう」
キュロットをたいそう気に入ったエマは、何度も何度もそれを着て遊びに行ったらしい。
その結果、イリスの予想しなかったことが起こっていた。
数日後、エレナはイリスを呼び止めた。
「イリス様。この間頂いた、『キュロット』なのですが」
「ああっ……はい。どうだったかしら……ごめんなさい、すぐに破けてしまったかしら……」
「いえいえ、違います。生地も縫製もしっかりしていて、あたしの適当な洗濯にもしっかり持ちこたえてくれていますよ! そうではなく、あの……差し支えなければ、いや、こんな申し出を使用人がするのはおこがましいのは承知の上なのですけれど」
エレナは珍しく言いよどんでいた。
「どうしたのエレナ。何でも言って頂戴」
「実は、街のみんな……母親たちが、こぞって同じものが欲しいと。あまりお金を払えないので、農家は野菜や卵を、漁師の家は魚を、商人の家はそれぞれの商売品と交換できれば有り難いと言っておりました」
「ええっ……!」
「活発な娘を持つ母親は、世の中が想像するよりは多くおりますから……」
「本当に、ああいうので大丈夫? 私はあまり世間を知らないから、自信がなかったのよ」
「お嬢様。エマはあれから、あのキュロットしかはきたくないと駄々をこねて散々だったのですよ。絶対に脱ぎたくないと駄々をこねるのを宥めすかして、体を拭いたり寝かしつけたり……ふふ、寝るときも抱きしめて寝ていたくらいです。どうか自信を持たれて下さい。おしゃれなんて興味がなかったのに、あの子、最近は嬉しそうに鏡を見るんです」
エレナは幸せそうに笑った。
(あたしの服で、誰かが幸せになってくれたんだわ)
イリスの胸に心地よい温かさが広がった。
「エレナ。引き受けてもいいわ」
「本当ですか!」
「でも一つ条件があるの」
「何でしょう?」
「私、その娘たちを直接見て見たいわ。どうせ作るなら、一人一人が最も愛らしく見えるようなものを作りたいもの」
「お嬢様……ありがとうございます。しかし、困りましたね。日中は母親たちは商売や仕事をしておりますから、あまり街から遠くは離れられません。こちらのお屋敷は郊外で、城下街よりは少し遠いですからね」
イリスは少し考えた。
子どもたちを母親から遠く離すのは安全上問題があるだろう。
それならば、発想を変えればいい。
「ねえ、エレナのおうちは確か城下街だったわよね」
「え、ええ……そうですが……まさかお嬢様!」
「一日でいいからお部屋を貸して頂戴。そこで採寸をしたり、娘ちゃんたちとお話をしてみるわ」
「いけません、平民のむさくるしい住まいですよ」
「かまわないわ。というか、お願いよ」
イリスのキュロットは大評判となり、購入に訪れる人々との間で物々交換が盛んに行われるようになった。
イリスはドレスではなく、民衆が日常で着る服を多く作ることに決めた。
シルクではなく、綿で。
動きやすく洗いやすい、それでいて愛らしい女児用の服だ。
始めはエレナの家を借りて始めた採寸だったが、頼まれる注文の数も増えていくにつれて、小さなアパルトマンの一階に部屋を間借りできるようになった。
客の中の一人の夫が木工の職人をしているとかで、可愛らしい看板もつけられた。
『子供服の店 イリス』
ある日、子供服を頼みにやってきた母親がイリスに話しかけた。
彼女はサーシャと名乗った。
「あの……お願い! あたしの衣装を作ってくれない?」
「ええっ……いえ、大人は」
「お願いよ。イリスさんしか考えられないんだ。あたし、酒場で夜は歌ってるの。自分で言うのも何だけど、そんなに下手じゃないと思うんだ。だけどあまり人気が出なくて、しっくりこない。ドレスを思い切って新調して、印象を変えようと思って」
イリスは、衣装を作るときの目でサーシャの容貌を眺めてみた。
派手な雰囲気だが、どこか違和感がある。
にこにこしている小さな娘が、サーシャの手を握っていた。
こうしてパーツ一つ一つを見ているとサーシャの娘は母親によく似ていた。優雅な鳥のようなおっとりとした目元や、ふっくらした頬、品のある口元。
サーシャ自身は派手な化粧でそれらを隠している。
イリスは違和感の正体に気が付いた。
「サーシャさん。あなたの地毛は、赤色ですか? 娘さんと同じ」
「え? ええ、そうよ。あまり似合わないからって色を入れて……茶色にしているの」
「似合わないというのは、あなたがそう思っているの? それとも、周りが?」
「両方よ。だって、……そう美人でもないもの、あたし。娘もいるし、もうオバサンだし」
「自分を卑下する人のために、衣装は作れません」
イリスはきっぱりと言った。
「私はどの娘にも、最大級に魅力が輝くような服を作ってきました。自信のないあなたに心ない言葉を投げつける客がいたかもしれません。でも、私の服を着るのなら、そんな客のことをいつまでも覚えてもらっていては困ります」
