7
かくして少年は父親から与えられた苦しみの日々に匹敵する時間をシーカと共に過ごした。師弟として、時に親子として、また友として。
少年は驚くほど優秀だった。十五にも満たない少年が、何一つとして実績がないにもかかわらずこの地に招かれたという時点で何らかの優れた才能を秘めているであろうことは想像に難くなかったが、その度合いはシーカの予想をはるかに超えていたと言える。
少年は一を教えれば十に至り、十覚えさせれば二十は身に付けるような恐るべき学習能力と視野の広い思考力や発想力、そして応用力を持っていた。それはこれまで少年がいた場所では誰にも見抜けなかった――あるいは価値に気付く者がいなかっただけで本来は認められるべき才能であった、という話でおさまるものではない。むしろこれほどの能力を持っていながら誰にも評価されることがなかったという事実からは、これまで少年を取り巻いていた環境のある種の異様さがうかがえた。
少年が自分の視力の弱さをはじめから知っていれば、おそらく彼は狩りの腕で父親を失望させることさえなかっただろう。状況を把握できていれば、いくらでも自分の視力を補う狩りの方法を少年は考えついたはずだからだ。
それほどまでに少年は頭が良く、技術も才能も持ち合わせたまごうかたなき逸材であり、そんな彼の才気はシーカによる最初の魔術の講義の時点でもすでに明らかだった。
「まずは魔術がどういうものであるか、その考え方の話をしよう」
シーカはそう言ってテーブルの上に置いてある小さなガラス瓶を手に取り、少年の目の前で振ってみせた。
墓地街に住むシーカの小さな家にあるテーブルはその住居のサイズに見合ったものだったが、それでも若草の民の少年には背が高く、彼に丁度いい椅子もないため、少年は木製のテーブルの上に直接腰かけている。
ぶらぶらと足を揺らしながら、少年はシーカの振るガラス瓶を興味深そうに見つめた。部屋の棚にはこれと同じ瓶がいくつも並んでいる。そこにはシーカの作った薬が入っているが、今少年の目の前にあるものはどう見ても空だった。
「この薬瓶にはコルク栓がされている。中には何もない」
「うん、からっぽだ」
目の前で揺れる小瓶を無意識に目で追いながら頷く少年に、今度はそれを持っているのとは反対の、手袋をはめたままの手を見せてシーカが言った。
「そして私の指には指輪がはまっている」
再度少年が頷く。
シーカはそれに頷き返し、「だが実際は、私の指輪はこのガラス瓶の中にある」と言った。
その次の瞬間、あるいは少年がまばたきをしたその隙に指輪はシーカの指から消え去り、リンリンと高めの金属音をかすかに響かせながらガラス瓶の中で揺れていた。
「え、いつの間に? どうやったんですか?」
「現実を書き換えた」
「書き換える?」
「そう、それが魔術の本質だ。現実を望む形に変える力と言っていい」
そう言ってシーカはコルク栓を抜き、瓶の中から指輪を取り出して元の指にはめ直した。
「そして魔術の基礎は定義と暗示だと言われる」
「ていぎとあんじ?」
「そう。『指輪はガラス瓶の中にある』と宣言し、そうであるとみなすことを定義と言う。暗示についても同じだ。たとえば私がお前に『お前は鳥だ』と言い、お前が自分で本当に自分を鳥だと思い込んだら、それは暗示にかかったと言える。そしてそういったことを実際に、ほぼ強制的にやってしまえるのが魔術というわけだ。もう一つ例を見せよう」
シーカは腰かけていた椅子から立ち上がり、窓際に干してあった薬草の葉を一枚摘んで戻ってくると、それを少年に差し出し、「これは何に見える?」と尋ねた。
「種類は判らないけど……何かの葉っぱ」
「いや、これは花だ」
そう言ったシーカの手の中には名前も判らぬ小さな花が一輪咲いていた。
「すごい……!」
目を見開き、驚嘆混じりの笑顔で少年が叫ぶ。
「花だって言った瞬間に花になった!」
