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 屍学の言葉で『深淵を覗く者』という意味を持つルル・シーカの名前に(なら)って、『深淵を()うは混沌』という屍学の解釈から『混沌』の意味を持つ『ナイ』という言葉を自分の名前にした少年は、家を出てきたものの行くあてもなく、結局は地図屋の下に足を運んだ。

 すっかり日が落ちたこの時間帯には大柄で見た目は怖いが気のいいフランクはもうおらず、代わりに流枝の民の女――モニカが地図屋のカウンターの向こうで何かの書類を気だるげな面持ちで読んでいた。

 そんな彼女にあいさつをするでもなく、カウンターに背を預けて冷たい石畳の上に座り込んだナイは、独り言のように「どうすれば俺にはシーカが必要だって判ってくれるんだろう」と呟く。

「俺にはシーカだけなのに」

「なあに、まだ親離れができないの?」

「シーカは親じゃないよ。先生だ」

 書類から目を離し、カウンター越しに見下ろしながらからかうように言った地図屋のモニカに、不機嫌そうな面持ちでナイは反論した。

 しかしモニカは肩をすくめ、「育ての親みたいなものでしょ」と呆れてみせる。

 昼間は死霊のいない地上墓地で魔樹と呼ばれる狂った木々を討伐する猛者(もさ)たちや、その魔樹から採れる素材を取引する商人、地上経由で別の街へ行く旅人などでそれなりに賑わっているこの一階層も、夜になるとめっきり人通りが減り、地図屋を訪れる者も少なく閑散(かんさん)としている。

 日が暮れてから活動していることが多いシーカに合わせているとナイの生活リズムも夜型になりがちで、その結果、昼間よりは仕事が少なく暇を持て余しがちに見える夜勤のモニカが手近な話し相手になることが多かった。

 モニカは読み終わった書類を片付け、カウンターに頬杖をつきながらナイに(さと)すような語調で言葉をかける。

「子供が親に出来る一番の孝行はね、早く独り立ちすることよ」

「……じゃあ、俺はやっぱりシーカの子供じゃなくて生徒だよ。そもそも俺がシーカから離れる理由はないんだから、離れるのが前提の親子とは違う」

 不満そうに言うナイにモニカは体を起こして椅子に背を預け、「とんだ屁理屈だこと」と呟く。

 そんな彼女の反応にますます機嫌を損ねた様子でナイは言葉を返した。

「シーカにだって俺が必要なはずなんだ。あの人、戦いはあんまり得意じゃないし。薬の材料だって自分で採りに行くのは難しいからって、市場に買いに行ったりするんだよ? 俺なら火蜥蜴の狩り場でも魔蜘蛛の巣窟でも行って、いくらでも必要なものを調達してきてあげるのに」

「あんた、そんなことやったの?」

 モニカは驚いたように再びカウンターに身を乗り出し、ナイを見下ろして尋ねる。火蜥蜴も魔蜘蛛も一流の戦闘技術を持つ者でないと挑むのは危険だとされる魔物たちだ。それだけに彼らから採取できる素材は希少で、商人たちの間では高値で取り引きされている。そんな魔物たちのいるところに小さな少年が一人で行って素材を持ち帰るなど、にわかには信じがたい。

 しかしナイは平然とした口調で「そうだよ」と答えた。

「そういう危険なところでは貴重な薬の材料が採れるけど、自力調達は難しいって言うから俺が採ってきてあげたんだ。でも、あげるって言っても『そうしたら薬も無料で売らないといけなくなる』って言って受け取ってくれなくて、仕方ないから最後はお金をもらったけどさ」

「いいじゃない。シーカ専属の素材屋になれば?」

 呆れと感心の入り混じった声音でモニカが言うと、「そうじゃないんだよなあ」とナイはすねたように呟いた。

「家族って、そういうのとは違うじゃん。お金を払ったりするのはさ」

「結局彼とは家族でいたいのね、あんたは」

「……」

 苦笑を浮かべて言ったモニカにナイは反論しなかった。

 代わりにシーカのようにしばらく黙り込み、それからぽつりと小さな声で口を切る。

「何でシーカは独りでいたがるんだろう。俺が来る前からずっとだったんでしょ?」

「私の知る限りは、そうね」

「寂しくないのかな」

「孤独の方が好きな人もいるのよ」

 カウンターの上からナイを見下ろし、優しく言い聞かせるようにモニカが答える。

 それにナイは怪訝(けげん)そうな面持ちで顔を上げ、「強がりなんかじゃなくて?」と尋ねた。

「俺、ここに来たばかりの時は他人といるのが怖かったけど、それでもやっぱり寂しかったよ? 俺はいつも誰かといても独りぼっちみたいなものだったけど……それでも本当に誰もいないよりはましだと思ってた。父さんがいなくなるまで父さんから逃げなかったのだって、結局は独りになるのが嫌だったからだし」