語りかけるうちに、イリスの胸には沸々と熱い思いが込み上げてきた。それは怒りに似ていたが、誰かを傷つけたいという悪意ではなかった。イリスは初めて、情熱を感じていた。
「娘がいて、昔よりも年をとった。だからこそ、今のあなたがいるんでしょう? 美人とか不美人とか、そういう型にはまったつまらない言葉で自分を括るのはもうやめにして下さい、サーシャさん」
サーシャは驚いたように立ちすくんで、イリスの目を見ていた。
イリスは感じていた。
サーシャはきっと美しい女性なのだ。
燃えるような赤い髪と、気品のある口元。
「あなたにしか、あなたの心を変えられない。自分を認めて、労って、愛して、あなたの魅力を信じて下さい。そうすれば私が、あなたをステージの上で最高に輝かせる衣装を作ってみせます」
サーシャは手で口を押さえた。
「……そうね。そうだわ。いつからか、諦めていた。若さを失って、もう、魅力的にはなれないって。ここから先落ちぶれていくだけだって、思い込んでいて……そんなわけないのにね。自分自身を諦めていた私の歌が、誰かに響くわけがなかったのよね」
サーシャは正式に、イリスに衣装を依頼した。採寸し、話をしながら、イリスはサーシャが女手一つで娘を育てていることを知った。多忙な生活の中で、少しでもお金を貯めて、娘に可愛らしい服を着せてやりたいという親心がイリスの胸を打った。
(そんなの聞いたら、やる気出ちゃうなあ)
ステージで最も人目を引き、サーシャの魅力を引き立たせるために、どうすればいいか。イリスは頭を捻った。
何日もパターンに向き合い、サーシャの赤毛に映える、最高級ではないが美しい生地を探した。
(うん……光沢もある。ベロアの生地にしよう)
自宅の物置に眠っていた、ソファのクッション用の古い生地。
これなら元手はかからない。
耐久性や着心地は少々劣るが、ステージ用ならいいだろう。
買いつければもう少し値が張るが、提示された予算内に収めると決めていた。
平民の、子どもを一人きりで育てているサーシャが思い切って出せるぎりぎりの金額。その重みを、その覚悟を、平民の客と話しながら服を作り続けてきたイリスは、もうよく理解していた。
完成した衣装を前に、イリスは満足してため息をついた。
*
その日、燃えるような赤毛に、葡萄色のドレスをまとった化粧っ気のないサーシャがステージに上がったとき、自然と酒場の客はざわついた。
「あんな女性はいたか?」
「いや、待て、サーシャだ! もう落ち目だった、あの、サーシャだ」
「おいおい、どうした、今更だが路線変更かよ……」
「結構美人だったんだなあ、俺は好きだよ」
「声が小さいんだよなあ……やっぱり若い娘じゃないと盛り上がらないんじゃないのか」
観客は好き勝手なことを言う。
しかし、サーシャが口を開き、歌い出すと一帯が静まり返った。
ステージのライトがサーシャを照らす。
生地の光沢が光の当たり具合によって微妙に変化する。
それは、もう戻ってこない港の船乗りを懐かしむ踊り子の歌だった。
悲哀の中に痛切な祈りが込められている。
サーシャは情感豊かに、独特な歌声で物語を紡いでいった。
歌声は響き、客の鼓膜をびりびりと震わせた。
一歩間違えばありがちな下品さになりかねないスリットは、片側の腰下辺りに入れられ、内側には黒いレースが貼られていた。
葡萄色の上品なロングドレスは、成熟した女性にしかない魅力を余す所なく伝えていた。加えて、サーシャの元々のみずみずしい素肌が自然な色気を添えている。
歌が終わったあと、小さな酒場は拍手やら泣き声やらで爆発しそうだった。
素晴らしいドレスを纏った、新生歌姫サーシャの姿に酒場は大盛況となった。
このサーシャの件以降、イリスの評判はますます広がることになった。
*
イリスの服屋は酒場の歌姫や若い女性たちの間で大人気となっていた。
小さなアパルトマンの一階から、通りにある商業地区の一画に店を構えるようになった。
客の中には貴族の令嬢もいたが、ほとんどの注文をイリスは断っていた。
本格的な正装のドレスを何着も手がけていては、平民たちのために作れる枚数が減ってしまう。
ただ、賃貸契約にも金はかかるので、最低限の数を限定的に引き受けていた。
その辺りの計算や調整は、エレナが手伝ってくれた。
サーシャは今や押しも押されもせぬ歌姫となっていた。
次は流行の宮廷音楽家のコンサートにゲストで呼ばれることが決まったのだと嬉しそうに報告に来たサーシャは、イリスの店のお得意様になっていた。
縫製を手伝ってくれる娘たちも、エレナの伝手で見つけることができた。
裁縫の得意な双子の姉妹、パルラとケイラだ。
もともとは洗濯の仕事をして働いていたところを、エレナが裁縫の腕を見込んで声をかけてくれたのだ。