「そう、私がこれを葉っぱではなく花だと定義したから、現実が書き換わった」
「葉っぱから花を作ったってこと?」
「いや、ただ花になっただけだ」
不思議そうな顔をする少年に、その場に立ったままのシーカも同意するように頷く。
「そうだな……無理やり花にした、と言った方が正しいかもしれない」
独り言のようにそう呟いたあと、シーカは静かに言葉を付けたした。
「お前が父親に出来損ないだと言われ、そうだと思い込んだように」
その言葉に少年ははっとした表情を浮かべ、シーカの手の中の花を見やる。そんな少年を見下ろし、感情の読めない口調でシーカは話を続けた。
「言葉はそれ自体が力を持つ、魔術に近いもの――いや、原型だと言ってもいい。魔術師が使う呪文も結局のところ、マナをあやつりやすい言葉――もっとも古い妖精語を使って定義や暗示を行っているだけだ。古代妖精語で『これは霊樹の葉だ』とはこう言うが……」
少年の聞き取れない言葉でシーカが言う。その言葉が終わるやいなや、花は元の干された葉に戻った。
「これがそのまま、花を葉にする呪文になる」
シーカの説明に少年はあっけにとられたような顔をして、今度は色あせて乾いた葉になったそれをまじまじと見つめた。それから少し不満そうな、あるいはがっかりしたような顔で、「呪文ってなんて言うか……もっと曖昧な感じというか、難しいことを言っているのかと思ってました」と言って、自宅にいるにもかかわらずフードを目深にかぶっているシーカの見えない顔を見上げる。
「本当に葉っぱだって言っただけなんですか?」
シーカが黙って頷く。それを見て少年は小さくため息をこぼし、魔術が神秘的で不思議なものでなく、だからこそ『魔法』ではなく『魔術』と呼ばれるのだろうとこの時になって初めて理解した。
「言葉――特にマナをあやつるために作られた呪文はそれだけで力を持っているから、魔力の高い者が口にするほど強い効果を発揮する。今私たちが使っている共通語で魔術による現実の書き換えを行うのは、非効率的で消耗が激しいから私にはこれくらいしか見せてやれないが、それでもろくに魔法抵抗力もないようなこういった小さな物だと書き換えるのは難しくない。ましてやそれが定義や暗示を超える強い呪文――命令形の言葉だった場合、元に戻すのは困難になる。相手が意思を持つ人間や生物の場合は魔術の成功難度が跳ね上がり、魔術師の魔力と相手の耐魔力や抵抗力と呼ばれるものとの駆け引きになるが……まあ、魔術の基本的な仕組みはこんなものだ」
そう言ってシーカは元に戻った葉を薬の調合に使っている台の上に置くと、少年の傍にある椅子に座り直して「何か質問は?」と尋ねる。それに少年は少し気後れするかのようにもじもじとしていたが、「笑われる質問かもしれないけど」と前置きして疑問を口にした。
「ふと思ったんですが……今の共通語が出来たのって、魔術が簡単に使える妖精語だと普通の会話がしにくいから?」
「……」
師が黙り込んだのを見て少年はやはり訊かなければ良かったと後悔した。
「ごめんなさい」
「何故謝る?」
「くだらないことを訊いたから怒ったのかと思って」
気落ちした様子で少年が答えると、シーカは一瞬沈黙をはさんだあとに「そんなことはない」と静かに言った。
「少し驚いただけだ。誤解させたのは申し訳ないが……お前のその指摘は正しい」
「え?」
「より正確に言えば、言葉を『魔術を発動させるための道具』だとせず、言葉そのものや他者との会話で何ができるのか、どういったことが実現できるのかといった可能性を模索し、発展させるために古代妖精語から現在の妖精語が作られ、さらにそれを元にして共通語が作られた。その結果、魔術をむやみに発動させない言語を使うことで豊かな会話や高度な議論が可能になったと言われている」
シーカの言葉に少年はぽかんとした表情を浮かべ、「え?」ともう一度呟く。