 そう言って立てた膝に顔をうずめるナイをしばらくの間見守っていたモニカは、不意に「あんた、いくつになったんだっけ?」と尋ねた。それに顔を上げることもせず、どこかぼんやりとした口調でナイが答える。

「さあ……忘れちゃったけど、そろそろ成人する歳じゃないかな? ここは時間の流れの感覚が曖昧すぎるし、自分の姿も変わらないからよく判らないや」

「ふうん……。まあ、その程度じゃまだまだ彼の考えていることは判らないかもしれないわね。坊やには」

「どういうこと?」

 むっとした様子で顔を上げ、ナイが訊き返す。そんな少年をカウンター越しに横目で見ながら、モニカは含みのある語調で答えた。

「あんたの先生はね、あんたよりもずっと長く生きてるから、あんたには判らないこともいろいろ知ってるってことよ」

 地図屋のそんな答えにナイはまたしても不満そうな表情を浮かべて顔をそむけた。そして少し悔しそうに呟く。

「妖精族の寿命には勝てないよ」

「あら、あの人本当にそうなの?」

「うん?」

 不思議そうに首をかしげてナイがモニカを見返す。その視線を受けて彼女は小さく肩をすくめてみせた。

「妖精族風の略式飾り文字を書くし妖精族だっていう噂はあったけど、私はこの目で確認したことはないのよね。彼、ずっとフードをかぶっているし」

「あなたもシーカの素顔を知らないの?」

「そうよ。知ってる人はあんたを含めても数人じゃないかしら」

 モニカのそんな返答にナイは「へええ」と意外そうに声をあげる。

「それだけでもあんたが彼にとってどれだけ特別か判るでしょ」

「……判らないよ。だってシーカは俺にだけ特別優しかったりするわけじゃないもん」

 再び気落ちしたような様子でナイはうつむき、独り言のように言った。

「俺だって判ってるんだ。あの時、地上で死霊たちに追われてたのが俺じゃなかったとしても、シーカは同じように助けただろうって。『俺だから』助けてくれたわけじゃない」

「それはまあ、そうでしょうね」

 訳知り顔で同意するモニカに不満そうな目を向けながらナイは言葉を続けた。

「シーカにも訊いたことがあるんだ。死霊に追われてたのが俺じゃなくても助けたのかって。そしたら、そうだって答えた。でも、じゃあ今また死霊に襲われている子供がいて、助けたら、その子のこともシーカは面倒をみるのかって訊いたら、それはできないって言ったんだ。俺がいるからって」

「良かったじゃない、大好きな先生を独占できて」

 モニカの言葉にナイは少し傷付いたような表情を浮かべて顔をそむける。

「……シーカは別の子を拾いたいから、俺を追い出したいのかな」

 ナイの消え入りそうな呟きにモニカは一瞬息を飲むように黙ったあと、声をあげてけらけらと笑い出した。そんな地図屋に我慢ならなくなったのか、ついに立ち上がってナイがカウンター向こうの相手を睨む。

「何がおかしいのさ」

「ああ、ごめんなさいね。あまりにかわいい勘違いをしているものだから」

 モニカの返答にますます機嫌を損ねた様子でナイが顔をしかめる。そんな少年を目を細めて見やり、モニカは愉快そうに言葉を返した。

「たぶんだけど、彼は二度と子供の面倒をみようとは思わないんじゃないかしら。最近は特にあんたに手を焼いているようだし。もうごめんでしょうよ」

「それは不公平じゃない? 俺のことを助けて面倒をみてくれたなら、他に助けた子供も同じようにするべきだ。それが無理なら、そもそも俺を助けるべきじゃなかったんだよ」

 そうだとしたら悲しむのは他でもないあんた自身でしょうに、と思いながらもそれは口に出さず、モニカは椅子に背を預けて腕を組むと、呆れたようにナイを見下ろして言った。

「あんたは彼のことを神様か何かだと勘違いしてない? シーカは何でもかんでも完璧にできるわけじゃないし、限界だってあるわ」

「限界?」

「そう。たった一人でできることなんてたかがしれてるわ。だから彼にすべてをやれというのは無理な話よ。でも同じことをする人が他にいたら――いいえ、本当はみんなが少しずつやればいいんでしょうね。そうしたら一人の人間が一人しか助けられなくても、助ける人が百人いれば百人を助けられるわ。シーカが救えない次の誰かも、あんたなら救うことができるんじゃない?」