年はイリスよりも若く、十五前後だ。彼女たちは学校に通うだけの金はないと言っていたが、その分、縫製の腕は確かだった。
イリスはきゅるきゅる鳴るお腹を抱えてぼやいた。
頭の中も両手も桃色のドレスの生地の裏地で埋め尽くされている。
あと何時間かかるだろう。
「はあ、お腹がすいたわねぇ」
「あたし、もうすぐ終わりますから、お昼ご飯にみんなの分のサンドウィッチを買ってきますよ」
と、気の利くパルラがメガネをずりあげながら言った。
「ありがとう、パルラ! 天使のようだわ」
「おおげさですよ。通りの向こうのカフェ、評判なんですよ。なんでも自家製のパストラミを使っているとか」
メガネをかけていない同じ顔、ケイラが言った。
「働き出してから美味しいお昼を食べられるようになって、最高です。ねえ、パルラ、あたしのは『アル様のご注文』にしてよね」
「何なの、それは?」
イリスは尋ねた。
流行り物に敏感なケイラはすらすらと説明する。
「アル様のご注文、っていうのはですね。先日、騎士団長のスタッツウィッツ様と、第三王子のアルベルト様がお忍びで、例のカフェに通われたそうなんです。そこで、スタッツウィッツ様が頼まれたのが、目玉焼きの入ったパストラミが二枚入ったスーパーサイズのサンド。そして、アルベルト様が頼まれたのが、マスタードとピクルスを二倍にしたパストラミサンドだったそうなんです! 私はどちらかというとスタッツウィッツ様贔屓なんですが、さすがにスーパービッグサイズというのは無理なので」
「えっ……ケイラ、スタッツウィッツ様みたいなのがタイプなの……?」
イリスは素直に驚いた。
綺麗な顔の若い男が好きなのだとばかり思っていたが……。
スタッツウィッツは壮年の渋いおじさまだ。
確かにものすごく強く、半ば伝説と化しているが、若い娘たちが憧れるような感じではないと思っていた。
ちなみに第三王子アルベルトは成年して間もなかった。
きっと護衛でお忍びについて来たのだろう。
騎士団の仕事もなかなか大変そうだ。
ケイラがミシンのペダルから足を離して言った。
「時代はおじさまですよぉ、イリス様。こちらの作業終わりました! 次の子供服の注文にかかってよろしいですか」
「ああ、少し待って。それより先に、急ぎの仕事があるの」
ケイラが首を傾げた。
「あの、謎のご令嬢のドレスの注文ですか?」
「そうよ。納期がもうすぐなの」
「ほとんど終わっていたと思いますが……確認してください。それにしても不思議な注文でしたねぇ」
イリスはため息をついた。
「ええ。実入りがいいからって二つ返事で受けてしまったけど……後悔したわ」
いっそ法外といっていい金額を提示された一着だった。
これで家賃の二・三ヶ月分くらいは余裕が出る。
注文を持ってきたのは、令嬢の『代理』という妙齢の女性だった。
桃色であるという条件だけで、後は任せるという注文だった。
女性に対して食い下がったイリスは、令嬢本人の好みや見た目、やりたいこと、男性のタイプ、趣味にいたるまで、事細かく女性を質問攻めにした。
その甲斐あって、なんとか形が見えてきたのだ。
イリスは手元の生地の皺を手で伸ばしながら言った。
「どうやら舞踏会で、意中の相手がいるのですって。どうしても話しかけたい人がいらっしゃるとか」
「まあ。青春ですね」
「あら。素敵ですね」
パルラとケイラは作業の手を止めないまま、相槌を打った。
「それでね。その舞踏会に行かなければいけないの。どうしても、その当日にしかお会いできないらしくて……私が行って、直接直せるところを直すことになっているの」
双子は顔を見合わせた。
「なんという怪しい注文……」
「ものすごく気むずかしいご令嬢だったり……」
「わああ、やめてよっ! 怖くなってきたじゃない」
と、軽口を叩いていたのが二日前のことだ。
王国の舞踏会の招待状を抱えたイリスは、きりきりする胃をドレスで隠しながら、会場の裏庭に来ていた。
薔薇が咲き、ベンチが配置されてある優雅な庭だ。
東屋があり、その中に『謎のご令嬢』がいるということだった。
イリスは花の香りを愉しみながら、じっと待っていた。
すると、いくらもしないうちに頭上から鈴を鳴らすような声がした。
「あの……もしかして、あなたがイリス様?」
「ああ、そうです。はじめまし……て……」
と言ったイリスは驚愕に目を見開いた。
「ひ、え……そ、そそそそ」
「ご挨拶が遅くなってごめんなさい! 私、ソーニャと言います」
「それは勿論存じておりますッ……」
「えっ? うふふ、ありがとうございます」
キラキラした目で言う彼女は、どの人形よりも令嬢らしかった。
それも当然だ。
だって『ソーニャ』と名乗る彼女をこの国の貴族なら誰だって知っている。
(第二王女殿下、ソーニャ様だ……!)