その様子を相変わらず感情も表情も読めない状態でシーカはしばらく見ていたが、やがて「お前は思った以上に見込みがあるかもしれない」と呟くように言った。そしてテーブルの上に腰かけ呆然としている小さな弟子に感心したような視線を向ける。もっとも、それはフードにさえぎられて少年には見えなかったが。
「他に質問は?」
「え……っと、たぶんないです」
まだ驚きが抜けきらない様子でぎこちなく返事をした少年に頷き返し、シーカはさらに言葉を重ねた。
「では、良ければ次は魔術の系統について説明するが」
「聞きたいです」
今度は少年が即答し、「魔術って思ってたのとは何だかちょっと違うけど、面白いですね」とにこやかに言ってシーカをまた少し驚かせた。好奇心に満ちた少年の大きな瞳からお世辞のようなものは読み取れない。
「……それは教える側にとって最高のほめ言葉だな」
ぽつりと静かに言ったシーカに少年は不思議そうな表情をしてみせる。
そんな少年の『面白い』と感じるものが本当に魔術という学問に対する関心からくるものなのか、他人とこうして会話したり肯定されることによるものなのか判らなかったが、どちらにせよ本人が楽しんでいるなら続けても問題ないだろうとシーカは考えた。知識が多くて困ることはない、というのは妖精族の共通した認識だ。
「魔術はいくつかの系統に分類されているが、特殊な屍学を除けば大まかに魔導学と治癒学、そして召喚学の三つに分けられる」
シーカはそう言って指を三本立て、そのうちの一本を折ってみせた。
「魔導学はマナ――魔力によって炎や氷、光や闇といったものを生み出したり、マナを力として地面を掘ったり物を宙に浮かべるといった術を身に付ける学問だ。一般的に魔法や魔術と聞いて思い浮かぶものはこの魔導学が基礎にあると思っていい。先ほど実際にやって見せた、指輪を移動させたり葉を花に変えたりといったことも広い意味で魔導学の分野と言える。一方の治癒学はマナを生物に作用させる術に特化している。人間をはじめ、生物が持つ治癒力をマナによって底上げすることで瞬時に傷を癒したり、一時的に強化させるといったことができるようになる。他にもいろいろあるが、要は生物の体に関わる魔術全般だと考えていいだろう」
「それって、治癒術はマナで傷をふさいだりするわけじゃなくて、ただ生き物の体が元々持ってる治す力を強くしてるだけってこと?」
さらに一本の指を折り曲げ、人差し指だけを立てた状態でシーカが頷く。
「マナで直接、悪い部分に働きかける場合もあるが、身体の能力強化が治癒術の基本だ」
シーカの返答に少年はまた少しがっかりしたような顔をしてみせた。
「何だかこう、不思議な力で傷がなくなるとかじゃなく……本当に魔術って仕組みがあるというか……奇跡みたいなものじゃないんですね」
「そう。だからこそ、その仕組みが判れば誰でもできる」
そう言ってシーカは最後の指を折り、軽く拳を握っているような状態になった手を静かにテーブルの上に置いた。
「そして最後の召喚学は、従属の魔術や契約の魔術を扱う学問だと言われる。召喚主が他者の本質とでも言うべき真なる名前――真名を預かり、その名を間接的に呼ぶことにより名を持つ者が召喚に応じる、というのが契約の基本だ。そして契約を結んだ者をマナによって召喚する」
その言葉と共にシーカはテーブルに置いたばかりの手を開いてみせ、いつの間にかその手の中に持っていた白く小さな何かの欠片をそっと床に落とした。それが木製の床の上に落ちて乾いた音を立てた次の瞬間、まばたきの隙を狙ったかのように白い欠片が瞬時に形を変え、むくりと体を起こす。それを見た少年は「うわ」と声をあげてテーブルの上から飛び降りた。
シーカの傍に骨だけの姿になった死霊が立たずみ、怯える少年を光のない目で見ている。
「怖がらなくていい。彼は地上にいる死霊とは違うから」