「……」

 ナイが黙ったままうつむくのを見て、「頭のいいあんたにはもう判ってるでしょ」とモニカはさらに言葉を重ねる。

「彼があんたに自分の下を離れろと言うのはつまり、そういうことよ」

「俺が誰かを一人救うとしたら、俺にとってそれはシーカでないとだめなんだよ」

 ナイのかたくななその返答にモニカが肩をすくめてため息をつく。

「そういうあなたはどうなのさ。シーカや俺にやれと言うけど、あなたは誰かを助けたことがあるの?」

「おそらくないでしょうね」

「どうして?」

「残念ながら私にはあんたたちほど力がないからよ。それでもこうしてできることはしているつもりだけどね」

 そう言ってモニカはナイの視線をとらえるように見つめる。

「そうやっていろんな人間が自分の手の届く範囲で手を広げているから、そこに運良く引っかかって助かる人もいる。いいえ、そこに引っかかった人だけが助けられる」

「俺にはどうでもいいことだよ」

 考えることを拒否するように冷たくナイは言い放つ。それにモニカも小さく息をついて「そうね」と言い、ナイから視線をはずすようにして首を巡らせた。

「私だってできることは少ないし、生憎(あいにく)と立派な人間でもないから、わざわざ他人の力になろうなんて思わない。正直私もどうでもいいわ。シーカだって好き好んであれこれ首を突っ込もうとは思わないでしょう。でも、少なくともあんたが自分以外の誰かの力になることを彼が望んでいるのは確かだから、それについては残念に思うでしょうね」

「……」

 嫌な言い方だなとナイは心の中で思い、舌打ちした。はじめてモニカに会った時、シーカの陰に隠れて怯えていた自分を思い出す。あの頃から何となくこの地図屋は苦手だ。フランク同様、普段は気さくでおしゃべりなだけの地図屋だが、彼女は時折他人の心をチクリと刺すような物言いをすることがある。ただ口が悪いだけのフランクと違って、彼女は必要な時にわざとそうした言い方をしているようにナイには思えた。それは決して無意識などではなく、自分の言葉で他人がどういう感情を抱くかを正確に把握した上でそうしているのだと感じられる。

 だからこそ、自分の心をあやつられているような気がしてナイは嫌な気持ちになるのだが、今の彼に反論の言葉は思い付かなかった。

 そして彼にはこんな愚痴をこぼす話し相手も他にいない。シーカに連れられて別の街に行ったり学院の講義もいくつか受けたが、友人ができることはなかった。この世界のどこに行ってもナイが行ったことがある場所にはシーカとの思い出があるが、逆に言えばそれ以外には何もない。

 シーカに紹介されて弓や剣術をしばらく習ったこともあったが、ナイはいつだって先に学び始めていた者たちをまたたく間に追い越し、他の生徒たちから尊敬と妬みの混じる目を向けられて誰とも打ち解けることはなかったし、彼自身もそれを気に留めることはなかった――というのも、ナイにとっては結局のところ、唯一の理解者であるシーカさえいればどうでも良かったからだ。

 その結果、住んでいる街の最寄りの地図屋が手頃な話し相手になったわけで、一番の理解者であるシーカと言い争って飛び出してきた今のナイには他に話ができる適任者はいなかった。

 ナイは大きなため息をついてカウンターに手を伸ばし、背伸びをしてモニカに尋ねる。

「ねえ、俺が大人になったら――見た目も大きくなったら、シーカは俺に独り立ちしろなんて言わなくなるかな? 俺はもう別にシーカの力を借りなくてもやっていけるし、その上でシーカの傍にいて手伝いたいって言えば判ってくれるかな。子供じゃなく、一人の人間としてさ」

 その問いにモニカは片眉を上げ、「そういう話じゃないと思うけど、どうかしらね」と呟くように答える。

 この若草の民の少年はまるで初めて見たものを親だと思い込み、あとをついてまわるひな鳥のようだと彼女は思ったが、それを口に出して言うことはしなかった。指摘したところで彼はおそらくそれを否定するだろう。利発なはずの少年は、自分の感情に関してはどこか盲目的だったからだ。

 これ以上彼の機嫌を悪くして、それについてあとからシーカに文句を言われるのも面倒だと思い、モニカは代わりに別のことを口にした。

「彼はあんたを高く買っているからもっと活躍できる場に出したいみたいだけど、あんたを大切に思ってるのも確かだろうし……手放したくないとは言わないまでも、寂しい気持ちは多少なりともあるでしょうから、独立した上で傍にいて力になりたいっていう説得は不可能ではない気もするけどね」

「本当にそう思う?」

「なあに、シーカに身長を伸ばす魔法でもかけてもらうつもり?」

 モニカは冗談めかして言ったが、ナイは何事かを考え込む素振りをして口をつぐみ、やがて来た時同様に別れの言葉もなくきびすを返した。その背に向かってどこへ行くのかと地図屋が尋ねる。

 ナイはそれに「本を借りに行ってくる」と、やけに真剣な面持ちで答えたが、その表情は背を向けられたモニカには当然ながら見えなかった。

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