「な、な、なぜソーニャ様が……わた、わたくしに……」
緊張で呼吸困難になっているイリスの手を、ソーニャ王女は目をきらきらさせて包み込んだ。
「あなたのドレスをどうしてもどうしても着たかったの! 無理を言ってごめんなさいね。評判を聞いて、実際に見てみて、あなたにどうしてもお願いしたくなったの。でも、最高! やっぱり最高だったわ! 私の直感は間違ってなかった! ね、マーガレット、そう思うでしょう?」
「ええ、姫様。本当に――良くお似合いです」
『代理』としてかつてイリスに質問攻めにされていた女性、マーガレットは姫君のお付きの女性だった。
控えめながらも王国の学院の教師のように気品がある。
(わ、わわわわ私、姫様用のドレスを作っていたの!?)
イリスはその場に倒れ込みそうになった。
しかし、裾や丈の最終の直しが終わっていない。
男爵令嬢のイリスには雲の上のような人だ。
イリスは震える手で最終調整をした。
「今日はね、七年ぶりに許嫁に会うのよ。私はずっとあの人にとって子どもだったけれど、今年で十六になったわ。もう昔とは違うって、分からせてさしあげたいの」
ソーニャは悪戯っぽく微笑んだ。
そんな大事な日の衣装を手がけていたなど、思っても見なかったイリスは、裾を直しながら卒倒しそうになった。
ソーニャはうふふと笑って、嬉しそうだ。
「これでばっちりね。なんだか心の底から自信が湧き出てくるみたい。私、丁寧にお話をするわ。もじもじしないで、しっかりあの人の目を見ることができる気がする」
イリスが作り上げた桃色のドレスは、まるで春の朝焼けのように柔らかで繊細な色合いだった。
子どもらしく愛らしい桃色ではなく、どこかクラシカルな印象を与える淡い色合いだ。シルクとレースで仕立てられたそのドレスは、光を受けるたびに微かに輝いた。胸元には、繊細な刺繍で描かれた花があしらわれ、袖口や裾には小さなパールが丁寧に縫い込まれていた。
ふんわりと広がるスカートは、ソーニャが歩くたびにまるで春の庭園の花びらが舞うように、優雅に揺れる。
ソーニャの金色の髪と桃色のドレスが調和し、まるでそれはおとぎ話の中の光景のようだった。
ぺこりと礼をして愛らしく手を振って、ソーニャはマーガレットを連れて会場へ歩き出していった。控えめに言っても、最高に気高くて美しい。
値段に怯まず、最高級の素材をふんだんに使って良かった。
イリスは安堵してほっと息を吐いた。
その時だった。
ガサリと後ろの茂みが揺れた。
「ん……? 猫でもいるのかしら」
イリスはふと振り返った。
「あー……良く寝た」
「きゃああぁぁぁぁっ!?」
良く肌の焼けた男が、上半身裸で茂みから出てきた。
「うおっ!?」
「へっ……変質者!?」
「誰が変質者だ」
男はフンと鼻で笑った。
花園の中で見る男の裸はどことなく淫靡で、イリスは赤面した。
(こ、この人の顔がやたらと綺麗なのが悪いわ!)
父親や弟であればこうはいかない。
いや、元婚約者のような男性であれば、キャッと叫んで終わりだろう。
彫刻のような美貌の異性が出てきたら、赤面するのが道理じゃないだろうか。
それにしても、裸を見せつけて淑女を赤面させるなんて変質者以外の何者でもない。顔が整っているからって何をしてもいいわけではないのだ。
イリスが文句を言ってやろうとした時、男が先に口を開いた。
「俺が自分のとこの庭で昼寝して何が悪いんだ」
イリスは冷静になって、自分を見下げてくる青年の顔をまじまじと見た。
(こ、この人……! アッアッアッ……アルベルト様だ……!)