部屋の隅まで逃げた少年に向かってシーカは言い、椅子から立ち上がって死霊の方へ顔を向けた。そのどこか親しげな様子は、久しぶりに再会した友人に対するもののようにも見える。だが、それが逆に少年には異様な光景に思えた。
「私が魂から拾い上げた名前に反応してついて来てしまった者だ。たぶん優れた魔術師だったのだろう。記憶も自我もほとんど残っていなかったが、契約を求めてきたので承認した」
「承認したって……契約したってこと? 死霊と? 何で?」
「消滅を恐れていたから。実際、彼は損傷が激しくてそのまま消えてしまうか、良くても地上の他の死霊たちと同じようになる寸前だったし、その頃は地上墓地を破壊的な方法で浄化する案が出ている時でもあった。その案が通るにせよ通らないにせよ、放っておけば彼が彼でなくなるのは時間の問題だったから」
そう言いながらシーカは死霊の全身を確かめるように見やり、「変わりなさそうで良かった」と、普段よりも少しだけ柔らかに聞こえる口調で呟く。
「戻ってくれていい」
シーカがそう言うと死霊はカラカラと音を立ててその場に崩れ落ち、元の小さな白い欠片に戻った。それを指先で拾い上げ、シーカは再び少年に目を向ける。
「怖がらせたようですまなかった。実際に見せた方が話が早いと思って……もう一人契約している者がいるが、彼女はこういう時に呼び出すと機嫌を損ねる可能性があるから、彼しか呼べる者がいなかった」
「み、みんな死霊なんですか?」
その問いにシーカは答えなかった。代わりに「生きている者と契約を交わすことも可能だ」と言って椅子に腰を下ろす。
「むしろ死者と『契約』する者の方が少ないだろう。同意なく死者を一方的に束縛して契約を結ぶのは禁忌だからな。大抵は生きているものか、そもそも生きていないものを召喚する」
「生きていないもの? 死霊じゃなくて?」
「そう。召喚術では意思や名前を持たない『物質』も召喚することができる。ただし、その場合は召喚するものを自分のものだと認識する必要がある。そのためには召喚したいものをマナでとらえ、自分とつながなければならない」
「生きている人を召喚する時に真名っていうのが必要なのもそのため?」
死霊の姿がなくなって恐怖が薄れたのか、それとも好奇心が勝ったのか、少年はぱっと表情を変えて疑問を口にした。そして無邪気にシーカのところまで駆け寄り、椅子に腰かけている彼の膝に手をかけて興奮気味に言う。
「名前を『預かる』ってことは、一時的に自分のものにしてるっていうことですよね? だとしたら名前を持たないものをマナでつなげて、自分のものだと思うのと同じだ」
少年の言葉にシーカはまたしても驚いた様子で小さな生徒を見返した。彼に少しでも判りやすいようにとシーカはゆっくり丁寧に説明してきたつもりではあったが、聞き慣れない言葉ばかりで困惑するのではないかと危惧していたため、少年が的確に真名を預かる契約とマナによる従属の関係が本質的に同じであることに気付いたのは驚きだった。
「その通りだ。これほど理解が早いとは……お前は本当に魔術師に向いているかもしれない。少なくとも何かを学び、考える力は相当高いと思う」
純粋な賞賛の言葉を受けて少年は目を丸くしたあと、はにかむように笑った。
「俺、そんな風に人から言われたのは初めてです」
それが嬉しくないはずがない。
少年はさっきまで怯えていたのがうそのように満面の笑顔をシーカに向けた。それにシーカは黙然と頷き返す。彼の感情や心情を表すような言葉がそれ以上続くことはなかったが、それでも誰かにほめられたことなどなかった少年にとっては充分すぎる賛辞だった。
「そこまで理解しているならもう少し細かい話をしよう。先ほど私は、真名を持たない物質の場合は自分のものだと認識する必要があると言ったが、正確に言えば必ずしも『自分の所有物』であるとする必要はない。たとえば自分の体の一部であると認識してもいいし、友人や家族だと思ってもいい。肝心なのは我がことのように想いを――マナを注げるかどうかだ。自分の所有物であると認識するのが一般的に一番なじみやすいというだけで、マナでつなげることができるならそこにこだわる必要はない」