第三王子、アルベルト。
成人したにもかかわらず、まだ狩りや競馬にうつつを抜かしている、放蕩息子。
美貌を鼻にかけて女を喰いまくっているだとか、悪い噂を聞いたことがある。
しかし、それを差し引いてもなお、独特の魅力のある第三王子はなぜか民衆には愛されていた。
時々お忍びで場末の飲み屋や市場に来るらしいと、パルラとカルラが話していたのをイリスは思いだした。
(『アル様のサンドイッチ』のあの人だ)
イリスは式典や晩餐会で遠くから姿を見たことがあったけれど、本人をまじまじと近くで見たのは初めてだった。
緊張でいやに喉が渇く。
もう、早く帰りたい。
「アッ……ルベルト様のお邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」
裏声になってしまったが、王族への礼を欠くことは防いだ。
イリスはぺこりと頭を下げて、そそくさとその場を後にしようとした。
が。
「おい、少し待て、娘」
「ギエッ……」
潰れた蛙のような声はイリスだった。
目の前の男性から獲物のようにいきなり腕を掴まれたのだから、やむを得ない。
温かい生身の手の温度が伝わってくる。
王族どころか、元・婚約者と父親以外の男性の手を握ったことも無いイリスは、目を白黒させた。
「俺をアルベルトだと知っているのか?」
「さっ……先ほどは気付かず失礼をいたしました」
公務の際のアルベルトの姿なら、式典で見たことはある。襟まできっちりとした正装に身を包んでいて、軍議にも長けていらっしゃるのだという噂に納得したものだ。
しかし、半裸でイリスの手を取るアルベルトには、どこか野性的で高貴な色香があった。
「俺に何か用か?」
宝石のような瞳で覗き込まれて、イリスは今すぐにでもこの場を逃げ出したくなる。
「なんにも! 何にもございません」
とにかく早く服を着て欲しい。
「香水臭い雌ライオンのような女はもう懲り懲りだが……お前はなんだか毛色が違うな」
アルベルトは、不思議そうにイリスを見る。好奇心満載の少年のようだが、イリスにしてみれば天上の人だ。悔しいが、王族の威圧感と美形の魅力に抗えない。
イリスは下を向いて答えた。
「もう行かなければ……」
「いいじゃないか。もう少し話そう。何をしていたんだ、こんな所で」
「お客様の……私は服を作っているのですが……お客様がどうしても、と仰るので、お話をしていたのです」
そう言うと、アルベルトはキョトンとして、ふっと頬を緩めた。
「ほー……あんたか、あのソーニャを骨抜きにした服屋っていうのは」
アルベルトは面白そうにイリスを眺めた。
「ソーニャは今日にずいぶんと賭けていたからなあ。あいつ、どんな注文をしたんだ」
「それはそうと、アルベルト様、お洋服を身につけられてくれませんか……私はあまりその……男性の素肌を見慣れておらず……アルベルト様のようなその……男性とこのようにお話するのは荷が重く」
「ふうん?」
アルベルトの焼けた腹の肌色がイリスの目に入る。
(ヒィィィ……泣きそう……)
怖いわけではないが、恥ずかしい。
一所懸命仕事をしているだけなのに、なぜこんな思いをしなければならないのか。
アルベルトは茂みから出てきて、シャツを羽織った。ふあ、とあくびをしている。昼寝でもしていたのかもしれない。といっても、もはや夜の時間帯だが。
「服がそんなに大事かねぇ。ただの布だろう」
聞き逃せない呟きだった。
イリスは羞恥を忘れて言い返した。
「お言葉ですが……殿下」
「デンカはやめろ。アルベルトでいい」
「アルベルト様。服とは単なる布ではございません」
「そうか? 何を着たって中身は同じだろう?」
イリスは静かに言った。
「中身が変わらないからこそ、服を変えるのです」
「無駄ではないか。着ても着なくてもいいようなものに、なぜ金を払うのだ」
イリスは静かに激高した。
いくら美形でも、許せない。
「アルベルト様は何も分かっておられません」
首を刎ねられても仕方ないと頭の隅で思いながら、イリスは言った。
「服は私たちが唯一好きに選ぶことのできる皮膚です。貴族も平民も、男も女も関係なく。だからこそ、身を削ってでも人はお金を払うのです。私はしがない没落した男爵家の娘ですが、平民たちと話をして商売をするようになってようやく、彼らがひとりひとり違った願いをもった人間であることが分かりました。皆、私の店に、自分にぴったりの皮膚を買いに来るのです」
アルベルトの目を真っ直ぐに見ながら、イリスはきっぱりと断言した。
「相手がどんな人間でも、私は私の店に来る客を裏切りたくありません。庶民でも貴族でも、誰もがそれぞれ、己だけの魅力を持っているのです」
アルベルトは悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「ほう。俺もか?」
「ええ。勿論です」
「では、客として注文をすれば、お前は俺を裏切らないのだな?」
「え……あの、いや……そうですが、私の店は女性服だけで……」
「先ほど『どんな人間でも』と言ったな?」
その通りである。
イリスは頷くしか無かった。
「俺の服を作ってくれ」
と、アルベルトは言ったが、それは半ば命令に等しかった。
*
アルベルトは翌日、正式に自ら着る衣装をイリスに依頼した。
私的なパーティーで着るのだと言われたが、王族に私事など無いのではないか。
イリスはまた胃が痛むのを感じた。
「最高に魅力的に見えるように、参加者全員の度肝を抜いてくれ」という依頼だった。
イリスは完成の日のことを考えながら、アルベルトと対話を重ねつつ衣装を作り上げることにした。
実家の事業も持ち直し、母と弟が中心となって鉱山の事業を軌道に乗せていた。男爵とはいえ、生粋の商人の血が流れているのかもしれない。
もう商売を続ける必要もないのに、イリスは辞めたくは無かった。
既にイリスにとって、服は生きがいになっていた。
しかし、アルベルトにとってはそうではないようだった。
「服なんてどれも同じだろう。こう……ピカピカ、ゴテゴテしていて」
というのが彼のいつもの主張だった。
「アルベルト様はシンプルな方がお好きなのですね」
「当然だ。なぜ金ピカのボタンに更に彫刻をして宝石を埋め込む必要があるんだ? ボタンはとめられればそれでいいだろう。そんなものになぜ何十万ギルも割かねばならん。馬鹿馬鹿しい。パストラミサンドが何個買えると思ってるんだ」
という具合だったので、着心地と実用性を重視しながらも、王室に相応しい品の良い見た目を追及することにした。
採寸をしなければならない。
そう告げると、イリスは王宮の応接室ではなく、アルベルトの部屋に呼ばれた。豪奢ではあるが、シンプルなものだった。必要の無いものが無い。
「使えない物を飾る意味があるのか?」
という、潔さだった。
「俺はレプリカなど置かない。これは全て本物の剣だ」
と、アルベルトは金の鞘の短剣を見せてくれた。嬉しそうな子供のような表情をするのが可笑しくて、イリスは頰を緩めてしまった。
「アルベルト様、もう少し腕をあげて頂けますか」
「ん、こうか」
採寸が終わると、アルベルトはふうと息をついた。
「俺の体で数字になっていないのは、もう数えるくらいの場所しかないな」
「え? 測り忘れがありましたか」
巻き尺を取り出したイリスを、アルベルトは手を出して押し留めた。
「いや……いい。それは……いずれ。さあ、菓子でも食うか? 少し話していけ。ああ、今日お前と会うと言ったらソーニャが目の色を変えて恨み言をぶつけてきたぞ。『お兄様ばかりずるい』と」
「そんな、恐れ多い」
アルベルトはイリスの目をのぞきこんだ。
不意打ちの優しい微笑みに心が躍る。
「お前は何が好きなんだ?」
「ふ……服です」
「ぶはっ! 違う、ケーキの話だよ。ソーニャに聞き出せと頼まれている」
アルベルトは長い指でテーブルを指した。
大皿に入れられた、宝石箱の中身ような小さな美しいケーキたちの集まりに、イリスは目眩がした。
「あ……甘過ぎない物が……良いです。慣れていません」
「ふ、そうか。これはどうだ? 口を開けてみろ」
アルベルトは丸い焼き菓子の一つをイリスの口に放り込んだ。
(えっ! 指っ! 直っ! ヒィィィ)
唇に指など触れたら、不敬が過ぎるとして処刑対象にされるのではないか。
イリスは心の中で悲鳴をあげた。
サクサクとナッツの香りがする。
「あっ……美味しい、です。とても」
ふわりと鼻に抜ける香りに頬が緩んだ。
餌付けが成功したかのように、アルベルトは得意げに微笑む。
「だろう? 俺も好きなんだ」
緩んだ頬が焼けるように熱を持った。
イリスは目の前の美丈夫を恨んだ。
(くっ……だめ、イリス、この方は美貌で女性を喰らう王室の鬼よ! とろけている場合じゃないわイリス! 心を強く! そう、この方は最大級のお客様!)