その説明に少年は大きく頷いてみせる。違和感なく当たり前のことのように受け入れられていることがその様子からうかがえた。
このマナを介して自分以外のものに干渉するやり方や考え方は、ともすると魔術師を目指す上で壁になることも多い。この感覚がつかめなかったり、なじめないことで魔術師になることを挫折する者もいるほどだ。その点で言えば少年は間違いなく魔術師としての素質があると言えた。
「では一つ問題を出そう」
自分の膝の上に身を乗り出している少年に視線を落とし、シーカは言った。
「幻覚を作り出すことと幻影を作り出すこと、この二つはさっき説明した三つの魔術系統の内、どれに当てはまると思う?」
この問いに少年は数秒の間考える素振りを見せたあと、少し自信なさげに答えを返した。
「幻覚は治癒術、幻影は……魔導術と召喚術?」
「何故そう思う?」
「幻覚は人が見たり感じたりするもので実際にそこにあるものじゃなく、作るって言うより起こすっていうものだから、体に作用する治癒術ですよね。でも幻影は……たとえ本物じゃなかったとしても幻影としてそこに『ある』ものだから、作るものかなって。でも召喚術で真名のないものも呼び出せるなら、幻影も可能かも……」
「文句なしの正解だ」
「え、本当に?」
「分類もその理由も、幻覚を『起こす』と正確に言い直したことも含め、すべてお前の言った通りで間違いない。説明しなかった幻影のようなある種の『現象』も召喚術で呼び出せることまでこの段階で理解できる者は少ないだろう」
シーカはそう言って少年を抱え上げ、まだ座る椅子もない彼を自分の膝の上にのせてやった。両者の視線が同じ高さで交わる。
「正直、これほどまでとは思わなかった。幻覚と幻影の言葉の意味と違いをきちんと理解しているし、魔術系統に対する認識も正しい。そして何より、短時間でそれらを論理的にとらえて正答を導き出す力がある」
「そ、そうかな……俺は思ったことをそのまま言っただけなんだけど」
ほめられたことによるのか、それとも膝の上にのせてもらったことによるのか、気恥ずかしそうに落ち着かない様子で少年は言う。
それに対してシーカは判りきった事実を述べるかのようにあっさりとそれを肯定してみせた。
「私が保証しよう。お前は間違いなく、出来損ないなどではない」
その言葉に少年はしばらくぽかんとしていた。黒いフード越しにわずかに見える師の赤い瞳を見返す。そこにはこれまで少年が大人たちから向けられてきたような冷ややかな色はない。かといって温かさを感じるわけでもないそのガラス玉のような目はどこか生気に欠け、感情を読み取ることはできなかった。
「何か質問は?」
その瞳と同じような無感情さでシーカが尋ね、少年ははっとしたように大きな目をぱちくりさせる。驚きや嬉しさや好奇心であふれかえった思考をかきわけ、「ええと」と言いながら少年は頭の中に漂っている疑問と、それを伝える言葉を探した。
「そうだ、さっき指輪を瓶の中に移動させたのも魔導学の分類だって言ったけど、召喚学には入らないんですか?」
そんな少年の問いにシーカの両目はかすかに見開かれたあと、感心するようにわずかに細められた。