「そういえば服一着に庶民は幾らかけるんだ。ずっと城にいるとその辺の感覚が狂って敵わん」
肘掛け椅子に座ったアルベルトが、茶を飲みながら言った。
庶民の感覚を知っておこうとするアルベルトに、イリスは素直に好感を抱いた。
「色々です。子供服だと5000ギルくらいから始めていますが、高価な舞台用衣装だと10万ギルを超す時もあります。でも大切なのは、お金だけじゃないんです。高級な生地をいくら使ってもちぐはぐなら意味がありません。その人だけの魅力を理解しなければ」
「なるほどな。では、俺の魅力は何だ?」
「ええと……そうですね。私にはまだ完全には理解しきれていないのですけれど……」
一息ついて、イリスは言った。
「身体的なことで幾つか申し上げますと、その瞳の色。深い紫の宵闇のような……世界中の宝石にもアルベルト様のような色はありませんわ。衣装のどこかに同じ色を入れられたらいいのですが、そのような美しい色合いを再現するのは難しいですね。そして意志の強さの感じられる、均整のとれた体つき。両腕の太さが変わりません。利き腕だけでなく、バランスよく鍛錬なさっている証拠です。あとは、ほどよく日に焼けた健康的な肌の色、どこかエキゾチックな神秘的な笑み、左目の下にある小さな泣きぼくろ、あとは……」
「もういい、分かった。もうやめろ」
アルベルトは自分の顔を片手で包むように隠した。
「お前はどうして……裸を見て赤面するくせに、そういう台詞は真顔で言えるんだ」
「アルベルト様が魅力を伝えよと仰るものですから。客観的な視点には自信があります。全ては良い服のためです。自分の観察眼は仕事の道具。何を恥ずかしがることがあるというのでしょう」
「分かった、分かった。俺もたいがい戦や狩猟馬鹿だが、お前も服に関しては極めて突き抜けた際者だな。馬鹿が二人だ」
「まあ、酷い」
と言いながらも、イリスは笑っていた。
アルベルトの気安さがイリスの心を穏やかに溶かしていった。
採寸は終わったが、イリスは何度も王宮に呼ばれ、アルベルトと会話をするようになった。
製作作業を見たいと言って仕事場を訪れようとするから、イリスが慌てて城へ出張することにしたのだ。
ひょんなことから縁ができてしまった。
何度も話をしているうちに、イリスは自分が少しずつアルベルトに惹かれ始めているのを感じていた。
ノートに書きためたアルベルトの魅力はもう数十頁埋まってしまった。
女性を喰いあさっているという噂も嘘で、基本的にはアルベルトは狩猟や競馬や剣術が好きな、むしろ子どもっぽさの残る青年だった。
女は狩猟と違って向こうから寄ってくるんだ、と面倒くさそうに言い放っていたのは記憶に新しい。
しかし、イリスがいくら恋い慕おうとも、相手は王族だ。
結婚相手など幼少期の頃から決まっているのだろうし、しがない男爵令嬢の初心なイリスなど一夜の遊び相手にすらならない。
今かまってくれているのは、面白い遊び道具や珍獣のような扱いなのだろう。
なめらかな生地に針を通すたびに、自分の心はざらざらと粗くなっていくのをイリスは感じていた。
そして、決定的なことが起きた。
それはある日のこと、イリスはふとアルベルトに尋ねたのだ。
「そういえば、アルベルト様。こちらの衣装は私的なパーティーで着用されるとお聞きしました。どなたにお見せしたいかというご希望はありますか」
「ああ……そうだな」
アルベルトは少し考えてから口を開いた。
「実はそのパーティーで、ある女性に婚約を申し込もうと思っている」
イリスは「そうなのですね」と相槌をうちながら、心臓が握りつぶされるようなショックを感じていた。
色が白く、可憐で、聡明だけれども自分のことには疎い。
貴族らしくおっとりとしているが芯が強い。
「可愛らしい人だよ」
普段、何かを褒めることなど少ないのに、アルベルトは令嬢を想いながら慈しむような言葉を並べる。照れてぶっきらぼうになるアルベルトの横顔に、イリスは微笑みながら、泣きたい思いでいっぱいだった。
相手の令嬢は誰だろう。
どこかの姫かもしれない。
「他国の姫君でしょうか」
「いや? 庶民とも話をする、貴族の令嬢だ。令嬢らしくはないが……俺は第三王子だからな。身分なんてどうだっていいさ。俺が王室を出たっていい」
「そんな」
「なんだ、臣下に下ったからって俺の男の格が下がるのか?」
アルベルトの言葉にイリスは息をのんだ。
貧しくなったから女として見れないと言われた自分の姿がよぎった。
そうじゃない、そんなわけないと思い続けてきた。
だけど、アルベルトの揺るぎない瞳に、その思いは確信に変わった。
環境がどう変化したからといって、自分が自分であることに変わりは無い。
「好いた女くらい、奪って、守れなくてどうする。とやかく言うやつがいたら金の短剣で尻を切り裂いてやるさ」
いつもなら冗談に一緒になって笑うのに、イリスはどうにもぎこちなかった。
話を聞くたびに胸が痛くなって、最後には指先を針で酷く突いてしまった。
心配していたアルベルトを見送り、イリスは仕事をする気にもなれずにぼうっとしたまま看板を下ろした。
その夜、完成間近の衣装を前にしたイリスは、ぼんやりと生地を見つめた。
(もう、こんなもの、破り捨ててしまいたい)
どうして叶わない想いなど持ってしまったのだろう。
分相応な相手と話だけをすればよかった。
手の届かないものに焦がれるような苦しみを味わうくらいなら、自分ごと無くなってしまったらいいのに――。
しかし、そんな時のイリスを救ったのも、服だった。
アルベルトの瞳と同じ色を探してたどり着いた、紫の貝の色素で染めた糸の刺繍だ。袖と胸の辺りにほんの少し小さなステッチを入れた。
そして、イリスは初めて人形以外に服を作ったときのことを思いだした。
(私は自分を喜ばせるためにやっているのではないわ。誰かを喜ばせることができたから、私は私の作った服で笑顔になれたのに)
これまでイリスに依頼をしてくれた様々な客達の顔が脳裏に浮かんだ。
アルベルトに、きっと恋していた。
だけどイリスは、自分のこの仕事を愛しているのだ。
(アルベルト様の幸せを願って、最高の衣装にしよう)
イリスは別れの抱擁をするかのように、皺の着かないようにそっと上着を抱きしめた。
*
パーティの当日、アルベルトはイリスの準備した衣装を着て会場に現れた。
胸にはイリスがソーニャに頼んで手配してもらった、紫のブローチがついている。城が買えそうな値段の代物はさすがにこちらで準備ができないので、助かった。
イリスはアルベルトに頼まれて、正装してパーティーに参加していた。
婚約を申し込む大切な場面で裾がほつれていたら台無しだ。
小さなバッグに簡易的なソーイングセットを入れて、イリスはいつでも対応できるように会場に控えていた。
王家の私的なパーティーで、中には元婚約者たちの顔もある。
彼らは話しかけてこようとしたが、イリスを取り囲む人混みに足を踏まれて撤退していった。イリスは自分の衣装が貴族たちの間で評価されているのを初めて理解した。
そして、その時が訪れた。
第三王子アルベルトは、堂々とした姿で歩いていた。彼の衣装は紫を基調としており、その豪華さは全員の目を釘付けにした。
息をのむ会場の様子に、イリスは深く満足した。
どの令嬢も、今日のアルベルトに恋をしないわけがない。
(これが私の最高傑作だ)
深い紫色のベルベットのローブが、アルベルトの鍛え上げられた体を優雅に包み込んでいた。ローブには銀糸で繊細な刺繍が施され、王室の象徴である紋章が胸元に誇らしげに輝いている。肩には重厚なマントが掛けられていた。裏地にはより濃い紫が使われ、金のフリンジが縁を飾っている。
足元の磨き上げられた黒い革のブーツが光り、アルベルトはゆっくりと歩き始めた。その姿はまさに王子としての風格を感じさせるものだった。
アルベルトは雄々しい高貴な姿でゆっくりと階段を降りてきた。
そして、イリスの前にひざまずいた。
「結婚してくれ、イリス」
イリスは目の前が真っ白になった。
何を言っているのだろう?
姫君でも公爵令嬢でもない自分が?
「なぜ、私……」
「は? 気付いてなかったのか? どう考えてもお前でしかないだろ」
(あのときアルベルト様は、可愛い人だ、と――)
イリスは体に熱が集まっていくのを感じた。
アルベルトの紫の瞳がイリスを恨めしげに見上げた。
「なんだ? お前を好きだと先に言った方が良かったか? 早く答えてくれ。俺は、今日はこの世でもっとも俺を魅力的に見せる服を着ているんだ。求婚がうまくいかなければ、この服をあつらえた店に文句を言ってやらなきゃいけないからな」
イリスは何を言っていいか分からなくなった。
会場の全員がこちらを見ているのが分かった。
イリスは差し出されたアルベルトの手をとった。
「とても……腕の良い店ですね」
意味を悟ったギャラリーの何人かが、くすくすと微笑む。
温かい温度が胸を和らげて、イリスをいっぱいの愛情で満たしていった。
「今日のあなたは最高に魅力的ですよ。でも、今思えば、服を着ていなかったあなたにだって、私は惹かれて仕方が無かったんです」
舞踏会に参加していた若く美しい淑女たちは、服を着ていない、というその大胆で刺激的なフレーズを深読みし、悲鳴混じりの歓声をあげた。
どんな時代でも、どんな場所でも、変わらない恋愛の秘訣。
素敵な恋のためには、ほんの少しの刺激的なデザインが必要なのだ。
END