「いい質問だな。それもお前の言う通り、召喚学の分野でもある。私が実際にやったのも召喚術としてだったが、魔導術としてまったく同じことを実現するのも可能だ。魔導術として行う場合はマナで指輪をとらえ、強制的に瓶の中に移動させる。さっきやったように瞬時に行うなら、指輪のある場所と瓶の中を一時的につなげるのが一番手っ取り早いだろう。ただしこの方法はマナでとらえられる範囲内でしかできない。遠距離間の移動は困難だ。逆に召喚術の場合は、自分のものであるとすでに認識しているものならマナでのつながりが確保されているため、どれほど距離が離れていても呼び出すことが可能だ。ただ、自分から離れた場所に召喚する場合は呼び出す場所に何らかの仲介が必要となる。魔術であったり魔具であったり、それは様々だが、そういった仲介なしに遠方に呼び出すことは難しい。召喚術は基本的に自分に属するものを自分の傍に呼び寄せる術だからな。魔導術と召喚術、その両方に心得があるならそういった高度なことすらも可能になるが、そこまでできる者はまれだろう。私が指輪の移動に魔導術でなく召喚術を使った理由は、単純にそちらの方が得意だからにすぎない。どちらも基本的な難易度に大差はなく、術者の向き不向きによる」
よどみなく答えるシーカに対し、少年は納得したという面持ちで頷く。
魔術の初級である第五術位の講義で同じことを言っても学生の三分の一くらいは首をかしげるだろうに、と思いながらシーカは眼前の年若い魔術師の卵を見返した。
「他に何か質問は?」
もう一度そう尋ねると、再び少年から間髪入れずに疑問が飛んできた。
「幻覚も治癒術っていう理屈は判るんですけど、幻覚を起こすことは本当に治癒術と言えるのかな? 幻覚で体を治せるとは思えないけど」
「ふむ、それには二つの回答があるな」
細いあごに手を当て、どう説明したものかと思案するようにシーカは首を傾けた。
「まず、幻覚を医療の一環として使うことは実際にある。たとえば麻酔のように使ったり、肉体ではなく精神的な負担を和らげる、といった場合だ。魔術自体は体の持つ感覚に作用するわけだが、後者の場合、それだけで怪我や病気が治るということはない。しかし幻覚によって精神的な負担を和らげる効果が得られる場合、治療の一環として採用されることがある」
そこで一旦言葉を切り、シーカは眼前の少年に目を向けて「もう一つの回答は、単純に名称の問題だ」と、かすかに肩をすくめて言った。
「治癒術という名前から、どうしても体に良い効果をもたらす魔術だと思われがちだが、生物の体に作用する魔術全般を指すため、体に悪い影響をもたらす魔術もその中に当然ながら含まれる。誤解を招くので名称を変えるべきだという論は昔からあるが、結局は惰性と慣習で今も治癒術という名称が使われ続けている、というのが現状だ」
その言葉に今度は少年が首をかしげてみせた。
「魔術を使えばいろんなことができるのに、言い方一つ変えることができていないなんて不思議ですね」
「多くの人々が共有する文化や慣習といったものは、それだけ変えるのが難しいということだ――とはいえ、確かにお前の言う通りだな」
そう言ってシーカは小さく息をこぼすように笑った。
それを間近で見ていた少年は、この人でも笑うことがあるんだなと心の中で呟く。何だか得をしたような気持ちになり、少年は上機嫌になって「もう一つ訊いてもいいですか?」と尋ねた。
シーカは黙然と頷き返す。
「俺が魔導術を学べば、あなたの助けになるかな」
身を乗り出すような勢いで尋ねてくる少年に、シーカは逆に身を引くようにしながら少年を驚いた様子で見下ろした。その小さな体からあふれる好奇心はもちろん、彼の熱意もまた目を見張るものがある。どうやら少年はのめり込んだらとことん追求するタイプで、それは何かを学ぶ上で非常に有利な資質であるとシーカには思えた。そしてその総合的な才は自分をはるかに上回っているだろうとも。
「確かに私は魔導術が一番苦手だが治癒術も別に得意ではないし、そもそも大した魔術師ではないから、何を学んでもお前が私を追い越すのは時間の問題だろう」
そう答えてシーカは少年を膝から下ろし、その日の魔術講義を終えたが、最後の彼の言葉はまさしく真実であったと言える。
元々興味を示さなかった薬学と、何かを支配したり支配されることを嫌って避けた召喚学を除けば、少年が唯一師を超えられなかったのは屍学だけだった。